🎍5〕─1─日本全国にあった古代王国。ヤマト王権は征服王朝。~No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の平和と戦争そして発展は、中国大陸や朝鮮半島に影響されて動いていた。
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 『漢書』地理志。紀元前1世紀ごろ、倭人は日本国内で100余りの国に分かれ、大陸の中華帝国へ定期的に使いを送っていた。
 弥生の大乱。強大国は、弱小国を侵略して攻め滅ぼして臣下に組み従え領土を拡大した。
 弱小国が、軍隊・兵隊の弱さゆえに淘汰されていった。
 日本の古代・弥生時代は、殺すか殺されるかの強者必勝、弱者必滅の世界で、平和な時代ではなかった。
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 ヤマト王権がまだ地方王国であった時代は戦乱の時代(弥生の大乱)で、日本全国に10以上の大小の王国が乱立し、戦争・殺し合いを繰り広げていた。
 ヤマト王国は、日本を統一する為に他の王朝に対する侵略戦争を開始した。
 日本統一は、ヤマト王権侵略戦争で幕を開けた。
 諸王国は、自国だけが安泰で平和に暮らせる事を望み、ヤマト王権のように日本を統一して我が領土にしようという野望を持っていなかった。
 つまり、古代日本は東アジア情勢による影響で、ヤマト王権による強力な統一国家か、諸王国による対等関係での連合体かの二者択一を迫られていた。
 朝鮮半島最南端に住んでいた倭族は、北方から侵略してくる黄河文明圏勢力から身を守る為に、同じ縄文人倭人であるヤマト王権に助けを求めていた。
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 ヤマト王権による侵略戦争は、全国を統一するまで、奈良時代そして平安時代に受け継がれ、平安中期頃には青森までを、蝦夷地の一部は江戸時代に、明治には琉球蝦夷地・北方領土4島・千島列島をも日本領土として日本国は完成した。
 ヤマト王権侵略戦争で、多くの地方王国が滅び、地元民が殺されそして消えた。
 その意味で、日本民族は侵略者であり、蝦夷琉球人・アイヌ人は被害者である。
 日本民族琉球人・アイヌ人は、元を辿れば同じ縄文人を祖先とする兄弟部族である。
 ヤマト王権による侵略的統一は、中国大陸や朝鮮半島からの侵略を撃退し、中華帝国(中国王朝)と朝鮮王朝の支配を拒絶する為に、必要な犠牲「必要悪」であった。
 日本にとって、中国と朝鮮は敵であった。
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 現代の日本歴史は、ヤマト王権の侵略的統一戦争を否定、もしくは評価していない。
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 日本民族琉球人・アイヌ人は、南方系海洋民・揚子江流域民・北方系山野の民・西方系草原が民による混血・雑種した子孫で長江文明の後継者であった。
 中国人漢族と朝鮮人は、西方系草原の民・黄河流域民による純血・純種の子孫で黄河文明の後継者であった。
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 日本民族は、地獄のような中国大陸や朝鮮半島からの逃げてきた・追い出された弱者・敗者の子孫であったがゆえに、中国・朝鮮から独立を守ろうとした。
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 倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。隋書倭国伝や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書新唐書の間でも記述に差異がある。
 歴史
 小国の形成と倭国大乱
 詳細は「倭#倭の国々」および「倭国大乱」を参照
 「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝朝貢しており、多数の(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。
 1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。
 {『後漢書』東夷傳 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」}
 これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国後漢へ遣使したと考えられている。
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 古代王国。
●あ
・明石国:明石国(あかしのくに)は、現在の兵庫県に存在した律令制成立以前の国の一つ。
 播磨国および兵庫県にあった明石郡、美嚢郡加古郡印南郡 の4郡が明石国だったとされる。
 大化の改新以降に針間鴨国とともに針間国に編入され、播磨国の一部とされた。
●い
一支国一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。
 1993年、長崎県教育委員会壱岐島原の辻遺跡一支国の跡であると発表し、話題となった。
・伊都国:伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、大和時代の伊覩縣(いとのあがた)、現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部(旧怡土郡)に比定している研究者が多い。
●き
