🗾20〕─1─日本民族の祖先は南方系海洋民の縄文人。縄文時代の人口。~No.60No.61 

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 縄文時代の総人口 
 早期は約2万人。
 縄文中期は約26万1千人。
 縄文後期は約16万人。
 縄文晩期は約7万6千人。
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 ニュース
 縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
 2019.06.25
 縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
 東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。
 現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
 縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
 縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している(提供・東京大学
 関連リンク
 東京大学プレスリリース「現代人のゲノムから過去を知る〜Y染色体の遺伝子系図解析からわかった縄文時代晩期から弥生時代にかけておきた急激な人口減少〜」
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 日本経済新聞
 縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析
 2019年6月18日 11:40
 縄文時代の終わりに人口が急激に減少していたことが現代の日本人男性のDNA解析で分かったと、東京大の大橋順准教授(集団ゲノム学)らのチームが18日までに、英科学誌に発表した。狩猟採集生活の中、寒冷化し食べ物が減ったことが原因で、弥生時代になって稲作が朝鮮半島を経由して伝わり、食料供給が安定すると、人口は急回復したとみている。
 チームは、男性だけが持つY染色体を解析。弥生人の母体となった集団の子孫に当たる現代の韓国人や中国人にない、縄文人特有と思われる型を持った122人について、変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 その結果、彼らの祖先は縄文時代の終盤、急激に数が減少したことが判明した。時代が移り変わっていく3200~2千年前の間に、一時は26万人に達したとされる人口が3分の1にまで減った計算になったという。
 縄文時代は1万5千年ほど前に始まったが、途中で遺跡の数や規模の縮小が起きており、人口が減ったのではないかとする仮説があった。今回はDNA解析から、その説を補強した形だ。
 大橋准教授は「この手法は、縄文人弥生人が混血した日本人同様、混血によって誕生した他の集団の人口変化の類推にも使える」としている。〔共同〕
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 人口から読む日本の歴史       鬼頭宏著
 人口推移の四つの波
 縄文時代から21世紀に至る日本人口の推移は4つの波があった。第一は縄文時代の人口循環、第二は弥生時代に始まる波、第三は14・15世紀に始まる波、そして最後は19世紀に始まり現代まで続く循環である。
 縄文
 縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも約2度低かった。しかしその頃から気候は温暖化しはじめ、6千年前には現在より1度以上高くなった。気候温暖化に支えられて、関東・中部の人口は縄文中期までに環境の人口支持限度いっぱいに達していた。そのような状況にあるときに気候の悪化が起きるとまず動物相に影響があらわれる。そして生産力の低下にもかかわらずいっそう環境から多くのものを引き出そうとするから、環境の悪化ないし破壊を加速してしまう。その結果として一人あたり食料消費量は減少し、栄養不良の状態が拡がることになる。同時に、縄文時代後半には大陸から新しい文化をもった人々が渡ってきていたが、縄文人にとっては免疫のない新しい病気ももたらされたと考えられる。
 水稲農耕化
 紀元前3世紀ころ九州北部に稲作農耕の受容により弥生文化がおこり、紀元前100年頃までには西日本一帯をおおい、1世紀には東北南部、そして3世紀には北海道を除く日本列島のほぼ全域に拡がり、日本の人口は急速に増加しはじめた。この人口成長は千年ほども続いたのち、8世紀を過ぎるころから成長を鈍化させて、11世紀以後になると人口循環を一巡させた。稲作の導入は二つの面から人口を増加させた。一つは稲作の高生産力が日本列島の人口支持力を著しく上昇させたこと、そしてもう一つは水田耕作が多くの労働力投入を必要としたことである。
