🪁13〕─2─中国虐殺全史。中華民族の偉大なる復興と中国の夢。~No.41No.42No.43 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中国帝国の富みと地獄を、日本天皇は拒絶し、朝鮮国王は受容した。
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 2021年7月号 Hanada「澄哲片片 青山繁晴
 その策は破綻する、『中国の夢』
 ……
 潰えた共産主義の『夢』
 ……
 一方で、わたしたち、アジアの一員の日本人が考えねばならないのは、何が、中国の少なからぬ人々を変えてしまったということだ。
 習近平首席による愛国主義の強調が、最大の原因だろわたしは考えている。
 習主席は、その暴走する拡張主義を正当化する唯一の理由として『中華民族の偉大なる復興』を掲げ、それを『中国の夢』と呼んできた。
 これは、ふつうの庶民をひとりひとり小型のモンスターに化けさせる、すなわち誰でも頭の奧に潜(ひそ)めている自己愛を、過剰に肥大化させるためのプロパガンダ、政治の宣伝工作である。
 ……
 愛国主義を打ち出した理由
 ……
 中国は変わるのかと思いきや、その後任の習主席が早速にこれ、改憲で永遠の独裁者を目指すという愚挙である。
 永遠に、しかし人は死ぬから生きている限りは永遠に、独裁者でいるならば何が良いのか。
 日本の天皇陛下はまず私心を脱(だっ)せられるから、革命は起きない。王朝の交代は起きない。
 対照的に中国の皇帝は私利私欲の塊(かたまり)であるから、必ず革命で王朝は覆(くつがえ)され、新しい王朝が私利私欲の限りを尽くす。
 中国共産党の幹部は、マルクスが描いた架空の共産主義的人間とは真逆に、現代の王朝という集団に過ぎず、トップはまさしく皇帝である。
 中国の皇帝であれば、放っておけばいずれ、革命で引き摺りおろされる。
 ……
 習近平政治の現実
 独裁政治は、その最大の難点が、独裁者の単なる個人的性格、欲望に決定的に左右されることだ。
 ……
 こういう独裁者であるから終身独裁を維持しないと、失脚して身をおわれたり、軟禁か拘禁されたり、殺されたりするのではないかと不安をみずから作り出すことになる。」
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 中国や朝鮮は、日本と違って虐殺が日常茶飯として起きる地獄であった。
 地獄の覇者・覇王が、中華皇帝であり朝鮮国王であった。
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 2021年7月号 Hanada「百田尚樹の中国虐殺全史
 一度読んだら忘れない真実の中国史
 『残虐王朝』のはじまり
 『中国4000年の歴史』と言いますが、中国には本当の意味で伝統などありません。なぜなら王朝が入れ替わるたびに、徹底して粛清が行われ、過去の伝統や文化もそこで破壊し尽くされるからです。中国はいわゆる『歴史を消してきた民族』と言えます。
 たとえば、老舗企業というものが中国には全くと言っていいほどありません。そんなものを大切に育てていこうという文化はないし、そもそも国が入れ替わるたびに全部ガラガラポンです。
 一方、日本には創業100年以上の企業が非常に多く存在し、その数は圧倒的に世界1位です。中国は『4000年の歴史』などと偉そうに言っている割りに、老舗企業や老舗の店が全くと言っていいほどないのです。
 その中国には他の国にはない独自の『トンデモ理論』があります。それが易姓革命と呼ばれるものです。これは天子(皇帝)の姓が易(か)わり、天命の革(あらた)まること、すなわち王朝の交代を意味します。中国では天下を支配するのは、『天が命じたこと』と理解します。天が『おまえの王朝は終わりや』と言うと別の王朝に入れ替える。しかし実際には天は何も言いません。じゃあ、誰がいつ、どんな形で天の声を聞くのか?
