🗾57〕─1─オホーツク文化・アイヌ文化。縄文人・オホーツク人・擦紋人そしてアイヌ民族。~No.182 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人は、それぞれ相手は違うが、雑多な人種・民族・部族との乱婚を繰り返して独自の発展をとげた混血(ハーフ)の雑種民族である。
 日本列島に住んでいた人間は、血が混じって汚れた穢れた雑種ばかりで、血が混じらない綺麗な純血種・純種は存在しない。
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 アイヌ人は、血筋として日本民族日本人に近いが、朝鮮人・漢族系中国人とは血筋が違いよってなんら縁もゆかりもない別系統の東アジア人である。
 反天皇反日本の人々はアイヌを日本から切り離す為に、アイヌ人は日本民族とは別の先住民族で中国人や朝鮮人に近いとウソを言いふらしている。
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 ウィキペディア
 オホーツク文化は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
 同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。
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 擦文時代(さつもんじだい)は、北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする(青苗文化も参照)。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)。
 なお、9世紀(平安時代前期)までの北海道では、擦文文化と並行して、異なるオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)までは、その系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部を中心に擦文文化圏と隣接していた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が採り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなったため、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。
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 オホーツク沿岸の古代遺跡群
 網走地域
 エリア一帯が北方古代文化の宝庫
 オホーツク沿岸地域では縄文、続縄文、擦文、オホーツク文化アイヌ文化まで各時代の遺跡が分布し、遠軽町旧白滝村)など内陸部では旧石器時代の遺跡が多く見られる。オホーツク沿岸の遺跡は樺太・シベリアなど大陸諸文化との関係が強く認められ、竪穴住居が連綿と残る常呂遺跡、オホーツク文化遺跡として著名なモヨロ貝塚、縄文後期の朱円周提墓などが代表格。また、2011(平成23)年には、白滝遺跡群の石器資料の一部が国の重要文化財に指定されている。
 見学スポット
 網走市立郷土博物館分館モヨロ貝塚
 斜里町立知床博物館
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 オホーツク人のDNA解読に成功
 ー北大研究グループー
 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。謎に包まれたオホーツク文化が解明されることでオホーツク地域の魅力がさらに深まりそうだ。(以下北海道新聞から紹介します)
 アイヌ民族と共通性
 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。
  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
 どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこから受け継がれたのでは」と推測している。同大学院の加藤博文准教授(考古学)は「オホーツク人は、最後は消えたという表現がなされてきたが、アイヌ民族の形成にかかわった集団もいたことが示された。アイヌ民族の形成の多様さを遺伝子から指摘する研究成果だ」とみている。
―オホーツク人―
  漁労や海獣猟を主とした海洋民で、5~13世紀にかけて道北・道東・サハリン南部を中心に海岸近くに多くの遺跡を残した。ルーツは明確ではなく、主に①アイヌ民族説②ニブヒ説③アムール下流域民族説④すでに消滅した民族集団説―の4説で論議が交わされてきた。同時期には、縄文人の流れをくむ続縄文人(紀元前3世紀~紀元6世紀)、擦文人(7~13世紀)が道内に暮らしていた。
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 遺伝子分析の結果、推定されるオホーツク人やアイヌ民族の成り立ち
 (北大研究グループ作成)
 カムチャツカ半島 カムチャツカ半島の集団
 ↓
 ↓ サハリンとアムール川下流域の集団
 ↓  ↓
 オホーツク人
 ↓
 ↓ 擦紋人
 ↓ ↓
 縄文人
