🗾25〕─1─朝鮮半島の地質学的先史時代。朝鮮半島の古代人出現は紀元前4万年。~No.75  ⑨ 

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 日本出土の朝鮮産土器・陶器
 -新石器時代から統一新羅時代まで-
 出典:『日本出土の舶載陶磁』(2000)
 目次
 第1章で本稿の基本方針を述べている。第2章と第3章は,先史時代を扱っているが, 第2章は既存研究の紹介にとどまった。
 第3章では,無文土器と弥生土器の編年対比に関する私見を述べているが,高知市で開催された埋蔵文化財研究会での所感に基づいて一気に書き上げたもの。弥生研究では韓国での研究成果が意外に応用されておらず,改めて学史をたどると関係論文はさほど多くない。
 第3章末を中心に,衛氏朝鮮の歴史的位置を重視する見解も述べた。なお,滑石混和土器については,従来「滑石混入土器」と呼ばれていたものだが,混和材として意図的に混ぜていることから,異なった用語を用いている。(15/Apr/2002)
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 1.はじめに
 本稿では、新石器時代から統一新羅時代までの朝鮮産土器・陶器が現在の日本国内からどのように出土しているか、概説する。
 近年、朝鮮半島での考古学的成果は朝鮮各地の特色ある地域史の実態を明らかにしつつあり、また、日本各地での朝鮮産土器・陶器の出土傾向をみると、朝鮮産土器・陶器の存在が、それを出土した地域の歴史に大きな意味を持っている場合もあるように見受けられる。そこで本稿では、年代別に細分して叙述することは諦め、朝鮮半島における土器・陶器の地域性を重視し、それぞれについて日本国内での出土傾向を明らかにする、という構成とした。ただし、朝鮮産土器・陶器の出土傾向にいくつかの大きな画期が認められるので、それらにより4つの時代に分けておいた。各時代の詳細は次章以下に譲るとして、時代区分と大まかな内容をあらかじめ述べておこう。なお、日本列島も大きく分けて北の文化、中の文化、南の文化があり、それぞれ独自の時代区分がなされているが〔藤本1988〕、とりあえず朝鮮半島に最も近い中の文化、特に西日本の編年に対比しておいた。
 朝鮮半島新石器時代-日本列島の縄文前期~後期(紀元前4~2千年紀)は、漁撈などの生業に伴う土器の移動がみられる時期である。
 朝鮮半島の青銅器・初期鉄器時代-日本列島の縄文晩期~弥生中期(紀元前1千年紀)は、稲作農耕や金属器生産など新技術の渡来に伴う土器の移動が想定されている時期である。
 朝鮮半島の原三国・三国時代-日本列島の弥生後期・古墳時代(紀元前1世紀~紀元後6世紀)は、楽浪建郡から南山新城までであり、朝鮮半島でも日本列島でも、地域の独自の動きが目立つ。割拠と興亡の中で国家形成に至る時代であり、朝鮮産土器の出土傾向も特色にあふれている。
 朝鮮半島の三国抗争期・統一新羅時代-日本列島の飛鳥時代~平安前期(591~935年)のうち、その当初の三国抗争期-飛鳥時代は、三国時代の最終段階ともいえるが、朝鮮産土器・陶器の出土傾向などからみて、それ以前とは交渉の内容が異なると考え、むしろ統一新羅時代-白鳳時代~平安前期との対比を主眼においた。国家間交渉の時代であるが、徐々に民間の交易なども目立つようになっていく。本稿は統一新羅の滅亡(935年)をもって叙述を終えるが、奈良・平安時代の民間交易によると思われる新羅土器出土傾向が、以後の高麗青磁などの出土傾向に連なっていくのであろう。
 2.新石器時代-縄文前期~後期
朝鮮半島新石器時代、日本の縄文時代は、ともに採集・漁撈・狩猟を主な生業とした時代である。一部に植物利用を発達させていたとしても、本格的な生産経済は次の青銅器時代弥生時代に確立したと考えられる〔今村1999〕。
 朝鮮陶磁の始まりは,いまだ不分明であるが,新石器時代早期には隆起文土器が現れ、日本の縄文前期に並行する。この時点から日本と朝鮮の交流がみられ、隆起文土器も日本での出土が知られている。李相均によると、アカホヤ火山灰の降下後、九州の轟式土器の担い手が山陰・山陽、さらに朝鮮半島南部で活動し、屈曲型器形や胴張型器形の土器がそれらの地に影響を与えているという〔李相均1994〕。