 実はそんな声、誰も聞こえません。要するに反乱を起こして古い王朝を倒して新しい王朝を立てた男が、『わいは天に選ばれた男や』となるわけです。『易姓革命によって選ばれたわしの王朝は正統性があるんやー』と勝手な理屈をつけるわけです。もちろん、これは結果論です。反乱を起こして天下を取れば『天に選ばれた』ということになり、失敗したら『天には選んでもらえなかった』ということです。
 ところが、その王朝も最終的に滅び、新しい王朝に取って代わられる。すると、新たな王朝の皇帝も同じように『わしこそ天に選ばれたんやー。正統性であるでー』と勝手に解釈する。中国王朝史はこの繰り返しなのです。
 問題は、易姓革命で王朝が入れ替わった時に、何が行われるかということです。そこでは、徹底した虐殺と粛清が行われます。それは日本人の想像をはるかに超えた凄(すさ)まじいものです。
 歴史上最も古い中国王朝は殷(紀元前1600年頃~紀元前1046年)と言われています。その前は、半ば伝説として夏王朝があったとされてきました。その夏王朝を滅ぼし中国の中原(ちゅうげん)、黄河流域付近に王朝を建てたのが殷で、歴史上は殷こそ中国最古の王朝とされてきたのですが、最新の発掘調査で、どうも夏王朝は実在したということが分かってきました。
 夏王朝があったとされる地域の調査が進み、様々な遺跡が発掘されているのですが、そのなかで特徴的なのが、夥(おびただ)しい数の人骨が出てきたことです。しかもその人骨を調べると、頭が滅茶苦茶に割れていたり、顔面が陥没していたり、両手、両足を切られていたりと、虐殺された跡がはっきりと見てとれる。そんな人骨が山ほど出土しているのです。これは夏王朝を滅ぼした殷の仕業(しわざ)であるとされており、中国で歴史上最初の王朝と言われてきた王朝は『残虐王朝』だったことを物語っています。そして、その後の王朝もその伝統を引き継いでいきます。先ほど、中国には伝統なんかないと言いましたが、唯一ある伝統はそれですね。
 秦の始皇帝の素顔
 やがて殷が滅び、周(紀元前1046年頃~紀元前256年)、春秋・戦国時代とあちこちに王朝が乱立し、それを統一したのが秦(紀元前905年~紀元前206年)です。
 ……
 広大な中国大陸を歴史上最初に統一したのが秦ですが、この秦も、初代皇帝の始皇帝も、これがまた恐ろしく残虐でした。
 秦が天下を統一する過程の戦いを見てみましょう。
 司馬遷の『史記』の『白起(はっき)列伝』に書かれているのですが、紀元前293年、秦の将軍白起が魏・韓・周の三国連合軍を破った『伊闕(いけつ)の戦い』で、白起は魏・韓・周の兵隊24万人を斬首しています。……銃も爆弾もない時代に24万人も殺すなんて、想像もつかないとてつもない労力です。万人という人間が殺戮マシーンにならなければ無理です。
 その後も秦は魏をはじめ趙(ちょう)や楚(そ)にも攻め入り、数万人単位の大虐殺を次々に行いました。なかでも残虐極まるものが、紀元前260年の『長平(ちょうへい)の戦い』です。
 白起率いる秦軍は、山西省の長平で45万人の趙軍と戦い勝利します。この時、45万の趙軍のうち戦死者は約5万人、残る約40万人が捕虜となりました。そこで、白起はどうしたか。なんと40万人の捕虜全員を生き埋めにして殺したのです。40万人を生き埋めにするなど普通の感覚ではありません。
 さて、そんなふうにして中国を統一した秦の始皇帝がまず何をしたかと言いますと、身内の粛清です。『こいつを放っておいたらわしの身が危ないんちゃうか』『あいつは信用ならんわ』と少しでも疑いを持った人間を片っ端から粛清していきました。しかもその粛清は本人だけではなく、その一族郎党残らず全員皆殺しです。親戚だろうが関係ない。子供から老人から召使から、その人物と少しでも関係のあった者、疑わしいと思った者を全て虐殺した。