 弥生時代以降の人口増加には、縄文時代から日本列島にすみついていた人々の自然増加によるだけでなく、海外からの移住にささえられた増加もあった。そもそも稲をもたらした人々は、渡来人であった。シミュレーションの結果、弥生時代初期から奈良時代初期までの千年間に150万人程度の渡来があり、奈良時代初期の人口は血統からみて、北アジア系渡来系が八割あるいはそれ以上、もっと古い時代に日本列島にやってきて土着化していた縄文系(原日本人)が二割またはそれ以下の比率で混血した可能性が高いという。
 水稲農耕化社会の成長の限界
○当時の技術体系のもとで可能な耕地拡大と土地生産性の上昇が望めなくなった。
○12世紀の乾燥化の影響は度重なる旱害となって現れた。その極度が1181年の日照りによる大飢饉であった。
○大陸から日本に人口移動とともに天然痘が浸入し流行した。
○公地・公民制は9世紀には動揺しはじめ、10・11世紀には解体した。代わって出現したのは荘園・公領制であった。土地の私有化は初期には原野の開墾を促す要因となったが、律令制的土地制度の崩壊は、高度な技術と大量の労働力を駆使して大河川流域の平野を開拓し、排水・灌漑施設を維持することを困難にした。
 経済社会化
 江戸前期に連なる人口成長の波は、14・15世紀に始まり、その後四百~五百年を支配して、18世紀まで継続した。それを支えた原動力は経済社会化、すなわち市場経済の展開に求めることができる。室町時代は文明システムの転換にとって重要な時代であった。現代日本人にとって伝統的な文化とみなされているものの多くがこの時代に生まれ、あるいは中国・朝鮮・ヨーロッパ(南蛮)などから取り込まれた。
 世帯規模と世帯構造の大きな変化によってひき起こされた出生率の上昇が人口成長の主要因となっている。世帯規模の縮小は、傍系親族と隷属農民の分離あるいは消滅によって、社会全体の有配偶率を高め、その結果として出生率の上昇に結びつく。いわゆる小農民自立と呼ばれる現象で、人口成長は、隷属農民の労働力に依存する名主経営が解体して、家族労働力を主体とする小農経営へと移行する農業経営組織の変化と結びついていた。
 18世紀になると人口は停滞する。重い年貢賦課や度重なる飢饉によって餓死や堕胎・間引が横行したためと説明されることが多い。しかし、最近では、死亡率はむしろ改善されており、堕胎・間引にしても将来の生活水準の低下を防ぐ目的で、予防的に行われていたとみなされている。
 工業化
 19世紀に始まり現代まで続く工業化の波である。工業化社会を生み出した産業革命の基本的特徴は、文明が依拠するエネルギー源を生物的資源から非生物的資源へと転換したことにあった。石炭、石油、天然ガスといった化石燃料や、原子力、おもに水力発電の形で利用する自然力などの、非生物的エネルギー資源の大規模な使用が、いくつかの側面から未曾有の経済成長と人口成長を可能にした。
○非生物的エネルギー資源の利用は耕地を大幅に食糧生産に振り向けた。薪炭生産のための林野や、役畜飼育のための牧草地・飼料畑を必要としなくなった。
○生物(木)の生育速度に束縛されていたエネルギー供給が、その制約から解放された。いつでも必要なだけのエネルギーを取り出して、人口成長を上回る経済成長を達成することができた。
○工業生産物が農業生産力を高い水準に押し上げた。機械力の導入、農薬・化学肥料の投入はそのもっとも目覚しいものである。
 現代の世界の人口の推移
 現代の人口増加は、発展途上国で大きく、先進国ではゼロ成長に近い。発展途上国における高い出生率は貧しさとむすびつけた説明がなされている。子供が労働力として役立ち、ささやかであっても賃金稼得の担い手になりうる場合や、同族の拡大が成員の生活保障に役立つ場合には、貧困が多産に結びつく。また、発展途上国における高い人口増加率を、人口転換の実現過程における過渡的な現象であるとする見方がある。近代以前の社会では多産ではあったが死亡率も高かったので、人口増加は小さかったとされる。近代化の過程で医薬や医療が進歩し、水道や病院などの社会資本が整備されることによって、死亡率が下がりはじめる。ところが社会的な慣習となっている出生行動は急には変わらない。高い出生率が維持されたままに、死亡率の低下が進展する。この多産少死が、近代人口成長の局面を生み出すのである。しかしやがて出生率も低下に向かい、やがて少産少死が実現して、人口増加はゼロ成長に近づいて安定する。
 20世紀の先進国が経験したのは、死亡率の低下に遅れて、あるいは平行して出生率の低下が起きたことであった。まず晩婚化である。とくに女性の教育水準の上昇と家庭外での就職が増えることによって結婚年齢が上昇した。しかし出生率低下のおもな要因は、むしろ有配偶出生率、すなわち夫婦間の意図的な出生抑制であった。子供をもつことの価値が減退したのに対して、子供をもつことに財政的にも、心理的にも負担が増大しているのである。
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 NATIONAL GEOGRAPHIC
 TOP > Webナショジオ 第2回 鬼頭宏(歴史人口学者) その2 縄文時代、26万人でピークに世界人口から考える、日本の未来
 第2回 日本が乗り越えてきた4つの人口の波
 歴史人口学者 鬼頭宏
