🏹18〕 ─1─日蓮聖人と『立正安国論』。国難、蒙古と高麗そして中国共産党とロシア。~No.53No.54 

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 立正安国論
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 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日)に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。
 概要
 日蓮が文永6年(1269年)に筆写したとされる本が法華経寺にあり(国宝)、他にも直弟子などによる写本が多数伝わる。更に真言密教批判などを加えた増補本(「広本」)が本圀寺にある。
 正嘉年間以来、地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次いだ。当時鎌倉にいた日蓮は、前年に撰述した『守護国家論』に続けて、政治・宗教のあるべき姿を当時の鎌倉幕府において事実上の最高権力者である北条時頼に提示するために、駿河国実相寺に籠って執筆した。後にこの書を持参して実際に時頼に提出している。
 日蓮は本論で、相次ぐ災害の原因は人々が正法である妙法蓮華経法華経)を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして諸宗を非難(特に法然と『選択本願念仏集』への批判が大部分を占めている)、法華経以外にも鎮護国家聖典とされた『金光明最勝王経』なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば災害や天変地異、天体運行の乱れなどが起き、国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)と唱え、邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)と説いた。
 この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮伊豆国流罪(伊豆流罪)となった。
 時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し(二月騒動)、朝廷では後深草上皇亀山天皇が対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。その後弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行うことになる。
 後に写本された『立正安国論』には 「此の書は徴有る文なり」の文言と、更に「未来亦然るべきか」の文言を含む『奥書』が付され、法華経に背き続ける限り仏法の定理のまま、国土の三災七難は治まらない、と説いた。
 本論で日蓮は、“くに”という字を“國”“囻”“国”の3字を使い分けた。國はLand、囻はNation、国はStateの義であろうとする説がある。
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 ゼロから学ぶ 日蓮聖人の教え
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 立正安国論【りっしょうあんこくろん】
 日蓮聖人の代表的著作である『立正安国論』は文応(ぶんおう)元年〈1260〉、鎌倉幕府に提出されました。当時の日本は、正嘉(しょうか)元年〈1257〉の鎌倉大地震を皮切りに、天変地異、疫病の流行、飢饉などの災害に次々と見舞われていました。そのような苦しい時代にあって、あるべき政策を提案した檄文(げきぶん)が、この『立正安国論』です。
 全体の構成は一種の「ドラマ仕立て」になっており、旅人と宿屋の主人との対話を通して話が進みます。その問答は、宿に立ち寄った旅人が、近年の災害の惨状を嘆くところから始まります。
 「ここ最近、天変地異、飢饉、疫病が蔓延している。牛や馬がいたるところで倒れ伏し、骸骨が道に山積みになっている。大半の人々が亡くなってしまい、このことを悲しまないものは一人としておりません」
 この嘆きに対して宿屋の主人は、数々の仏教経典を引用しながら「今の人々は仏教をないがしろにしているようです。だから神々は守護をやめて天上に帰ってしまい、この世はこうして荒廃し、災害が続いているのでしょう」と述べます。これが「善神捨国論(ぜんじんしゃこくろん)」と呼ばれる、有名な思想です。この「善神捨国論」は、現代では迷信のように感じられるかもしれませんが、不可知(ふかち)の存在への畏敬(いけい)の念を忘れて倫理観を失い、人間中心のエゴから自然破壊・環境問題が引き起こされ続けている今の時代においてこそ、見直さるべき思想でありましょう。
 この主人の意見に対し、旅人は「仏教がないがしろにされているとは思えない」と反論します。そこで主人は、当時流行していた、浄土宗の開祖・法然上人〈1133-1212〉に端を発する「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」について言及します。
 専修念仏とは、あらゆる他の信仰や修行を捨てさり、ただ念仏を唱えて極楽浄土に往生することだけを唯一の救済とみなすものです。法然上人の著作『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』によって説かれ、鎌倉時代に爆発的に流行しました。ところがその流行が行きすぎた結果、念仏以外の仏教が極端に軽視されるようになってしまい、主人によれば「ありとあらゆる教えや神仏をないがしろにする」風潮が蔓延してしまったということです。それが社会の荒廃や混乱の元凶だと、主人は主張します。
 これを聞いた客は、「それでは、まずそうした信仰の混乱を収め、社会の治安・秩序を回復させましょう。そしてあらためて、社会の根幹とすべき仏教がどうあるべきかを見極めましょう」と提案します。
 これに主人は賛同し、「そうしなければ、更に災難は続くことでしょう。なぜなら、仏教経典に予言されている様々な災難のうち、ほとんどは既に起きているものの、他国からの侵略〈他国侵逼難(たこくしんぴつなん)〉と国内紛争〈自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)〉の二つだけは未だ起きていないからです。このままいけば、この二つもきっと起きてしまうでしょう」と警告します。なお、この警告は後に文永十一年〈1274〉年に起きたモンゴル軍の襲来「元寇」と、文永九年〈1272〉に起きた北条氏一門の内紛「二月騒動」によって的中することになります。
 さて、「信仰の混乱が収まり社会秩序が回復したら、あらためて、社会の根幹とすべき仏教が何かを見極める」……ということですが、根幹とすべき仏教とは何になるのでしょう。その答えを暗示させる台詞を、主人は口にしています。
