🗾57〕─3─アイヌ副教材。アイヌ民族と日本民族は家族・親戚か他人・別人か?~No.184 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族は、縄文人が数多くの弥生系帰化人や他系渡来人など雑多と見境なく乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族であった。
 日本民族には、女性の操は薄かった。 
 日本民族と、琉球人やアイヌ民族との乱婚は起きていない。
 日本神道アイヌ宗教は似たところはあるが、その他、日本文明・日本文化とアイヌ文化、日本語とアイヌ語、生活の風習・習慣・慣習など多方面で似たところがない。
 最大の違いは、稲神話を根本に持っているか否かである。
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 アイヌアイヌ語: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны)は、もともと北海道のみならず、北は樺太、北東の千島列島、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族である。
 アイヌは生業から得られる毛皮や海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行うなど、永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。そして、和人とも交易を行い米などの食料や漆器、木綿、鉄器などを入手していた。
 19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が列強の政府によって各国に編入され、19世紀中頃にはアイヌも同様の運命をたどった。すなわち1855年日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、日本国民またはロシア国民となった。
 アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する。母語アイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる。(かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。
 1878年明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。
 現在、アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族」であり、日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住しているが、その正確な数はわかっていない。
 日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日にアイヌ民族を「 日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族 」と認定して支援を行うアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律を制定した。
 諸説
 自然人類学の中には(特に日本人(和人)の学者の中には)「アイヌも本土日本人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ」とする学者もいた[誰?]。
 また日本人(和人)の側に立って日本人(和人)を研究する研究者であり、「南方系の縄文人、北方系の弥生人」という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、「アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立した」と主張した(2009年)。また「アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫」と主張した。
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 2021年2月号 正論「ウソ、ねつ造満載の『アイヌ』副教材
 的場光昭
 年間来場者100万人を目指すアイヌ文化施設『ウポポイ』(民族共生象徴空間)が令和2年7月、北海道白老町にオープンするなど、アイヌへの関心が高まっている。一方で、北海道では10年以上前から使われているアイヌの副教材の記載に、多くの誤りやウソが盛り込まれていることが以前から問題視されてきた。
