☲40〕─1─ヒロシマ原爆被曝者。朝鮮半島出身者は数千人。アメリカ人兵士捕虜12人。~No.158No.159No.160No.161 ㉛ 

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 日本には、朝鮮人原爆被曝者に対しての責任はない。
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 2020年8月6日 産経新聞「「後世に事実を伝える」被爆米兵を調査する森重昭さん
 オバマ米大統領(当時)と抱き合う森重昭さん=平成28年5月、広島市中区平和記念公園(鳥越瑞絵撮影)
 抱き寄せられたその手は、温かかった-。平成28年5月27日、現職の米大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ前大統領の抱擁を受けた被爆者の森重昭さん(83)。米国も公にしてこなかった被爆死した米兵捕虜について、40年以上にわたり1人で調べてきた。被爆から75年の今夏は、新型コロナウイルスが猛威をふるう中で思うように調査が進まない。それでも、オバマ氏との出会いを糧に、真相を明らかにするために調査を重ねている。(石川有紀)
 「遺族も真相がわからず苦しんできた。これからも犠牲者の無念を世界に伝えていかなければ」
 6日午前、広島市中区に自らが設置した米兵捕虜の慰霊銘板に花を手向け、改めて自身の使命をかみしめた。脳裏に刻まれているのはあの時の光景だ。
 「言葉はなくとも心が通じ合った瞬間だった」
 4年前、米大使館から招待された森さんは、平和記念公園オバマ氏の17分間のスピーチに耳を傾けた。
 《私たちはなぜ、広島を訪れるのか。(略)10万人を超える日本の男女や子供たち、数千人もの朝鮮半島出身者、そして12人の米国人捕虜ら犠牲者の死を悼むためだ》
 そして、学ぶべき被爆者の物語としてこう述べた。 《米兵の遺族を探し出した被爆者がいる》
 スピーチを終えたオバマ氏は、森さんに歩み寄る。「長年にわたる調査が認められた」。涙にむせぶ森さんの背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。
 米国は長年、自らが投下した原爆で自国の兵士が犠牲になった事実を公にせず、遺族にも伝えてこなかった。「広島で被爆死した彼らは自国の大統領の広島訪問という名誉で報われた」と森さんは振り返る。
 広島訪問は、オバマ氏にとっても特別な意味を持った。今夏の原爆忌を前にオバマ氏から広島県に寄せられたメッセージには、こう記されていた。
 《原爆投下の日の記憶を持つ被爆者の方々とあいさつを交わしたことを忘れることはないでしょう》
 森さんが被爆米兵のことを知ったのは偶然だった。昭和20年8月6日、8歳だった森さんは通学途中に爆心地から約2・5キロで被爆。当時の光景が忘れられず、会社勤めの傍ら、当時のことを調べるようになった。ここで偶然目にしたのが、市民が当時の記憶を記した絵。米兵が亡くなった様子を描いたものが複数あった。
 「後世に事実を伝えなければ」と、38歳のころ、目撃者探しや文献調査を始めたが苦労の連続だった。「なぜ敵兵のことを調べるのか」「米兵が被爆死した事実はない」との批判を受けたこともあった。
 その後、計12人の米兵捕虜全員が被爆死したことを突き止め、居場所が判明した遺族にたどたどしい英語で国際電話とエアメールを繰り返した。多くの遺族は、被爆死したと公式に知らされておらず、最期を知りたがった。
 被爆時の足取りを1人また1人と特定し、国立の追悼平和祈念館に遺影を順次登録。12人目を登録し終えたのは平成21年だった。その後は、長崎で被爆死した外国人捕虜について調査を続けている。
 今夏は、広島に遺族を招いての法要を計画したが、コロナ禍で延期になった。収束の兆しは見えず、森さんも心臓病などを抱えており不安がよぎる。それでも、探究への熱意は消えない。
 「これまで一人で調査・慰霊を続けてきた。当時を知る被爆者は次々と亡くなっているが、後世に伝えるべきことはまだまだある」」
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