🗾45〕─2─弥生時代の人口増加は米・麦・穀物・山菜・果実・魚介類・獣肉などの多様の食糧事情。~ No.135 

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 弥生時代の総人口は約60万人。
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 第1章 弥生時代の年代
 弥生時代のはじまりは紀元前5世紀頃、終わりは紀元3世紀頃(この間約700年)というのが、これまでの通説です。近年、自然科学的な年代測定法により弥生時代の始まりは、それまでの説より約500年早い「紀元前10世紀頃」という説も出てきています。
 1.弥生時代の始まりと終わり
 弥生時代の終わりを表す指標 巨大な墳丘墓をもつ王
 弥生時代の始まりを表す要素が水田稲作農業の開始と金属器の登場なら、弥生時代の終わりを表す要素は、巨大な墳丘を持つ王の墓です。
 弥生時代の後期後半になると、中国地方、北陸地方四国地方、東海地方など日本列島各地で大型の墳丘墓が現れます。 墳丘墓は吉野ヶ里遺跡で既に中期前半に築造されていますが、その後徐々に各地で築造されるようになります。 これは、日本列島各地で地域を統括する首長が台頭してきた表れと見ることができます。 弥生時代後期末頃には、近畿地方や東海地方、中国地方や北陸地方の土器が日本各地で出土し、広範な交流が行われたことを窺わせます。 1~3世紀(弥生時代の後半)には、中国の歴史書に記述されているように、邪馬台国など日本列島内の主要な勢力が中国と独自のルートで交流を始めていました。 こうした一連の動きは、列島内の各地に首長を中心とする地域的なまとまりが現れ、クニやクニの連合を形成していったことを示していると考えられます。 しかし、弥生時代末期の段階ではまだ地方色を備えたものでした。次の段階になると、多くの地域で環壕を持った集落が一挙に消滅するようになります。 この後、奈良盆地南部に巨大な前方後円墳が出現し、さらに列島各地に前方後円墳が築造されるようになります。
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 浜島書店
 歴史のQ&A
 弥生人米食人?
 質問
 弥生時代になると稲作が広まると書いてありましたが,米が主食になった社会と考えてよいでしょうか?
 解答
 結論から言いますと,弥生人米食人というのは間違いです。
 遺跡から出てくる穀物の中でも,66%はイネですが,ムギ・ヒエ・アワ・キビ・ソバなど多様な穀物が一緒に出てきます。また,植物食という範囲で見ると,ドングリ類がだんぜん多く,二番がイネ,ついでモモ,マメ,ヒョウタン,クルミ,クリ,ムギと続きます。
 吉野ヶ里遺跡でも,食糧をささえるもののうち,コメはわずか20%程度といわれます。寺沢薫ほか「日本の歴史3」講談社に,そのことがくわしくのべられています。
 さらに,福岡県横隈遺跡や奈良県唐古遺跡から推定される稲の収穫量は,「1反あたり60kg。現代では1反あたり400kg」。現代から見れば1/6以下の生産性であったと考えられています。
 縄文時代弥生時代の人口の変化については,縄文時代は早期・前期・中期・後期・晩期の五つの時期に区切った人口推計と弥生前期とをあわせて示したグラフがありますが,このグラフは,一つは,温暖な縄文中期に人口増加が目立つことを表しています。二つは,縄文時代の晩期になると,人口の減少がいちじるしくなります。社会が行き詰まった状態を思わせます。三つは,一転して弥生時代になって人口の急増することを表しています。 不安定な食生活に比べて,食糧の中心にはならないが,保存性のある再生産率の高い稲作の成果を無視することはできません。
 また渡来してくる人々の数も,私たちが想像以上に多かったと推計されています。
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 日本に移り住んだ弥生系渡来人は、大陸や半島で政争や戦争に負けて逃げてきた弱者や敗者で、未開の縄文人達に伝えたのは国家運営の「政治」、水田稲作の「経済」、人を殺す「戦争」、国と国との「外交」などなどであった。
