🗾12〕─2─日本に最古の石器を残した旧人デニソワ人。~No.59 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 縄文人は、ネアンデルタール人とデニソワ人などの旧人のDNAを受け継いだ現生人類のホモ・サピエンス(Homo Sapiens)でる東アジア人から分かれ一種族である。
 中国人(漢族)や朝鮮人は、縄文人とは別系として東アジア人から分かれている。
 デニソワ人とネアンデルタール人は、50万~40万年前にホモ・サピエンスとは別に枝分かれした系統である。
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 日本旧石器学会
 日本列島の旧石器時代遺跡
 岩宿遺跡 Iwajuku site
 ■後期旧石器時代 前半~後半 35,000年前 ~ 25,000年前
 1位置
 岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置し、現在国史跡として指定されている。両毛線岩宿駅より岩宿遺跡・博物館まで歩いて25分である。
 1946年、岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土(関東ローム層)から民間考古学者相沢忠洋により石器が採取され、その後の発掘へとつながった。
 2発見の経過
 太平洋戦争が終わる頃まで、日本列島には一万年以上前の関東ローム層中の石器文化、すなわち旧石器時代に相当する縄文時代以前の文化はないと考えられていた。しかし、1949年9月11日、さきの発見をもとに相沢と明治大学岩宿遺跡の発掘調査を実施したところ、関東ローム層の中から石器が出土し、日本列島にも旧石器時代が存在することがわかった。岩宿はその記念すべき最初の遺跡としてよく知られている。
 3石器群の概要
 岩宿遺跡では、発掘によって二つの石器文化が確認された。下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである(写真)。上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 岩宿遺跡の地層は岩宿ドームとして保存され、見学できる。また、出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示されている。相澤忠洋の業績は、相澤忠洋記念館で知ることができる。
 (小菅将夫)(写真提供 岩宿博物館 明治大学博物館)
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 長野県、熊本県岩手県などの遺跡から3万8000年前の磨製石器が数多く発掘された。
 磨製石器の使用は、中国で1万5000年前で、世界では1万年前で、朝鮮半島では7000年前であった。
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 酒々井町役場
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 〒285-8510 千葉県印旛郡酒々井町中央台4丁目11番地
 TEL:043-496-1171 (役場代表) FAX:043-496-4541
 窓口開庁時間 平日 8:30~17:15
 (毎月、休日窓口開庁日を設置しています。詳しくはお問い合わせ下さい。)
 旧石器時代とは 2019年7月2日
 旧石器人達の暮らし
 旧石器時代とは今から約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間をいいます。人々はまだ土器を持たず、主に打ち欠きによって作られた石器(打製石器)や動物の骨や角を用いて作られた骨角器(こっかくき)を使い、狩猟や採集活動を行っていました。定住はせずに、テントのような軽易な住居によって食料となる獲物(今では絶滅して見られない大型哺乳類など)や木の実等を求めてたえず移動を行いながら生活をしていた時代です。しかも当時は氷河期という寒冷な気候であり、また火山活動も活発で頻繁に火山灰が降り注ぐ非常に厳しい環境下での暮らしでもありました。
 ○後期旧石器時代前半期(想像図)_RGB.jpg
 【後期旧石器時代前半期(墨古沢遺跡の頃)の風景(想像図)】
 年間平均気温は7~8度低く、台地上には針葉樹を中心とした森林帯が広がり、現在でいえば標高約1500mの風景が広がっていたと考えられます。
 墨古沢遺跡でも発掘調査で出土した炭化材の樹種同定やプラント・オパールの分析などから、周辺に針広混交林が広がっていたと推察されています。
 (図は2004『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』印旛郡文化財センターより引用)
 ○旧石器時代に生きていた大型哺乳類_RGB.jpg
 【旧石器時代に生きていた大型哺乳類】
 陸続きとなった大陸から、現在では絶滅して見られないマンモス・ナウマンゾウ・オオツノジカなどの大型獣が渡ってきて生息していました。これらの動物は重要な食料源であったばかりではなく、骨や角は加工して道具として使われました。
 (図は2004『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』印旛郡文化財センターより引用)
 墨古沢遺跡の時代、後期旧石器時代前半期
 墨古沢遺跡に旧石器時代の環状ブロック群があった時代は、気候が寒冷化に向かい年ごとに大きく変動していました。海抜は現在よりも約80mほど低く、本州・四国・九州は地続きになり一つの島を形成していましたが、この島は大陸や北海道とは海で隔てられていました。