 隆起文土器は、瀛川洞式土器を経て櫛目文土器(水佳里式)に変化する。一方、九州の轟式土器も西唐津式を経て曽畑式土器に至る。櫛目文土器(図4)は、縄文前期後葉の曽畑式土器との類似性が論議されており、曽畑式土器が櫛目文土器の影響下で作り出されたとも考えられている。
 その後、櫛目文土器は新石器時代終末まで存続し、一方で縄文土器は多様な器形変化を示すようになるが、日本出土の櫛目文土器もいくつか知られている。
 木村幾多郎の整理を参考にしつつ、具体例をみていこう〔木村1997〕。
 まず、隆起文土器は長崎県上県郡対馬)上県町・越高遺跡(図1)、同町・越高尾崎遺跡、同県南松浦郡五島列島有川町頭ヶ島白浜(かしらがじましらはま)遺跡B6グリッド6層〔古門(編)1996:9-10〕にみられる。特に対馬の2遺跡は、朝鮮半島に面する海岸沿いに位置し、同時期の縄文土器をほとんど含まず、漁撈を生業とする朝鮮半島南海岸の人々が活動した痕跡と考えてよい。これに対し、長崎県壱岐郡勝本町・松崎遺跡、佐賀県東松浦郡鎮西町・赤松海岸遺跡採集品〔明瀬(編)1989〕などの壱岐・北部九州では、形態は隆起文土器に類似するが胎土が在地の縄文土器に等しい土器が出土しているという〔木村1997:20〕。
 このうち頭ヶ島白浜遺跡では、轟B式の文化層から隆起文系の赤彩土器が出土しており、河仁秀はこれを東北朝鮮の雷文土器の影響下に成立したものと捉えている〔河仁秀1996〕。
 櫛目文土器もやはり対馬に多いが、長崎県上県郡対馬)上県町・越高尾崎遺跡、同町・夫婦石遺跡(図2・3)、同郡峰町・佐賀(さか)貝塚、同県下県郡対馬)豊玉町・ヌカシ遺跡、同県壱岐郡勝本町・松崎遺跡など、やや分布を広げる、晩期には、佐賀県東松浦郡呼子町・小川島貝塚の出土例がある。
 また、地理的には大きく離れるが、青森県八戸市・売場遺跡で南朝鮮系の尖底深鉢形櫛目文土器が出土しているという〔定森1999:10〕。
 このように、新石器時代の朝鮮産土器は極めて限られた分布を示す。これは、木村がこれらの土器の存在を漁撈具や貝製品における類似性とともに論じたように、生業を同じくするものたち同士の交流であったことを示している〔木村1997:32〕。
 3.青銅器・初期鉄器時代-縄文晩期~弥生中期
 朝鮮半島は紀元前1000年ごろから青銅器時代に入ると考えられ、紀元前1千年紀後半には初期鉄器時代に移行する。この両時代を特徴づける遺物の一つが、いわゆる無文土器である。無文土器は大きく西北朝鮮・西朝鮮・東北朝鮮南朝鮮の地域性があり、日本列島で多く出土するのは南朝鮮の無文土器である。その日本出土例は、すでに検討の対象となっており、詳細な分析も公にされている。さらに、最近では西朝鮮の無文土器の出土も知られるようになってきた。
 かつて南朝鮮の無文土器編年は前期(孔列土器)と後期(粘土帯土器)に二分されていた。忠清南道扶余郡・松菊里遺跡〔姜仁求ほか1979〕の報告が刊行されると、藤口健二は松菊里型土器が前期と後期の間に位置づけられると考え、松菊里型土器に代表される無文土器中期を設定し、これを夜臼(ゆうす)式から弥生前期前半に並行すると考えた〔藤口1986〕。この編年は、後藤直が「弥生文化成立期に平行する時期を中期として限定できる点で評価できるが今後の検証が必要である」〔後藤1987:356〕と評したように、弥生文化成立過程の重要な段階である「弥生早期」の認識に深く関わっていた。この無文土器中期に松菊里型土器、松菊里型住居、大陸系磨製石器という、弥生文化の成立を象徴する文化要素が揃うと期待されたのである。
 しかし、後藤が松菊里型住居と松菊里型土器に前後の時間差があることを指摘した〔後藤1992〕ため、むしろ松菊里型住居の登場する夜臼式土器が松菊里型土器以前となり、松菊里型土器直前の無文土器に関する認識が必要となった。家根祥多は藤口の編年を「欣岩里式と松菊里式とのヒアタスに気付かずに両者を連続して捉え」た結果〔家根1997:43〕とし、忠清南道瑞山市・休岩里遺跡〔尹武炳ほか1990〕、同道保寧市・館山里遺跡〔尹世英・李弘鍾1996〕などの資料がこれを埋めるとみて、「欣岩里式→大坪里式→休岩里式→館山里式→古南里式→松菊里式→校成里式」という無文土器編年を提示した〔家根1997〕。松菊里型土器の登場過程を示した編年として、評価しうるものであるが、松菊里式と校成里式の関係に不明確なところがある。