 ↓ 
 アイヌ民族
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 オホーツク古代文化浪漫
 大正2年、在野の学者であった米村喜男衛氏が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこには貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品はどれもが他に類例を見ないものだった。この「モヨロ貝塚」の発見は世界的にも注目され、作家の司馬遼太郎氏も著書「街道を行く」の中で発見者の米村氏をトロイの遺跡を発見したシュリーマンと並べて書いているほど。
 北海道オホーツク地域に残る多くの古代遺跡。オホーツク人(モヨロ人)はどこから来てどこへ行ったのか。古代人が残した爪跡は、訪れる人を果てしない想像の世界へと駆り立てずにはおかない。
 「オホーツク21世紀を考える会」作成の冊子『春のオホーツク体験紀行』から、オホーツク文化の記述を抜粋し紹介します。
 二万年前から大陸と繋がっていた北海道の古代文化
 全国各地で二万年年程前の人骨が発見されているが、古代日本を語る場合、ここ北海道オホーツク地方を抜きでは語れない。
 北海道に人が住みついたのは旧石器時代(およそ二万数千年前 )とされるが、遠軽町白滝(旧白滝村)の白滝遺跡群は旧石器時代の遺跡としては日本最大規模の遺跡だ。白滝遺跡群からは、赤石山から採取した黒曜石を原料とした様々な石器が大量に発見され、この一帯が石器の製造場だったと思われる。白滝産黒曜石は、南は三内丸山遺跡を含む北東北、北はサハリンやシベリアの遺跡からも発見され、本州・大陸と交易が行われていたことを物語っている。大陸とのつながりといえば、大空町女満別(旧女満別町)の豊里遺跡から、昭和32年に発見された石刃鏃(せきじんぞく)は、日本考古学界でも画期的な発見だった。石刃鏃とは、石を縦に剥いで作った石刃を鏃(やじり)にした鋭利な石器のことである。
 これまでユーラシア大陸北部で広く認められていた石刃鏃が、日本列島では発見されていなかったのであるが、女満別ではじめて本格的発見がされ、これによって大陸と日本列島の石刃鏃文化が繋がったのである。
 オホーツク地域は縄文人にとって豊かな土地
 石刃鏃が発見された女満別豊里遺跡は約七千年前のものとされ、時代は縄文時代早期だろうか。北海道の縄文時代は一万年前から七~八千年間続いた。
 縄文時代は、言うまでもないが縄目の文様がついた土器に由来し、人々は狩猟採集を営みとしていた。
 北見市常呂町(旧常呂町)の常呂川河口周辺には旧石器時代から縄文、擦文・アイヌ文化までの遺跡が数多く発見されていて、竪穴住居跡が二千五百以上も確認されている。これほど各時代にわたる遺跡が遺されている地域も珍しく、各時代の比較およびシベリア、サハリンなどの北方文化の研究において重要な遺跡となっている。 
 縄文時代の後期から晩期の一時期に見られる特徴に、ストーンサークルや集合墓地(周堤墓・環状土豪)があげられる。斜里のオクシベツ川遺跡のストーンサークル、朱円周堤墓がそれで、東北地方の文化が持ち込まれたものだと考えられている。
 オクシベツ川遺跡のストーンサークルは、現在、斜里町立知床博物館の裏に復元されていて実際に見ることができる。
 縄文時代は二千年ほど前に終わりを告げるが、ここから北海道と本州は別の時代をたどることになる。本州では稲作の伝来により弥生時代へと移るが、北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと時代をたどっていく。極端な言い方をするならば、狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続くのである。縄文時代は今より気候も温暖だったとされ、食糧も豊富にあり、縄文人にとってこの地は豊かな地であったのだろう。
 流氷とともに現れ消えた幻の民族「モヨロ人」
 続縄文から擦文時代に並行して、日本考古学史上特異なオホーツク文化の時代がある。六~十一世紀のおよそ五百年間、日本では古墳~平安時代に相当する。
 オホーツク文化発見は、大正二年までさかのぼる。在野の学者であった米村喜男衛が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこは貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品は、どれもが他に類例を見ないものだった。
 この「モヨロ貝塚」の発見によって、縄文文化ともアイヌ文化とも違う“オホーツク文化”の存在が明らかになっていったのだ。米村喜男衛が発掘した資料を基に作られたのが、現在の網走市立郷土博物館であり、モヨロ貝塚館である。
 では、オホーツク文化の担い手、ここでは仮にモヨロ人と呼ぶことにするが、モヨロ人はアムール川流域あるいはサハリンから南下してきた海洋狩猟民ではないかと考えられている。が、彼らがどこから来た民族なのかは、未だ明快な結論は出ていない。
 回転式離頭鋸に見られるような発達した漁具。海獣を象ったり波形や魚、漁の光景を施した独自の土器や骨角器。また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。
 オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになる。歴史の時間尺で見れば、突然に現れ忽然と消えてしまったオホーツク文化とモヨロ人。
