🗻35〕─1─倭国大乱(弥生の大乱)の原因は気候変動と食糧不足であった。環濠集落は城。~No.81No.82 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 倭国大乱(弥生の大乱)、146年〜189年。
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 日本列島では雑多な自然災害が複合的に同時多発し、農作物に深刻な被害をもたらし食糧が不足して飢餓が発生し疫病が蔓延していた。
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 前漢代に編纂された『漢書』では、倭の国には100以上の国が存在していると記している。
 『三国志』の『魏志倭人伝』では、倭の国は邪馬台国など約30ヵ国に統合されたと記されている。
 そして、ヤマト王国はヤマト王権となり、新潟から福島の以南以西を支配下に置いた。
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 弥生人は、食糧を守る為に環濠集落=城を築いて閉じ籠もり、食糧を奪いに来た敵を撃退した。
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 大津市地球温暖化防止活動推進センター
 卑弥呼の時代、倭国大乱の原因は気候変動?
 大津市センター2017/01/12
 弥生時代2世紀後半に起こった倭国の大乱の大きな原因は、当時の気候変動の結果、大雨・洪水や干ばつが盛んに起こり、そのため耕作物が地域によって大きく変化し、食べる物が無くて苦しんだ地方の住民が豊かな地域を襲撃して争いを起こしたという説が有力視されています。木の年輪の育ち方等から大きな気候変動があったのではないか、と言われています。
 これは昔話と簡単には片づけられない大きな問題をはらんでいます。地球温暖化が進むとこれからの世界で同じような事態が発生することも危惧されています。
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 現代日本人には、歴史力・文化力・宗教力はもちろん自然力さえない為に、縄文人弥生人が理解できない。
 現代日本人は、必要な食糧はカネで海外から買えばいいとの認識から、国内の食料生産量を増やして食糧自給率を回復させようという考えはない。
 現代日本人にとって大事なのは、自然・田畑・農作物・食べ物ではなく、経済・産業・カネである。
 現代日本人は、農作物は自然環境の中で田畑で1年に一回作るのではなく、食べ物は工場で科学技術・化学薬品を利用して1年中何度でも生産できると信じ安心している。 
 現代日本人にとって食糧とは、カネで海外で買うか工場で生産するもので田畑で作るものではない。
 現代日本では、食べ物ロスで、餓死者が出ているのに、まだ食べられる食材が大量に捨てられている。
 現代の日本人は、飽食で食べ物を粗末にしている。
 金を粗末に扱えば金に泣かされ、食べ物を粗末にすると食べ物に泣かされる。
 農作物は、自然と神様からの贈り物である。
 日本民族は、天皇・皇室につながる稲神話を信仰し、コメは女性神天照大神(皇室の祖先神)から戴いた食べ物と神聖視し、そして自然神(産土神)の田畑で農作物を作り、川や海で魚介類を山野で獣・山菜・果物などを貰って命を繋いでいると考えていた。
 昔の日本人は、「コメを粗末にすると目が潰れる」を信じていた。
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 2018年8月15日 産経WEST「弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡
 DNA分析が行われる青谷上寺地遺跡出土の人骨(鳥取県埋蔵文化財センター提供)
 鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。
 弥生後期は、大陸や朝鮮半島からの渡来人と在来の縄文人の混血が進んだ時期と考えられるが、人骨の出土例は全国的にも少なく、DNAが本格的に分析されるのは今回が初めて。日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。
 研究には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)も連携する。同センターが保管する頭蓋骨など人骨約40点からサンプルを採取。ミトコンドリアDNAを分析して塩基配列の特徴を調べ、世界のヒト集団の特徴と比較し、同遺跡の弥生人のルーツをたどる。
 また、血縁関係・親族構造など集落内での人と人のつながりや、髪や瞳の色、直毛か、毛深いかといった身体的特徴の解明も試みる。最終的な研究成果は、今年度末に発表される予定だ。
