🗻6〕─1─韓国内にある倭人(日本人)の墳墓らしき巨大な日本式前方後円墳。〜No.23No.24No.25 

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 日本式前方後円墳は、ヤマト王権の領地・支配地・影響地、同盟国・友好国の証しである。
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 親日派知日派王朝は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派王朝は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
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 2021年4月1日 MicrosoftNews 東スポWeb「「これ倭人の墓じゃね!?」韓国が朝鮮半島最大の古墳を発掘直後に埋めたワケ
 © 東スポWeb 日本の前方後円墳は3世紀からある(写真はイメージ)
 外務省の船越健裕アジア大洋州局長と、韓国外務省の李相烈(イ・サンリョル)アジア太平洋局長は1日、東京都内で対面による局長協議を開催。元慰安婦らの訴訟や日本の高校教科書の記述内容などを巡る2国間問題などが議題になりそうだ。様々な歴史問題で衝突する日韓だが、とんでもないことが起きていた。
 韓国紙「ハンギョレ」(電子版)は先日、「朝鮮半島最大の古代の墓 開けた直後に閉じた理由は」とのタイトルで「朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始め(日本語版原文ママ)についに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした」と報じた。
 全羅南道にある韓国最大の古墳「長鼓峰古墳」を発掘したら、日本の前方後円墳とほぼ同じだったため、埋めてしまったというのだ。
 今回の古墳は6世紀前半のものと推定されるという。日本の前方後円墳は3世紀からあるので、これは倭人(日本人)の墳墓の可能性がある。
 韓国事情に詳しい文筆人の但馬オサム氏はこう語る。
 「『日本書紀』に出てくる、古代朝鮮にあったヤマト政権の出張政府である『任那(みまな)日本府』の存在を肯定する材料になりかねません。韓国の歴史観からするとそれは我慢ならないことです。だからといって現実に存在する古墳を埋めて、なかったものにするというのは、かの国は学術よりも“かくあれ”という願望が優先するということです」
 韓国メディアなどでは、日韓併合だけでなく、豊臣秀吉朝鮮出兵、果ては鎌倉時代倭寇まで持ち出して、「日本はそんな昔からわが国を侵略、蹂躙してきた」と非難する傾向がある。
 但馬氏は「いっそ、もっとさかのぼり、任那日本府やあるいは神功皇后三韓征伐を日本の朝鮮半島侵略行為といって非難するかと思えば、これに関しては絶対否定します。『われわれの偉大な先祖が、文明も文化もない古代の倭人に支配されるわけがない』というのが彼らの言い分です」と指摘している。」
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 西野法律事務所
 2013年バックナンバー
 韓国の前方後円墳
 私たちの年代の教科書には、朝鮮半島に「任那(みまな)日本府」があったと記載されていました。
 厳密にいえば、「日本」という国名ではなく「倭」と呼ばれていたでしょうし、日本の学界ではかつては「任那」という呼称にかえて、昭和60年ころから、より広く「伽耶諸国」あるいは「加羅諸国」と呼ばれることが一般的となっているそうです。
 「伽耶加羅)諸国へのヤマト王権」ということになりますね。
 古墳時代に、日本(倭国)の朝鮮半島への進出を示す史料は「結構」あります。
 歴史書としては、宋書倭国伝に記載されています。
 宋書倭国伝には、倭王済が「使持節都督・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を受け、倭王武に「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の受けたと記述されています。
 つまり、中国の文献に記載されています。
 高句麗の広開土王碑(韓国の学者が、日本による改ざんを唱えていましたが、中国で拓本が発見され、改ざんなしとわかっています)には「倭が新羅百済を臣民とした」と記されています。
 韓国は「改ざん」と主張していましたが、後日、中国で拓本が発見され、「改ざん」説は否定されています。
