☲21〕─2─朝鮮語学会事件と独立運動。日本の植民地における国語教育政策。~No.68  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本陸軍は、大半の朝鮮人は余りにも軟弱過ぎるために日本軍兵士には不向きと判断し、志願してきた朝鮮人の体力測定を厳しくおこない極僅かな人数のみを皇軍兵士に採用した。
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 日本人にとって朝鮮人は反天皇反日派の隣人であり知人であっても、信頼し命を預けられる頼もしい親日派知日派の友人、友達、親友、戦友ではない。
 つまり、朝鮮人とはいつ何時、寝首を掻きに襲って来るか分からない油断も隙もない恐ろしい敵であった。
 それは、古代からの歴史が証明している。
 第32代崇峻天皇を暗殺したのは、神をも恐れない半島系渡来人であった。
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 2020年11号 WiLL「歴史無視の反日映画『マルモイ』
 どおうして、こうも反日映画が韓国から雲霞(うんか)のごとくせいさくされるのか
 田中秀雄
 またも反日韓国映画
 『マルモイ』という韓国映画がある。2019年制作の映画で、韓国ではかなりヒットしたようだ。日本では現在上映中である。『マル』は言葉、『モイ』は集めること、マルモイとは言葉集めという意味になる。
 時代背景は1940年くらいから1947年までで、日本統治時代だった朝鮮が描かれている。舞台は京城(今のソウル)。
 ……
 朝鮮語学会事件
 史実として、1942年に起きた朝鮮語学会事件を基にした映画である。しかし映画のような劇的な大捕り物はなかった。ただ朝鮮語の編纂事業が朝鮮独立を図ろうとしていると理解されたのは事実である。約30名が検挙されて、16名が不起訴、または起訴猶予となり、13名が裁判にかけられて、うち2名が獄死、残り11名が2年から6年の懲役刑となっている。
 判決文も編纂事業そのものは問題とされていない。その前提として独立に関する謀議があったか、なかったか、それに参加したか、しなかったが問題となったのである。
 この映画においても、朝鮮独立運動に関わっていたという設定の人物が語学会関係者として登場する。総督府が怪しい団体だと思うのも当然である。しかし当時の総督府の警務局長は丹下郁太郎という東京帝国大卒の官僚だが、事件を摘発した警察部長に『その事件はものになるのかね』と疑問形で問いかけたという。保安課長だった八木信雄の証言である。
 ……
 実は、取り調べたのは朝鮮人なのだ。言葉の問題もあり、尋問担当は朝鮮人刑事だったのだろう。
 映画が描くのとは違って、朝鮮総督府朝鮮語をなくそうとはしていない。朝鮮語編纂は、この事件以前からなされていた。李朝史が総督府の事業としてまとめられるのと同じである。
 独立運動の問題性
 この朝鮮語学会事件と同じ時期、1941年から翌年にかけて、似たような事件が日本国内や、満州国で起きている。すべて左翼運動者がらみの事件である。
 まず有名なゾルゲ=尾崎事件、これらは国内である。満州では満鉄調査部事件、北満合作社事件などがある。それぞれの事件の詳しい紹介はできないが、ゾルゲ事件ではゾルゲや尾崎は処刑され、横浜事件、合作社事件、満鉄調査部事件では獄死者が出ている。みろん皆日本人である。
 時期的に支那事変が拡大したまま収まらず、日米関係も怪しくなって、ついには戦争が始まるという緊迫した時代背景がある。二度とゾルゲ事件のような失敗は繰り返さない。警察や憲兵はスパイや利敵行為に神経質なくらいではなかっただろうか。隠れ共産主義者、あるいは偽装転向者による第五列(スパイ)の構築は決して許してはならないというのが、彼らなりの責任感であり、使命感であっただろう。
 獄死というのは痛ましい話ではあるが、大体は病気になって、、それが回復せずに死んだということの方が多いと思う。朝鮮の独立運動家として有名な安昌浩は1938年に京城で獄死しているが、痛めつけられたというのでなく肝硬変の悪化のためである。むろん病院で死んだ。
 日本の領土であった朝鮮の統治上の一番の問題点は、この独立運動をどう扱うかであった。独立運動民族主義である。その民族的な血の思いを無下(むげ)に抑えつけるわけにはいかない。
 しかし、3・1独立運動(1919年)から顕在化した独立運動の一番の問題点は、同時期にロシアで生まれた共産主義国家と、その思想の強い影響を受けていることであった。朝鮮古来の民族主義までは許せる。