 司馬遼太郎は『オホーツク街道』(街道を行く38・朝日新聞社刊)の中で述べている。「(前略)縄文文化ほど、日本固有の文化はない。この固有性と、オホーツク文化という外来性が入り交じっているところに、北海道、とくにオホーツク沿岸の魅力がある」と。
 北海道だけで発展した続縄文・擦文文化
 紀元前五世紀ころから本州では弥生時代へ移ったが、北海道では鉄器のみが伝来しそれまでの縄文文化を継続しながら六世紀頃まで続く。これを続縄文時代と呼んでいる。
 その後に訪れるのが擦文(さつもん)文化時代である。擦文とは、刷毛で擦(こす)ったような紋様から命名され、いわゆる『縄文』紋様は消滅していった。またこの頃になると本州との関係が深まり、素焼きの土器「土師器(はじき)」や、ロクロで成型し高温で焼いた「須恵器(すえき)」が北海道へも渡ってきた。
 擦文文化の遺跡としては、常呂遺跡をはじめ、紋別のオムサロ遺跡、湧別のシブノツナイ竪穴住居跡などがあり、オムサロ遺跡公園では復元した擦文時代の住居が見られる。
 擦文文化は十二世紀頃まで続くが、その間オホーツク文化は擦文文化へ吸収される形で消え(トビニタイ文化)、擦文文化もまたアイヌ文化へと移った。しかし、文化の流れは決して途切れるのではなく、縄文~擦文、オホーツク文化も、アイヌ文化のDNAとなって脈々と流れていったのである。
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 北海道の歴史と文化と自然
 縄文文化
 ⦿北と南の文化が出会う—オホーツク文化・擦文文化
 続縄文文化のおわりごろ、「オホーツク文化」が、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸、千島列島にひろがりました。また、同じころ「続縄文文化」につづき、本州文化の影響をうけた北海道特有の「擦文(さつもん)文化」が成立します。このころは南北からの人や物の行き来がさかんになり、のちのアイヌ文化につながるものがあらわれてきます。
 「オホーツク文化
 5世紀になると、それまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもった人びとが、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸にやってきました。この人びとの文化を「オホーツク文化」とよんでいます。
 このオホーツク文化日本海沿岸にも広がり、もっとも南では道南の奥尻島にも遺跡が知られています。しかしオホーツク文化の遺跡は、オホーツク海の沿岸部にあり、内陸部からは見つかっていません。また、この文化の人たちは「海洋の民」ともよばれています。
 オホーツク文化の人びとは、漁労を行い、クジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州との交易を行っていました。また、人びとは海岸近くに集落をつくりました。住居は地面を五角形あるいは六角形に掘りさげた竪穴住居に住み、なかには長さが10mをこす大型のものもあります。こうした大型住居には、15人以上もの人が共同で生活していたと考えられています。
 オホーツク文化の遺跡からは、帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっています。これらは、アムール川黒龍江)中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)、同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるものと同じものです。オホーツク文化が、サハリン(樺太)や大陸などと交易や交流をもっていたことがわかります。
▲オホーツク式土器
 オホーツク式土器は口の広い壷形で、細長い粘土紐を使った文様がみられます。この細長い粘土紐は形状が素麺に似ていることから「ソーメン文」や「貼付文」とよばれています(ところ遺跡の森所蔵)
▲トコロチャシ跡遺跡出土 クマの彫刻品
 クマの全身が細部まで表現され、オホーツク文化ではクマが特別な動物だったと考えられています(ところ遺跡の森所蔵)
▲モヨロ貝塚出土 牙製婦人像
 オホーツク文化特有の牙製彫刻は北海道で十体ほど見つかっています(北方民族博物館所蔵)
 「擦文文化」
本州の文化の影響を受け、それまで使われていた縄文のついた土器と石器がみられなくなり、本州の土師器(はじき)に似た土器や鉄器が使われはじめます。
 この文化を「擦文文化」とよび、7~12世紀ごろまでつづきました。擦文文化の人びとは、同じ時期に本州にもみられるようなカマド付きの四角い竪穴住居でくらしました。8世紀になると、人びとは河口近くに集落をつくり、サケやマス、野生植物をとり、アワやキビ、オオムギなどの栽培をしていました。
 このころの北海道は、東北地方とさかんな交流があり、その強い影響を受けていました。交易によってえた鉄製品が急速にひろまり、石器は使われなくなりました。また、鉄を加工する野鍛冶の技術ももたらされました。
 江別市恵庭市では東北地方とよく似た末期古墳が発見され、本州産の鉄器などの副葬品が見つかっています。
▲擦文土器
 擦文文化後期のもので、木のヘラでこすって表面を整えています(北海道博物館所蔵)