 始皇帝はまた焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)も行いました。私は①秦の始皇帝ナチスドイツ③GHQが行った焚書坑儒を『歴史上三大焚書坑儒』と勝手に呼んでいるのですが、始皇帝は歴史上、焚書坑儒を最初に行った人物と言われています。
 ……
 去勢された官吏『宦官』
 ……
 日本の先人たちの賢明さ 
 日本はかつて遣隋使や遣唐使で中国の勝(すぐ)れた文化をどんどん取り入れましたが、なんでもかんでも取り入れたわけではないのです。
 ……
 というわけで、宦官の文化は輸入しませんでした。
 付け加えると、凌遅刑(りょうちけい)も入れませんでした。中国には凌遅刑という最も残虐な処刑方法がありました。
 ……
 ……これも日本は『そんな残虐なことやりたくないわ!』といって取り入れなかった。
 ところが、朝鮮半島は宦官も凌遅刑も取り入れました。宦官は19世紀終わりまで、凌遅刑日韓併合後に総督府が禁止するまで続きました。日本は遣隋使や遣唐使で何もかも取り入れたわけではなく、『これは取り入れよう』『これもいいな』『これはいらん』『こんなアホなことできるか!』と取捨選択してきた。改めて先人たちの賢明さを感じます。
 皇帝を操った宦官
 話を秦に戻しますと、始皇帝が死んだあと、実権を握ろうと企(たくら)んだのが、趙高(ちょうこう)という男です。この趙高は宦官なんです。
 中国では好き勝手に政治を操ろうと企む宦官が非常に多く存在しました。なぜかというと、中国の皇帝というのは、だいたいが三代目、四代目になると小さい頃からぼんぼんで、政治の『せ』の字も知らず、大きくなっても興味あるのは女だけで後宮に入り浸(びた)りというケースがたびたびあるからです。なにせ中国全土から集めた美女ばかりですから、無理もありません。
 ……
 こうやって宦官が皇帝をたぶらかし、皇帝を意のままにすることが中国の歴史上では良くあったのです。
 始皇帝の死後、宦官の趙高は、宰相つまり大臣の李斯(りし)と組んで権力を握ろうと目論(もくろ)みます。普通であれば、始皇帝の長男の扶蘇(ふそ)があとを継ぐはずなのですが、趙高と李斯の謀略により扶蘇は自殺に追い込まれてしまう。そして、まだ幼かった始皇帝の末子である胡亥(こがい)を『二世皇帝やー』といって皇帝に据(す)えるわけです。
 胡亥は幼いため、……趙高、李斯の二人が権力を握ります。当然、始皇帝に仕えたかつての重臣たちにしてみたら『趙高と李斯、あの二人好きなことしやがって』と不満が出る。そこで趙高と李斯は、そうした重臣を片っ端から皆殺しにしていきました。
 『おまえ、悪だくみしとるやろ』とか『謀反を起こしたやろ』と勝手に罪状をでっちあげて次々と粛清していきます。その際に、先述したように重臣一人だけを殺すわけではなく、その嫁さんも息子も娘も孫も縁戚から召使から、何から何まで一族郎党皆殺しです。
 皇太子一族も全員皆殺し
 ……
 ちなみに、子嬰(しえい)は後述する劉邦に降伏して秦は滅び、劉邦と天下を争った項羽により、子嬰も一族郎党殺されます。こうして始皇帝の血筋は根絶やしにされます。
 仲間だろうと平気で殺す
 秦が滅んだあと、天下を争ったのはが、有名な項羽と劉邦です。結局、両者が戦って劉邦が勝って天下を統一し、建てたのが、漢(前漢《紀元前206年~8年》と後漢《25年~220年》)です。習近平が『わしらは偉大なる漢民族やで!』とよく言うあの漢です。
 小説などでは『項羽と劉邦の物語』などといって項羽はやたらと気の強い、ちょっと頭の足らない乱暴者で、劉邦のほうはどっしりと構えていてスケールの大きい人物というイメージで描かれてることが多いのですが、真っ赤な嘘です。劉邦というのはたいして能力もないのに、実に残忍な男でした。彼が天下を取れたのは、多くの仲間や優秀な部下や人材に支えられたからです。……