 従来の編年は、資料の不足から、南朝鮮の範囲内での地域性が充分考慮されぬまま土器型式の単純期が想定されていた、いわば“輪切り編年”であった。ここには、弥生文化の成立過程を説明する考古資料を求めていた日本考古学側の事情と、一方、新羅土器と加耶土器の分立以前に地域性の不明確な時期があり、その状況が無文土器後期にまで遡る、と考える韓国考古学側の事情があった。しかし、従来の編年観では、日本列島での無文土器出土傾向を充分に理解しえないと考える。そこで本稿では、南朝鮮の無文土器について、従来の編年を捉えなおすことにする。
 まず、文化のまとまりとして認識しにくくなった「中期」を解消する。松菊里型住居や、孔列土器以後の無文土器(ほぼ、家根の休岩里式から古南里式に相当するであろう)に特徴づけられる時期を前期後半無文土器とし、孔列土器は前期前半無文土器とする。前期後半無文土器を「中期」として残すことも、その文化内容や歴史的意義からみて一案であるが、中期=松菊里型土器という図式から脱却する意味でも、ひとまず中期は設定しない。
 後期は松菊里型土器と粘土帯土器によって構成されることになるが、両者の関係には不分明な部分があり、地域性を想定して一部並行とみなす藤口と、単純期をなして推移すると考える武末純一の意見がある〔藤口1986;武末1987〕。筆者は、両者の型式差の大きさや、それぞれ主たる分布地域が異なること、また、朝鮮半島東南部地域では前期無文土器にも後期無文土器(粘土帯土器)にも底部穿孔の甑(こしき)がみられるのに対し、西南部の松菊里型土器にはそのような甑が明確でない〔白井1997b〕、などの文化的な差から、必ずしも単純期をなして一方から他方に推移したとは考えない。そこでひとまず、松菊里型土器に代表される無文土器を後期西南類型の無文土器、粘土帯土器に代表される無文土器を後期東南類型の無文土器としておく。
 (1) 前期前半の無文土器-孔列土器
 孔列土器は東北朝鮮に由来すると考えられる前期前半無文土器であり、欣岩里式などに代表される。口縁部の下に円孔が開けられていることが特徴であり、器形は単純な逆円錐形で、底部は狭い平底である。日本列島では中の文化の縄文晩期・南の文化の貝塚文化中期に並行する。
 これまで、日本列島でははっきり舶載といえる孔列土器は知られておらず、南九州のいわゆる孔列土器も、“他人の空似”とみる意見がある。最近、片岡宏二により日本の「孔列土器」出土例が整理された〔片岡1998b〕が,それによると、島根県八束(やつか)郡鹿島町・佐田講武(さたこうぶ)貝塚包含層、同県松江市・タテチョウ遺跡包含層〔前島ほか(編)1979〕、同市・西川津遺跡包含層〔内田(編)1989〕、同県飯石(いいし)郡頓原(とんばら)町・板屋III遺跡第1地点旧河川〔角田(編)1998〕などの島根半島地域に孔列が半貫通のより古い例が、佐賀県唐津市・高峰遺跡包含層〔内田(編)1994〕、福岡市早良(さわら)区・田村遺跡溝状遺構SD1000(突帯文土器段階)〔二宮ほか(編)1989:12、13〕、同市南区・野多目遺跡水路SD-02下層〔山崎(編)1987〕、北九州市小倉南区・貫川遺跡包含層〔前田(編)1988〕、同区・長行(おさゆき)遺跡B地区包含層〔宇野(編)1983:49〕、福岡県小郡(おごおり)市・津古土取遺跡包含層〔片岡(編)1990〕などの北部九州地域に、孔列が貫通するやや後続の事例が集中しているという。これらは互いに初現地の系統を異にするとも想定されているが、いずれも舶載品とはいえず、在地の縄文晩期土器に孔列が加えられたとみなされるものである〔片岡1998b:190-193〕。
 さらに最近、沖縄県宜野湾市・宇地泊砂丘遺跡で孔列土器の出土が知られている〔任孝宰2000a〕。
 一方、「孔列土器」として取り扱われている土器について、無文土器に詳しい後藤直が「孔列土器(欣岩里式)との関係は疑わしい」と断じていることも、付記しておくべきであろう〔後藤1987:356〕。
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 朝鮮の先史時代は、人類が朝鮮半島に現れた時代のうち文字が存在しない時期を言う。朝鮮半島の先史時代は、ヨーロッパの地中海地域とは別にクリスチャン・トムセンが定義した「三時代体系」に区分するのが難しく、考古学的、地質学的、古生物学的研究に依存する。一般的に歴史及び考古学の時代区分によると、石器時代に該当し、石器時代は発掘される遺跡の性格により旧石器時代、中石器時代新石器時代に分かれる。その領域は朝鮮半島を中心にして、その起源及び伝播と関連があるロシア、シベリア、満州遼寧省、中国東部の文化も一緒に研究されている。
