🗻4〕─1─ヤマト王権・ヤマト大王の真の姿と意味。古墳時代と前方後円墳。~No.6 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の人口は、弥生時代には約60万人で、奈良時代には約450万人。
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 日本民族と中国人(漢族)・朝鮮人は、姿形は似ていても別種のアジア人であり、けっして同種同根の同じ人間ではなく、故に、交わる事がなく理解などできない。
 古代から、日本国と中国・朝鮮とは敵国同士であり、両者の間に友好や善隣など存在しなかった。
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 朝鮮半島における諸王国。
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮(朝鮮)、大韓帝国北朝鮮、韓国である。
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 日本民族の性格は気が弱いだけに、村や国の責任を取りたくない為に指導者になる事を嫌った。
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 ヤマト大王とは、奈良・河内とその周辺の有力豪族(氏族)らによる集会で、有力豪族の中から集団の「和」を乱さない、私利私欲がなく大人しく謙虚で真面目で素直で正直な人柄で選ばれた名誉長老に過ぎない。
 つまり、専制君主でもなければ独裁者でもなく、集団の決定に承認を与える人徳としてのカリスマ性はあっても、集団を力で引っ張っていく強いリーダーシップは乏しかった。
 ヤマト王権は、中央主権的な征服王朝というより全国の諸王権による連合(連合王権)に過ぎずなかった。
 『古事記』と『日本書紀』は、ヤマト王権ヤマト大王の話しを天皇心神話・日本中心神話・血の神話(Y染色体神話)という「一筋の血族・正統な血統」による物語にまとめた。
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 ヤマト王権とは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「王」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。(今の大阪平野奈良盆地などの大和地方、または邪馬台国九州説では九州)の国がまわりの国を従えた。
 旧来より一般的に大和朝廷と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。
 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説する。
 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。
 ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。
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 悪戦苦闘の末ね日本を統一したヤマト王権にとって、油断も隙もない難敵は国内外の数多く存在し、気を許すと足元を掬われヤマト王権は滅亡し日本は諸王国混迷時代へと逆戻りする危険性があった。
 ヤマト王権(日本国)・ヤマト大王(日本天皇)は、何時攻めてくるか分からない敵に囲まれていた。
 ヤマト王権ヤマト大王による日本の統一と統治は、強力な軍隊と豊かな経済力で盤石というわけではなく、むしろ不安定で危うい綱渡り状態が続いていた。
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 日本は海に囲まれていて安全だった、はウソである。
 朝鮮半島からの、不法入国・不法上陸・不法移住が絶えなかった。
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 日本の大地は、中国大陸や朝鮮半島とは違って、非人道的行為による虐殺に次ぐ虐殺が起きなかっただけに死臭は漂っていない。
 当然、日本民族(現代の日本人と同一とは限らない)は中国大陸人(漢族)や朝鮮半島人とは違って殺人鬼のように血生臭くない。
 中国人や朝鮮人は、日本民族を人間以下の獣・未開人・非文明人・野蛮人・土人と見下げ嘲笑する為に差別用語である「倭」と呼んだ。
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 現代日本人は、昔の日本人とは違て差別され蔑まれる事が好きである。
 奈良時代の日本人は、天皇の名誉と日本国の体面と日本民族の尊厳の為に、中華皇帝に対して差別用語の「倭・倭国倭人」を誉れ高き「日本・日本国・日本民族・日本人」に変更させ、儒教の影響を排除し、中華帝国を中心とする中華思想華夷秩序・絶対的上下関係を排除した。
 国家建設の手本としたが、「国交を開いて豊かさを手に入れる」より「安寧の為に国交を閉じる」ことを選んだ。
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 日本の歴史、日本史、または国史とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。

 古墳時代
 詳細は「古墳時代」を参照
 平出遺跡公園にある、復原された古墳時代(西暦600年)の住居。
 3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
 4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国流入した。新羅高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)
 5世紀に入るとヤマト王権朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく朝貢することで、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
 倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
 倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。
 またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。
 この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
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 古墳時代は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。
 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。
 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。日本国家の成立を考察すれば仁徳天皇は難波(なにわ:現在の大阪市)に都を定め、宮居を難波高津宮 (なにわのたかつのみや) とし、国内流通の中心である住吉津や難波津といった港湾設備も建設され、倭国ヤマト王権が拡大し王権が強化統一されていった時代と考えられる。その後、都を飛鳥に定め、飛鳥時代に入り後に7世紀半ばに孝徳天皇難波宮で行われた大化の改新により倭から日本という国号と共に元号の使用が始まった。
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 古墳とは、
 原義・第1義としては、「古い墓」「古人の墓」を意味する。日本では少なくとも平安時代中期以来の日本語(漢語)である。
 第2義・考古学的語義・近代以降現代の語義としては、「墳丘墓」・「盛土(封土)をした古代の墳墓」を意味する。
 最狭義には、日本の古代に属する一時代(古墳時代という)に築造された特定の形態の墳丘墓を指す歴史用語である。高塚(たかつか)ともいう。
 東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として墳丘墓が盛んに築造された[3]。本項はこれ以降、特筆しない限りは日本の古墳について解説する。