 低湿地にある同遺跡は、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことなどから、保存状態の良い遺物が多数出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨(せいさん)な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。
 「魏志倭人伝」「後漢書」などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。同センターでは「大量殺戮(さつりく)の謎にせまれれば、大きな成果となる。『倭国乱』で何が起きたかを示す、唯一の痕跡になる可能性がある」と話している。」
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 横浜市歴史博物館
 弥生の”いくさ”と環濠集落 -大塚・歳勝土遺跡の時代-
人が跳び越えられないほどの幅と深さをもつ溝。その溝によってカシューナッツのような形に囲まれた弥生時代の集落の跡。そして、この集落に住んだ人々の方形周溝墓といわれる墓の跡。
 横浜市歴史博物館に隣接する国指定史跡大塚・歳勝土遺跡は、横浜を代表する弥生時代 の遺跡であり、また日本を代表する環濠集落と墓地の遺跡の一つです。
 横浜市歴史博物館では、常設展示室において、この大塚・歳勝土遺跡を中心とした市域の弥生時代の生活について展示しています。また遺跡は、弥生時代の環濠集落と墓地の姿を実感できる歴史公園として整備し、広く市民に公開するとともに、博物館と一体的に活用していく計画です。大塚・歳勝土遺跡は、横浜市歴史博物館の活動の中心になる遺跡といえます。
 開館記念特別展では、大塚・歳勝土遺跡のような環濠集落、及び大塚・歳勝土遺跡が形成された「弥生時代」に光をあてていきます。
 大塚・歳勝土遺跡のような環濠集落が日本列島の各地に形成された時代は、どのような時代であったのでしょうか。列島に水田稲作が導入され、文明社会へと成熟をはじめる時代であったことは確かです。しかし、決して「平和」な時代ではありませんでした。普通のムラびとたちが武器を手にとり、傷つけあい、殺しあうことをはじめた時代でもあったのです。ムラとムラとの「いくさ」のなか、環濠集落が出現し、やがて「クニ」が 誕生していくことになります。
 特別展では、このような激動の時代-「弥生時代」の特徴の一端を、朝鮮半島とのつな がりをふまえながら描き出していきます。
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 守山市教育委員会事務局
 文化財保護課
 守山市吉身二丁目5-22
 077-582-1156
 歴史のまち 守山
 巨大集落
 1.弥生時代後期の巨大集落
 伊勢遺跡は、東西方向がJR琵琶湖線のすぐ西側から阿村町東端まで、南北方向は栗東市立大宝東小学校から日本バイリーン南側までの範囲に広がり、面積は約30㌶です。弥生時代後期の集落としては佐賀県吉野ヶ里遺跡奈良県唐古・鍵遺跡などと並んで国内最大級の遺跡です。
 近畿地方の集落遺跡は、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散居住することが特徴で、後期になって伊勢遺跡のように巨大化する集落は稀です。?
 2.弥生の国の中心部を考える遺跡
 伊勢遺跡は、紀元140年~180年頃にあったという倭国大乱の時代に最盛期を迎える遺跡です。
 中国の書物である『三国志魏志倭人伝には当時、列島内には30ほどクニがあり、中国に物資を献上し外交を行っていましたが、140年頃から180年頃にかけて国内で大乱があり、その後、卑弥呼が共立されて女王になったとの記録があります。
 伊勢遺跡で発見された大型建物は、卑弥呼共立直前の建物であり、ここに近江を代表するクニの中心部があって、様々な政治的儀式やまつりごとが行われていたと考えられています。魏志倭人伝には卑弥呼の住まいには「居処、宮殿、楼観、城柵」などの施設があると記されていますが、伊勢遺跡は倭人伝に記された卑弥呼の住まいを彷彿とさせます。
 伊勢遺跡は国の中枢部の構造を探ることのできる遺跡として高い評価を受けています。
 3.国の成り立ちを探る遺跡群
 伊勢遺跡の西約1.7kmには栗東市下鈎遺跡があり、弥生時代後期の棟持柱をもつ大型建物が二棟発見されています。二つの建物は独立棟持柱をもつ大型建物です。下鈎遺跡では銅鏃や銅釧、銅滴などが出土していて青銅器を生産していた遺跡と考えられています。
 伊勢遺跡から北西約2km離れた守山市下長遺跡は弥生時代末から古墳時代前期に発達する遺跡です。
 下長遺跡でも弥生時代末の独立棟持柱をもつ大型建物が1棟みつかっています。下長遺跡では古墳時代前期に首長居館が造営され、儀仗などの威儀具が出土しており、古墳時代の王がいたと推定されています。
 川跡からは準構造船が出土しているほか、全国各地の土器が見つかっています。琵琶湖や川を利用して遠隔地と交流していたことが想像されます。
 伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡の遺跡群は国の成り立ちや、強大な権力をもつ王の誕生を探ることのできる貴重な遺跡群と言えるでしょう。?