 日本全国に邪馬台国などの小国が乱立し、小国家間での戦争(弥生の大乱)を繰り返して、地域王国に成長していった。
 そうして成立したのが、ヤマト王権、出雲王国、吉備王国、丹波王国、越王国、筑紫王国、東海王国、毛野王国、総王国、隼人王国、その他、などの地域王国であった。
 大陸帝国(中国)や半島王国(朝鮮)の侵略から日本列島を守る為には、日本を武力で統一する必要があった。
 マルクス主義史観は、ヤマト王権天皇)の日本統一を侵略による犯罪として否定している。
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 弥生時代の人口増加は、半島や大陸から大量の渡来人が渡ってきたからではなく、国内での稲増産による食糧確保であった。
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 弥生時代水田稲作が本格的に開始され、日本の総人口は約60万人に増加した。 
 地域別では、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がなかったが、近畿や中国地方では20倍以上、四国や九州では10倍以上に急増した。
 日本の人口分布は、縄文時代は東日本に集中していたが、弥生時代では西日本に人口が急激に増加した。
 西日本に人口が急増した原因は、稲の水田耕作にある。
 日本にもたらされた稲は、揚子江流域で栽培されていた熱帯産の稲であった為に、温暖な西日本に適し、冷涼な東日本には適さなかった。
 その結果、米食を主食とする近畿地方を中心とした西日本で人口増加は急速で、米食以外の畑作物や堅果類の比率が高かった東日本での人口増加は緩やかであった。
 日本民族の人口は、米食文化として、水田稲作における耕地拡大や収量の増加で増えていった。
 古墳時代には、日本全体の人口は約540万人に増えた。
 奈良のヤマト王権は、同盟を結んだ諸王国に前方後円墳と土木・灌漑技術を伝えた。
 派遣された農業指導者は、ヤマト王権の農業奨励政策などで耕地が拡大し米の生産量が増え事によって、諸王国で扶養できる人口数も大幅に増加した。 
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 Special Features 1
 食文化の変遷と栄養
 巻頭インタビュー
 静岡県立大学学長鬼頭 宏
 構成◉大朏博善 composition by Hiroyoshi Otsuki
 「歴史人口学」からみる
 食と人口の関係
 「食べることは生きること」といわれるように、食べ物と栄養は人類の歴史に大きく影響してきた。たとえば食糧事情と栄養状態が良くなると地球的規模では人口が増加し、それにともない資源問題が顕在化する。しかし一方で、日本など多くの先進国では少子化が問題となっている。人口から歴史を読む「歴史人口学」の第一人者・鬼頭宏静岡県立大学学長に「人口変遷と食資源環境」の関係を聞く。
 これまでの人類史の大半は“どのようにして食べていくかの歴史”でもあったのは、いまやよく知られるようになった事実だと思います。
 これまで人は、自分が生活している環境の中で、生存に必要な食料をどれほど確保できるかによって、自身だけでなく子孫までを養っていけるかどうか決まる、といった時代を過ごしてきました。
 どのような食物を、どのような手段で入手して、どのような方法で調理し、どれほどの量が食べられるか―その食料調達システムと量・栄養の充足度が、歴史上の人口変動に大きく関係してきたことは間違いありません。
 現代では、新興国を中心とする人口増加によって地球人口100億人への到達が予測されています。これを過剰人口とみて、資源の不足や枯渇が問題となっていることから、今でも「食べ物やエネルギーが満たされなければ人口は増加しない」とのメカニズムが働いていると考えられます。
 食が十分でなければ人口は増加しない
 しかしその一方で、先進国のみならず相当数の国々で少子化現象がみられるようになり、生産力が低下して国力の衰退が心配される、という声まで聞かれるようになりました。日本も例外ではなく、1970年代の人口爆発状態から一転し、いまや人口減少が明確となり、行政では少子化対策担当の大臣ポストまで設けられています。