 北海道の学校現場で流通しているアイヌの副教材『アイヌ民族:歴史と現在』を発行しているのは、ウポポイの運営主体でもある『公益財団法人アイヌ民族文化財団』だある。財団の副理事長がウポポイの運営委員長を務めており、また財団の常勤理事が国立アイヌ民族博物館の館長なのだ。この財団の運営予算は、国土交通省が中心となり文部科学省との合計で2分の1を、北海道が残額を負担している。問題の副教材も、教科書ではないため文科省の検定は受けていない上に、国交省が主導を握る形の団体によって発行されているのだ。
 副教材は小・中学生用と教師用の3種類があり、それが道内の小中学生と教師に、また全国の小中学校にも各一冊が配られるという膨大な予算を使った事業である。副教材にみられる明らかな誤りを含む問題記述について、北海道議会自民党議員団は訂正を求めてきたが、財団はこの要求を拒否し、平成30年の改訂版でも内容の修正はなされていない。問題の記述は我々の祖先を貶(おとし)めるものであり、子供たちへの悪影響は計り知れない。そこで、本稿では平成30年の内容をわかりやすく検証していきたい。
 『一発退場』のえとき捏造
 写真1は中学生用副教材22ページに掲載されているもので、説明には『江別に強制移住させられた樺太アイヌ人たち』とある。出典は巻末に『北海道大学図書館』とだけある。……
 ここに見られるように、朝日新聞本多勝一元記者が南京事件の報道などで行ったように写真のキャプション(えとき)を書き換えて、『帰化を望み』、『篤く之を保護』を『強制移住』と反対の意味にするような大ウソが副教材に盛り込まれている。この一事だけでも、各市町村教委はこの副教材の配布をただちに中止させ、さらに回収・廃棄されるべきではないのか。
 また財団が関わり全道の博物館や資料館、観光施設に頒布(はんぷ)されている冊子はもちろん、先の『ウポポイ』にある国立アイヌ民族博物館でも同様の展示がなされている。副教材とウポポイには密接な関連があるのだ。
 本多勝一元記者は『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』(旭川人権擁護委員連合会、昭和46年)に寄稿した論文の結論〝とるべき道〟で『少数民族は、(中略)社会主義社会でこそ真に幸福が約束されている』『アイヌが真に幸福になる道は、日本が社会主義国になることであろう』などと書いている。時あたかも日中国交回復(1972年)の1年前からアイヌを利用した対日革命工作が行われ、本多氏が南京で使った写真のえときを書き換える手法が副教材に継承されていたのだ。
 問題の多い副教材編集者たち
 小学生用・中学生用の編集執筆委員には問題のある人物も含まれている。
 委員長を務める阿部一司・公益社団法人北海道アイヌ協会副理事長(令和2年、副理事長を退任)は、前任の副理事長から組織運営上の不正を摘発され、また令和2年の札幌市雪まつり補助金を親族の会社に回したとして札幌アイヌ協会内部で告発されている。
 阿部氏は北朝鮮金日成の政治思想の根幹チュチェ(主体)思想を世界に広めよと2005年に組織された『特定非営利活動法人21世紀自主フォーラム』の世話人副代表でもあり、先のアイヌ民族文化財団の理事でもある。こうした人物が副教材を指導しているのだ。
 委員の1人、石黒文紀・元北海道釧路明輝高校非常勤講師は、記載内容の変更に迫られた副教材改善反対の中心メンバーでる。自身のブログで、『危惧していた全面見直し方針が撤回と決まれば、まずはひと安心です』とコメントしている。間違いが正されないことに安心だ、などというのは教育者として失格である。
 また石黒氏はオーストラリア国立大学テッサ・モーリス=スズキ名誉教授を札幌に招いて講演会を開催して司会を務めている。テ氏は慰安婦問題や在日朝鮮人帰還事業で日本を非難している反日外国人学者で、美瑛(びえい)のニセ人骨ニセ墓穴事件(拙著『反日石碑テロと闘い』展転社参照)の中心人物である殿平善彦氏が主導する募金活動の呼びかけ人にまでなっている。テ氏は講演で、アイヌへの補償や優遇はオーストラリアの原住民アボリジニのようでなければならないとの見解を示している。アボリジニは20世紀中頃まで白人には人間と認められず狩猟の対象にすらされた人たちで、これと過保護政策で『甘やかされ』、かえって自立できないアイヌを同列に扱えというのである。
 昔から日本列島にいたのか
 平成20(2008)年のアイヌ先住民族国会決議(アイヌ民族先住民族とすることを求める決議)は、考古学や古文献の研究成果、それまで先人が苦労して開拓した北海道の歴史を全否定したものだった。大航海時代以降に白人は新大陸で先住民族を虐殺し奴隷制度をつくった歴史があるが、アイヌに対しても同様の差別・弾圧の歴史があったというのだ。しかし日本では、オーストラリアやカナダのような先住民族に対する虐殺行為や人種差別はなかった。そもそもアイヌ先住民族だったのか、については後述したい。
 さて、小学校用の副教材では、『日本には和人だけが暮らしてきたわけではなく、アイヌ民族も昔から日本列島に住んできました』とされている。
 『日本書紀』にある蝦夷(エミシ)は陸奧(現在の福島・宮城・岩手・青森)に住む諸部族もしくは豪族を表すもので、特別にアイヌを表すものではない。北海道に蝦夷(エゾ)島の名を与えたのは随分後のことだ。