▲札幌市K-446遺跡出土 擦文土器
 札幌市北区麻生で発見された「K-446遺跡」からは多くの擦文土器や須恵器が出土しました(札幌市埋蔵文化財センター)
▲鉄製の鋤(すき)先
 外側に刃、内側に溝をもつ鉄製の鋤先。本州からもたらされた鉄器の一つです(北海道博物館所蔵)
▲伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴住居跡(1980年の発掘調査時)
 擦文時代の集落としては最も規模が大きく、現在までに2549軒の住居跡がみつかっています(写真提供:標津町ポー川史跡自然公園)
復元された江別古墳群
▲江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯 一の現存する遺跡です。1931年に後藤寿一氏によって発見されました(写真提供:江別市郷土資料館)
 北と南の文化が出会い、「アイヌ文化」へ
 オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀)は、北海道で8~9世紀ごろに出会いました。オホーツク文化がおわり、10世紀になるとオホーツク文化と擦文文化の両方の特徴をもった土器がつくられるようになります。このような土器を「トビニタイ土器」とよんでいます。
 また、住居も両文化の特徴をもつようになります。遺跡は海岸だけでなく、擦文文化と同じように内陸の河川沿いにもみられるようになります。これは、この地域のオホーツク文化の人びとが、擦文文化に近い生活に移り変わっていったことを示しています。その後のアイヌ文化には、このオホーツク文化と擦文文化の両方の要素が受けつがれています。
 一方、南から中央政権が北上し、「エミシ」とよばれた東北の有力豪族が組み込まれていきます。12世紀ころには奥州藤原氏をはじめ東北の豪族が平泉文化を花ひらかせました。
 13・14世紀になると、道南には和人が住み着くようになりました。また陶器や鉄鍋などが北海道にひろがり、土器がつくられなくなります。住居は竪穴住居から平地住居にかわり、またカマドから炉にかわります。擦文文化は、アイヌ文化へと変わっていったのです。
 このように北海道の文化は、北からの人びと、南からの人びとが交流や交流などにより、 文化の影響を受け合っていました。
▲トビニタイ土器
 擦文土器とオホーツク式土器の形や文様など、両方の特徴を備えています。ちなみに、トビニタイとは羅臼町飛仁帯で出土したことから名前づけられました(北海道博物館収蔵)
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 北海道と北九州をつむぐ地域情報と物語
 オホーツク文化
 『海に出たところが、常呂である。
 田園がひろがり、ひろい丘陵が樹林を茂らせ、オホーツクの海がみえる。
 さらに網走側に能取湖をもち、べつの側にサロマ湖をもつといったぐあいで、じつに景色がいい。
 この山水のなかを歩いていれば、たれもが古代感覚をよみがえらせるにちがいない。たべものを採取してまわるくらしのなかでは、常呂ほどの土地はない。
 流氷期には海獣がとれるし、ふだんでも、淡水・海水の魚介がゆたかで、野には小動物がかけまわっている。常呂川には、季節になると、サケやマスがのぼってくる。
 採取のくらしの時代、常呂は世界一のいい場所だったのではないか。』
 これは、司馬遼太郎氏の著書『オホーツク街道』~街道をゆく38(朝日新聞社刊)の一文です。
 この北見市常呂を含めたオホーツク地方の歴史には、未だに多くの謎が残されています。
 およそ6世紀から13世紀頃にかけて、サハリン・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に陸獣や海獣の狩猟、漁労、採集活動を生業とする未明の民族集団が居住していたというのです。
 彼らの形成した北方の文化形態こそが、その謎を秘めた「オホーツク文化」です。
 一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4~10世紀)、女真文化(10~12世紀)の系統をひいて誕生し、やがて本州の土師器文化(7~11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8~13世紀)と融合し、吸収されていったと考えられていますが、彼ら及びその文化は、「突如、忽然として消えてしまった!」という有力説さえあるのですから、ロマンが注がれます。
 また、オホーツク文化と中国大陸を含む他文化との接触や交流は、アイヌ文化の発生に大きく関わり、北回りの文化系統は、後に山丹交易ルートとなっていったとも考えられています。
 現在、見学できる代表的な遺跡としては、網走市の「モヨロ貝塚」があります。
 1913年(大正2年)に網走を訪れたアマチュアの考古学研究者・米村喜男衛さんが発見しました。
 発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った若かりし米村さんは、網走に住むことを決意して理髪店を開業し、その傍らで遺跡の調査と研究へ精力的に携わったのです。
 戦後、本格的なモヨロ貝塚の発掘調査指導に訪れた言語学者金田一京助博士は、米村さんのことを、
 「おほつくのもよろのうらの夕凪にいにしよ志のび君とたつかな」
 と詠み、その歌碑もあります。
 果たしてオホーツク文化の担い手民族は、誰なのか? 