 「古墳」という日本語は、古代から近世にかけては「古人の墓」全般を指す語であったが、墳丘をもつ墓が知られていたより古い時代(弥生時代)にも存在することが考古学の発展によって判明して以来、「前方後円墳出現以降の、墳丘をもつ古い墓」を指す語に変わり、弥生時代に続く古墳築造の隆盛期を「古墳時代」と呼ぶようになった。現在の日本史では、一般的に「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓/高塚の墳墓を「古墳」と呼び、他方、弥生時代の墳丘墓は「墳丘墓」、奈良時代の墳丘墓は「墳墓」、中世の墳墓は「中世墳墓」、近世の墳墓は「近世墳墓」と呼んで、それぞれに区別する。
 また、現代日本語の「古墳」は、国際的に通用する普通名詞として用いるか(※第2義)、日本の古墳のみを指す固有名詞に近い語として用いるかという(※第3義・最狭義)、未だ明確に定義されない異なる語義が並立しており、この点に断り無くどちらか一方の意味で用いられることにより、時として齟齬が生じる。
 現代日本語「古墳」に相当する現代英語は kofunが通例であるが、"ancient burial mound" など mound(意:塚、墳丘墓、ほか)に説明を付け加える形でのかなり曖昧な言い回しも多く、特に日本に限定する場合は "in Japan" を付け加えるなどする。
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 前方後円墳は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。
 主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。
 概要
 起源
 3世紀中ごろ、大和地方の纏向(現・奈良県桜井市)に巨大都市が出現し、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳を築造する。これをもって古墳時代の始まりとする。その後日本各地に同じ形の墳墓が築造されていった。
 大和政権の勢力下にある日本の諸地域(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。
 最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる。
 それに対して、各地方政権の墳墓の糾合によるという説もある。例えば「形」は播磨の前方後円型墳墓から、「葺石」は古代出雲政権の四隅突出型墳丘墓から、というように、弥生時代に作られていた各地方政権の墳墓の諸要素を糾合して、大和政権が前方後円墳を考案したという。
 奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されている。
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 日本民族は、縄文後期に中国大陸や朝鮮半島から日本列島に民族移動して先住民を攻撃して占領した征服民ではなく、石器時代縄文時代から日本列島に流れ着いき定住した人々の子孫である。
 その後の、大陸や朝鮮から逃げてきた弱者・敗者と乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
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 ヤマト大王・日本天皇は、日本列島に住む日本民族の中から生まれた。
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 ヤマト大王・日本天皇は、大陸の中華皇帝や半島の諸王家から日本を守る強力な軍隊を持った国家を樹立すべく、日本統一に乗り出した。
 抵抗する王国は軍事力で滅ぼし、抵抗せず従う王国や有力豪族は臣下に加えた。
 ヤマト王権の権威を示す為に利用されたのが、ヤマト方式の前方後円墳と埋葬祭祀である。
 そして、大陸や半島などの対外勢力と九州・中国地方の反ヤマト勢力に対する威嚇として築かれたのが河内平野の大古墳群であった。
 それでも、九州地方の反ヤマト勢力は大陸や半島などの外国勢力と組んで反乱を繰り返していた。
 後に、関東などに移り住んで新羅系渡来人は日本天皇・日本国に対して反乱を起こし、百済高句麗帰化人は日本天皇・日本国を守る為に戦った。
 帰化人と渡来人は別人である。
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 ヤマト大王・日本天皇は、中国大陸や朝鮮半島からの侵略から日本国・日本民族を軍事力で守る為に率先してた戦い、外国勢力の支援を受けた反ヤマト国内勢力から日本国・日本民族を守る為に伝統文化や神話宗教などで戦ってきた。
 日本国と日本民族にとって、中国大陸や朝鮮半島、中国人(漢族)や朝鮮人は油断ならない敵であった。
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 日本が中国や朝鮮の様な儒教な大量虐殺の地獄にならずに済んだのは、ひとえに正統な唯一の支配者であるヤマト大王・日本天皇が存在したからである。
 日本民族は、ヤマト大王・日本天皇を守る為に、民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)に基ずく最高神の女性神天照大御神の正統な血筋である男系父系天皇と皇室を命を犠牲にして受け継いできた。
 民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)は神聖不可侵の不変神話として、日本民族と共に存在する。
 日本文明・日本文化、伝統、日本国語、日本神道、習慣、風習その他すべての民族性は、民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)を起源としている。
 それが、天皇家の歴史である『古事記』『日本書紀』と各地の『風土記』である。
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 現代の日本の歴史は、マルクス主義史観・キリスト教史観・儒教史観で愛国主義皇国史観を葬った為に、天皇中心の『古事記』『日本書紀』と民族中心の『風土記』を非現実的非科学的であると否定している。
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 1980年代後半頃から、日本民族性が急速に消え始めた。
 民族性を失った日本人とは、マルクス主義歴史教育を受けたリベラル派戦後民主主義世代であり、彼らの薫陶を受けた優秀・有能な次世代である。
 その象徴たる出来事が、2019年に開催された「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の自由」騒動である。
 国民世論と政治家や官僚達は、「昭和天皇肖像画写真を燃やし、灰を踏み付ける」映像を反対せず支援・賛同した。
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 現代日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力などがなく、ヤマト大王・日本天皇への理解と愛着は希薄で、正統な男系父系天皇から正当な女系母系天皇への変更を求めている。
 正当な女系母系天皇を支持する日本国民は80%近くに達している。
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 国家や民族には寿命があり、寿命が尽きれば死滅・絶滅・消滅する。
 それは、生物であれ、非生物であれ、逃れなれない運命である。
 地球も太陽も銀河系も宇宙さえも、何時から消え去る。
 当然、日本民族も日本国も寿命が尽きれば死滅・絶滅・消滅する。
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 日本民族少子高齢化によって人口激減が加速化し、日本国民は外国人移民(主に中国人移民)で人口を回復していく。
 日本人は日本民族とは限らない。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の情緒的な文系的現実思考はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の理論的な理系論理思考はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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