 戦時中、日本の民族主義者・大川周明や葦津珍彦と朝鮮の民族主義者・呂運享が肝胆相照らしたように対話が可能なのだ。しかし、その背後に世界を赤化しようとする全体主義天皇制を否定する危険思想があるならば、独立運動は弾圧されざるを得ない。
 戦前、新聞記者をし、戦後になって左翼運動に従事していた高峻石(北朝鮮系ジャーナリスト)は、3・1独立運動後の独立運動民族主義よりマルキシズムが主体となっていたと証言する。前出の安昌浩はマルキシズムとは無縁だが、民族主義の衣をまとった共産主義者が蠢動(しゅんどう)は、朝鮮総督府にとって頭の痛い問題であった。疑いのある者はとりあえず、捕まえざるを得ないからだ。
 『創氏改名』問題
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 呂運享も、京城第1期生の秀才であり、大韓民国憲法の起草者である兪鎮午も、そのままの名前を使い続けた。
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 平等を目指した朝鮮教育令改正
 総督府朝鮮語をなくそうとしていないが、ただ学校教育で使う言語を『国語』にしようとしたのだった。国語とは、すなわち日本語の標準語のことである。
 きっかけは昭和13(1938)年の朝鮮教育令改正によるもので、『内鮮一体』を実現しようという機運の下に生まれた。日本人が通う小学校や中学校、そして、朝鮮人が通う普通学校が一緒になり、朝鮮人と日本人が共学する制度に変わったのである。教育における差別をなくそうとしたのである。学校で使う言葉は日本語である『国語』となる。それが可能になるためには朝鮮人生徒に日本語を使ってもらわねばならない。それまで普通学校で教えられていた朝鮮語は教えなくてもよい任意の科目となる。
 いわゆる『皇民化』であるが、これを朝鮮語廃止と声高に批判するのは実態に反している。朝鮮生まれで、教師となって創氏改名し、語学会事件の頃は内地に渡っていた吉野鎮雄によれば、朝鮮人校長の場合はほとんど朝鮮語の授業を行わず、日本人校長の場合は週2時間教えていたという。朝鮮人校長の場合は日本人へのおもねりも確かにあるが、吉野の回想では、親とのコミュニケーションができなくなったら困るじゃないかと危惧していた日本人校長の実名も出ている。小学校(後に国民学校)の校長数の割合は、日本人と朝鮮人ほぼ10対1、つまり、大体どこの小学校でも朝鮮語終戦まで教えていたのである。
 京城帝大ができてすぐ、1927年に助教授として赴任した時枝誠記という国語学者がいる。それから16年間、朝鮮で教鞭をとっている。国語学史上に名を遺(のこ)す著名な学者である。朝鮮語学会事件の時も朝鮮におり、『朝鮮における国語政策及び国語教育の将来』(1942年)という論文を書いている。
 彼は朝鮮の国語普及の現状を『或るものは、施政30年間のその成功について感嘆し、或るものは、国語を理解するものが猶(なお)半数に達しないことを慨嘆(がいたん)して、悲喜両面の声を聞く』と理解し、公平に見て、この現状は半島文化政策の一つの偉大な結実だと言えると冒頭に述べている。
 彼は『国語』と『日本語』を区別している。大日本帝国という、台湾、朝鮮といった広域の版図を持った国で必要なのは、どこでも通用する標準語であり、それが国語である。分かりやすく言えば、日本語は国語ではなく方言となるのだ。朝鮮語も方言の一つとなる。そうした方言の上に標準語としての国語がある。鹿児島弁と津軽弁とで話せば、当時は全く理解不能であったために、標準語が必要になるのと同じだ。
 これは国語政策、つまりは国語教育の問題である。時枝は朝鮮の場合、学校教育が第一歩で、中心となると述べた。同時に『その効果は20年30年の後に期し、気永に待つべきであり、一時的な宣伝や、警察力や、罰則によって一挙に功をあげよとするような軽挙は厳に慎まなければならない』と述べている。
 ゆっくり、じわじわと国語を普及するのを待つべきであるというのが彼の持論で、それは朝鮮語を方言的位置づけにするにしても、鹿児島弁や津軽弁と同等には位置づけられないことを理解しているからだろう。
 時枝はドイツのアルザス・ロレーヌ地方でのドイツ語政策、ポーランドに対するロシア語政策などに国語強制の問題点が見られると述べ、『可憐な児童はサーベルの音におびえつつ、心の中でひそかに母語を懐かしむばかりである』と批判している。このような言語が戦時中に自由であったことを私は誇りたいと思う。
 翌年の『国民文学』(1月号)に時江は論文を書いていて、『私の結論を率直に述べるならば、半島人は須(すべから)く朝鮮語を捨てて国語に帰一すべきである』と述べているが、『すぐに』と言っていないのが重要である。『国民文学』は朝鮮で発行されていた親日派朝鮮人の雑誌で、当時は朝鮮語抹殺論を唱(とな)える朝鮮の知識人も少なくなかったから、時枝は将来的な結論としてこう述べたのだろう。捨てると言っても方言がなくなることはない。