 そして、この時代こそ、私たちの祖先ホモ・サピエンスが海を越え日本列島に到来・定着した時代なのです。ホモ・サピエンスは30万年~20万年前にアフリカで誕生し、8万年~5万年前にアフリカから世界中へ拡散を開始します。約4万5千年前にはヨーロッパや中央アジア・オーストラリアへ到達し、約3万8千年前に朝鮮半島から海を越えて日本列島へ到来しました。(なお、ホモ・サピエンスの拡散については今日も精力的な研究が続けられており、これからの年代についても今後の研究成果により大きく変わることが予想されます。)
 (図は印旛郡文化財センター 2004 『印旛の原始・古代-旧石器時代編-』、国立科学博物館編 2016 『世界遺産ラスコー展』、NHKスペシャル「人類誕生」制作班編 2018 『人類誕生』をもとに作成)
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 総  説
 日本における旧石器時代研究の枠組みと現状
 小 野   昭 *
 明治大学黒曜石研究センター
 (平成 23 年 4 月 24 日受付,平成 23 年 5 月 14 日受理)
 要  約
 日本における旧石器時代研究の枠組みには多様な局面がある。しかし,2000 年 11 月 5 日に暴露された前期・中期旧石器時代遺跡の捏造事件以降,日本列島における最初の確実な人類の居住が関心の焦点となってきた。まず日本の旧石器時代研究の現状を規定している歴史的経緯を示し,次にヨーロッパで立てられた旧石器時代の 2 分法,3 分法にふれ,最後にその日本での展開に言及した。日本列島への最初の人類の居住時期については様々な説があるので,実際的には「酸素同位体ステージ 3 の考古学」として多様な議論を保証する必要がある。ただ筆者は,日本列島への人類の確実な居住は ca. 40 ka 以降であるとする立場から枠組み問題の論点を整理した。後期旧石器時代を遡る石器群の存在の証明のためには,諏訪間(2010)が提起したように,1)石器に残された明確な加工痕,2)偽石器の含まれる可能性のない安定した遺跡立地,3)層位的な出土,4)石器の複数出土,のすべての条件を満たす必要がある。しかし現在これを満足させる資料は無い。日本の立川ローム層最下部 X 層の段階を日本列島における最初の居住と位置づけることを骨太の仮説として提出し,この仮説は,追証よりも,今後反証条件を整えることで仮説をテストすることが有効であることを示した。
 キーワード:日本列島,旧石器,枠組み,酸素同位体ステージ 3,仮説の反証
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 東京大学教員の著作を著者自らが語る広場
 日本列島における旧石器時代から縄文時代への移行は、自然環境と人類文化の両側面に見られた列島史上最大の歴史的画期と言うことができる。この変化は、全球的な大規模気候変動期である更新世 (氷期) / 完新世 (温暖期) 移行期に相当し、農耕の発生や文明・都市の勃興といった世界史的事件を引き起こす契機となった。
 後期旧石器時代 (38,000~16,000年前) の列島は、氷期の海面低下によって、本州・四国・九州はひとつの陸塊 (古本州島) をなして大陸から独立していたが、対照的に北海道は、大陸からサハリン・千島列島南部まで連接するひとつの半島 (古北海道半島) を形成した。後期旧石器時代の列島は大陸性の寒冷・乾燥気候が支配しており (公文論文)、東半部は針葉樹を主とする植生帯が、西半部は針広混交林が主体を成していたため (高原論文)、主要食糧としての植物資源に乏しかったことに加えて、ダンスガード・サイクルと言われる短周期で変動する不安定な気候 (公文論文) は、資源構造の動揺と資源獲得の予測可能性の著しい低下を招来した。そのため旧石器時代人は、移動によって自然環境の変動に適応可能な中大型動物 (高橋論文) を食糧資源の主体にすえ、狩猟を生業の柱とした。
 氷期末の15,000年前になると、晩氷期 (15,000~11,700年前) と呼ばれる全球的な気候激変期が始まる。列島最古の土器 (青森県大平山元I遺跡、16,000年前) はこの晩氷期の開始よりも古いので、縄文時代草創期 (16,000~11,700年前) は氷期末に開始される (工藤論文)。現在東・北アジアで土器の起源が更新世に遡ると報告されている地域は、ザバイカル・アムール中流域 (内田論文)、中国東部・南部 (大貫論文)、日本であり、現状では中国南部を除き、ほぼ同時に多元局所的に出現していると評せざるを得ない。
 縄文的な生活構造は、いち早く温暖化が開始された南九州から始まり、次第に北上した (馬籠・秋成論文)。土器使用が早く安定する南九州では草創期に入ると植物資源の利用が活性化し、定着的な生活行動が促進されるようになる。しかしながら、道具 (橋詰論文・及川論文) やその材料獲得法 (芝論文)、集落の出現と安定化等は草創期を通じて徐々に発達する (森先論文) が、北海道では依然として旧石器時代的な遊動生活が継続し (夏木論文)、縄文社会の本格的な登場は縄文早期以降となる (福田論文)。
 完新世初頭の縄文早期になると、湿潤温暖な気候の下で森林植生が発達し、水産資源も豊富になるため、狩猟・採集 (佐々木論文)・漁撈 (小笠原論文) からなる多角的な定着的生活構造が安定する本格的な縄文社会が列島全体で成立する (谷口論文)。縄文文化の外来起源の可能性はほとんどない (安斎論文)。
 (紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 佐藤 宏之 / 2016)