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 みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」
 みやこの「こと(歴史・あゆみ)」
 第二編 先史・原史
 第三章 弥生時代
 第一節 弥生時代概説
 四 クニの発生と展開
 倭国大乱と卑弥呼
 後期になると、『後漢書東夷伝』で「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、歴年主(あるじ)無し。」と伝えられるように、二世紀後半には各クニの間で争乱が激しくなった。
 『三国志』の『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(また)男子を以って王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰ふ。鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑わす。………卑弥呼死するを以って大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人。」と記録されており、倭国の大乱を経て三世紀前半に共立されたのが邪馬台(やまたい)国の卑弥呼であった。このころ倭の国は三〇国あまりと記されてあり、紀元前一世紀の段階からクニの統合が進んでいたことが分かる。
 更に、卑弥呼が死亡した際に「径百余歩」の墳墓が作られたということは、弥生時代後期後半には埋葬方法が特定集団墓から更に一歩抜け出て、特定個人墓に移行していったことを裏付けている。
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 城びと 公益財団法人日本城郭協会 公認
 2019/06/17
 超入門! お城セミナー
 第70回【歴史】濠で囲まれた古代の城「環濠集落」ってどんな施設なの?
 縄文末期〜弥生時代の集落である板付遺跡(福岡県)。集落のまわりには壕がめぐらされている(福岡市提供)
 南北朝時代に造られた環濠集落・姉川城(佐賀県)。集落全体に濠をめぐらせる防御方法は、佐賀平野独自のものだ(国土地理院提供)
 弥生時代の大規模集落である吉野ヶ里遺跡。村全体を囲む壕の他に、祭事や政治を行う中枢部を守るための壕も築かれていた
 弥生時代の集落遺跡・唐古・鍵遺跡では楼閣風建物の他に、大型建物の柱や環濠が復元されている
 室町時代には現在の姿に形成されていた稗田の環濠集落。外郭を濠で、集落内を道に幾重にも折れをつけることで守っている(国土地理院提供)
 稗田集落の環濠。『古事記』に携わった稗田阿礼(ひえだのあれ)の出身地と言われており、集落の入口には稗田阿礼を祀る神社が建っている
 第70回は、古代の人が造った城がテーマ。
 一般的に城というと、中世山城や近世城郭が思い浮かびますが、実は古代にも濠で囲まれて防御を固めた“城”が存在していました。今回は、そんな古代の城・環濠集落について解説します!
 古代のムラも濠で守られていた!
 今回は、日本の城の起源といわれる、古代のムラにあった城のお話です。「古代人と城って何だかピンとこないけど…」と思う人も多いでしょう。という訳で、まずは城とは何か? をおさらい。──城とは、軍事的防御施設です。外敵から身を守るために工夫を凝らした、戦うための施設。つまり、争いごとのある社会でなければ発生しません。
 ということで、大陸から稲作文化が伝えられて集住生活がはじまり、水や土地・食糧などの奪い合いから、ムラとムラの間で戦いが行われるようになった弥生時代に、「環濠集落」が登場するのです。この新しい集落の形が日本における城の起源とされますが、これは日本オリジナルではなく、稲作と一緒に大陸から伝わったもののようです。さてさて、古代の日本人が築いた城とは、一体どのような構造だったのでしょうか。
 環濠集落の構造は字のごとく、集落の周りに濠(ほり)をめぐらせたもの。ちなみに、水堀と空堀で「濠」「壕」と漢字を使い分けることもありますが、一般的には「環濠」と書きます。大まかに、水田に近い平野では用水路と排水を兼ねた水堀、台地や高地では空堀となっていたようです。
 当初の環濠集落は、堀で囲っただけのシンプルな構造だったでしょうが、次第に防御の工夫も凝らされていきます。土塁に柵を設置したり、物見や横矢用に一部を張り出させたり、朝日遺跡(愛知県)や大塚遺跡(神奈川県)に見られるように逆茂木でバリケードを作ったり。これらを超えて侵入しようとする敵には、弓矢や石礫(いしつぶて)などで攻撃したのです。これらは中世城郭以降の日本の城と共通するものばかりですが、弥生時代の土塁の多くは環濠の外側に築かれたようで、これは後の城とは逆の構造。これは、土塁に柵を設置して壕との高低差を大きくし、壕内に侵入しにくくするためとみられています。
 全国に残る環濠集落
 こうして環濠集落は稲作とともに日本全国に広がりますが、ムラのリーダーの力が強大になっていくにつれて、集落の規模も大きくなっていきました。やがて「クニ」ができ、その支配者はムラを出て特別な場所に拠点を移すようになります。そして古墳時代には、力を持った豪族は濠で囲まれた自分の館(豪族居館)を持つようになり、環濠集落はほとんど消滅してしまったのです。