 オホーツク文化のルーツは、どこであるのか?
 オホーツク文化アイヌ文化の関係はどうなのか?
 その真相は、未だに多くの謎に包まれています。
 オホーツク地方は古代のロマンも秘めています。
 網走周辺は考古学上でも、とても興味深い地です。
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 GoodDay北海道 » オホーツク文化
 オホーツク文化
 海を愛した海洋民族の暮らし
 オホーツク海沿岸部を
 中心に分布していた
 文化のはじまりと営み
 オホーツク文化は5~10世紀頃にかけて、サハリン南部から北海道・南千島オホーツク海沿岸部に展開した文化です。オホーツク文化の人びとは、海を生業の場とし、漁撈や海獣狩猟によって生活していました。海での暮らしに特化した海洋民族と考えられており、五角形・六角形をした大きな竪穴式住居を建てるなど独特の文化をもっていたことが知られています。長らく栄えたオホーツク文化は10~12世紀頃に北海道在地の擦文文化と接触・変容し、姿を消していきました。
 オホーツク文化
 アイヌ文化の
 類似した特性
 最近の研究では、オホーツク文化の人々の一部は北海道在地の人々と混血し、アイヌ民族の形成に関わったことが明らかにされつつあります。そのためか、アイヌ文化の中にはオホーツク文化からの影響を受けたと推定される特性が見られます。オホーツク文化では、住居内にクマの頭蓋骨を祀る骨塚が設けられるなど特徴的な動物儀礼の存在が知られていますが、これはアイヌ文化のクマを崇拝する風習につながるものと考えられています。その他、埋葬様式や狩猟技術にも両者の関連性が指摘されています。
 遠い昔、北の海辺に
 生きた、先人たちの
 営みを垣間見る
 オホーツク文化の遺跡は、道内では枝幸町の「目梨泊遺跡」、紋別市の「オムサロ遺跡」の他、最大の遺跡である網走市の「モヨロ貝塚」があります。この遺跡の発見がきっかけとなり、それまで知られていなかった、オホーツク人と呼ばれる人々の存在が判明。道内にもオホーツク文化の存在が認められるようになったのです。隣町の北見市常呂町にある「常呂遺跡」にもその痕跡が残されているので、是非訪れてみてはいかがでしょうか。
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 公益財団法人 アイヌ民族文化財
 The Foundation for Ainu Culture
 アイヌ文化まで
 本州が弥生時代を迎え、その後、古墳時代、奈良・平安時代鎌倉時代と続くころ、北海道は土器を使い、採集・漁狩猟を生業とした時代が続きました。続縄文文化の時代、擦文(さつもん)文化の時代と呼ばれる時代です。地域や研究者によって異なりますが、この擦文文化の時代は7世紀ころに始まって、12~13世紀ころに終わりを遂(と)げるとともに、アイヌ文化が登場しました。
 アイヌ文化につながる擦文文化
 両文化に共通するところとして、一例をあげますと、集落がサケやマスが遡上する河川の流域、あるいは河口につくられるということです。擦文文化を担った人たちもアイヌの人たちと同様に、季節になると大量に遡上してくるサケやマスを主たる食糧としていたのでしょう。
 オホーツク文化もまたアイヌ文化と関連する
 擦文文化にほぼ並行して、北海道のオホーツク沿岸域を中心にオホーツク文化が形成されます。このオホーツク文化を担った人たちは、住居内にクマの頭骨を集積していました。クマに対するなんらかの信仰を持っていたものと思われます。アイヌの人たちもまた、クマの霊送り儀礼を行った後、頭骨を住居の外の祭壇に安置しました。