 江戸期には津軽半島蝦夷が住んでおりこれを日本人に編入したという記録があるが、最近のDNA分析結果によればこの蝦夷アイヌではないことは明らかである。副教材は蝦夷(えみし)の住んでいたところも蝦夷(エゾ=アイヌ)が先住していたと主張したいのだろうが、教材の内容としては不適切なものである。
 また、図1は小・中の両副教材に採用されている東北のアイヌ語地名地図である。青森・秋田・岩手県に200以上もの印をつけてアイヌ語地名だとしている。
 大正時代にアイヌ語を研究した金田一京助・東京帝大教授が提唱した、漢字の『別』や『内』や『幌』がアイヌ語地名だとして、それを北海道曹達社長だった山田秀三氏が道外に拡大解釈したものが広く流布(るふ)した。自身がアイヌアイヌ語学者の知里真志保北大教授は山田氏が主催した講演会(講演録の写しは私の手もとにある)で遠回しにこれを否定している。
 また、『シンポジウムアイヌ』(北大図書刊行会、昭和47年)において北海道の考古学の第一人者の吉崎晶一、河野本道両氏は以下のような理由で、山田秀三説の矛盾や理論飛躍を指摘し明確に否定している。
 『その地名がアイヌ語によって解釈できるということ、近世アイヌが実際そこへ行ってアイヌ語で名前をつけたか別』『アイヌの成立は鎌倉時代以降だから、つけられた時期は鎌倉をさかのぼらない。それ以前はアイヌがいないのだから単にその地名がアイヌ語で解釈できるということだ。そして、アイヌ語は日本でかつて使われた古い言葉の面影を残しているのだから、地名がアイヌ語で解釈出来たとして不思議はない』『日本書紀蝦夷征伐に出てくるシリベシ、トピウ、イブリサヘ、シシリコなんていうのは、古すぎてアイヌ語とは言えない』
 金田一京助山田秀三両氏は語呂合わせやこじ付けであったことがわかる。いわば空想の産物だと言えよう。
 北海道外の方も、学校教育で『アイヌは広く東~北日本に分布しており、中央政府に追われて次第に北に追われて北海道だけに残った』ように学校で習った記憶があるかもしれない。しかし現実には、本州北部に昔、アイヌが定住していたという歴史はないのだ。
 では北海道のアイヌは、有史以前から住んでいたのだろうか。それともどこか別のところから来たのだろうか。
 先住民ではない証拠
 『縄文時代人は、アイヌ民族の祖先と言われています』(小学生用)、『擦文(さつもん)文化人はアイヌ民族の祖先』(中学生用)とされているが、全くのウソである。とはいえ、学校教育の結果そう思っている方も多いであろうから、ていねいに説明したい。
 北海道では気温が低く明治になるまで稲作ができなかったため、縄文→続縄文→擦文文化期(オホーツク沿岸ではオホーツク文化期)と続き、アイヌ文化は鎌倉時代以降のことである。続縄文・擦文あるいはオホーツク文化の墓制(墓の形)、住居、威信財(朝廷と結びつきを示す刀剣)、土器(文字が刻まれた須恵器)といった特徴はアイヌ文化にみられず、古墳文化をもつ擦文文化人と捨て墓のアイヌに文化的つながりは全くみられない。文化的に、縄文~擦文文化人とアイヌには断絶があるのだ。
 和人がつくった函館船魂神社の創建は1135年で、アイヌが来たといわれる13世紀(鎌倉時代)の100年も前である。そもそもDNA分析でアイヌ古人骨には、縄文人には全く見られない東シベリア、沿海州樺太方面の要素が高頻度で含まれている。実はアイヌ鎌倉時代以降、北方の東シベリアから樺太を経て北海道に侵入し、徐々に擦文文化人を駆逐した『侵略者』なのである。それゆえ、1,000年前を考えればアイヌはまだ北海道にいなかったわけで、『先住民族』とは言えないことも明らかであろう。
 なお戦前すでに、アイヌ人の歌人違星(いぼし)北斗は、戦いや日常生活の細かいことまで歌い上げるユーカラアイヌ叙事詩)に、道内で発掘される擦文土器への言及がないことから『アイヌ先住民族ではない』と明記しているのだ(昭和2年12月19日付『小樽新聞』)。
 以上の点については令和3年1月に刊行予定の拙著『捏造と反日の館〝ウポポイ〟を斬る』(展転社)に『先住民族を侵略したアイヌ』と1章を割いて詳述しやので参照ねがえればと思う。
 『旧土人』を差別したのか
 小学校用の副教材では『アイヌ民族を「旧土人」と呼び、差別し続けました』とされている。小学校4年性から使われる副教材でそこまでの内容を盛り込むのはいかがなものかと思われるが、それはおくとして、アイヌは本当に差別され続けていたのだろうか。
 明治32(1899)年に制定された『北海道旧土人保護法』は、平成9年まで効力を持っていた。『土人』あるいは『旧土人』という言葉自体が差別語であり法律も差別法だと、10年ほど前にアイヌ団体や在日朝鮮人、そして鈴木宗男今津寛衆議院議員(当時)によって盛んに宣伝され攻撃されたことがある。
 私が本誌や拙著『「アイヌ先住民族」その真実』(展転社)などで指摘したように、昭和20年代後半までは『土人』は差別語ではなく『その土地に住んでいる人』という意味だった。幕末にすでに北海道に住んでいた和人8万6,000人とアイヌ人1万5,000人(松浦武四郎安政人別による)、そして出稼ぎの人別帳に載らない多くの被差別部落民や無宿者約3万5,000人を併せて、明治以降に北海道へ渡った人たちと区別して『土人』と呼んだのである。特にさらなる保護の対象となるアイヌを和人の土人と区別する意味で『旧土人』と定めたものであり、差別ではなかったことを説いて、大方の同意を得ることができていた。