 地質学的先史時代
 朝鮮の新石器時代の石斧
 地質学的先史時代は朝鮮半島の過去から最も長い時代である。朝鮮半島で最も長い時代は、先カンブリア時代までさかのぼる。歴史の浅い地質システムが、これに該当し、ソウル周辺から北東方面の漣川郡に広がっている。そうした上下に分かれて、角閃石石英-長石片岩と大理石、石灰-硅酸塩、珪岩、黒鉛片岩、雲母-石英-長石片岩、雲母片岩、珪岩、眼球片麻岩、柘榴石、花崗岩で構成されている。朝鮮半島新生代に活動的な地質学的先史時代を経験していて、新生代になると次第に安定していった。中生代に形成された主要な点に慶尚道を含め、黒雲母花崗岩、頁岩、砂岩、礫岩質の安山岩玄武岩流紋岩、そして今日の慶尚道地方を覆っている凝灰岩で構成されていた。
 朝鮮半島人類の先史時代
 旧石器時代
 この時期の起源を比べてみると、原始人類が朝鮮半島に現れ始めていて、紀元前50万年前に遡る。最も早い出現が、旧石器の最初期まで遡る点については、懐疑的である。旧石器時代は土器の生産が始められる紀元前8000年頃に終了する。放射性炭素測定によると朝鮮半島で古代人の出現は、紀元前4万年あたりから3万年あたりを示している。古代人が紀元前50万年頃まで広がるとなると、ホモ・エレクトス朝鮮半島に存在したことを意味している。
 しかしながら、我々「新人類」のアフリカ大陸での出現は20万年前で、その一部が「出アフリカ(Out of Africa)」を果たし世界中に広がったのが、6万年前というのが、現在定説であるので、新人類が朝鮮半島に到着した時点は、せいぜい6万年よりかなり後とすべきである。これは上記の「放射性炭素測定」の結果が適切であることを示唆する。
 忠清南道光州市近辺の石壮里遺跡から旧石器時代初期の特徴を特徴を持つ遺跡が、最も低い層から発掘された。両面を削った石器と削る道具も、発見された。後期の時代に該当する遺物と思われる手斧とクリーバーも発掘された。
 旧石器中期には古代人たちは洞窟での居住を始め、堤川市のチョンマル洞窟と清州市のトゥルボン洞窟などが、その遺跡である。この2つの遺跡で犀の化石とハイエナと様々な種類の鹿など、絶滅した種の化石が発掘されている。
 チョンマル洞窟で狩りに使用した道具に見られる石器は、古代人の骨で作ったもので、動物の骨の骨角器と共に狩りをする際に飲食をした道具と見られる。栄養補給のための動物の皮も発掘されている。
 忠清南道公州付近の石壮里遺跡と他のカンアンの遺跡に旧石器の伝統を持つ石器時代の遺物が発見されて、付近に珪岩が、例を挙げれば、珪岩、斑岩、黒曜石などが旧石器前期のアシュリアン(Acheulean)やルバルアン(Levallois)の特性を持つ。このような石器は、模様が単純で、石英花崗岩(ペグマタイト)から取った物である。石壮里の中期層には投擲用のボーラ (武器)と投擲用の石が発掘されている。
 朝鮮の旧石器時代は、初期、中期、後期に分けられる。この内ヒトが残した遺跡は、主に旧石器後期以後の遺跡に現れている。
 旧石器時代の代表的な遺跡地には咸鏡北道先鋒郡屈浦里や平壌の祥原郡コムンモル、京畿道漣川郡全谷里、忠清南道公州市石壮里、忠清北道清原郡マンスリを指折ることができる。こうした遺跡地の発生年代は、今日の考古学会では約50余万年頃に遡ると推定されている。
 旧石器時代人は洞窟ではなく岩陰または川縁に家を作るのに僅かな群衆生活をしたものと見られる。その生活は大体獣の狩りと果実などの植物採集に依存したものとみられ、集団生活できる動機は、世界の異なる地域の全ての石器時代の人々のように効率的な狩りをするためのものと見ている。
 中石器時代
 中石器時代は1万年余り前に氷河期が終わり気候が暖かくなり、自然環境が入れ替わり旧石器時代の主要な狩りの対象物のマンモスや水牛などの大きな獣がいなくなり小さい獣が現れた。このような獣を殺すための武器である弓や鏃などが登場した。
 中石器時代の遺跡地
 ピルレモッ洞窟
 櫛目文土器時代
 詳細は「櫛目文土器時代」を参照
 朝鮮の新石器時代は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まり、新石器時代の主要な指標となるものは、磨製石器と櫛目文土器に代表される土器である。こうしたものは主に海や川の岸辺にこの時代の家を造り暮らしながら漁労や狩りをし、新石器時代後期になると初期の農耕段階に転換するところもあった。また石鍬と石犁で畑を耕し、石鎌で穀物ばかりか穂を刈り挽き石で挽き皮を剥ぎ粉にして食べた。