 高句麗を朝鮮とみれば、朝鮮の石碑に記載されています。
 日本書紀の「雄略紀」や「欽明紀」などにも、朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那倭国の出先統治機関があったと記載されています。
 日本の歴史書に記載されています。
 韓国からの「クレーム」で、現在は「任那日本府」は教科書に掲載されなくなったようです。
 1983年に、韓国に「前方後円墳」が発見されました。
 1983年に発見された「慶尚南道(韓国の行政区分)の松鶴洞一号墳」は、結局、時代の異なる複数の墳墓が重なったものであると後に判明するのですが、それ以降、全羅南道(韓国の行政区分)に11基、全羅北道(韓国の行政区分)に2基の前方後円墳が確認されました。
 韓国は、前方後円墳を隠しませんでした。
日本の学者と共同調査もしました。
 韓国の政府と学者は、前方後円墳は、韓国から日本に「伝来」したものと思いこんでいたようです。
 朝鮮半島前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、伽耶諸国の勢力圏であった地域に存在にしていました。
 日本の前方後円墳が3世紀から6世紀のものなのに対し、朝鮮半島前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉、どう考えても日本が先です。
 それだけなら、前方後円墳は、3世紀以前に、韓国から日本に「伝来」したと「強弁」できないでもありません。
 ただ、そうもいかなくなりました。
 朝鮮半島前方後円墳から、翡翠でできた勾玉(まがたま)が出てきました。朝鮮半島翡翠は出土しません。また、朝鮮半島前方後円墳から、埴輪らしきものが出てきました。埴輪は日本の墳墓などからしか出土されません。
 「日本人(倭人)の墓やないか!」ということですね。
 韓国は、だまって埋戻しました。韓国のいつものやり方です。
 韓国では、韓国国内で出土する「前方後円墳」については、新羅百済が、倭人を傭兵としていて、傭兵である倭人が死んだときに、「前方後円墳」をつくり埋葬することを、「褒美として」「許し与えた」ということになっているそうです。
 韓国の「前方後円墳」の付近に、王侯貴族の大きい陵墓があるわけではありません。
 王侯貴族は小さい陵墓、家臣である傭兵の陵墓は大きい「前方後円墳」ということですが、素直な解釈でしょうか。
 素直に考えれば、韓国の前方後円墳は、倭が、伽耶加羅)諸国だけでなく、一時期は(少なくとも、前方後円墳が築造された時代)、新羅百済の版図を支配していたことの裏付けとなりそうですね。
 弁護士的な発想からすれば「新羅百済が、倭人を傭兵としていて、傭兵である倭人が死んだときに、『前方後円墳』つくり埋葬することを、『褒美として』『許し与えた』」と無理な主張をした段階で、その訴訟は敗訴確定です。
 嘘をつきとおすなら、いっそのこと「朝鮮半島の政権が倭を支配していた」とすれば、まだ「勝訴」の目があります。
 ただ「朝鮮半島の政権が倭(ヤマト政権)を支配していた」と主張してしまうと、「もともと同一の国だから」「日韓併合は正当だ」という反論が怖いということになります。
 もちろん、そんな主張はされていません。
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 デイリーBOOKウオッチ
 韓国になぜ「前方後円墳」があるのか
 2019/10/ 6
 日本独自と言われてきた前方後円墳が、韓国にもあることが近年しだいに明らかになった。なぜ朝鮮半島にあるのか。日本の前方後円墳とはどんな関係になっているのか。本書『「異形」の古墳――朝鮮半島前方後円墳』(角川選書)はこの問題について研究者が分かりやすく解説したものだ。日韓両国の学者によるこれまでの研究成果や、様々な推論を丁寧に紹介している。
 栄山江流域に14基
 著者の高田貫太さんは1975年生まれ。岡山大学文学部、同大学院を経て韓国の慶北大学校大学院考古人類学科博士課程修了。現在は国立歴史民俗博物館研究部准教授・総合研究大学院大学文化科学研究科准教授。著書に『古墳時代の日朝関係』、『海の向こうから見た倭国』などがある。
 韓国で前方後円墳が見つかっているのは、南西端に位置する栄山江流域。古代の百済に隣接するとみられるエリアだ。1980年代から正確な測量図の情報が伝わるようになり、90年代に入ってさらに学術調査が進んだ。少なくとも14基あるという。墳丘長は数十メートルのものがほとんどだ。築造されたのは5世紀後半から6世紀前半にかけてとされており、日本の前方後円墳の出現よりは相当遅い。