 もちろん、人口の増減を規制する要因は食物量だけではありません。その時々の気象・環境の変化や疫病の大流行など、歴史的にみても多様な条件・現象によって人口が増減してきたのは事実です。
 じつは、歴史人口学の目でみる場合、人口増加の法則として「生物が生きていくためには一定の食糧と空間が必要」とされます。一定量の食糧と空間が与えられている時に、生物個体は増殖する、というわけです。そこで、今回は特に食糧に重点をおいて語ろうと思います。
 さて、ひとことで“十分な食べ物”といっても、それが実現するまでにはさまざまな条件が必要となります。たとえば、食糧需要を一定期間、安定的に満たすとなれば、資源となる動植物の確保のために、農地、肥料や家畜用の飼料、そして灌漑用の水がなければ十分な食物を継続して得ることができません。特に燃料は、調理や冶金用のエネルギー源として欠かすことができないものです。
 つまり、私たちがモノを食べていくためには“食事システム”とでも呼べるような条件や環境が必要で、その構成内容は当然ですが、国や地域、生活環境などによって異なってきます。文化人類学民族学の代表的研究者である石毛直道さん(国立民族学博物館・元館長)がよくいわれるように、食習慣はそれぞれの地域の特性に基づいて決まる「食文化」と呼ぶべきものなのです。
 では、私の専門分野である歴史人口学においては、食文化と人口変動の間にはどのような関係があるのか。日本の歴史の中でみていくことにしましょう。日本列島に人が住みついたのは10万~ 3万年以上前の更新世の頃であったとされますが、ここでの対象は縄文人が暮らしていた約1万年前からの話となります。
 縄文時代から21世紀に至る日本の人口推移を、何人かの研究者による推計に基づいてまとめてみると、過去1万年の間に“増加と停滞を繰り返す波”が4回あったことが分かりました。第1は「縄文時代における人口循環」、第2は「弥生時代に始まる波」、第3は「14・15世紀に始まる波」、そして最後の第4の波となるのは「19世紀に始まり現在にまで至る循環」です。
 この経過をみていくうえで問題となるのは、人口変動を繰り返してきた4つの波は、何が原因となって起きたのか、そして、それらは同じ原因なのか、それとも異なるのか、といった点です。人口増加の要因と停滞・減少へと向かう要因は、いったいどのような関係にあるのでしょうか。
 まず第1の波である「縄文時代における人口循環」の具体的内容から―。
 縄文時代の食文化は自然依存型
 氷河時代だった更新世が終わって気候が温暖化するとともに、日本列島には土器を持った縄文人が登場しました。紀元前3世紀頃まで続く縄文文化の時代に、日本列島の人口はいったいどれくらいあったのか。確かな数は分かりませんが、縄文時代に詳しい文化人類
学者の小山修三さん(国立民族学博物館名誉教授)の研究によると、縄文中期には約26万人だったとされます(北海道・沖縄を除く)。
 当時は圧倒的多数の人口が東日本に分布していて、西日本の人口密度は縄文時代を通じて低かったと考えられています。そして、この頃の人々は、必要とする大半の食料を採集・狩猟・漁撈活動によって、つまり大自然から“もぎ取る”ようにして利用していました。このような生活様式では、自然の意のままに日常生活が動かされていたことでしょう。
 1万年前から徐々に平均気温が上昇を続けて、縄文時代中期にあたる約6000年前に最も気温が上昇することになります。現在よりおよそ1度高く、4000年間では約3度の気温上昇となるもので、たとえば4000年の間に新潟市から高知市近辺の気候に変化したことになるのです。
 その結果、クリやコナラといった木の実の生産力が大きい暖温帯落葉広葉樹系が北上。東日本では河川を遡上するサケの利用とともに、狩猟採集民の食の要求に応える形で高い人口密度を支えることになりました。ちなみに、青森市にある縄文時代の遺跡「三内丸山遺跡」はその名残の1つです。
 しかし、4500年前から気候は再び寒冷化を始め、2500年前には温暖期に比べて約3度も低下します。寒冷下の植生に対する影響は、高い人口密度を支えていた東日本に強く働いたようで、食料減少と栄養不良による人口減少が起きました。食糧事情の悪化は栄養不良に繫がり、疫病の大流行を呼ぶことで人口崩壊の規模を広げた可能性も十分考えられます。