 在りし日の環濠集落の姿は、遺跡が物語ってくれます。物見櫓や祭殿があった吉野ヶ里遺跡佐賀県)、楼閣風建物が復元されている唐古・鍵遺跡(奈良県)などは有名ですね。他にも、3重の環濠があった伊場遺跡(静岡県)、多い場所で8〜9重もの濠があった下之郷遺跡(滋賀県)、大きな祭殿があった池上・曽根遺跡(大阪府)、といった大規模な遺跡もあります。
 遺跡では物足りない人は、現存遺構へ。実は日本全国にたくさんあるのです。ただし、道幅が狭くて車の進入ができなかったり、完全な住宅街だったりと、見学自体が困難な上に住民にも知られていないような所も多いとか。
 比較的整備され、案内板などがあって観光や見学にも対応している環濠集落は奈良県に多く、有名なのは大和郡山市の稗田(ひえだ)の環濠集落。この集落が造られた時期は不明ですが、室町時代には現在の姿が完成していたそう。喰い違いや斜めの道、行き止まりなど防御設備の数々が完存していて、歩くと何度も討死気分が味わえます。美しい環濠の風景は奈良県の景観遺産にも指定されています(詳細は「お城紀行」の大和郡山編で説明されています)。
 その他にも奈良県には、若槻環濠集落(大和郡山市)、番条環濠集落(同)、保津環濠集落(田原本町)などが、またお寺を中心とした寺内町の環濠集落として有名な今井環濠集落(橿原市)、三重県にも一身田寺内町(津市)があります。
 お城ファンなら、やっぱり城の起源はしっかりチェックしたいところ。意外に身近にあるかもしれないムラの城・環濠集落も、ぜひ訪れてみて下さいね!
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 倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。
 概要
 女王国ではもともと男子を王としていたが70〜80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の正史『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』「東夷伝」に記述されている。ただし、三国志は、単に「乱」であり、「大乱」でない点に注意が必要である。
 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人魏志倭人伝
 「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
 其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。
 『後漢書』卷85 東夷列傳第75
 「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
 桓帝霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
 以下の3正史の記述は上記2書の単なる引き写しである。
 『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭
 『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國
 『北史』卷94 列傳第82 倭國
 三国志後漢書も、争乱の時期を2世紀後半としている。
 議論
 上記両書に若干の差異があることから、その解釈をめぐり多くの議論が行われている。
 男子王
 『後漢書東夷伝に、永初元年(107年)、倭国王帥升後漢へ使者を出したとあるが、帥升以前に倭国王の存在が史書に見えないことから、中国王朝が公認した初の倭国王帥升だったとし、魏志倭人伝の記述は、帥升に始まる倭国王の系統が70 - 80年存続したことを表す、とする議論がある[誰?]。これによれば、107年頃から帥升の王統が開始し、70 - 80年後の180年 - 190年頃に王統が断絶したことになる。ただし、魏志倭人伝に見える男子王を帥升に同定することに否定的な意見もある。また桓帝霊帝(146年 - 189年)の倭の大乱から逆算すると66年頃には倭国王が居たこととなり、帥升が初の倭国王だったことに疑問が生じる。
 原因
 桓帝霊帝(146年 - 189年)の倭国大乱は記紀に当てはめると成務天皇から仲哀天皇の統治の時期にあたる。
 九州においては熊襲が勢力を持ち、景行天皇やその息子のヤマトタケルの征伐が日本では有名である。これが戦前では日本における倭国大乱だと考えられていた。
戦後になると大乱の原因としてまず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争いであるとし、弥生時代倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定されるようになる。しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。『後漢書』の「何年も主がいなかった」とする記述は、上記の議論を裏付けている。