 そもそも北海道旧土人保護法の制定を求めた帝国議会に陳情したのはアイヌの人々であり、さらにその廃止に最後まで反対したのも北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)なのである。アイヌ人の人たちが中心になって出版した『アイヌ史』(北海道ウタリ協会)や『コタンの痕跡』(旭川人権擁護委員連合会)さらには『北海道旧土人保護法沿革史』(北海道庁)にはっきりとその経緯が書かれている。
 朝日新聞の菅原幸助記者による『現代のアイヌ』(現文社、昭和41年)にすら、『アイヌ民族の滅亡を心配した政府は明治32年、旧土人保護法という法律をつくって、アイヌの保護にのりだした。保護法は、農耕を望むものには一等地一戸当たり5ヘクタール、農具を貸与、家屋も建ててやる。海で漁業を営むものには漁業権を認め、青少年で学問を志すものには奨学金を、という至れり尽くせりの法律であった』と絶賛されているほどである。
 明治時代の当局に、アイヌを差別する意識がなかったことが読みとれるはずだ。ましてや、白人がアボリジニアメリカ・インディアンに対して行ったような虐待などは、日本では行われていなかったことは明らかだろう。

 こうしてみると、副教材はアイヌ差別や虐待などを捏造して日本の子供たちに加害者意識を植え付け、アイヌに対する贖罪(しょくざい)としてのアイヌ利権を認めさせるという意図のものに書かれたものではないかと思えてくる。
 この副教材はウソや捏造を満載した差別自慢・不幸自慢・被害自慢の宣伝誌なのである。これだけ問題のある副教材を、北海道ではほぼすべての小中学生が購入させられているのである。発行元のアイヌ民族文化財団も問題であるが、この副教材の使用を看過している各市町村教委の怠慢も、問われねばなるまい。」
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 アイヌ
 歴史
 「アイヌの歴史」および「アイヌ史の時代区分」を参照
 人類学的には日本列島の縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集の続縄文文化が継続。オホーツク人と緊張状態にあった続縄文人からの要請を受け、王権の介入(助け)(阿倍比羅夫蝦夷征討)が見られた7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られ、これをきっかけに擦文文化が始まる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。その後、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取してアイヌ文化は生まれたと日本学術会議はみる。擦文文化やオホーツク文化アイヌ文化に影響を与えている。遅くとも平安時代末ころから道南に和人の定着が始まり、蝦夷管領安東氏の存在した13~14世紀になると、和人による農耕が盛んになる。

 身体的特徴と遺伝子
 身体的特徴
 アイノイド
 Married Aino couple (The women with a tattoed beard) (10795496526).jpg
 アイヌ旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。
 アイヌは周囲のモンゴロイドと大きく異なるコーカソイドに似た形質を持っており、人種的にはアイノイド(Ainoid)と呼ばれる。大和民族(和人)などのモンゴロイドと比較して、北海道アイヌは次のような特徴をもつ。
 皮膚の色は、黄色みの乏しい明褐色
 新生児の仙骨部の皮膚の色素斑(児斑、蒙古斑)がまれ(11%)
 体毛が比較的太く、長い
 頭毛が波状を呈し、断面形が扁平
 脳頭蓋の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76.6%)
 顔高が低く、頬骨弓幅が広い
 眉稜、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼は二重瞼が多く、蒙古ひだが少ない(5%)
 耳垂が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんど(95%)
 耳垢は湿型が非常に多い(87%)
 歯の咬合型式は鉗子状が多い
 身長は和人と比べると低く、体の比例は上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い
 手の指紋は渦状紋が比較的少なく蹄状紋が多い
 以上に挙げた特徴は、北海道アイヌ樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向がある。
 頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、ネグロイドコーカソイド、オーストラロイドなどとの共通性が認められるが、様々な遺伝子の研究により、アイヌは遺伝的にこれらの人種とは隔たりが長く、東アジアのモンゴロイドと系統的に最も近いことがわかっている。アイヌモンゴロイドでありながら他人種に似たような形質的特徴を示すのは、アイヌが新モンゴロイドの固有派生形質を獲得していない、すなわち現生人類の祖先形質を残しているためである。形質的には古モンゴロイド(アイノイド)に属すとされ、また縄文人もアイノイドに属していたと考えられる。
 ただし、明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。これまでアイヌの起源論については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、遺伝的にはコーカソイドではなく、モンゴロイドの系統に属することが判明している。
 かつてアイヌコーカソイドではないかと考えられていたことがあるように、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究[42]もあるものの、形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている北東アジアと日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。
 遺伝子調査
 「ハプログループD1a2a (Y染色体)」および「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」を参照
 近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人で、次いで和人/本土日本人であり、本土日本人とアイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。
 アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる。
 アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループD1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。ハプログループD1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2が2/16=12.5%と報告されている。
 HLA IおよびHLA II遺伝子、ならびにHLA-A、-B、および-DRB1遺伝子頻度の遺伝分析では、アイヌアメリカ大陸の先住民族、特にトリンギット島などの太平洋岸北西部沿岸の人口に関連性が高いとされた。アイヌといくつかのネイティブアメリカングループの主な祖先は、シベリア南部の旧石器時代のグループにさかのぼることができると示唆されている。ゲノムワイドなSNPデータ比較を使用した遺伝学的研究により、アイヌには独特の特徴があり、現代の他の東ユーラシア人とは異なる部分があり、その違いは、ヨーロッパ人において顔面の特徴を決定づける遺伝子だということがわかった。遺伝子系統図でニグロイドからコーカソイドモンゴロイドと離れていくことから、アイヌの特徴はニグロイドに近いとも言える。
 アイヌ旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。

 北海道縄文人集団
 母系の系統を表すミトコンドリアDNAの系統解析から、北海道の縄文時代人・続縄文時代人の母系系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団の母系系統の頻度分布と大きく異なることがわかっている。また、坂上田村麻呂による蝦夷征討以前の東北地方の古墳時代人には、北海道の縄文人・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察されることから、東北地方の縄文人も北海道の縄文人・続縄文人と同じ系統に属する可能性が指摘された。これを受けて東北地方縄文時代人のDNAと北海道縄文時代人のDNAが比較され、北日本縄文人の遺伝子型の中心となっているのはハプログループN9bおよびM7aであることがわかった。
 北海道縄文人集団には、N9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている。このうち、N9bの頻度分布は64.8%と非常に高い。N9bはアムール川下流域の先住民に高頻度で保持されている[54]。また、D10はアムール川下流域の先住民ウリチにみられる。G1bは、主に北東アジアにみられるハプログループGのサブグループで、カムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない。