 日本の人口支持力が著しく上昇
 次いで紀元前3世紀頃、九州北部に新しい文化が起こって、それが各地に広まるにつれて、日本人の生活史のうえに極めて大きな転換が引き起こされました。これが第2の“増加・停滞の波”となった「弥生時代に始まる波」です。
 この時代の特徴はなんといっても、稲作農耕が日本列島の主な生業として成立して、コメが支配的な食文化になったことです。大陸から渡来した人々によってもたらされた稲作技術は、紀元前100年頃までに西日本一帯を覆い、1世紀から3世紀には北海道を除く日本列島の全域に広がっていきました。こうした稲作技術の習得による農耕化は、人類が経験した“第1のエネルギー革命”となって、日本列島の人口支持力は著しく上昇することになります。
 同時に、弥生時代の農耕に依存する生活型への変化は、縄文時代に比べて“人口規模を決定するメカニズム”をより複雑にしました。
 縄文時代には、人口規模はほとんど環境によって決定されていました。それに対して弥生時代に始まった農耕社会では、生きるために必要な物資は、人間が与えられた環境の下で自ら生産するものとなりました。つまり、人口と自然環境との間に人の能力・学習に基づく“農耕地と技術・知識”が介入するようになったことで、気象変動がほぼ直接的に人口を規制する、といった状況ではなくなったわけです。
 しかも、この人口増加は食糧需要のリスクではなく“働き手の増加”として働きました。労働力が増えたことからより広い土地を開墾することが可能となり、食糧増産に繫がる可能性を広げたのです。人口圧力の高まりは、一人当たりの可食物資を減少させたわけではなく、技術開発を促すことによって食料資源を増加させる可能性を持ったわけです。
 こうして、人口の増加は食料生産量の増加を呼び、食料の増産は人口の増加に繫がるという相互刺激となって、日本列島の人口は増加しました。弥生時代
人口が59万人ともいわれていますが、8世紀の奈良時代から鎌倉時代にかけて10倍以上の600万人から700万人くらいまでに増加することになったのです。
 そうはいっても、農耕社会化は際限のない人口成長を保証したわけではありません。一定の技術水準の下では、農地として利用可能な土地の広さには限界があります。どこかの時点で生産拡大に行き詰まりがくるはずで、実際、8世紀を過ぎると成長率が落ち、10世紀以降は停滞期となって、人口の第2の循環は終息に向かいます。
 では、何が“食料生産の拡大と人口増加”を妨げたのか、いくつかの原因を挙げることができます。
 まず、当時の技術体系で可能な耕地拡大と生産性向上が、それ以上に望めなくなった。つまり、耕地として開拓可能な土地が人口の多い先進地ではほとんどなくなった、と考えられます。また、こうした生産停滞の要因としては、気候の悪化も考慮に入れるべきでしょう。10世紀を過ぎて11世紀から12世紀になると温暖化がピークとなって大気の乾燥化が起き、特に12世紀に入ると農地が干上がる旱魃が頻繁に起きています。
 これに加えて、異常気象による伝染病の蔓延もみられました。実際、鎌倉時代に書かれた有名な随筆『方丈記』の中で筆者の鴨長明は、大飢饉によって京の町では疫病が猛威を振るい、屍が道を埋めるという悲惨な状況を描いています。
 そして、この12世紀の末期に旱魃の打撃で人口増加が少なかった西日本を本拠とする平家が倒れ、人口増加があった東国で源氏が鎌倉政権を打ち立てたという事実があります。こうした社会現象も、自然史との脈絡で考えると大変興味ある歴史となるのです。
 爆発的に人口が増加した第3の波
 そして第3の波は「14・15世紀に始まった(と推測される)波」で、その後の400 ~ 500年を支配する形で18世紀まで継続しました。

 歴史人口学からみると避けられない現象
 改めて考えてみれば、歴史的に1900年代までは、食べ物があると人口が増え、人口が増えると経済・産業活動が盛んになる、という基本的なメカニズムが働いたのは事実です。そして、ある生活様式の下で人口が一定数に達すると、それ以上は増えなくなるという現象が起きます。