 しかし邪馬台国以前に「倭国王」のもとでの政治的統合があったとする説には異論も多い。『後漢書東夷伝に出てくる帥升にしても、倭国の統一的な王ではなく、一地方政権の王に過ぎなかったとも見える。大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いというよりは、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある。『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったとされる。いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落が「倭国大乱」とどう関連するかが、大乱の性格を知る上では重要となると見られる。
 また、弥生系渡来集団が九州から畿内への拡大過程で各地に先住していた縄文系在来集団との間で摩擦、すなわち倭国大乱が起き、渡来系集団は在来集団の居る各地で防御のための環濠集落や高地性集落を作ったとの説(卑弥呼の国:冨川光雄など)もある。この説によれば、弥生系渡来集団が近畿地方にまで到達した際に両集団が協定して倭国連合政権を作り、卑弥呼邪馬台国女王をその連合政権の王に推戴して倭国大乱は治まったとする。
 時期
 魏志倭人伝は、男子王の系統が70 - 80年経過した後に争乱が起こったとしているが、『後漢書』は、桓帝霊帝の間(146年 - 189年)に大乱が起こったとしている。両者の時期が一致するかは、魏志倭人伝において男子王の開始時期がいつ頃に想定されているかによることとなる。上記「男子王」に見られる様に、男子王の系統が帥升に始まったとすれば、大乱発生時期が180 - 190年頃となり、『後漢書』のいう時期と重複する。なお、後世の『梁書』には、「霊帝光和年中」(178年 - 184年)とより限定的な記述もあるが、これについては卑弥呼の即位した年を示すものではないかと考えられている。
 規模
 倭国大乱がどの程度の規模のものだったかについては、諸説分かれている。九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡で刀傷のある人骨などが発掘されている。それらの傷が国同士の戦闘を示すといえるかは定かではないが、人間を殺傷する行為そのものは起きていたことがわかる。それらの例から倭国大乱は北九州のみあるいは出雲と畿内のみ、あるいは北九州から畿内山陰にかけてだったとする説がある。瀬戸内海地域から2世紀後半頃の高地性集落遺跡(山頂等に営まれた城塞的な集落の遺跡)が数例あることを根拠に、北九州から畿内山陰だけでなく瀬戸内海沿岸もそうであったとする説もある。
 意義
 倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、倭国大乱と3世紀前半の卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある。
 否定意見
 戦前は仲哀天皇の時代でも熊襲の反乱は続き、仲哀天皇の統治の時期には九州に入る事もままならずに、数年は山口の穴門豊浦宮に滞在し、その後にようやく筑紫橿日宮に入り、そこで熊襲の矢で仲哀天皇は殺されたと言う記述もある。これが戦前では日本における倭国大乱だと考えられていた。 戦後になるとGHQにより神功皇后の存在は政治的な理由から否定されてしまい、『日本書紀』『古事記』において倭国大乱を想起させる記述が見られないと主張され、倭国大乱の存在を否定する意見もある[要出典]が、記紀はむしろ皇位継承をめぐる内乱などが何度もあったとしており、格別に齟齬をきたすものではない。また安本美典卑弥呼天照大神説をとっており、天照と素戔嗚の争いが倭国大乱の反映である可能性があるという。また、中国文献が倭に悪いイメージを与える目的で大乱の記事を載せたとする意見もある[要出典]が、正当な史料批判とはいえない。
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 弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。一方放射性炭素年代測定や年輪年代学の技術は充分に確立されたとはいえないことから、開始期の繰り上げに根強い反対も存在する。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。
 倭国大乱
 魏志倭人伝には、卑弥呼邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。
 近年、畿内弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。
 ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
 邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。倭国大乱の原因については、古事記日本書紀などの神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。
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倭国乱とは何か―「クニ」への胎動 (石野博信討論集)