 世界の流れと逆に、急激な人口減少期を迎えた日本の未来を考える本企画。第2回は日本の人口の変遷に詳しい上智大学教授の歴史人口学者、鬼頭宏氏に話を聞いた。日本人は過去の人口減少をどう克服して1億2800万人の現代日本を作り上げてきたのか。歴史をたどり、日本の人口の今と未来を探る(インタビュー、文=福光恵)
 その2 縄文時代、26万人でピークに
 日本列島が、初めての大きな人口減少期を迎えた縄文期は、こんな時代だった。
 「紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられています」
 住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったといわれる。ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少する。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だった。
 原因は、気候変動で気温が下がり、食料供給量が激減したこと。クルミ、ナラ、トチの実……貴重な食料であったナッツ類が気温低下の影響を受けて激減してしまう。そして食料の供給量に合わせるように、人口はみるみる減っていった。
 「この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一瞬、大きく人口を減らしたこともあった。ただしこれは、地域的なものであって、列島全体の人口減少という波には結びつかなかった」
 26万人といえば、東京ならほぼ墨田区の人口となる。これが日本列島全土を使って生活していたと考えると、かなりの余裕の人口密度と考えがちだが、
 「当時の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったんです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった」
 パンパンに膨らませた風船が一瞬で割れるように、大きく人口は減り、人口曲線はひとつめのピークを描き始める。
 26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減し、まもなく迎えた弥生時代。再び人口は増加に転じる。海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。食料供給量がアップして、それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げたのだ。
 そんな「正のスパイラルによって」、紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びていく。
 この縄文後期の人口減少期から、弥生時代の人口増加期にかけての人口カーブは、日本列島の人口変動に共通する黄金パターンと言うことができる。その後も、日本列島の人口の増加のポイントには、多くの場合、海外から持ち込まれた技術革新があったからだ。新しい技術や社会制度などが持ち込まれるたびに、文明システムが転換し、人口は増えていった。
 一方、そうした新しい技術が定着し、発展の余地がなくなると、人口は横ばいに転じるのが常。そこに気候変動などが起こると、一転、人口が減少していく。これが、日本の人口変動のひとつのパターンとなっている。
 稲作技術をきっかけに始まったこの人口増加も、その後奈良時代には500万人と順調に伸びていったが、平安時代の700万人をピークに再び減少期に入っていく。
 この減少の原因となったのは、社会システムの変動。 「それまで、ひとりひとりが朝廷に租庸調を収めることで経済が回っていた中央集権国家が、平安時代に入ると次第に形骸化していきます。と同時に、耕地の開発にブレーキがかかっていきました」
 中央集権の仕組みがゆるんで、国家が弱体化。農地開発にまで手が回らなくなったためとも言われる。
 「実際には、開発できる土地の余地は、まだこのときはたくさんあったと思います。ところがその開発が次第におこなわれなくなってしまう。そうして荘園領主は開発よりも寄進によって荘園を拡大するようになり、国からも国民からも、意欲が失われていった」
 そこへきて、平安時代には再び気候変動が起こる。今度は、温暖化だ。この温暖化によって、西日本はとくに乾燥が進み、水田などの水の確保が不安定になっていったという。弱体化した国家では、新たな農地灌漑をおこなう余裕もない。こんなふうにして、日本全体が、末法思想の広がりにみられるように未来に失望する停滞ムードに包まれ、人口停滞を招いていった。
 「この時代は、気候変動による飢饉や天然痘の大流行などの記録も残っています。ただし、本格的な人口減少を招いたのは、意外に、このような人の心理も大きかった。未来に希望を持てないという、心理的なブレーキと気候変動などの外的要因がセットになって、人口減少期に入る例は、このあとの時代も不思議と多いですね」
 こうして人口は、平安中期にブレーキがかかったまま、鎌倉、室町時代を迎える。これが日本の人口曲線の2つめの山となった。
 「第2回 鬼頭宏(歴史人口学者)」最新記事バックナンバー一覧へ
 その5 出生率増加に足りないものは?
