🗻83〕─1─平安時代は地獄。平安京は群盗が横行するダークサイドシティであった。~No.212No.213 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 武士は、群盗が横行し治安が悪化した平安時代に生まれた。
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 平安時代は、数多くの自然災害が複合的に多発していた。
 平安京は幾度も大火が発生し、疫病による病死者や飢餓による餓死者が路上に捨てられ放置され死臭が漂う、生き地獄の有様であった。
 生き地獄の平安時代の生き方は、自己責任・自助努力・自力救済であった。
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 浄土教の鎌倉仏教は、救いのない地獄のような平安時代の絶望の中から生まれた。
 葬式仏教である日本仏教は、インド仏教はもちろん中国仏教や朝鮮仏教とは違う。
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 NHK 歴史探偵
 今夜も歴史の謎が解き明かされる
 「平安京ダークサイド」
 鳴くよウグイス平安京。しかし、ホントの「平安京」はそんな穏やかな町ではなかった!「災害」「犯罪」渦巻く1200年前のダークサイドシティに、歴史探偵が迫る!
内容
 俳優・佐藤二朗ひきいる「歴史探偵社」。今回探偵が調査するのは1200年前の京都――「平安京」。最新の科学機器を投入する徹底調査から見えてきたのは、「平安」のみやびとはまったく真逆なイメージ!町中で洪水を繰り返す川、凶悪犯罪集団と平安警察の対決、そこは「やられたらやり返す」暗黒都市だった。しかし、そのダークサイドから日本史を動かした「集団」が誕生する……明と暗が交錯する歴史のダイナミズムに迫る。
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 寛平・延喜東国の乱(かんぴょうえんぎとうごくのらん)は、平安中期に東国で発生した群盗による乱。889年(寛平元年)、強盗首物部氏永(もののべのうじなが)等が蜂起し発生した。
 概要
 8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなったことから地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が全国的に常態化するようになっていた。特に東国では9世紀半ばから後半を通じて俘囚の反乱が相次ぎ、群盗の活動の活発化と相まって、治安悪化が顕著であった。朝廷はこれらの鎮圧のために軍事貴族層を国司として派遣するとともに、国衙検非違使等を設置するなどの政策をとっていったが、群盗の活動は収まらず乱が発生したものである。
 乱の詳細は不明であるが、その鎮圧には10年余りかかったことが『扶桑略記』や『日本紀略』に記載されており、鎮圧後も、東国では「僦馬の党」の横行が顕著であるなど安定しなかった。
 これらの鎮圧過程で延喜年間に軍制の改革が進められ、国衙の軍事動員に対する規制が緩和された。従来は中央政府に発兵権があったが、国毎に警察・軍事指揮官として押領使を任命し、中央からの「追討官符」を受けた受領の命令で押領使が国内の武士を動員して反乱を鎮圧する体制に移行したとする説がある。
 また、坂東平氏の東国支配の要因ともなった。
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 僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安時代に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
 概要
 律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
 一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある[2]。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平から延喜年間には、昌泰2年(899年)に足柄峠碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
 これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望藤原利仁藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
 近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている。
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 平安群盗と原初の武士達(自衛武力)
 平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。
 凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。
 古墳時代は勿論、平安時代に入っても坂東(関東)やその先奥州まではまだまだ開拓原野が残る未開の地だった。
 まだ開拓原野が残るからこそ、平将門(たいらのまさかど)の新田開墾や源義国(みなもとのよしくに)と長男・源義重(みなもとのよししげ)が上野国に新たに田地を開拓し新田荘と為すなど時代だった。
 つまり平安群盗の出現には、米国開拓史に於けるインデアンの襲撃と同じような意味と情況が在ったのかも知れない。
 この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。
 つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。
 また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党(しゅうばのとう)」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。
 これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。
 つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。
 この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。
 これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたのは、平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末~十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。
 彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行ったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。
 朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。
 当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。
 詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。
 【源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】に続く。
 【豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に飛ぶ。
 【俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に戻る。
 【日本の伝説リスト】に転載文章です。
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 Japaaan Japaaanマガジン 歴史・文化 平安京犯罪都市だった?平安時代の強盗たちの犯行記録から見えてくる人々の姿
 平安京犯罪都市だった?平安時代の強盗たちの犯行記録から見えてくる人々の姿
歴史・文化角田晶生(つのだ あきお)
 @2021/02/17
 古来「職人気(しょくにんっけ。創作意欲)と泥棒気(どろぼうっけ)のない者はいない」と言われるように、いけないと分かっていても他人のモノを盗んでしまう難儀な人物が、残念ながら社会の中で一定数はいるものです。
 とうぜん平安時代にも泥棒や強盗は横行していたのですが、彼らがどんなモノを盗んでいたのか、また被害額(犯人にとっての稼ぎ)はどれくらいのものだったのか、実に興味深いところです。
 そこで今回は、当時の記録から平安時代の犯罪事情について紹介したいと思います。
 平安京を騒がせた、10人の犯行データ
 時は平安時代の長徳2年(996年)12月17日、京都洛中・左京の獄舎にこんな囚人たちがいたそうです(これで全員という訳ではなく、この日に判決が出た者とのこと)。
・大春日兼平(おおかすがの かねひら)
 生年:天暦元年(947年。50歳)
 出身地:山城国(現:京都府東部)
 罪状:強盗
 盗品:7種類
 被害金額:銭730文(※)相当
 量刑:布6反4丈を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品内訳:
 一、弓×1張(銭30文)
 一、胡籙(やなぐい。矢入れ)×1腰(銭50文)
 一、抜手綿(ぬきでわた。上着や布団から抜いた綿)×1領(かたまり。銭30文)
 一、麦×5斗(=500合。銭250文)
 一、麻布×2反(銭150文)
 一、手作布(自家製の布)×3丈5尺(銭250文)
 一、用紙×50帖(半紙にして1,000枚。銭50文)
 (※)内訳と合計が合わない。誤記か?