 光州事件──カゲの北朝鮮
 ……」
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 日本民族と日本国語は、明治新政府によって新しく作られ、江戸時代以前には存在しなかった。
 江戸時代までの日本には、北は津軽弁から南は鹿児島弁・奄美大島弁まで無数の方言が存在していた。
 その意味において、同じ縄文人の子孫である琉球語アイヌ語も特殊な方言に入る。
 新言語・日本国語は、支配言語というよりはバラバラだった言語を一つにまとめる共通言語であった。
 明治時代の日本人が学んだ日本国語は、外国語に近かった。
 近代教育とは、新言語・日本国語による地方にあった多様な方言の抹殺であった。
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 日本人には、言語・方言に対する愛着は薄い。
 日本人は「言霊」を信じている、はウソである。
 それは、単なる方便に過ぎない。
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 日本が、朝鮮、台湾、日本軍占領地で行った日本語教育は、地元民の固有言語を廃止して日本語に統一する事ではなく、日本語を公用語にする為であった。
 欧米列強の植民地支配では、旧約聖書バベルの塔を教訓として、地元住民が一致団結して独立運動を起こさない為に統一言語を許さず、絶対忠誠を誓う者のみに西洋語を教え植民地支配に協力させた。
 日本は、植民地支配・軍政を円滑する為に公用語を日本語とし、占領地の混乱を鎮めるには地域の意思疎通が重要として地元住民の為に統一言語を定め、学校では日本語と統一言語を教えた。
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 現代の東南アジア諸国で、外国語を公用語とせず、独自の民族言語を統一言語として標準語にしているのは日本軍の影響である。
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 もし、現代の世界が一つになる時、国際統一言語が標準語として普及すれば日本国語はローカルな民族言語=地域方言として消滅する。
 それが、人類の文明史である。
 現代日本に於ける英語教育の推進は、将来的にその方向に向かう。
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 東亜日報
 1957年、ハングルは生まれ変わった
 Posted October. 08, 2005 07:57,
 1945年9月8日、京城駅(現・ソウル駅)構内の朝鮮通運倉庫。貨物を見て回っていた駅長が、大きな箱の前で足を止めた。そして短い嘆声をあげた。
 「あっ、これだ。」
 少し前、国語辞典の原稿を探して自分を訪ねてきた、朝鮮語学会の人たちの焦すいした姿が頭に浮かんだ。駅長は急いで朝鮮語学会に連絡をとった。
 原稿用紙2万6500枚あまり。1929年から編纂作業が進められてきた「チョソンマル クンサジョン(朝鮮語大辞典)」の原稿だった。組版作業に入った1942年、「朝鮮語学会」事件が起き、証拠物という名目で日本の警察に押収された原稿、独立を経て行方不明となった原稿だった。どこにも見当たらず、学会のメンバーを憔すいさせたその原稿が、ついに朝鮮語学会の手に戻ってきた瞬間だった。
 2年後の1947年10月9日、「朝鮮語大辞典」1巻が発刊された。また、10年後の1957年、「大事典」(「朝鮮語大辞典」から「大辞典」に改称)全6巻が完刊された。初の、まともな韓国語辞典の誕生である。
 1907年、初めて国文研究所を設立し、韓国語辞典の必要性を論議し始めた時から、1957年「大辞典」が完刊されるまで、ちょうど50年。万が一、ソウル駅で原稿を探し出せなかったら、我々はさらにどれほど長い歳月、韓国語辞典を待たなければならなかっただろう。
 この本には、韓国語辞典編纂50年の歴史がそのままつづり込まれている。著者は圓光(ウォングァン)大国文科教授。日本占領期から独立以後まで、辞典編纂の至難な過程、韓国語を守り研究し辞典を作るのに生涯をささげた人びと、編纂過程でのさまざまな論争など、辞典編纂に関するすべてがドキュメンタリー形式で書かれている。韓国で初めて書かれた国語辞典編纂史ともいえる。
 著者は、「まともな韓国語辞典が出たことによって、ハングルが完全に生まれ変わった」と強調する。だから、本のタイトルも「韓国語の誕生」と決めた。