吉備国吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、毛野などと並ぶヤマト王権を支える有力な地域の一つだった。
 別名は、吉備道(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。
 概要
 後の令制国では備前国備中国備後国美作国にあたる。
 後代には、単に吉備といえば美作を含めないことが多かった時期もあった。
 現代では備前・備中・美作(つまり岡山県の別称)を指すか、備前・備中・美作・備後(岡山県広島県東部)を指して使用されることが多い。
 九州王朝説:九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。
 邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。
●く
・狗奴国:狗奴国(くぬのくに/くぬこく、くなのくに/くなこく、こなのくに/こなこく)は、中国の三国時代の歴史書三国志』(西晋陳寿の作)のうちの『魏書』の中の「魏書東夷伝」に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国。
・熊毛王国:熊毛王国(くまげおうこく)とは、現在の山口県熊毛郡域にあたる室津半島周辺を支配地域とした古墳時代の地域首長勢力に対する現代の呼称。この呼称は『記紀』や『風土記』などの古代史料には見えず、一般的な歴史学用語でもないが、現代人がこの勢力を「王国」と表現したもので地元田布施町山口県の歴史関係書籍等で使われている。
熊襲熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
●け
毛野国:毛野(けの/けぬ)は、日本の古墳時代の地域・文化圏の1つ。群馬県と栃木県南部を合わせた地域を指すとされる。
●こ
・越国:越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国越中国能登国加賀国越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。
●さ
・佐斯国:佐斯国(さしのくに)は、本居宣長が唱えた律令制以前における東海道の地域名。後の令制国では相模国武蔵国を合わせた範囲に当たる。
●し
・秦王国:秦王国(しんおうこく)は、『隋書』に倭の地域にあったとして現れる国または土地の名称。
 概要
 秦王國は『隋書』の「列傳第四十六 東夷 俀國」に現れる。遣隋使が持参した俀国(倭国)多利思比孤(『隋書』では多利思北孤)から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に記述されている。主に、中国地方西部に比定されている。
●た
・丹後王国論:丹後王国論(たんごおうこく ろん)は、日本古代史が専門の歴史学者・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国(たんご おうこく)と呼んだもの。ただし丹後国和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを丹波王国(たんば おうこく)と呼ぶこともある。
 門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権支配下に入っていったと推定している。
●ち
・竹斯国:竹斯国(ちくしこく)は、中国史における『隋書』や『北史』に倭の地域にあったとして現れる国または土地の名称。筑紫国に比定[1]されている。
●と
・投馬国:投馬国(とうまこく、又はつまこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。
・豊国:豊国(とよのくに)は、かつて日本にあった律令制以前の国の一つ。『国造本紀』によれば、成務朝に伊甚国造と同祖の宇那足尼が豊国造に任じられたとされる。
 概要
地理的には、九州の北東部に位置し、現在の福岡県東部および大分県全域に相当する。
 『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「豊日別(トヨヒワケ)」といったといわれる。
●な
・奴国:奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」「梁書」・『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡、現在の福岡市から春日市に存在したと推定する研究者が多い。
那須国:那須国(なすのくに)は、『先代旧事本紀』『国造本紀』に景行天皇の時代に建沼河命の孫の大臣命を定めたと記される那須国造が治めた、東山道に位置する令制国以前の国で、現在の栃木県大田原市を中心とする地域。
 那須国造碑によれば、那須国造の那須直韋提が永昌元年己丑(持統天皇3年、689年)四月に評督に任命されたとあり、この年に同族と考えられる下毛野国造が治めた下毛野国とともに那須国は令制国下野国編入され那須郡となった。
●に
・新治国:新治国(にいはりのくに)は、古代律令制以前に、現在の茨城県西部に存在した国。大化の改新以後の律令制下では常陸国新治郡となる。『古事記』の倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に邇比婆利(にひばり)とある。
 2006年(平成18年)まで存続していた近世の茨城県新治郡(にいはりぐん)とは、新治の呼称こそ同じであるが別である。
●ひ
・日高見国:日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
・火国:火国・肥国(ひのくに)は、令制国以前に存在した国の一つ。
 概要
