🗾14〕─6─日本人DNA分析で判明。渡来系弥生人は母系女系・X遺伝子、土着系縄文人は父系男系・Y遺伝子。〜No.36 ⑤ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 日本民族は、流れ着いた人々・漂着した人々が乱婚して生まれた血が汚れた混血の雑種民族で、異人種異民族に侵略され占領され支配された事のない、争いを嫌い、平和を好む、穏やかな民族であった。
 日本民族は、人殺し・戦争と強奪・強姦を好む猟奇的な中国人や朝鮮人とは違うのである。
 東アジア人を差別用語の蔑称「イエローモンキー」とするなら、中国人や朝鮮人チンパンジーで、日本民族ボノボ(ピグミー・チンパンジー)である。
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 SciencePortal
 ニュース「縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
 2019.06.25
 縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
 東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。
 現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
 縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
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 KAKEN
 「本土日本人の起源の解明:弥生時代人のゲノム分析研究課題」
 キーワード 日本人の起源 / 弥生時代 / 古人骨DNA / ミトコンドリアゲノム / 核 ゲノム / SNP解析 / ゲノム分析 / 縄文時代 / 旧石器時代 / 人類学 / 古人骨 / 渡来系弥生人
 研究成果の概要
 列島日本人の成立を考えるためには、弥生時代人(渡来系弥生人)とはどのような人たちであったのかを明らかにすること、特に、ゲノム情報からその遺伝的多様性を明らかにすることは不可欠である。しかし、これまで限定的な報告しかない。そこで本研究では、大陸から渡来した人たちが最初に移住したと考えられている北部九州ならびに山口西部地域の弥生時代の複数の遺跡から出土した渡来系弥生人(古人骨)のミトコンドリアゲノムならびに核ゲノムの分析をおこない、渡来系弥生人の遺伝的特徴を明らかにした。
 研究成果の学術的意義や社会的意義
 現代日本人には多層性があり、その多層性は南方由来の在来系縄文人集団に渡来系弥生人集団が混合したためであると考えられている。弥生時代土人骨は地域や時期によって異なる特徴があり、均質な集団ではなかったと考えられる。従って、大陸から渡来した人たちが最初に移住したと考えられている北部九州ならびに山口西部地域の渡来系弥生人の遺伝的背景を明らかにすることは、日本列島人の形成を考える上で意義は大きい。
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 渡来系弥生人の中国江南起源に関する人類学的研究
 研究課題
 キーワード 弥生人 / 渡来人 / 日本人の起源 / 縄文人 / 中国江南地方 / 古人骨 / 江幸地方 / 縄文じん / 江南地方 / 渡来系弥生人 / 稲作の起源 / 時代変化 / 抜歯風習
 研究概要
 北部九州から出土する弥生人骨を大陸からの渡来人、もしくはその遺伝的影響を受けた人々とする見解が定着しつつあるが、彼ら渡来人の源郷についてはいまだ不明点が多い。これまでは華北朝鮮半島を候補地とする研究結果が発表されているが、その背景には人骨資料そのものが大陸北半でしか出土していないという問題が隠されており、人骨の空白地域であった江南地方は、永く論議の対象から外されていた。しかし同地方は稲作を初めとして、考古、人類、民俗など各分野で古代日本との関係が指摘されているので、平成8年度から10年度にかけて、まずこの地域の古人骨資料の探索を行い、人類学的な検討を加えた。
 その結果、まず新石器時代のウトン遺跡から出土した人骨(51体)については、同時代の華北集団とも、また日本の縄文人とも異なる特徴を持つことが判明した。しかし春秋戦国〜漢代の人骨(30体)は、同地方の新石器時代人とは大きく異なり、日本のいわゆる渡来系弥生人にその形態的特徴が酷似することが初めて明らかにされ、同時に、劉王城遺跡出土の春秋時代末期の人骨2体から抽出されたミトコンドリアDNAの塩基配列が、北部九州弥生人のそれと一致することも判明した。また、この劉王城人骨では、2体に上顎両側の側切歯を対象とした風習的抜歯痕が確認され、この風習でも日本の弥生人集団との共通性が認められた。
 全体的に資料数がまだ十分ではなく、多くの検討課題を残すが、関連分野からその重要性を指摘されながら永く資料空白地域として残されていた中国江南地方において今回初めて人類学的な研究が実施され、渡来系弥生人との形態、遺伝子、抜歯風習にわたる共通点が明らかになったことは、今後、日本人の起源論はもとより、考古、民俗など各分野に大きな影響を与えるものと考えられる。平成11年3月に中国人側共同研究者を招聘して研究結果を公表したところ、朝日新聞新華社、読売新聞、産経新聞など各紙に大きく報道され、NHK、フジテレビでも放映されて広く一般の関心を集めた。
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 日本各地の縄文系対弥生系人口比率と日本人成立過程;ミトコンドリアDNAによる