 その4 開国で訪れた第4の巨大な波
 その3 “貨幣”が人口を増やした
 その2 縄文時代、26万人でピークに
 その1 日本に最適の人口は何人?
 鬼頭宏(きとう ひろし)
 1947年生まれ。上智大学経済学部教授。専攻は日本経済史、歴史人口学。「宗門人別改帳」などの史料をもとに、縄文時代から江戸時代までの人口推移をあらためて明らかにした。著書に「人口から読む日本の歴史」「文明としての江戸システム」(ともに講談社学術文庫)、4月には「2100年、人口3分の1の日本」(メディアファクトリー)も刊行。
 福光 恵(ふくみつ めぐみ)
 1960年東京都生まれ。美術業界で働いたのち、フリーライターに。日経新聞プラス1「コトバの鏡」、アスキードットPC「自腹で大人買い」などの連載あり。・・・
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 R RADIANT 
 立命館大学研究活動報 STORY #7
 縄文時代から現代の人口問題を見つめ直す
 中村 大
 立命館グローバル・イノベーション研究機構 助教
 縄文時代の人口を推計する
 新しい計算法を開発。
 日本列島の人類史のなかで、約15000から2500年前までを縄文時代という。採集・漁労・狩猟のほか栽培も行うなど多角的な生業経済を基盤とし、多様な地域文化が育まれていた。統計解析などの定量的な分析手法を用いた考古学・歴史学研究を専門とする中村大は「最近は火炎土器や土偶など造形の魅力で話題になることが多いですが、小規模社会システムの研究対象としても縄文時代は興味深いものです」と語る。
 「自然環境や社会環境に適応しながら生きているという点では現代社会と縄文時代にも共通するところがあります」と中村。とりわけ中村が過去の人間の営みや社会環境を知る上で最も重要な指標の一つとして注目するのが「人口」である。「人間集団の規模つまり人口の増減は、生存に必要な経済システムに影響を与えます。また、社会システムにおける組織のあり方や成員間の関係性に変化をもたらし、人びとに心理的な影響をおよぼします。それが、社会意識や価値観を変化させる『ゆらぎ』となるのです」と中村。こうして人口研究の重要性に気付き、約40年間ぶりとなる縄文時代の人口推計の更新にとりかかった。そのために開発した新しい手法は、学術界で注目を集めている。
 人口を明らかにする最も確かな方法は、人数を数えることだ。「しかしこれが可能なのは全国人口調査が始まった18世紀前半以降です。奈良時代の戸籍は残念ながら断片的にしか残っていません」と中村。それ以前の人口を知るには人数と関連するデータを使って推測する間接的な推計しかない。例えば、総田地面積と単位面積当たりの収量で養える人数から人口を推計する方法は歴史人口学でよく使われる。中村はこうした方法を「乗算法」と名付け、縄文時代の人口推計に応用しようと考えた。
 縄文時代の人口に関係ある有力なデータは、竪穴建物(住居)数である。もし縄文時代の総住居数がわかれば、それに1軒当たりの居住者数を掛けることで人口を導き出せる。「しかし問題は、これまでに発見された竪穴建物跡が当時の建物のすべてではないことです」。そこでまず中村は、現在発見されている縄文期の竪穴建物数が当時の総建物数の何%にあたるかを推計する方法を考え出した。