 『国造本紀』によれば、大分国造と同祖で神八井耳命の後裔の志貴多奈彦命の子遅男江命が、崇神朝に火国造に任じられたとされる。また、健磐龍命を火国造の祖とする説もある。
 のちに有明海を挟んで前・後に分けられ、肥前国肥後国となった。この二国をあわせて、またはいずれか一国を指して、肥州(ひしゅう)と呼ぶことがある。また、肥前国肥後国の両国をさす語としては、二肥(にひ)も用いられる。
 廃藩後曲折を経て、肥前国長崎県佐賀県となり、肥後国熊本県となった。
●ふ
・総国:総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県や東京都の一部にわたる律令制以前の旧国名
・不弥国:不弥国(ふみこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。
●や
・邪摩堆:邪摩堆とは 北史(隋書)に記述される倭国の都。大和のことである。隋書では「邪靡堆」と記述される。
●わ
倭国倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。隋書倭国伝や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書新唐書の間でも記述に差異がある。
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 多元王朝説は、古代および中世の日本列島には複数の王朝と大王が並立・連立して存在したとする仮説。
 論拠は前方後円墳の形が地域によって微妙に異なること、「その時代の日本列島は一つの統一王朝によって運営されていた」という明確な記録がどの文献にも存在していない事、そして、古代中国王朝側の文献からの歴史の記述に頼らざるを得ない点などである。 主な提唱者は古田武彦。「多元的古代史観」という用語もある。主に、ヤマト王権を中心として王朝が各地に分布していたという説、そして、大和王権と九州倭王朝の両勢力が並立して存在していたとする九州王朝説に分かれる。
・九州王朝:天孫降臨として伝えられる出来事(BC2世紀)から、702年(670年、704年とする説もある)の間、筑紫に中国王朝に朝貢し、朝鮮半島に出兵した王朝があったとする。邪馬壱国(邪馬一国)や倭の五王、『隋書』「東夷伝」に記された俀国(俀国は倭国の誤記後刻ではなく、俀(タイ)国と考える)も九州王朝とする。磐井の乱や継体の乱はなかった、と最近主張されている。詳しくは(九州王朝説)を参照
・出雲王朝:出雲国(いづものくに)古代出雲を参照。(『出雲国風土記』、『国引き神話』)
・近畿・大和王朝:ヤマト王権を参照。 神武天皇は、実在したとする。神武天皇は福岡県の日向川のあたりから銅鐸の中心地である大和に東侵したとする。継体天皇の時に王朝交代があったとするが、応神天皇の時は王朝交代はなかったとしている。また、仁徳天皇の前に宇治天皇がいたとする。(播磨国風土記から)
・関東王朝:稲荷山古墳の被葬者は関東に存在した王朝の「加多支鹵大王」に仕えていたとする。
・東北王朝:角塚古墳において出土した埴輪より、ヤマト王朝勢力が北上した、と一般的には考えられているが、和田家文書(東日流外三郡誌、等)から、九州王朝から逃げた安日彦の子孫による王朝があったとする。和田家文書にでてくる長脛彦は九州の豪族としている。ただし偽書が根拠なので、学会からは全く認められていない。(例外として、笠谷和比古がいる)

 主な論者
 主な論者として、教授・元教授では古田武彦北村泰一笠谷和比古平野貞夫が、在野では古賀達也、竹下義朗などがいる。主に左翼に多かった支持者だが、平野や竹下のような保守派の支持者も存在している。
・12年誤差説
 日本書紀継体天皇から皇極天皇に関する記事は12年の誤差があるとする。聖徳太子乙巳の変もこれによる。
・筑紫朝廷論
 この邪馬台国は、やがて筑紫朝廷に発展したとするのが九州王朝説である。
 根拠
 次のことから、近畿天皇家は本来九州王朝の臣下であり、白村江の戦いの前後から次第に独立していったと考えられる。
 「中国正史」によると、用明天皇は九州王朝のタリシホコの補佐官であったという(なお、新唐書によると多利思比孤が用明天皇であったとされ、「中国正史」が何を指すのか不明)。
神武天皇は九州から東征した。
 「大倭」や「真人」といった名称を付ける天皇もいるが、これらは九州王朝の官職名であると考えられる。
 また、次の王朝も九州王朝に服従していたと考えられる。
・東北王朝は『東日流六郡誌』によると、邪馬壹国に朝貢していた。
・吉備王朝も九州王朝に従っていた可能性が高い。
・讃岐王朝は九州王朝に滅ぼされ、その後、伊予王朝が成立した。
・四国南西部にも九州王朝に服従する王朝があり、倭国と環太平洋文明圏の入り口となった。
 ただし全ての「根拠」は正しい根拠に基づいておらず、九州王朝が実在したとは到底証明できるものではない。
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 邪馬台国(やまたいこく / やまとのくに/やまいこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2]ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。
 概要
 中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため。また誤写ではないとする異論がある)。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。
 倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。
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