 日本以外でも見つかったということの意外性に加え、前方後円墳が日本では単なる墓にとどまらないことが問題を複雑にした。著者は以下のようにまとめる。
 {「前方後円墳は日本列島独特の墳墓である。それがきずかれた範囲は、ヤマト政権の支配する範囲、東アジア世界では倭とよばれていた範囲とおおむね一致する。それなのになぜ、朝鮮半島の西南部、栄山江流域にまで前方後円墳がひろがっていたのか。それがきずかれた栄山江流域は、ヤマト政権の支配下にあったのか。倭の一部だったのか」}
 日本列島の前方後円墳(をはじめとする古墳)は、墳形や規模で当時の政治秩序を象徴するとされている。ヤマト政権は、最大規模の前方後円墳が営まれた近畿地方の勢力によって形成された、というのが教科書的な理解だ。ゆえに「栄山江流域」という飛び地のようなところから見つかったことに、多くの学者が頭を悩ましてきたと言える。
 韓国では「前方後円形古墳」という呼称も
 本書はまず、この栄山江流域の「前方後円墳」について、どのような名称にすべきかという議論が韓国内で続いていることを教えてくれる。結論から言うと、「前方後円墳」と、「前方後円形古墳」という呼称が半々だそうだ。「前方後円形古墳」を主張する韓国の学者の見解は次のようなものだ。
 {「前方後円墳という用語は、ヤマト政権によって形成された政治的統合の産物という意味合いから使用されており、前方後円墳という用語を栄山江流域の古墳に使用することは適切ではない。なぜなら栄山江流域に倭系統古墳が築造されたといっても、栄山江流域が倭のヤマト政権の支配を受けていたのではないからである」}
 では、日本の学界の理解はどうなのだろうか。著者によれば、「日本考古学の枠組みで、栄山江流域が倭王権を頂点とする広域な政治秩序に組み込まれていた、と明言する日本の研究者はほぼ皆無」だという。「倭の境界領域における例外的で特殊な現象」と把握されることが多く、「日本の学界では、朝鮮考古学や日朝関係史の枠組みの中で議論されている内容を参考としながら、栄山江流域の前方後円墳は当時の倭と百済・栄山江流域との政治経済的な関係の中で営まれた、という把握の仕方が一般的」なのだそうだ。
 というわけで、名称問題は別として、少なくとも日韓の学者の間では、この地域の前方後円墳の理解についてそれほど深刻な違いや対立はなく、長年の学術交流の中で、冷静な議論が行われているという。
 稲作は朝鮮半島から北部九州へ
 本書は「序章 なぜ研究するのか」、「第一章 前方後円墳が出現するまで」、「第二章 前方後円墳を歩く」、「第三章 栄山江流域社会と前方後円墳」、「終章 いま、前方後円墳からみえること」に分かれている。
 「第一章」で著者はこの問題を考える前段として、まず朝鮮半島と日本列島との長い交流を振り返る。現在の考古学的知識によれば、日本列島で最初に水田耕作が始まったのは北部九州。それは朝鮮半島からもたらされたものだという。このことを示す考古学的な証拠は多数あるそうだ。しかも単なる農工具や技術だけでなく、新しいタイプの土器や住居や墓、武器、防御施設、農耕に関する儀礼なども含めた、水田耕作を生産基盤とする農耕文化の総体――学術用語では「文化複合体」――が朝鮮半島から渡来人の手によって伝えられたという。それが日本列島の弥生文化をつくったそうだ。
 確かに、それに類することは、BOOKウォッチで紹介した「ヤマト王権誕生の礎ろなったムラ唐古・鍵遺跡」(新泉社)にも出ていた。奈良の唐古・鍵遺跡は弥生時代最大級の「ムラ」として有名だが、成立させたのは、縄文人ではなく、稲作農耕の技術と文化をたずさえて新たに来た人であり、渡来系の可能性が高いことを、著者の藤田三郎・奈良県田原本町埋蔵文化財センター長は示唆していた。
 つまりかなり古い時代から朝鮮半島と日本列島は濃厚な交流を繰り返していた。栄山江流域に前方後円墳が出現するに至る相当以前から、双方の人々は行ったり来たりしていたというわけだ。それは朝鮮半島各地で、「倭系」とみられる考古遺物が見つかっていることからも明らかであり、そのあたりについても本書は詳しい。
 そして高田さんは、栄山江流域に前方後円墳が出現した5世紀とは、朝鮮半島から須恵器や鉄器、金工品、馬の生産、カマドなど新しい情報が渡来人を通して伝わった時代だったと強調する。これらの渡来人が残した日常使いの土器には、栄山江流域や周辺に系譜を求められるものも数多いという。この地域と倭との関係が双方向だったことをうかがわせる。
 がっちり握手
 「第二章 前方後円墳を歩く」では著者が、まるで考古学ガイドのように丹念に現地を歩き回り、詳細な地図を掲載している。写真も付いているので、考古学ファンで実際に現地を見たい人にとっては大いに参考になるだろう。これらの前方後円墳や、現地に残る「倭系墓」などの造営主体はだれだったのか。高田さんは、その地域に生活基盤を持つ現地集団であり、倭人が、それまで人びとのあまり住まなかった「無主」の地にやってきて、勝手にきずいたというのではないと断言する。