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 宇都宮の歴史と文化財
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 歴史を知りたい
 旧石器時代
 日本列島ができるまで
 今から約1500万年前、地質年代でいう新生代第三紀中新世のころは、地殻変動が活発で、はげしい火山活動があった時期で、栃木県は、足尾や八溝山地を除いて大部分が海に沈んでいました。大谷石として全国的に有名な緑色凝灰岩は、このころのはげしい海底火山の噴火によってふき出した火山灰が、海底に堆積してできた岩です。
 大谷石層の堆積に続き、横山・長岡・山本・大曽に見られる薄緑色から茶白色のやわらかい岩が堆積します。八幡山公園あたりは、今から1200万年前のものと考えられる砂岩・泥岩層がみられますが、二枚貝やサメの歯、クジラ(?)の骨が発見されていることから、このころは、まだ比較的温暖であったと考えられます。人類が誕生するはるか以前の地層です。
 旧石器時代の宇都宮
 人類の祖先がこの地球上に現れるのは、約500万年前とされています。また、日本人の祖先がこの日本列島に渡ってきた時代は、約3万年前、新生代第四紀更新世氷河時代で、非常に寒い気候がつづいており、最も寒い時期には、地球上の3分の1が氷でおおわれていたようです。
 氷河期の終わりころは、海面が今より100~150mも下がっており、日本と大陸は地続きでした。このため、大陸に住むナウマンゾウやオオツノジカなどの動物が日本に渡ってくるのを追いながら、人類も移り住んできたのだろうと考えられています。また、現在のインドネシア付近から、東アジアの人々の祖先となった人々も黒潮の流れに乗って北上し、日本列島にやってきたと考えられています。
 旧石器人は優れた狩人でした。関東ローム層と呼ばれる赤土の中からは、頁岩や黒曜石などで作られた石器が発見されることがあります。これらは、広い原野に動物を追って山や野を移動しつづけた人の生活を物語ってくれます。
 大谷石地層国指定史跡飛山城跡の発掘調査では、約3万年前につくられた、けものをとるための落とし穴の跡が発見されました。宇都宮にも、旧石器人の生活のあとが残されているのです。
 以前は、旧石器人は洞くつとか岩かげなどを利用して生活していたと考えられていましたが、決してそうではありません。宇都宮市内の遺跡の発掘調査では、台地の上や山の斜面に小屋を建てて住んでいたことがわかっています。
 氷河時代がおわると、気候が温暖化するのにしたがって海面が上昇し、今から約1万2千年前には、おおむね現在の日本列島が形成されました。また、これと時期をほぼ同じくして、火山の噴火活動もおさまってきたようです。
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 日本経済新聞
 現生人類はいつ日本列島に 鍵握る石器、長野で出土
 社会・くらし
 2020年12月14日 9:36
 香坂山遺跡で出土した大型石刃(左半分)と尖頭器(国武貞克氏提供)
 日本列島ではどのように人類の歴史が始まったのか――。長野県の山中の遺跡でこの夏、考古学や人類学の一大テーマに関わる貴重な発見があった。アフリカを出て、ユーラシア大陸を東に移動した現生人類に特有の、旧石器時代の石器のセットが国内で初めて出土。謎解明の鍵を握る石器の年代が焦点となっている。
 群馬県境に近い、標高約1100メートルの香坂山遺跡(長野県佐久市)で8~9月、奈良文化財研究所の国武貞克主任研究員が発掘調査を実施した。地表から約3メートルを掘り、3万年前の火山灰層のさらに下から、約800点の石器が出土した。
 特徴的なのは、幅3センチ、長さは10センチを超え、鋭い刃を持った短冊形の「大型石刃」、カミソリ刃のような「小石刃」、三角形の「尖頭器」の3点。1万カ所以上ある日本の旧石器時代の遺跡で、3点そろう出土は初めて。国武氏は「ユーラシア大陸の各地で見つかった、初期の現生人類が持つ石器の組み合わせと共通する」と説明する。
 現生人類は20万年前ごろまでにアフリカに出現。6万年前には各地に拡散する「出アフリカ」が起き、ユーラシア大陸を西から東に移動したとされる。中央アジア、南ロシア、中国などでは5万~4万年前にかけての、香坂山と同様の石器群が見つかっている。国武氏自身、タジキスタンのフッジ遺跡などの発掘で確認。香坂山と比べ「混ざれば見分けがつかないほど」と話す。
 香坂山遺跡での発掘調査=8月、長野県佐久市(国武貞克氏提供)
 類似点は遺跡の立地にも及ぶ。大陸の遺跡も標高千メートル程度に位置し、石器の材料が付近で採取できる。似た気候や環境で暮らし、移動した可能性があるといい、国武氏は「こうした人類が初めて入ってきた痕跡が、香坂山遺跡と言えるのではないか」と指摘する。
 焦点は石器の年代だ。一般に日本列島では、後期旧石器時代の3万8千年前から人類の痕跡が明確になる。2000年に発覚した旧石器捏造事件以降、さらに古い石器の報告例もあるが、石器かどうかの判断や年代を巡っては研究者でも意見が分かれている。
 香坂山では過去に3万6千~3万5千年前の大型石刃が出土したが、列島に近い朝鮮半島では4万1千年前のものが確認されるなど、大陸との年代には開きがある。
 調査では、石器とともに数百点の炭化物も採取。今後、高精度の放射性炭素年代測定で、石器の年代を特定する。国武氏は現生人類による西から東への移動を、「パレオ(いにしえの)・シルクロード」と表現。「終着点でもある列島の状況を明らかにしたい」と意気込む。〔共同〕
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 ウィキペディア
 石器時代とは先史時代の区分のひとつで、人類が石材を用いて道具や武器をつくっていた時代を指す。