 キーワード 人類学 / ミトコンドリアDNA / 縄文人 / 弥生人 / 飛騨地方 / 縄文 / 弥生 / Dループ領域 / ハプログループ / ひだ人 / 分子・遺伝 / 地理的多様性
 研究概要
 日本人は先住の縄文人(狩猟採集民)と後入り渡来系弥生人(水田稲作民)の混血により成立した。渡来系弥生人は、今から3千~2千5百年前、大陸から朝鮮半島を経て、北九州近辺に入って来た。大陸の先進文化(稲作技術や金属器など)を携えていた。やがて彼らは縄文人を圧倒するようになり、更に日本列島上を東に進んで、3世紀末に畿内大和朝廷を打ち立てた。それでは、縄文人の遺伝子は現代日本人の中にどれほど残っているんだろうか?また、山地や東北地方にはそれが多く残っているのではなかろうか?母方由来で伝わるミトコンドリアDNAの多型を使って、この質問に答えるための基礎理論を開拓し、その答を初めて明らかにした。
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 朝日新聞デジタル>記事
 縄文人直系でなかった西北九州弥生人 ゲノム解析で判明
 米山正寛
 2019年7月23日 13時01分
 下本山岩陰遺跡から出土した人骨の一つ。臼歯を用いてDNAを抽出した(国立科学博物館提供)
 弥生時代に現在の長崎県周辺にいた「西北九州弥生人」は、縄文人直系と考えられていたが、実は渡来系弥生人との間でかなり混血が進んでいたことを、国立科学博物館などのグループが人骨に残された遺伝情報(核ゲノム)を解析して明らかにした。日本人類学会の機関誌Anthropological Science(日本語版)に発表した。
 九州の弥生人は三つに大別される。大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人、鹿児島県付近に住んでいた、頭の前後が極度に短いなどの特徴を持つ南九州弥生人、そして、西北九州弥生人だ。渡来系弥生人が在来の縄文人と交じり合う形で、現代の日本人につながる人々が生じていったとされるが、西北九州弥生人は影響をほとんど受けず、顔の彫りの深さや腕の太さなどに縄文人と共通する特徴を残していたと考えられてきた。
 今回、下本山岩陰遺跡(長崎県佐世保市)から1970年に発掘された約2千年前の西北九州弥生人の男女各1体の人骨を対象に、核ゲノムを構成するDNAの変異に注目して遺伝的特徴を解析した。2体はともに縄文人現代日本人との中間に位置付けられた。縄文人直系と考えられてきた西北九州弥生人も、渡来系弥生人との間で混血が進行していた可能性が高まった。
 解析を進めた科博の篠田謙一・人類研究部長は「この結果をすべての西北九州弥生人に当てはめるのはまだ難しいが、対象となる古人骨を増やせば日本人が成立する過程の詳しいシナリオが分かってくるだろう」と語る。(米山正寛)
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 日本経済新聞
 縄文・弥生人の「混血」 遺伝子解析で裏付け
 総合研究大学院大など発表
 2012年11月1日 0:38
 日本列島の先住民である縄文人と、朝鮮半島から渡ってきた弥生人とが混血を繰り返して現在の日本人になったとする「混血説」を裏付ける遺伝子解析の結果を、総合研究大学院大(神奈川県)などのチームがまとめ、日本人類遺伝学会が編集する1日付の国際専門誌電子版に発表した。
 これまでも同様の研究結果はあったが、今回は1人当たり最大約90万カ所のDNA変異を解析し、結果の信頼性は非常に高いとしている。
 チームはこれまで公開されている本土出身者(主に関東居住者)、中国人、欧米人など約460人分のDNAデータに、アイヌ民族と沖縄出身者の計71人分を新たに加えて解析した。その結果、アイヌ民族と遺伝的に最も近いのは沖縄出身者で、次が本土出身者と判明した。本土出身者は韓国人とも近かった。
 この結果は、日本人全般が縄文人の遺伝子を受け継いでいる一方、本土出身者は弥生人との混血の度合いが大きく、混血しながら北海道や沖縄方面に広がっていったと解釈できるという。
 日本人の起源は縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人弥生人が追い出して定着した「人種置換説」も知られているが、総研大の斎藤成也教授(遺伝学)は「研究結果は混血説のシナリオに一致した」と説明している。
 チームは今後、縄文遺跡で見つかる人骨のDNAを分析するなどし、日本人のルーツの解明を進める。〔共同〕
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 発掘ばい!九州古代ヘリテージ
 弥生文化の成立に迫る 人類学と考古学から
 2019年12月11日
 考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第5回フォーラムが11月10日、飯塚市で開かれた。国立科学博物館(東京)副館長の篠田謙一氏が「DNAで語る弥生人の成立」をテーマに講演し、高島氏は「考古学からみた渡来と在来」と題し、弥生人弥生文化成立の謎に迫った。2人の主な発言をまとめた。
 日本人 多様な集団混血か/国立科学博物館副館長 篠田謙一氏
 篠田謙一氏
 現代人や、発掘された古代人のDNAから、人類の成立を知ろうという研究をしている。縄文人弥生人の骨格を比較すると、縄文人骨はアイヌの人に似ていて全国どこでも同じ特徴を持つ。一方、弥生人現代日本人に近く、地域差がある。このことから人類学では、全国に住んでいた縄文人と大陸からやってきた渡来人の混血が、北部九州から日本列島に進み弥生人が成立したという、「二重構造説」が唱えられていた。