 朝鮮半島において、櫛目文土器は6000年前から現れるようになる。最古の櫛目文土器は遼河文明から発見されており、当時の朝鮮半島はウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が担う遼河文明圏にあったことが示唆される。
 無文土器時代
 詳細は「無文土器時代」を参照
 朝鮮の青銅器時代は銅と錫または亜鉛を少しずつ混ぜて作った青銅器を使用した時代である。この時代には一般的に無文土器と孔列文土器が主に用いられた。新石器時代のように石鍬を使用して田畑を開墾して穀物を植え、半月状の石刀で収穫した。
 水稲栽培をもたらしたハプログループO1b2 (Y染色体)が江南より到達したと考えられる。
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 韓国の考古学は、朝鮮半島に原始人類が現れたのは紀元前50万年と主張しているが、それはウソである。
 朝鮮半島の開国は紀元前2333年とする檀君神話は、朝鮮民族漢民族だけに通用するファンタジー物語である。
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 檀君神話
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 古朝鮮の建国神話。天孫檀君古朝鮮を開き、その始祖になったというもの。『三国遺事(さんごくいじ)』(紀異巻1)によると、天帝桓因(かんいん)の子桓雄(かんゆう)は、天符印(てんぷいん)3個を父より授けられ、徒3000を率いて太伯(たいはく)山頂の神檀樹(しんだんじゅ)という神木の下に降臨した。そして洞穴にいた虎(とら)と熊(くま)が人間に化すことを祈っていたので、蓬(よもぎ)と蒜(にんにく)を食べて忌籠(いみごも)るよう告げると、熊だけが女となり(熊女(ゆうじょ))、桓雄と婚して檀君を生んだ。檀君は平城に都を開き、1500年の間国を統治したという。この神話の前半の部分は、日本の天孫降臨神話に対応するものである。また、この神話のおもな登場人物である桓雄、虎、熊はそれぞれ主権、軍事、豊穣(ほうじょう)の機能を代表するもので、東アジアにおけるインド・ヨーロッパ諸族神話的な社会的三機能体系の一例である。他方、檀君神話でことに興味深いのは熊と虎の問題であり、熊女の忌籠りは巫女(みこ)の成巫(せいふ)過程に比例するものである。さらにこの神話は、北方ユーラシアの熊信仰と深い関係があり、ツングース系諸族、ことにアムールランドのツングース人の間に普遍的に分布している熊祖神話や、熊や虎と人間の女との交婚譚(たん)ときわめて深い親縁関係を示し、その一異伝と考えられる。したがって、これは朝鮮文化とツングース文化との密接な関係を物語っている。また歴史的にみると、支配者層に支持された箕子(きし)神話に対し、檀君神話は13世紀以降モンゴルなどの侵入に対する民衆の義兵闘争を契機として広まった、朝鮮の被支配階級の民族主義的神話である。
  なお、韓国では独立後の1948年から61年まで、檀君紀元(西暦の紀元前2333年を元年とする)を使用していた。
 [依田千百子]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 朝鮮の歴史では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。
 概説
 朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が約130mも低かったため、東シナ海の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけての海面上昇により当時の沿岸部は海中に没しているとされている。最終氷期に日本列島とは対馬海峡で短期間漂砂によって陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある。伊藤俊幸によると、紀元前1万年以前の旧石器時代の遺跡は50か所程度しか発見されておらず、紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない。