 目を付けたのは、同時代の文献資料と竪穴建物の考古資料の両方が揃う東北地方だ。「『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という古文書に記された田地面積にもとづく人口推計の先行研究から、10世紀前半の青森県と岩手・秋田県両県の北部にまたがる北辺地域の人口を約32万人と推定します。一方、同時期の建物跡の発見数はおよそ4,800軒。1軒の居住者を4人とすると、当時北辺地域には約8万の竪穴建物があったと推計できます」。これらの数字から現在の竪穴建物跡の発見率を導き出せる。さらに発見率の逆数に対象地域で発見された竪穴建物跡数、および1軒当たりの居住人数を掛ければ、地域人口を推計できることになる[式A]。
 加えて「もう一つ考慮すべきなのが『時間』です」と続けた中村。竪穴建物跡数の推移には出土した土器の型式とその放射性炭素年代を用いる。土器は一定速度で変化するわけではないため、縄文前期から晩期(約7000から2500年前)までの各型式の時間幅は80年~350年もの幅がある。中村はこれを25年幅に換算し直し、推定人口値を計算。この計算法をもとに青森県八戸市域や秋田県北秋田市域の縄文時代の土器型式別人口を推計した[式B]。
 次いで中村は、人口の推移と地域の考古資料の関連性を調べ、興味深い指摘を行っている。その一つが約4000年前の縄文後期に東北北部に出現した環状列石と人口との関連だ。環状列石は数千個の石を直径30~40mの円状に並べた巨大なモニュメントで祭祀に使われたと考えられている。中村は環状列石の作られた時期と人口推移を照らし合わせ、人口が増加した時期に多くの環状列石が出現することを見出した。「人口が増加すると食料などが不足し、資源環境が悪化します。加えて人間関係や社会が複雑化し、情緒的な問題も起こりやすくなります。そうした社会環境問題を解決し、成員間のコミュニケーションを円滑にする装置として環状列石の祭祀が生み出されたのではないでしょうか」と中村は分析する。人口集中地域と環状列石の分布がよく一致することもこの仮説を裏付けるという。
 それとともに、せっかく作られた環状列石がなぜ廃棄されたのか、ということにも目を向ける。「約3800年以降は人口が減少し、環状列石は利用されなくなりますが、それに代わり新しいスタイルの土偶祭祀が出現します。人口減少に伴い生じた社会環境の変化に新たな祭祀を生み出すことで対応したと考えられます」と中村。さらに、「現代は個人主義グローバル化のはざまで地域社会など少数システムの存在意義を見失いがちではないかと感じます。そこに縄文時代の小規模社会研究の現代的意義があるのでは」と語る。
 人口の増減に対し、いにしえの人々はどのように適応したのか。近代文明社会は本格的な人口減少期を経験しておらず、過去を紐解くことが現代の人口問題を考える上で重要な手掛かりになると中村は指摘する。過去の文化や社会を理解することで現代を見つめ直す新たな視点を獲得する。それこそが考古学研究の醍醐味だと中村は結んだ。
 中村 大
 Nakamura Oki
 立命館グローバル・イノベーション研究機構 助教
 研究テーマ:縄文時代における人口変動と社会変化に関する定量的研究、近世・近代における地理情報システムを活用した食文化研究、考古学と現代アートの協働による考古学の文化資源化
 専門分野:考古学、食生活学文化財科学・博物館学、統計科学
storage研究者データベース
 2020年3月2日更新
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人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)
[図説]人口で見る日本史
日本二千年の人口史―経済学と歴史人類学から探る生活と行動のダイナミズム (二十一世紀図書館 (0006))