 ところが、天下を取ったあとぬ劉邦が何をしたかというと、そうした仲間や慕ってくれた優秀な部下たちを一族郎党皆殺しにしたのです。あれほど自分のために尽くしてくれた人たちを。優秀な奴はいつか自分に取って代わるからという理屈です。いったいどんな人間性をしているのか。小説や漫画などではこうしたエピソードにほとんど触れません。
 また、劉邦といえば嫁さんの呂雉(りょち)が恐ろしく残虐な女として有名です。
 ……
 漢民族は絶滅した
 結局、漢も滅びるのですが、『漢書(かんじょ)地理志』によると、漢の全盛期に精密な戸籍が作られているがわかります。その数約6,000万人弱とされています。つまり漢の人口は最盛期には約6,000万人弱いたとされているのです。
 漢が滅んだあとは、またしても国が滅茶苦茶になり、国中で殺し合いが起きます。国同士の争いで勝ったほうが負けた側を虐殺する。こうして夥しい数の人が死んだわけですが、6,000万人弱いた人口が数十年の間に何人になったか、ご存じですか。諸説あるのですが、最も少なく見積もった史料では、約500万人だと言われています。6,000万人が500万人にまで減ったのです!多く見積もった史料では約1,500万人とされています。それでも6,000万人が1,500万人です!
 漢の終わり、後漢末期の184年に起きた黄巾(こうきん)の乱が有名ですね。三国時代(180年頃~280年頃)の幕開けをつくった乱とも言われています。この黄巾の乱はとにかく略奪と虐殺の嵐で人が死にまくりました。これで人口が激減したと言われています。
 漢が滅んだあと、魏、呉、蜀が何年も争う三国志の時代に突入するわけですが、『なぜ三国志の時代は約100年間も天下統一ができなかったのか』と疑問に感じる読者も多いのではないでしょうか。その理由は大雑把(おおざっぱ)に言ってしまうと、人が少なかったからです。人口が10分の1ぐらいになってしまい、兵隊の数が足りなくて戦えなかったというのが実情です。有名な『三国志』の話はほとんどフィクションです。当時の魏、呉、蜀の3国は、とにかく人を増やすために周辺国に行って人狩りをしまあした。
 最終的に魏の曹操に仕えた司馬懿の孫の司馬炎が、魏の最後の元帝(げんてい)から禅譲(ぜんじょう)を受けて晋(265年~420年)を建国するのですが、その晋もやがて滅び、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(304年~439年)に突入します。
 五胡十六国の五胡とは、モンゴル系とされる匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)とチベット系の氐(てい)・羌(きょう)という非漢民族の五族をいいます。全て北方や西方の騎馬民族です。この五族が中国全土で十六の国を建てた。
 『命だけは助けてくれ!』
 お気づきでしょうか?つまり、当時の中国にはほとんどいなかったのです。この時代に、実質的に漢民族は絶滅したという説まであります。先述べしたように黄巾の乱で人口が激減し、特に魏の曹操などが『人が必要や』ということで積極的に北方民族を入れた。次々に北方民族が入ってきて、五胡十六国時代には、中国は北方民族の国になっているのです。
 そのなかから強大なものが出て隋(581年~618年)が誕生する。あの大隋帝国、日本が遣隋使を送った国ですね。この隋は漢人の国ではありません。隋の初代皇帝、楊堅(ようけん)は鮮卑です。鮮卑というのはもともとは北方の騎馬民族で、漢民族ではありません。そして二代目の煬帝の時に、聖徳太子が『日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没処の天子に致(いた)す』と手紙を出したわけです。もちろん、楊堅の息子の煬帝鮮卑です。
 その隋を滅ぼしたのが唐(618年~907年)です。いまも唐物(からもの)などと言われるように唐も中国のいわば代名詞ですが、この唐を作った李淵(りえん)も鮮卑だったと言われています。つまり、中国は漢が滅んだあとは、中国人(漢人)の国ではなくなっていたのです。