 「あなたも早く、その小さな心を改めて、すぐに「実乗(じつじょう)の一善」に帰依しなさい。そうすればこの世は、衰え壊れることのない仏の国、宝の土地になるでしょう。」〈原文:汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰へん哉。十方は悉く宝土(ほうど)也。宝土(ほうど)何ぞ壊(やぶ)れん哉。〉
 「実乗の一善」〈仏の道を行く真実の乗り物、唯一の善い教え〉とは、『妙法蓮華経』〈以下『法華経』と略記〉を指しています。『法華経』は、一見苦しみに満ちた、我々が生きるこの世界にこそ、永遠の仏が住む真の浄土が実現する、という教えを主題とする経典です。だからこそ「立正安国」、つまり「正しい教えを立て、安心安全な国を作る」という、本書が掲げる理想に最もふさわしい経典と言えましょう。
 先にも述べた通り、当時は専修念仏が一世を風靡(ふうび)し、現世より死後の幸福に期待する〈極楽浄土への往生〉、という信仰が主流でした。その中にあって日蓮聖人は『法華経』を中心として、「我々が生きるこの現世を、仏の浄土とする」という新機軸を、本書によって打ち出したと言えます。
 この日蓮聖人の新しい主張は、仏教の本義に基づくものであるとはいえ、その舌鋒(ぜっぽう)の鋭さから賛否両論をまきおこすことになります。
 『立正安国論』は幕府に無視されたばかりか、これを契機として聖人は数多くの攻撃や迫害を受けることになります。しかしその後、本書の警告通りに他国侵逼難・自界叛逆難が現実化したことから、その先見の明と正しさが名実ともに明らかとなり、一方で聖人を支持する人々も増えてゆくことになります。
 日蓮聖人は本書を晩年まで増補改訂し続け〈その増補改訂版は「広本(こうほん)」と称されます〉、最期の門弟への講義でも取り上げるなど、生涯に渡って重んじました。
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 創価学会公式サイト
 教学入門(教義)
 日蓮大聖人の仏法
 生命論(十界論)
 信仰と実践
 仏教の人間主義の系譜
 日蓮大聖人の御生涯(1)
 誕生~立正安国論
 日蓮大聖人の御生涯──それは、全人類の不幸を根絶し、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれた妙法弘通の御一生でした。そして、民衆の幸福を阻む一切の悪を責め抜き、大難に次ぐ大難の御生涯でもありました。
 (1)誕生・出家・遊学
 日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(千葉県鴨川市)という漁村で誕生されたと伝えられています。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。
 12歳から安房国清澄寺で、教育を受けられました。
 そのころ大聖人は「日本第一の智者となし給え」(888㌻)との願いを立てられました。父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越える仏法の智慧を得ようとされたのです。
 そして、大聖人は、仏法を究めるために、16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。
 このころ、「明星のごとくなる智慧の宝珠」(同)を得られたと述べられています。これは、仏法の根底というべき「妙法」についての智慧と拝されます。
 大聖人は、鎌倉・京都・奈良など各地を遊学し、比叡山延暦寺をはじめ諸大寺を巡って、諸経典を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握されていきました。その結論として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、御自身が覚った南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であり、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。そして南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う法として広める使命を自覚されました。
 *「末法」とは、釈尊の仏法が救済の力を失う時代のことで、当時の一般の説では、釈尊が入滅してから2000年以後とされていました。この説に基づいて「末法に入る」と考えられていた年は、永承7年で西暦に換算すると1052年にあたります。
 (2)立宗宣言
 遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出されました。
 建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて末法の民衆を救済する唯一の正法を宣言されました。これが「立宗宣言」です。
 立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。このころ、みずから「日蓮」と名乗られました。
 この立宗宣言の際に念仏宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)の東条景信は、念仏の強信者であったために激しく憤りました。
 そのため、大聖人に危害を加えようとしましたが、大聖人はかろうじて、その難を免れました。
 その後、大聖人は、当時の政治の中心であった鎌倉に出られました。名越あたり(松葉ケ谷と伝承)に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。当時、鎌倉の人々に悪影響を与えていた念仏宗禅宗の誤りを破折しながら、南無妙法蓮華経の題目を唱え、広められました。
 この弘教の初期に、富木常忍四条金吾(頼基)・池上宗仲らが入信しました。
 (3)「立正安国論」の提出と法難
 大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。
 特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。
 大聖人は、この地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、「立正安国論」を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。これが大聖人による最初の国主諫暁です(第1回の国主諫暁)。国主諫暁とは、国の主権者に対して、その誤りをただし、正義を明らかにして、諫めることです。
 「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じるという謗法(正法を謗ること)にあり、最大の元凶は法然が説き始めた念仏の教えにあると指摘されています。
 そして、人々が悪法への帰依を止めて正法を信受するなら、平和な楽土が現出するが、悪法への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難などの種々の災難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)の二つの災難も起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諫められました。