 「第三章」では、なぜ前方後円墳がきずかれたか、短期で消えたか、被葬者はだれかということに踏み込んでいる。本書のポイントでもあるので、種明かしは避けて実際に読まれることを勧めたい。
 本書で痛感するのは、古代のもろもろのことを「朝鮮」とか「日本」とか言って単純に区分けすることの難しさである。今の日本人が思っている以上に、古代においては双方の関係が深かった。日本側でも韓国側でも、遺物から双方の「雑居」をうかがわせる遺跡が少なくないそうだ。
 著者は5世紀を朝鮮からもたらされた「技術革新の世紀」と書いている。つづく6~8世紀は、漢字や仏教伝来で寺院建築、合金製の仏像づくりなどが加速し、さらに関係が緊密になっていたはずだ。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧だったと言われるが、太子はおそらく複数言語に通じていたはずだ。田中史生氏の「渡来人と帰化人」(角川選書)によれば、平安時代初期に京や畿内に住んでいた氏族の名前の30%が中国や朝鮮をルーツとする人たちだったという。当時編纂された『新撰姓氏録』(815年)から分かるそうだ
 本書は「謎の前方後円墳」について、最新の研究成果をもとに、歴史的視野を広げて分析した良書と言える。加えてそれ以上に印象に残ったのは、日韓の学者間で実に緊密な連携と交流がおこなわれているということだ。高田さんは韓国に留学しているが、韓国側でも日本留学者が少なくない。高田さんと共同研究している日韓13人の研究者は、いずれも「気心の知れた」人たち。旧知の学者に会うと、「満面の笑み」であいさつを交わし、「ガシッと握手」、「酒を酌み交わしながら議論に花が咲く」というのだ。日韓関係がごたついている時だけに、両国の政治責任者には伝えたい光景だと思った。
 BOOKウォッチでは関連で 『古代韓半島倭国』(中公叢書)、『戦争の古代史─好太王碑、博そうから刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)、『古代─近世「地名」来歴集』(アーツアンドクラフツ)なども紹介している。 (BOOKウォッチ編集部)
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 本項では朝鮮半島南部の前方後円形墳、すなわち朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道全羅北道に分布する、日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳について解説する。
 これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳(전방후원분)」のほか楽器のチャング(チャンゴ/장고/長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン/장고분)」などと表記される。日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。
 概要
 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的関係を表す事例として注目される。
 古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し画一的ではない。発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。しかしそれら墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められている。
 前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。そしてこの在地勢力が百済支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した。しかし栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。
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「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書)