 北方民族に対して中国はよく『蛮族』などと罵りますが、北方民族はものすごく強く、中国は北方民族にほとんど勝てたことがない。
 ……完全に漢のほうが属国でした。このあたりも多くの日本人は知りません。
 匈奴が衰えてきて、漢のほうが若干強くなった時代もあったのですが、先述したように、やがて漢も滅び、三国時代を経て、五胡十六国時代、隋、唐の時代には人口の大半が北方民族で占められたのです。
 その後、五代十国時代(907年~960年)を経て、宋(960年~1279年)ができます。宋は久しぶりにできた漢民族の国でしたが、軍事的には弱い国でした。
 女真族にやられ続ける
 宋の時代は北方民族に遼({りょう}916年~1125年)や西夏({せいか}1038年~1227年)、金({きん}1115年~1234年)という国があり、なかでも金がものすごく強かった。宋は、はじめ強い金と組んで遼を滅ぼすのですが(1125年)、金が華北を奪い、宋は江南(チャンナン)に逃れて南宋を建てます(それ以前の宋を北宋と言います)。
 宋はずっと金にいじめられ続けました。金は女真(じょしん)族で、1115年に完顔阿骨打(わんやんあくだ)が満州に建国します。最終的にはチンギス・ハンのモンゴル人に滅ぼされるのですが(1234年)、もしモンゴル人が出てこなければ、金が中国を支配したと私は思っています。それほど金は強かった。
 ちなみに、女真族は、それから400年あまりが経ってから、再び中国に戻ってきます。そこで作った国が後述する清(1616年~1912年)です。
 結局、南宋も元(1271年~1368年)に滅ぼされ、モンゴル人が中国全土を支配します。
 元にはもともとモンゴル語があったのですが、漢字を取り入れます。このことを中国は『中国文化が優れているので、みんな中国の文字を使って、中国文化に呑み込まれたんや』と盛んに言い募りますが、これも実情は違います。
 モンゴル帝国には当時、様々な言語をもった人種が集まっていました。ある意味で国際国家だったのです。特にモンゴル人が漢民族を支配した元では、身分的にも最上位に置かれたのがモンゴル人で、その他の民族では、色目(しきもく)人(西域人)が次いで重要とされ、その下に漢人華北漢民族女真族)、最下部に南人(河南の漢民族)が置かれるほど、身分差別があったとされています。そこで『じゃあ共通語ということで漢字を使うか。それやったらみんなも使いやすいやろ』となったのです。
 のちに女真族が建てた清もそうです。決して中国文化にどっぽうりとは浸(つ)かっていない。逆に中国が元や清など北方民族を真似ていることのほうが多いのです。たとえば、チャイナドレス(中国語で旗袍{ちーぱお})がありますが、あれはもともと満州族の民族衣装です。あるいは、中国の辮髪(べんぱつ)も清人のヘアースタイルであり、漢民族に強制した。中国こそ北方民族の風習を取り入れたり、強制されたことが実に多いのです。
 その他、元については様々な興味深い話があるのですが、紙幅の都合もありますので先に進みましょう。
 『太平天国の乱』の惨状
 元が滅んだあとは、朱元璋という男が明(1368年~1644年)を建てます。この朱元璋の人生は実に波瀾万丈でした。家族全員が餓死するという貧農の出身ながら41歳で天下をとった朱元璋ですが、天下をとったあと、彼が何をしたか。もうお分かりですね。
 ……
 あれだけ世話になったのに『ちょっとこいつ気に入らんわ』というだけで一族郎党皆殺し。わずか2人の邪魔者を排除するというだけで合計3万人を虐殺する。これが中国です。
 近世でも全く同じです。明に代わり、再び女真族が1616年に東北部(満州)に建国した後金が、1636年から国号を改めて建てたのが清(1616年~1912年)です。