 * 三災七難とは、穀貴(飢饉による穀物の高騰)・兵革(戦乱のこと)・疫病(伝染病がはやること)の3種の災いと、星宿変怪難(星の運行や輝きが乱れること)・非時風雨難(季節外れの風雨の災害が起こること)などの7種の災難をいう。
 しかし、幕府要人は大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。
 「立正安国論」の提出後まもない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)。
 幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
 翌・弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。
 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
 文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。
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 聖教新聞
 用語解説
 立正安国論
 文応元年(1260年)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼[ほうじょうときより]に提出された国主諫暁[こくしゅかんぎょう]の書(17㌻)。五大部の一つ。諫暁とは諫[いさ]め暁[さと]す、すなわち相手の誤りを指摘して正しい道に導くという意。本抄御執筆当時、日本では飢饉・疫病・災害によって多くの民衆が苦悩にあえいでいた。本抄では種々の経典を引用しながら、こうした災難の根本原因は謗法[ほうぼう]であると明かし、その元凶は、浄土教の教え以外を捨閉閣抛[しゃへいかくほう]せよと主張する法然[ほうねん](源空)の専修念仏[せんじゅねんぶつ]であるとして、これをもっぱら破折されている。そして謗法の教えへの帰依をやめて正法に帰依しなければ、三災七難のうち、残る「自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん](内乱)」と「他国侵逼難[たこくしんぴつなん](外国からの侵略)」が起こると予言し警告された。しかし幕府はこの諫言を用いることなく、謗法の諸宗の僧らを重用した。その結果、二難はそれぞれ文永9年(1272年)の二月騒動[にがつそうどう](北条時輔の乱)、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の蒙古襲来[もうこしゅうらい]として現実のものとなった。本抄の構成としては、災難を嘆きその根本原因を尋ねる客(=北条時頼を想定)に対して、主人(=日蓮大聖人)が立正安国(正を立て、国を安んず)を説くという10問9答の問答形式で展開されている。なお、「広本[こうほん]」と呼ばれる身延入山後に再治された本には、真言などの諸宗を破折する文が添加されている。▷北条時頼/正嘉の大地震/三災七難/自界叛逆難/他国侵逼難/二月騒動/蒙古襲来/法然/『選択集』/捨閉閣抛/謗法
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 用語解説
 三災七難
 正法に背き、また正法を受持する者を迫害することによって起こる災害。
三災について大集経には①穀貴[こっき](飢饉などによる穀物の高騰)②兵革[ひょうかく](戦乱)③疫病[えきびょう](伝染病の流行)が説かれる(20㌻で引用)。
七難は経典により異なるが、薬師経には①人衆疾疫難[にんしゅしつえきなん](人々が疫病に襲われる)②他国侵逼難[たこくしんぴつなん](他国から侵略される)③自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん](国内で反乱が起こる)④星宿変怪難[しょうしゅくへんげなん](星々の異変)⑤日月薄蝕難[にちがつはくしょくなん](太陽や月が翳ったり蝕したりする)⑥非時風雨難[ひじふううなん](季節外れの風雨)⑦過時不雨難[かじふうなん](季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる(19㌻で引用)。仁王経には①日月失度難[にちがつしつどなん](太陽や月の異常現象)②星宿失度難[しょうしゅくしつどなん](星の異常現象)③災火難[さいかなん](種々の火災)④雨水難[うすいなん](異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難[あくふうなん](異常な風)⑥亢陽難[こうようなん](干ばつ)⑦悪賊難[あくぞくなん](内外の賊による戦乱)が説かれる(19㌻で引用)。
 日蓮大聖人は「立正安国論」で、三災七難が説かれる経文を引かれ、正法に帰依せず謗法を放置すれば、薬師経の七難のうちの他国侵逼難と自界叛逆難、大集経の三災のうちの兵革、仁王経の七難のうちの悪賊難が起こると予言されている(31㌻)。そして鎌倉幕府が大聖人の警告を無視したため、自界叛逆難が文永9年(1272年)2月の二月騒動として、他国侵逼難が蒙古襲来(文永11年=1274年10月の文永の役、弘安4年=1281年5月の弘安の役)として現実のものとなった。▷大集経/薬師経/仁王経/二月騒動/蒙古襲来
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蒙古襲来(もうこしゅうらい)
 鎌倉時代、元(蒙古)が2度にわたって日本へ襲来したこと。文永[ぶんえい]の役[えき]、弘安[こうあん]の役のことをいい、元寇[げんこう]、モンゴル襲来ともいう。
蒙古の第5代皇帝・フビライは、高麗[こうらい]を征服した後、日本征服を企てた。文永3年(1266年)、通好を求める国書をもった使者が日本に派遣されたが、途中で引き返した。同5年(1268年)正月には、蒙古・高麗の国書をもった使者が日本へ到着したが、鎌倉幕府はこれに返書を与えず、その後も数度の使者を無視した。このため文永11年(1274年)、元は高麗軍を含む約3万の兵と船900余隻をもって日本討伐軍を起こし、10月5日に対馬[つしま]、14日に壱岐[いき]、20日には博多に上陸した。しかし、間もなくして本国に引き揚げた。これを「文永の役」という。
 その後も元は使者を派遣してきたが、幕府は使者を斬って戦う姿勢を示した。元は弘安4年(1281年)、再び日本討伐軍を起こして約14万の兵を送り、7月末には九州北部に迫ったが、閏7月1日の台風により、軍の大半が沈没し敗走した。これを「弘安の役」という。その後、元は数度、日本征伐を計画したが、国内情勢の悪化で実現しなかった。
日蓮大聖人はこの蒙古襲来を「立正安国論」で予言された他国侵逼難[たこくしんぴつなん]が的中したものとされている。▷他国侵逼難/壱岐対馬