 このように、精神文化においては、オホーツク文化が大いに影響していると考えられます。
 アイヌ文化の形成
 こうした歴史の流れ、あるいは、現在に伝わるアイヌ文化を見ますと、擦文文化を担った人たちがオホーツク文化の影響を受けながら、アイヌ文化を形成したと考えられますが、その年代などについては、まだはっきりとはしておりません。
 近年、北海道南部の上ノ国(かみのくに)町の遺跡から、16世紀末から17世紀初めごろに使われていたと考えられる、イクパスイと呼ばれるアイヌの人たちの祭具が出土しており、こうした考古学の発掘等により、古い時代のアイヌ文化の様相が次第に明らかになってくると思われます。
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 エンタメ!歴史博士
 謎の北方海洋民族の生活いきいき アイヌ文化に大きな影響
 歴史新発見 北海道羅臼町・松法川北岸遺跡
 2015/9/24
 歴史博士
 5世紀から10世紀にかけ、北海道のオホーツク海沿岸で独自の文化を持った海洋漁猟民族がいた。いわゆる「オホーツク文化」の担い手たちだ。生活実態が長く不明だったが、羅臼町松法(のり)川北岸遺跡の遺物が重要な手掛かりと判明。出土した約10万点の遺物中計260点が今月、国の重要文化財に指定された。アイヌ文化に大きな影響を与えたとみられるオホーツク文化に注目が集まっている。
 不意に現れ、突然消えてしまった民族
 縄文時代以降、北海道は本州とは異なる独自の歴史を歩んだ。今から2500年前ごろ、九州から本州では稲作が生活の中心となる文化が広がった。社会システムが大きく転換した弥生時代だ。
 だが北海道では稲作は技術的に不可能だった。その一方で自然資源が豊富であったため漁労や狩猟が中心の生活が6世紀頃まで続いた。「続縄文時代」と呼ばれる。地域色が濃く道央、網走、釧路などそれぞれ特徴がある土器が出土している。
 本州が飛鳥時代と呼ばれる7世紀頃になると、北海道に本州から鉄や土師(はじ)器が流入するようになる。鉄器が多数手に入るようになったことで石器は激減。住居は正方形か長方形で、それまでの単純な炉だけでなく「かまど」が作られた。土器は土師器によく似た「擦文式土器」を製作。ヒエやアワを栽培し大集落を築いた例があることも分かっている。本州の影響を強く受けながらも独自の発達を見せ、北海道のほぼ全域に広がった。13世紀ごろまで続き、「擦文文化期」と呼ばれる。この文化の流れを担った人々がその後のアイヌ文化を作ったとされている。
 こうした時代の中、オホーツク海沿岸の利尻島礼文島知床半島根室半島など流氷の分布域とほぼ重なる道北・道東の一部地域に在来とはまったく異質の文化が5世紀頃渡来した。「オホーツク文化」と呼ばれている。
 骨角器や石器などを用いてクジラや魚、トドなどを捕獲。鹿角や鯨骨で作った釣り針や、漁網に結びつけた石の重りが多数見つかっている。漁労や海獣狩猟を生計の中心に据え、海岸沿いに五角形や六角形の竪穴住居を建てて住んだ。
 竪穴といっても原始的なものではなく、複数の家族が同居する1辺10メートル超もある大型で、板壁に囲まれ、床には粘土を敷き、木材を多く使う現在のログハウスと大差ないものもあったという。
 中でも特徴的なのは、動物の骨、とりわけヒグマの頭骨を積み重ねる「骨塚」が住居の奥に祭壇として設置されていたことだ。数十頭の頭骨が出土した例もあり、ヒグマを神聖なものとして扱い儀式を行っていたと解釈されている。
 オホーツク文化はサハリンが起源と考えられておりアムール川下流域、南千島、北海道のオホーツク沿岸に広がった。9世紀ごろから一部で擦文文化と融合が始まり、中間的な「トビニタイ文化」に変容、トビニタイ文化も13世紀には擦文文化に完全に吸収されたとされている。