 大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎は、「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。これらの土器は、東三洞の他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されており、最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。それらの中に含まれていた豆粒文土器が、日本の長崎県泉福寺洞窟遺跡や福井洞穴などから発見される豆粒文土器と類似している」としている。朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており[5]、東三洞の対岸にある対馬の腰高遺跡からは7000年前の隆起文土器が発掘されていることと併せて、長浜浩明は、縄文人が7000年前から対馬を経由して無人朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出したとしており、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったとしている。金両基監修、姜徳相、鄭早苗、中山清隆編集の『韓国の歴史』によると、旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている。
 紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器の最古のものは遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されていることから、遼河文明の担い手であるウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。
 東三洞貝塚は3つの文化層からなり、最下層の1期層からは、隆起文・押引文・無文土器や磨製石器が、2期層からは櫛目文土器や黒曜石が、3期層からは無文平底土器が発掘されており、櫛目文土器にまじって九州の縄文土器片や、西北九州型の釣針・黒曜石が出している。東三洞貝塚で大量の縄文土器と九州産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない 。
 紀元前1500年頃から無文土器が出現し同時に支石墓が多数建造されるようになる。これに先駆けて紀元前2000年から紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化で、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、これらが北方から流入した可能性を示唆している。
 山海経には、紀元前1000年から前300年の朝鮮半島の様子が「蓋国は鉅燕の南にあり、それは倭の北であり、また倭は燕に属している」とあり、燕は遼東半島から南満洲辺りを指し、その南の蓋国とは北朝鮮辺りと考えられ、今の韓国辺りは縄文人の子孫である倭人が住んでいた。
 紀元前500年頃から水稲栽培が開始される。水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。この水稲文化をもたらしたのはハプログループO1b2 (Y染色体)の集団と考える学者がいる。
 朝鮮半島南部の勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している。
 朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な箕子朝鮮であり、その後衛氏朝鮮が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は前195年頃に燕人の衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国したという。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(植民地ともいわれる)されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。
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