 実は、1957年以前にも、韓国語辞典はあった。しかし、すべて薄く小さな本で、韓国語をまともに集大成したものではなかった。著者は、「1957年に刊行された『大辞典』こそ、数多くの人々の努力が集大成され、民族的権威を認められた団体(朝鮮語学会、ハングル学会)によってつくられ、出版以後、他の辞典の模範となった点で、真の国語辞典」と言う。
 本書を読んでいると、辞典編纂の50年史は、わが国の言葉と文化を守り抜くための民族独立、民族自尊の歴史だったことが容易に理解できる。特に、辞典編纂に心身を尽くした人びとの話は感動的だ。
 日帝時代に、開城松都(ケソン・ソンド)高普の朝鮮語教師だった李常春(イ・サンチュン)。辞典の必要性を深く感じた彼は、1919年から、韓国語語彙を収集整理した。10年間集めた語彙はなんと9万余語。個人がこれほど多くの語彙を辞典用原稿に起こすのは至難のわざだ。そのため、彼は1929年、その原稿を朝鮮語辞典編纂委員会に快く寄贈した。彼の寄贈は、辞典編纂にとって決定的な力となった。当時、東亜(トンア)日報は「ハングル辞典に大きな礎」というタイトルで、この事実を大々的に報道した。1942年、朝鮮語学会事件で辞典編纂が中断されると、自ら命を絶って抵抗した申明均(シン・ミョンギュン)の生は、読者を粛然とさせる。
 韓国語研究の方向を定めた李鳳雲、池錫永、李能和(イ・ボンウン、チ・ソクヨン、イ・ヌンファ)、国語学の父・周時経(チュ・シギョン)など、私たちになじみの深い国語学者たちの話、国文研究所、光文(クァンムン)会、朝鮮語学会など韓国語研究団体の話も入っている。
 辞典編纂過程での各種エピソードも興味深い。1930年代の方言を集めるため、休みに故郷へ帰る学生ボランティアなどを活用したこと、表記法と綴字法についてし烈に行われた論争、これらの論争によって辞典編纂が遅れたこと、個人的に作った辞典原稿を手に入れるため編纂委員会メンバーが中国・上海などまで探しに行ったこと…。このようなエピソードは、ただおもしろいだけではない。一つ一つの逸話から、数多くの人々の流した血と汗がともに伝わってくる。
 kplee@donga.com
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 日本国語は、明治新政府が近代教育を普及させる為に作られた新しい言語である。
 西洋の専門用語は、子供でも理解できる様に和製漢字に変換され、好奇心の旺盛な子供達は和製漢字で世界の知識を理解し吸収していった。
 後年、外国語を話せないが日本国語だけでノーベル賞を受賞する日本人科学者が誕生した。
 日本の近代化の成功は、公用語を外国言語ではなく日本国語に定め、新設日本国語による基礎教育と専門教育の充実にあった。
 日本国語による語学力の低下は、日本民族日本人の知識・教養の劣化をもたらし、日本国の衰退となる。
 公用語を自国語ではなく外国語にした国は、例外なく近代化に失敗した。
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 朝鮮総督府が恐れていたのは、南方前線で玉砕やカミカゼ特攻を繰り返す絶望的な戦況下で、無差別爆撃を受けている日本の後背の朝鮮で昭和天皇や皇族を惨殺しようとしているキリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義テロリストの暗躍であった。
 特に、ニコライ2世一家虐殺・ロマノフ王朝滅亡となったロシア式共産主義暴力革命を恐れていた。
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 日本民族日本人は、天皇や皇室を守る為に絶望的戦争を続け、玉砕・集団自殺カミカゼ特攻などで死体の山を作っていた。
 その象徴が、靖国神社である。
 日本国内には、ソ連共産主義勢力やアメリカ・連合軍に情報を流しているスパイが數多く暗躍し、中には昭和天皇の身近に、政府や軍部の中にも潜んでいた。
 反天皇反日本のスパイ達も、虚偽の大本営発表を聞き、連合軍の勝利情報を日本国内にまき散らしていた。
 軍国日本は、情報戦・謀略戦・宣伝戦ですでに敗北していた。
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 中華世界の王朝史は、前王朝を武力で滅ぼした新王朝が公式に編纂し正史として残す事が常識であった。
 つまり、清国の歴史官は、清国皇帝の命によって明王朝正史を編纂した。
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 日本人は、一等国民として兵役の義務があり、兵役拒否する事は犯罪として反逆罪として罰せられ、嫌でも赤紙一枚で地獄の戦場に送り出されて戦死・病死・餓死して生還は望めず、遺骨は帰国できず現地の山河に打ち捨てられた。