・岩松(いわまつ)
 生年:天徳3年(959年。38歳)
 出身地:讃岐国(現:香川県
 罪状:強盗
 盗品:4種類
 被害金額:銭4貫200文相当
 量刑:布2反2丈を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品内訳:
 一、絹×2疋(疋≒2反。銭4貫)
 一、菊色単衣(きくいろのひとえ)×1領(1着。銭50文)
 一、白単衣(しろのひとえ)×1領(銭50文)
 一、麦×2斗(200合。銭100文)
・清原延平(きよはらの のぶひら)
 生年:天禄3年(972年。25歳)
 出身地:山城国
 罪状:強盗
 盗品:2種類
 被害金額:銭5貫200文(※)相当
 量刑:布31反3丈6尺4寸(細かっ!)を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、白布帯×1腰(本。銭50文)
 一、銀銚子(しろがねのちょうし。酒器)×1口(銭5貫200文)
 (※)これも合計が内訳と違うが、白布帯は(銀銚子に比べ)安すぎてカウントから抜け落ちた?
・藤井国成(ふじいの くになり)
 生年:天徳4年(960年。37歳)
 出身地:大和国(現:奈良県
 罪状:強盗
 盗品:3種類
 被害金額:銭7貫500文相当
 量刑:布60反1丈3尺3寸(※)を盗んだ罪に換算
 (※)14反3丈と追記されている。後から何か発見されたか?
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、銀造太刀(しろがねづくりのたち)×1腰(銭5貫)
 一、馬×1疋(頭。銭1貫500文)
 一、米(よね)×1石(1,000合≒約150㎏。銭1貫)
・田辺延正(たなべの のぶまさ)
 生年:康保4年(967年。30歳)
 出身地:左京(現:京都市左京区
 罪状:強盗
 盗品:7種類(原文は「漆種」。漆は七の別記)
 被害金額:銭76貫300文相当
 量刑:布613反2丈&14反3丈(追記)を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、絹×137疋(銭37貫)
 一、綾(あや。高級な絹)×7疋(銭28貫)
 一、直垂(ひたたれ。武士の平服)×1領(銭3貫)
 一、褂(うちき。肌着)×11領(銭5貫500文)
 一、胡籙&箭(や=矢)×3腰分(銭1貫500文)
 一、黒作太刀(くろづくりのたち)×1腰(銭500文)
 一、手作布×2反(銭800文)
・津守秋方(つもりの ときかた)
 生年:康保4年(967年。30歳)
 出身地:山城国
 罪状:強盗
 盗品:1種類
 被害金額:銭100文相当
 量刑:布4丈2尺3寸を盗んだ罪に換算
 判決:徒刑(ずけい。懲役)4年
 盗品の内訳:
 一、釜×1口(銭100文)
能登観童丸(のとの かんどうまる)
 生年:康保4年(967年。30歳)
 出身地:山城国
 罪状:窃盗
 盗品:1種類
 被害金額:銭10貫相当
 量刑:布80反1丈5尺&50反(追加)を盗んだ罪に換算
 判決:流刑を加役(追加。あるいはグレードアップ)
 盗品の内訳:
 一、銀仏(しろがねのほとけ。仏像)×1体(銭10貫)
・大神福童丸(おおみわの ふくわらわまる)
 生年・出身地:ともに不明
 罪状:窃盗
 盗品:4種類
 被害金額:銭15貫700文(※)相当
 量刑:布125反5尺を盗んだ罪に換算
 判決:流刑を追加
 盗品の内訳:
 一、白褂(しろのうちき)×1領(銭700文)
 一、蒔絵櫛筥(まきえのくしばこ)×2合(銭10貫)
 一、紫檀念珠(したんのねんじゅ)×1連(銭3貫)
 一、綿×2屯(かたまり。銭300文)
 (※)これも合計が合わない。誤記?あるいは念珠が本当は「五貫」?