 不意に現れ、突然消えてしまった――。古代のミステリアスな海洋民族とされてきたオホーツク文化人とは誰なのか。人類学や考古学、歴史学など様々な分野から正体を求めてアプローチがなされてきた。
 「遺伝子解析の結果などによると、アムール川下流域からサハリン北部で暮らし、以前はロシア語でギリヤークと呼ばれていた少数民族のニブフ説が近年は有力になっている。擦文文化との融合とともに混血が進んでいった跡もあるようだ」と羅臼町郷土資料館の天方博章学芸員は解説する。
 そのオホーツク文化人の生活実態を解明する上で大きく寄与したのが今月国の重要文化財に指定された松法川北岸遺跡から出土した遺物だ。
 火災のおかげで残された木製品
 7~8世紀ごろの土器や石器、鉄製品、骨角器ほか木製品が見つかった。1982年の発見当時、オホーツク文化期の木製品出土は初めてだったことからとりわけ高い価値があり、30年余りにわたって復元作業が続けられてきた。
 熊頭注口木製槽を完全な形を予想して復元した。上向きにした状態。酒を入れる容器で熊の口部分から注いだとの説がある
 1300年を越える木製品が奇跡的に残ったのは火災に遭ったから、というと逆説めくが、事実その通りなのだ。松法川北岸遺跡で調査した15軒中3軒が火災に遭った竪穴住居跡だったが、屋根にふかれた土が火事で崩れ落ちて蓋となり、ちょうど炭焼き窯のような状態になったのだ。
 木製品は長時間にわたって1000度を超える高温で熱せられたとみられ、炭となった。もし炭化していなければ朽ちて腐敗し、他の遺跡と同様、後世まで残ることはなかった。
 見つかった多数の木製品は盆、碗(わん)、皿、匙(さじ)、樹皮で出来たかごのような容器など。当時の人々の日常生活が立ちのぼってくるような資料ばかりだ。また、櫂(かい)とセットになった船のミニチュア製品もあった。形状から単純な丸木舟ではなく、構造船であったと推測されている。
 特筆すべきは、「熊頭注口木製槽」と名付けられた船の形をした容器だ。端にヒグマの頭部が彫刻され、縁にはシャチの背びれが刻まれている。ヒグマの口が注ぎ口になっている。このほかにも動物をモチーフにした小物のような遺物は多い。骨や角などにアザラシ、シャチ、ラッコなどを刻んだりかたどったりしている。
 出土した遺物の特徴について早稲田大学の菊池徹夫名誉教授(北方考古学)は「動物に対する信仰の念が顕著だ。熊頭注口木製槽はヒグマとシャチが刻まれている。擦文文化ではこうした動物儀礼の例は知られておらず、ヒグマを山の神(キムンカムイ)、シャチを沖の神(レプンカムイ)として敬うアイヌ文化に大きな影響を与えたのではないか」と指摘する。
 松法川北岸遺跡付近の現在の様子。道は国後国道
 発掘以来約30年にわたって木製品の復元にあたってきた羅臼町郷土資料館の涌坂周一元館長は「石器や土器と違って、どの木製品も初めて見るものばかりで、そもそも元がどのような形をしていたか想像することも困難だった。また、見つけた時にはさわるとボロボロに崩れてしまうような状態だった。オホーツク文化人の生活実態を知る手掛かりになってくれればと思う」と振り返る。
 羅臼町がある知床半島ユネスコ世界自然遺産に登録されている。今回は松法川北岸遺跡出土遺物がオホーツク文化を復元、解明する上で貴重な資料という理由から重要文化財の指定を受けたが、オホーツク文化に続くトビニタイ文化は羅臼町飛仁帯(とびにたい)地区で出土した土器が名称の由来となっている。自然的特性だけではなく、歴史的に価値の高い文化遺産にも注目が集まることになりそうだ。
 (本田寛成)
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