 戦場となった地域に住んでいた非戦闘員の日本人居留民(女性・子供も)は、全滅する日本軍兵士と運命を共にして集団自決し、若い女性は崖から飛び降りて死んでいった。
 朝鮮人は、二等国民として入隊は志願制で兵役の義務がなく、日本国籍から中国以外の諸外国に渡航すると日本国民の権利として保護が受けられた。
 日本人には、生きる為に戦って敵を殺すか、敵を殺すのを断って死ぬか、の何れしか選択肢がなく、戦わずに逃げる事は許されなかった。
 朝鮮人は、戦争に行かず逃げる事が認められ、その手段が戦時徴用工であった。
 戦時徴用工は、鉱山や工場などの過酷な労働条件でも賃金を貰い生きる権利が保障されていた。
 日本国内には、200万人以上の朝鮮人の若者が生活していた。
 死の選択肢しか許されていなかった日本人から見ると、若く有望な日本人が玉砕やカミカゼ特攻で死んでいくのに、同年代の朝鮮人が目の前で普通に生活している事が憎くて仕方がなかった。
 反日派・敵日派の朝鮮人達は、日本国内や朝鮮・中国・東南アジアで活動していた。
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 慰安婦は、朝鮮人より日本人の方が人数が多かった。
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 市民権を剥奪された強制収容所に閉じ込められた日系アメリカ人達は、アメリカ合衆国に忠誠を誓い軍隊に志願して入隊し、日系人だけの部隊を組織してヨーロッパの激戦地帯で多くの犠牲者を出しながら戦い、ユダヤ強制収容所の幾つかを解放しユダヤ人達を助けた。
 幾つかの強制収容所では、忠誠を拒否する日系アメリカ人による暴動が起きた、アメリカ政府は軍隊を派遣して武力鎮圧した。
 アメリカには根強い宗教的人種差別が存在し、日本人は「ジャップ」と差別用語で貶され、人ではなく「黄色い猿」あるいは「毒虫」と見なされ殺して同然とされた。
 アメリカの植民地であったフィリピンでは、多くのフィリピン人達はアメリカ軍に協力して日本軍と戦っていた。
 東南アジア地域でも、宗主国(イギリス・オランダ)の権益や白人植民地支配を守る為に、秩序を破壊する日本軍や独立派と戦う現地住民もいた。
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 日本と中国・朝鮮の関係は、古代から一寸も変わってはいない。
 親日派知日派は、古朝鮮百済、古新羅高句麗渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅高句麗李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派で、北朝鮮は敵日派である。
 日は、中国で国交があったのは魏、宋、隋、唐の一時期であり、それ以外の王朝=中華帝国とは国交を開いてはいなかった。
 北九州の商人が、朝廷の許可なく密貿易を行っていた。
 日本と中国・朝鮮の間には、国と国との友好も善隣も存在していなかった。
 友好関係・善隣関係はウソである。
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 日本の平和と幸せと豊かさは、中国と朝鮮との公式な国交を開かず、日本から中国人や朝鮮人を排除したから得られていた。
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 歴史の事実として朝鮮・中国では、知日派親日派は極々少数で少数派の敵日派・反日派から差別や弾圧されていた。
 多数派の朝鮮・中国は日本無関心派で、敵日派・反日派の言説に踊らされ反日暴動を起こし日本人居留民を襲い虐殺と略奪を繰り返し、暴動が治まると日本人に対して関心がなくなる。
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 日本人にとって、中国人や朝鮮人はハッキリとした敵であり、共に生活する友人・友達ではないし、協力し助け合う親友でもないし、ましてや苦楽を共にして武器を取って戦ってくれる頼れる戦友せもなかった。
 ただそこにいる事は知っているだけの、知人であった。
 その証拠が、東日本大震災における中国共産党政府と韓国の薄情な日本対する態度であった。
 それを知りながら、親中国派・媚中派や親韓国派は日本国や日本人よりも両国に忖度し両国民の為に働いている。
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