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 アイヌの歴史とは、日本列島の北海道島・千島列島および樺太島南部の先住民族の一つであるアイヌの歴史である。
 序論
 アイヌは形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後には日本本土と異なる歴史体形を歩んだ人々の末裔であると考えられている。「アイヌ」とはアイヌ固有の言語であるアイヌ語で「人間」を意味する。イナウや漆器、捧酒箸を用いた神事、イオマンテ(熊送り)、アットゥシの着用、チセの居住などの「いわゆるアイヌ文化」は12,3世紀ころの成立とされるが、アイヌ文化を成立させたエスニック・グループは、遙か以前から存在し、北海道島を中心とした地域に居住していた点に注意が必要である。詳しくはアイヌ文化を参照。
 アイヌの歴史の始まり
 本州以南においては、縄文時代の晩期に稲作や金属器の使用が伝来し、弥生文化へと移行する。だが稲作は気候が冷涼な津軽海峡以北の地域には伝来せず、北海道以北は紀元前後以降も縄文文化同様に石器を使用し、狩猟、漁猟のかたわらで簡単な農業する生活を営んでいた。この文化形態を続縄文文化と呼ぶ。一方、北海道のオホーツク海沿岸には、5世紀以降より樺太から南下した民族が定着し、オホーツク文化を営んでいた。彼らは現在でも樺太北部に居住する民族・ニブフの祖先と考えられる。やがて続縄文文化は7世紀頃より日本本土の影響を受け擦文文化へと移行する。擦文とは、この時代の土器の特徴である「こすったような文様」に由来する。
 日本本土の平安時代後期ころ、擦文文化は日本本土との交流の活性化を受けて「アイヌ文化」へと変貌していく。アイヌ文化の担い手はオホーツク文化人を北方へ排除し、あるいは同化しつつ11世紀前半には樺太南部、13世紀には千島へも進出、15世紀にはカムチャッカ半島まで活動圏を拡大したと考えられている。アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀までに成立したと考えられているが、アイヌは文字を持たなかったため、文献史料が十分ではなく、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難である。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化やオホーツク文化、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。
 擦文文化からアイヌ文化の生活体系に移るに伴い、土器の製作や使用が廃れ、その代わりに本州から移入された鉄器や漆器が生活用具として定着した。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。また、住居がそれまでのかまどを備えた竪穴式住居から、囲炉裏のみでかまどが排除された掘立柱建物・チセへと変貌していった。
 擦文文化に継承された続縄文時代の土器の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性があると指摘されるが、アイヌ文様は黒竜江流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することは困難である。
 オホーツク海南沿岸で栄えたオホーツク文化には、ヒグマを特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化の遺跡からはこれをうかがわせる遺物は検出されていない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送り(イオマンテ)が、オホーツク文化(今日のニヴフに連なる集団によって担われたと推定されている)に由来する可能性も、示唆されている。
 和人との交易関係
 農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌは魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した(場所請負制および北前船も参照)。江戸時代では武力を背景とした幕府や松前藩による不平等な交易でアイヌは経済的な不利益を蒙った。また和人との関係が増える中で天然痘などの伝染病に罹患し、民族としての衰退を招いたと考えられている。
 続縄文時代や擦文時代の北海道には、粟、稗、黍などの雑穀が小規模ながら栽培され、アイヌ文化成立後も栽培そのものは継続されて特に稗や稗酒は祭祀における神饌として重んじられていた。しかしアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果らしい。
 北方諸民族との交流
 樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った(アイヌ文化を参照)。1264年 には樺太に進出したアイヌ元朝の文献では「骨嵬」と書かれている)とニヴフ(同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた(詳細はモンゴルの樺太侵攻を参照)。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は山丹交易と呼ばれ、江戸時代にはアイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が、「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通していった。
 韓国では『三国遺事』にある新羅の第4代王脱解尼師今の出身地である龍城国をアイヌの部族国家とみて、脱解尼師今をアイヌとみる説がある[
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 縄文人は、日本列島を中心に、南は琉球、北は蝦夷地・樺太北方領土・千島列島、西は朝鮮半島南部に広く分布し、数人乗りの手漕ぎ舟で日本海を主要航路として行き来していた。
 日本海とは縄文人の海であった。
 数万年前、縄文人は舟に乗って南から北へと移住していったのであって、西の半島から或いは北の島々から日本列島に渡ってきたのではない。
 約1000年前に現れたアイヌ人からすれば、縄文人や擦文人先住民族であった。
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 日本民族琉球人・アイヌ人は、同じ縄文人の子孫として兄弟部族である。
 縄文人は、漢族系中国人や韓国人・朝鮮人などとの血がつながらない別種の黄色人種・アジア人である。
 縄文人と血の繋がりがあるのは、長江文明揚子江流域民である。
 漢族系中国人や韓国人・朝鮮人などは、黄河文明黄河流域民の子孫である。
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 アイヌ人は、民族ではなく部族であった。
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 アイヌ人は、13世紀頃にシベリア・沿海州から樺太を経由して蝦夷地(北海道)や北方領土4島などに移り住んだ移民で、先住民であった続縄文人や擦文人・オホーツク人と乱婚して同化させるか先住民を追い出して定住した。
 アイヌ人は、樺太でモンゴルの侵略を撃退した。
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 古アイヌ人の墓は故郷の樺太沿海州に向いて作られている、という説がある。
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 善い日本人は2割、悪い日本人は3割、悪い事はしないが善い事もせず同調圧力・場の空気に主体性なく流れる主体性のない日本人は5割。
 差別を好む日本人は3割、差別が嫌いな日本人は2割、差別に無関心・無興味なないが煽動されやすい日本人は5割。
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 現代日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力は乏しく、その傾向は民族中心神話を科学の常識で否定する高学歴知的エリートに多い。
 そして彼らは西洋礼賛のグローバル人として外国語が話せても、古代からの古典的ヤマト言葉に秘められた言霊を理解しない。
 現代日本人は、アッと驚く新解説の歴史小説が好きだが、地味な歴史の事実は嫌いである。
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 現代日本には、縄文文化弥生文化が遺跡という死んだ残骸としてが観光地化されている。
 縄文文化の源流は、揚子江流域にあった長江文明である。
 現代日本長江文明の痕跡を残しているのは、天皇家・皇室の宮中祭祀のみである。
 現代日本現代日本人に縄文文化弥生文化の神髄を聞いても、意味がない。
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 日本国は古代のヤマト王権時代から、大陸や半島から逃げてきた弱者・敗者民達を無条件で受け入れる避難所・難民支援国であった。
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 日本の家や神社仏閣は、北を背に南向き、太陽(女性神天照大神)に向いてつくられている。
 日本の神話では、女性は太陽であり、天皇家・皇室は太陽の子孫であり、太陽の皇子・巫女である。
 太陽を祀る事ができるのは、神話を根拠として、太陽神=女性神の血を正統に引く直系血族である天皇家・皇室のみである。
 天皇家・皇室を否定する事は、太陽神=女性神を否定する事である。
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