 そして人口減少が予想されるようになると、“生活を支える仕組み”に関する概念の変化が起きて、ライフスタイルが変化。社会システムが変わっていく中で、次なる仕組みが準備される―こうした時間の流れの結果として作られるのが「増加・停滞を繰り返す波」なのです。つまり、この波の発生は、歴史人口学の視点からは避けられない現象なのです。
 では、現状の問題をどうすればよいかとなると、何よりまず「人口減少は社会的リスク」だと問題視する発想を変えることです。歴史人口学の視点からいえば、「増加を続けた人口は、いつか必ず減退する」、そして「人口の変化は次の社会システムを生み出す」のです。
 ですから私はよく、人口縮小に適応した新たな社会システムを日本が世界に先駆けて構築する、そんな気概を持つべきだとお話ししています。少子化は止める必要があるでしょうが、一時的な少子化現象そのものが問題なのではありません。人口減少にもかかわらず快適な生活が営まれることが予想されれば、出生率は上昇すると期待できるのです。
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 ケツトジャーナル
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 お米と日本の歴史2〜稲作がもたらした繁忙期と農閑期
 米ラボ
 日本の人口増加
 弥生時代以降における日本の人口増の一因は、稲作の広がりと言われています。弥生時代は、縄文時代に比べ約3倍もの人口増がありました。
 東日本ではさほど増加せず、九州四国中国地方では10〜20倍の増加があったようです。これは、稲作が西日本の気候に適しており、摂取カロリーのうち、米から摂れるカロリーに東西において差があったためという説があります。
 人々は田畑の近くに集落を作り、余剰米は高床式倉庫などに保存できたため暮らしは豊かになりました。同時に、持つ者と持たざる者が現れたこととなり、社会は複雑に形成されていきます。
 お米が貨幣に
 やがて古墳時代になると大和朝廷より国司が全国各地に派遣され、稲の耕作方法に加え灌漑設備の土木技術等を広め、国家権力を背景に水田稲作が広がりました。大阪府の狭山池など、この頃に造成されたため池が現在でも利用されている例が多数あります。同時期に全国の水田を区画整理し、班田収授法により国民に口分田を与えながら米での納税を義務付けるという制度を作りました。
 つまり、米が貨幣となったのです。
 国家に対する米での納税は明治時代で終わりましたが、小作人から地主への米での納税は、なんと太平洋戦争後まで続いていました。
 また、中近世においては、農民は農地に住まわされ、主に米の生産に従事せざるを得なくなりました。稲作には人力を伴う労働力が必要ですので、稲作のスケジュールが生活のリズムそのものになり、農繁期と農閑期が区別されることになります。
 当社においても、稲作のスケジュールは業務上重要です。米の品質管理のための測定器は、いざ使う際に正確に測定できなければなりません。そのため、夏のあいだに全国各地でお米の水分計の点検作業を行なっています。
 夏期に全国各地で開催している、水分計の点検会と説明会の様子
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏は著作「サピエンス全史」にて、「人類が小麦・稲・ジャガイモの栽培により『農業革命』を起こしたというのは錯覚であり、逆に作物が人類を家畜化した結果である」と論じています。つまり、米や麦自身の種の保存のために人類が利用されていると。
 農繁期と農閑期が起こったことに関しても、そういう見方ができると思える一方、はたしてその家畜化は私たちを不幸にしたのか、幸せな何かをもたらしていないのか、美味しいお米を食べながら考えていきたいです。
 ライター:K.Okawa
 参考文献:『稲 品種改良の系譜』菅洋(2005, 法政大学出版局)/『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳(2016, 河出書房新社
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