 旧石器時代
 詳細は「旧石器時代」を参照
 旧石器時代は、200万年前から紀元前1万年の間とされている。地質学的にいうと、人類が絶滅した動物と共存していた更新世に属する。また、ホモ・ハビリスが石で道具を作り始めた時期でもある。考古学的にいうと、打ち欠かれた石の道具である打製石器という単純な石器を使用して狩猟・採集生活を営んでいた時代でもある。
 旧石器時代をさらに前期、中期、後期に区分する時代区分が行われる。
 弓矢が無かった為、石を削り獲物に投げつけて狩をしていた。
 前期旧石器時代
 地域によって異なるが、約200万年前~約10万年前の期間とされている。ヨーロッパ・中近東・中央アジアでは、ホモ・ハビリスホモ・エレクトスが生息していた。アジアではホモ・エレクトスの一種、北京原人・藍田(らんでん)原人・ジャワ原人がよく知られている。25万年前には、現生人類であるホモ・サピエンスが誕生した。同時期に、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)も誕生している。この時期にはすでに、礫石器や打製石器の制作のほか、火の使用や言語の使用が始まったと考えられている。
 この時代には、日本列島に人類は住んでいなかったと推測されている。
 中期旧石器時代
 中期旧石器時代の年代は、地域によって異なるが、約10万年前~約3.5万年前の期間とされている。ヨーロッパ・中近東・中央アジアでは約9~7.5万年前から約3.5万年前まではネアンデルタール人が有名。また、約7万年前にはホモ・エレクトスが絶滅している。およそ200万年前に始まる更新世氷河時代とも呼ばれ、人類が居住するには過酷な気候であった。採集狩猟生活であったこの時期の人びとの食料源となる動物群・植物群が充分植生していなかったので、人類が居住するのにマイナス面が多かった。この時期には打製石器がより発達し、石核石器と剥片石器が登場したほか、死者の埋葬が始まったと考えられている。
 後期旧石器時代
 後期旧石器時代の年代は、地域によって異なるが、約3.5万年前~約1.2万年前の期間とされている。西ヨーロッパでは、「発展した旧石器時代(アドバンスト・パレオリシック)」とも呼んでいる。約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅し、ヒト属に属する生物は現生人類のみとなった。このころ打製石器はさらに精巧なものとなり、石刃技法を用いたナイフ形石器が普遍的に生産されるようになった。また骨角器の制作や衣服の着用、装身具の使用、洞窟壁画の登場やこれに代表される呪術的な行為の発生が認められている。
 この時代から、日本列島に人類が住んだ遺跡や遺物が多く発見されている。北海道から九州までの遺跡の数は5000箇所にのぼっている。
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 日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代、岩宿時代ともいう。
 終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
 日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。
 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する。
 概要
 日本列島の形成
 日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がった。更新世氷期間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
 しかしながら、従来の学説では氷期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。
 一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
 また、4万年〜3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえる。

 後期旧石器の特徴
 後期旧石器時代の石器群を概観する。日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。遺跡は樺太から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている。これらの遺跡で出土する遺物のほとんどは石器であり、遺構は礫群以外が出土することは極めてまれである(他に陥し穴などがある)。石器ばかりが発見されるのは有機質の材料で作られた道具が土中で分解されて残りにくいためであり、遺構についてもその可能性が高い。ただし遺構はおそらく大変簡素な作りだったと推測されている。

 人類学的見地から
 現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプログループD1a2a (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。
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 デニソワ人(Denisova hominin)は、ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い地域)に、約4万1千年前に住んでいたとされるヒト属の個体および同種の人類である。デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バルナウルから約150km南方に位置する。2020年現在、正式な学名は存在しないものの、ホモ・サピエンスの亜種とされることが多く、暫定的にホモ・サピエンス・デニソワ(Homo sapiens ssp. Denisova)や、ホモ・サピエンス・アルタイ(Homo sapiens Altai)とも呼ばれる。
 ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンス (Homo sapiens sapiens) とは、遺伝的に非常に近い化石人類である。また現生人類の一部(メラネシア人など)と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高いとされている。
 発見史
 2008年にロシアの西シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟で子供の骨の断片が発見され、放射性炭素年代測定により約4万1千年前のものと推定された。また、同じ場所で、大人の巨大な臼歯も発見されている。
 2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』(Nature)において、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チームは、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前に現生人類から分岐した、未知の新系統の人類だったと発表した。DNAのみに基づいて新種の人類が発見されたのは、科学の歴史上初めての事である。
 2019年4月11日付けで学術誌『Cell』に発表された論文によると、デニソワ人には独立した3つのグループが存在し、このグループの内の一つは、ネアンデルタール人とデニソワ人の違いくらい、他の2グループのデニソワ人と異なっていることが示唆されている。
 他の人類との遺伝的関係
 2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究所などの国際研究チームにより『ネイチャー』に論文が掲載された。見つかった骨の一部は5 - 7歳の少女の小指の骨であり、細胞核のDNAの解析の結果、デニソワ人はネアンデルタール人と近縁なグループで、80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定された。デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のうち最も近いイラク北部シャニダール遺跡から、約4000 kmの距離を隔てている。メラネシア人のゲノムの4-6%がデニソワ人固有のものと一致することから、現在のメラネシア人にデニソワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いことが判明した。この他、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソワ人由来という研究発表も、スウェーデンのウプサラ大学の研究チームより出されている。ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前との説も浮上している。ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯からデニソワ人は体格はネアンデルタール人と同じか、それよりも大きいとみている。
 ネアンデルタール人やデニソワ人はその後絶滅してしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の現生人類遺伝子のうち数%はネアンデルタール人由来である。中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑を示す研究成果は2010年5月に発表されているが、2010年12月にアジア内陸部におけるデニソワ人とも現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の交雑・共存は通常のことだった可能性が出てきた。
 なお、アジア内陸部でデニソワ人と交雑した現生人類祖先は、その後、長い期間をかけてメラネシアなどに南下していったと考えられる。また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、高地に移住したグループはチベット人となったともされる。
 発見された化石が少ないことから、現生人類との関連などは今後の研究により変更される可能性もある。デニソワ人の体格などの外形、生活様式、人口などはこれからの研究が待たれる点である。ただ、巨大臼歯からはがっしりした顎を持っていたことが推定されている。
 2018年8月22日、古遺伝学者のビビアン・スロンは2012年にロシアで発見された10代の少女の化石が母がネアンデルタール人、父がデニソワ人であったと科学誌「ネイチャー」で発表した。
 2019年9月、ヘブライ大学やスタンフォード大学で研究をしているデビッド・ゴクマンにより、DNAのメチル化を調べて骨格に関する32の特徴を抽出し、デニソワ人の骨格を提案するという研究結果が発表された。この研究によると、デニソワ人の外見は、狭い額やがっしりした顎などを持ち、ネアンデルタール人によく似た特徴を持っていた可能性がある。一方、頭頂骨の幅が広いなど、ネアンデルタール人とも異なる特徴も、見て取れるという。
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