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 日蓮(承久4年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗法華宗)の宗祖。
 鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡流罪にされる。流罪を赦免後、胃腸系の病により入滅。滅後に皇室から日蓮大菩薩後光厳天皇、1358年)と立正大師大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
立正安国論」 
 日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて弘教活動を開始した。この年の11月、後の六老僧の一人である弁阿闍梨日昭が日蓮の門下となったとされる。鎌倉進出の時期については、建長6年または同8年とする説もある。
 鎌倉進出当時、日蓮が辻説法によって布教したと伝承されるが、日蓮遺文には辻説法を行った事実の記述はない。この時期に、僧侶としては日昭・日朗・三位房・大進阿闍梨、在家信徒としては富木常忍四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが日蓮の門下になったと伝えられる。
 正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした。伝承によれば、正嘉2年(1258年)、日蓮駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、同寺に所蔵されていた一切経を閲覧した[26]。この時期、日蓮が仏教の大綱を再確認した成果は、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめられた。
 その上で日蓮は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」を時の最高権力実力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った。「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにある。その故に国土を守る諸天善神が国を去ってその代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる(これを「神天上の法門」という)。そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法の帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張する。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が生ずると予言し、警告した。
 「立正安国論」で日蓮は、とりわけ法然の専修念仏を批判の対象に取り上げる。それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも徹底した念仏批判が展開されている。
 蒙古国書の到来
 文永5年(1268年)1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に到着した。両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した。蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺良観、建長寺道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇の格言」を見ることができる。
 しかし幕府は日蓮の主張を無視し、むしろ日蓮教団を幕府に従わない危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した(「種種御振舞御書」)。
 文永の役
 文永11年(1274年)10月、3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬壱岐に上陸、防備の武士を全滅させ、さらに博多湾に上陸した。日本の武士は蒙古軍の集団戦術や炸裂弾(「てつはう」と呼ばれた)や短弓・毒矢などの武装に苦しめられ、戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は深刻な被害を受けた。日蓮は2年後の建治2年(1276年)に記した「一谷入道御書」で対馬壱岐の戦況を記述している。
 幕府は文永の役の後、再度の襲来に備えて戦時体制の強化を図り、防塁の建設や高麗出兵計画のため、東国から九州へ多数の人員を動員した。日蓮は故郷から離れて戦地に赴いた人々の心情を詳しく述べている。
 弘安の役
 蒙古(元)は弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。弘安4年5月、東路軍が高麗の合浦(がっぽ)を出発、対馬壱岐に上陸して住民を殺害した後、6月6日、江南軍との合流を待たず、東路軍だけで博多湾に到着し、上陸作戦を開始した。東路軍と江南軍は、7月初旬、平戸島付近でようやく合体したが、閏7月1日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却していった。
 弘安の役に際し戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」[71]と、教信の苦衷を汲み取りながら後生の成仏は間違いないと励ましている。
 弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する事件だったが、日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた[72]。再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた[73]。
 立正安国論
 詳細は「立正安国論」を参照
 日蓮が文応元年(1260年)7月16日[注釈 46]に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。
 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮伊豆国流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。
 しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。
 日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。
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日蓮「立正安国論」全訳注 (講談社学術文庫)
現代日本語訳 日蓮の立正安国論