・菅野並重(すがのの なみしげ)
 生年・出身地:ともに不明
 罪状:強盗
 盗品:3種類
 被害金額:銭12貫500文相当
 量刑:布190反3丈を盗んだ罪に換算
 判決:記載なし
 盗品の内訳:
 一、馬×2疋(銭2貫)
 一、銀造太刀×1腰(銭10貫)
 一、胡籙×1腰(銭500文)
・紀重春(きの しげはる)
 生年・出身地:ともに不明
 罪状:強盗
 盗品:1種類
 被害金額:銭2貫相当
 量刑:布16反3尺を盗んだ罪に換算
 判決:流刑
 盗品の内訳:
 一、絹×2疋(銭2貫)
 【参考】
 通貨:1貫=1,000文(1文の価値は時代によって大きく異なる)
 布類:1疋=2反≒4丈(時代や素材によって異なる)
 長さ:1丈=10尺=100寸≒3.03m(1寸≒3.03cm)
 穀物:1石=10斗=100升=1,000合(1合≒150g)
 以上10名を比べてみると、盗品も金額もさまざまですが、高価なものを効率的に盗む者がいる一方で、あれこれと欲張ってはみたものの、金額的には大したことのない「骨折り損」な者もいたようです。
 その極めつけは津守秋方。彼に至っては逮捕や返り討ちのリスクを冒してまで強盗に及んだのに、奪ったモノは釜一つ(銭100文相当)という残念さ。
 一方、大神福童丸は蒔絵櫛筥(銭10貫)や紫檀念珠(銭貫)などと言った高価で持ち運びやすいものを選んで奪っており、犯行前の下調べなど充分に行っていたであろうことが推測されます。
 銀の仏像(銭10貫)を盗み出した能登観童丸もそうですが、名前から分かる通り彼らは寺院に仕えており、自分の身近に高級品がたくさんあることに気づき、欲に目が眩んでしまったのかも知れません。
 他にも気の利いた者は多額(たいていは重くて多量)なものと同時に輸送&逃走手段として馬も奪っており(あるいは予め用意してあり)、こうした犯罪においても「仕事ができるorできない」の差は顕著に表れるようです。
(※)当時の50歳と言えばもう老人、基本的に強盗は体力勝負の荒事であり、今回のデータでも大半が30代(年齢不詳の者もおそらく40代以下)です。
 ちなみに、兼平が盗んだ中には用紙50帖(半紙にして1,000枚)なんてものがあり、現代人なら紙なんて見向きもしないでしょうが、当時は紙が非常に貴重でした。
 他の生活物資を切り詰めてでも確保していたところを見ると、兼平が強盗に入った家の主は、学問を生業とする下級貴族だったのかも知れません。
 それはそうと、古来「窮すれば鈍する」という通り、生活が苦しければ充分な下見や計画を立てる余裕がなく、切羽詰まって麦を主食にするくらい貧乏な家へ強盗に入ってあえない末路を辿るのでした。
 もちろん他の者たちも結局逮捕されてはいるのですが、こういう要領の良し悪しは日ごろの仕事≒生活ぶりにも反映されるもので、それまでの人生においても兼平が色んな意味で苦労していたことは想像に難くありません。
 終わりに
 人間、極限状況になるとその本質がよく現れると言いますが、欲望がむき出しになる犯罪データからは、盗んだ人間のそれはもちろん、盗まれた側の暮らしぶりなど、さまざまな様子が浮かび上がってくるもの。
 平安時代と言えば『源氏物語』のようにやんごとなき平安貴族たちの雅やかな暮らしばかりがイメージされがちです。
 しかし、こういう地の底を這いつくばるように生きていた者たちの狡猾さや困窮ぶりにも思いを馳せてみると、歴史を学ぶ楽しみも、より深く味わえることでしょう。
 ※参考文献:
 繫田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』文春新書、2020年10月
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 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。
 概要
 平安時代弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。
 寛平7年(895年)、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、天暦元年(947年)に効率化、迅速化のために統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。
 司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
 平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。また、この頃から検非違使庁における事務は別当の自宅で行われるようになった。
 平安時代末期になると院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府六波羅探題を設置すると次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ、侍所に権限を掌握されることになった。
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