 しかし、DNAを解析すると、そんな簡単な構造ではないことが分かってきた。弥生後期の青谷上寺地遺跡(鳥取市)で見つかった複数の人骨のDNAを見ると、ほとんどは母系の遺伝が分かるミトコンドリアは「渡来系」であったのに対し、父系の遺伝を示すY染色体は「縄文系」だった。同遺跡では、弥生後期なのに渡来人と縄文人の混血が進んでいなかったことや、多様な母系と父系が混ざっていたことが分かる。
 現代日本人は、縄文人弥生時代以降の混血で成立したのは言うまでもない。ただ、縄文人にあったであろう地域差や時代差に加え、渡来系弥生人の実態もまだ分かっていない。今後は、渡来系弥生人のルーツである弥生時代朝鮮半島集団のDNAを解析し、弥生から古墳時代にかけてどう日本人のDNAが変化したかを捉えることで、混血の様子が解明できるだろう。
 文化形成 渡来人に三つの波/講座監修の考古学者 高島忠平氏
 高島忠平氏
 弥生時代、渡来人は大きく3波に分けてやって来たと考える。文化は担い手である人の往来により伝わる。この三つの波が、弥生、そして古墳時代の文化形成に大きな役割を果たした。
 第1波は、稲作技術を伝えた人たちだ。福岡平野では、防衛機能を持つ環濠を伴う集落で稲作がなされていたが、九州の他の地域では環濠が無く小規模な営農をしており、埋葬様式も地域によって異なる。こうしたことから、日本の初期の稲作文化は、朝鮮半島から複数のルートで伝わったと考えられる。
 第2波は、弥生時代前期の後半、中国系の青銅器が出現した頃。青銅器は、実用的な武器でもあり、政治的支配を示す権威にもなった。紀元前2世紀後半の北部九州で見つかっており、政治的権威を持つ社会が出てきたと推測できる。この時代は、中国系の移民が入り、彼らが政治を主導したとも考えられる。
 第3波は3世紀頃、魏志倭人伝の時代だ。朝鮮だけでなく中国王朝とも、物資に加え政治的な往来があった。朝鮮半島では倭人との戦いの記録もあり、多くの人の行き交いがあった。
 これらの3波の渡来を出発点に、多様な人が交わり合った社会が北部九州に出現した。今後は、どう遺伝し、広がったか、考古学的に事実を組み立て、人類学的にも解明されていくことを期待する。
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 産経新聞iRONNA
 DNA分析で縄文人弥生人の混血が進んでいたことが判明
 『NEWSポストセブン』 SAPIO 2014年12月号
 われわれの祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのか。最先端のDNA分析により得られた新事実を、ヒトゲノムによって日本人の起源を探る研究の第一人者、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授が明かす。
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 DNA分析という手法の開発により、分子生物学によって日本人のルーツを探る研究は劇的に進歩した。
 DNAは「たんぱく質の設計図」とされる物質で、親から子に遺伝情報を継承する。
 人体を構成する約60兆個の細胞は、すべて最初の1個の受精卵が起源であり、細胞増殖によって体が作られる。この増殖でDNAが複製されるとき、稀にDNAが部分的な突然変異を起こすことがある。変異が精子卵子などの生殖細胞で起きると、部分的に変異したDNAはそのまま子や孫へと引き継がれていく。
 アフリカで誕生した人類は7万年前から世界に拡散していったが、特定の集団のなかで誰かの生殖細胞に変異が起き、集団内でそれが広まり蓄積することがあった。また、別の集団との交流により、混血で変異が共有されることもあった。
 つまり、現代人と遺跡から出土する人骨のDNAを分析し変異の痕跡を比較すれば、どこで変異が発生し、どう受け継がれてきたかが分かり、人類がアフリカからどのようなルートを辿って拡散したかが見えてくるのだ。
 では、日本人はどこからやってきたのか。若干の想像を交えて、最新のDNA分析の結果から推定されるルートを提示してみよう。
 およそ7万年前に我々の祖先がアフリカを出たことはすでに判明している。数度に亘る「出アフリカ」の何回目かにアフリカを出た人々がアラビア半島を渡り、ユーラシア大陸の南側に進出。5万年ほど前に台湾や琉球諸島を経て、日本列島の地を踏んだと考えられる。これがいわゆる「縄文人」だ。1万年前までは最終氷河期で、海面は今より70m低かった。氷河にも覆われていたので、台湾、琉球からの渡来はそう難しくはなかっただろう。
 一方、7万年前にアフリカを出て東アジアに渡った人々は、小麦農耕の技術を身に付け、今でいう中国の中原と呼ばれる地域で人口を爆発的に増やした。そこからあふれ出た人々が稲作の技術を携えて移動し、およそ3000年前に朝鮮半島を経て、北九州に渡った。それが「渡来系弥生人」と考えられる。
 実はこの説は、DNA分析が行なわれる前からあったが、従来は、農耕民の弥生人により狩猟採集民の縄文人が駆逐され、北海道に追いやられたのが「アイヌ人」、南に追いやられたのが「沖縄人」と考えられていた。しかし、現代日本人のDNA分析によって縄文人弥生人の混血が進んでいたことが判明し、両者の間で交流があったことが認められた。
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 ウィキペディア
 弥生人(やよいじん)は弥生時代に日本列島に居住した人々。大きく、弥生時代に中国大陸や朝鮮半島等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」、縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」、および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。
 概要
 縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、広義の弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)、古墳時代の墳墓から抜け出てきたような弥生人(新弥生人)、さらに南九州には琉球諸島貝塚人に似た弥生人(南九州弥生人)がいた。
 ミトコンドリアDNAハプログループやY染色体ハプログループの研究によって、日本人と中国人・朝鮮人とのY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられる。また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。
 国立遺伝学研究所集団遺伝研究室の斎藤成也教授等によると、縄文系弥生人や渡来系弥生人の混血は古墳時代から始まり、その後に現代日本人が誕生した。現代日本人には14パーセントから20パーセントほどしか縄文人の血が入っていないという推定値が出ている。
 起源
 弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。そもそも弥生時代とは、弥生土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。しかし、現在では放射性炭素年代測定では、土器等に付着する塩分などの海産物による海洋リザーバー効果により年代が約400年古く推定されることが明らかになっており、再度年代についての論争は続いている[5]。なお、水稲には朝鮮半島から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。
 一般には、弥生人朝鮮半島山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。O1b2系統は、オーストロアジア語族の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、満州朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷はO1b系統(O1b1/O1b2)はかつては長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている。しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある。
 弥生人に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動
 土井ヶ浜遺跡の弥生人が北部モンゴロイドの特徴を持つことや、日本人にみられるミトコンドリアDNAハプログループやGm遺伝子が北方型であることなどから、弥生人の起源地を沿海州南部(ロシア)に求める見方もある。岡正雄の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」、鳥居龍蔵説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」がこれに対応すると思われる。[独自研究?]東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる刻目突帯文土器と似たタイプの土器が沿海州南西部のシニ・ガイ文化にもみられることから、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている[誰によって?]。
 また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。O2はその後のヤマト王権の成立に前後する渡来人によるものだとする見方も強い。
 なお、渡来した弥生人単一民族ではなく複数の系統が存在するという説も主流である。
 「日本人#民族学」、「日本人#HLAハプロタイプの流れ」、および「騎馬民族征服王朝説」も参照
 特徴
 頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代河南省青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった。
 また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、歯のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。 一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた。
 佐原真は福岡平野佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人弥生人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている。
 弥生人の種類(九州)
 九州の弥生人は、大陸から北部九州に渡来した「渡来系弥生人」、鹿児島県付近に住み極度な短頭型(絶壁型)の「南九州弥生人」、長崎県付近に住んでいた「西北九州弥生人」がある。南九州弥生人と北西九州弥生人については、血統的に縄文人の子孫と考えられてきた。近年の核ゲノム分析によって、西北九州弥生人については、渡来系弥生人との間で混血がかなり進んでいたことが示された。
 下戸
 弥生人に関連する体質として、下戸が存在する。下戸遺伝子の持ち主は中国南部と日本に集中しており、水耕栽培の発祥と推測される中国南部での、水田農耕地帯特有の感染症に対する自然選択の結果ではないかとも推測されている。
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