 清の時代の1851年に、『太平天国の乱』(1851年~1864年)が起こりました。指導者は宗教家の洪秀全(こうしゅううぜん)です。
 これまでも中国では頻繁に大きな乱が起こっていました。乱を鎮圧される場合もあるし、大きな反乱軍が勝ち、新しい王朝を建てる場合もある。漢も明も反乱軍が天下をとったケースですね。鎮圧されたケースは『黄巾の乱』や『太平天国の乱』、『義和団の乱』があげられます。いずれにしても、乱が起こるたびに次々と人が殺される。人口が10分の1になったことは先述したとおりです。
 『太平天国の乱』の時も人々が次々と殺されました。太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域で村々が次々と襲われ、いたるところで財宝が掠(かす)めとられて、地主や郷紳({きょうしん}素封家)の家々はことごとく皆殺しにされました。
 ちなみに、1856年に、乱の首謀者の洪秀全はナンバー2の楊秀清(ようしゅうせい)を粛清します。この時も楊秀清と家族が虐殺され、その数は約4万人にのぼったと言われています。もうここまでくると感覚が麻痺しそうですが、あらためて言居ます。4万人ですよ!
 3日間で10万人虐殺
 太平天国の乱が起こってから13年後、太平天国の首都があった南京(当時は天京)に清の曾国藩(そうこくはん)が──実際には清の部隊ではなく北洋軍閥なのですが──『太平天国の奴らを鎮圧せなあかん。あいつらがこもっている南京を攻めるでー』ということで南京討伐に乗り出します。
 そして、北洋軍が南京を占領するのですが、3日間にわたり、『お前、太平天国の奴やろう』といって次から次へと殺しまくった。わずか3日間で何人殺したか──10万人です。3日で10万人!この時、太平天国の兵隊だけではなく民間人も『お前も太平天国の奴やな』と次々と殺しました。
 その時の虐殺の証言が残っています。曾国藩の部下、つまり占領軍の幕僚の一人であった趙烈文(ちょうれつぶん)が『能静居士日記』にこう記しています。
 『……』
 さらに、占領軍とともに南京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談をイギリスの植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語った証言も残されています。次のようなものです。
 『……』
 この時、虐殺された民間人の数は少なくとも10万人以上と言われています。
 近世に入っても、中国にはこんな話が山ほどあるのです。
 毛沢東の殺人ノルマ
 時代は一気に飛んで現代にいきましょう。いまの中華人民共和国(1949年~)を作った中国共産党はいったい何をやったのか。
 まず、毛沢東はなぜあれほどの巨大な勢力で蔣介石に勝ったかといいますと、兵隊をたくさん集めたからなのです。その集め方を中国はほとんど明かしていませんが、『一村人焼き人殺、外加全没収』です。これで勢力を伸ばした。どういうことかといいますと、八路軍(はちろぐん)のゴロツキのような兵隊が一つの村で一人の地主を殺し、その家を焼き、その財産を全て没収し、土地を農民に分け与える代わりに、村人から屈強な兵士を取るというものです。農民たちは土地が自分たちのものになったと大喜び、余った若者を八路軍に差し出します。八路軍は、次の村、そのまた次の村へと、これを繰り返して金を奪い大勢の兵隊を集め、国民党を追い出したのです。そして天下を取ると同時に、今度は農民に分け与えたはずの農地をすべて取り上げたのです。ほとんど詐欺ですね。
 中国共産党は政権を握ると、『一村人焼き人殺、外加全没収』は全土に徹底して行うことになり、そこで吊し上げられた地主の総数は六百数十万人といわれ、そのうち約200万人が銃殺されています。
 1949年に蔣介石を追っぱらって中華人民共和国を建国、その翌年の1950年、毛沢東は突然『反革命活動鎮圧』を宣言します。つまり共産党に逆らう奴は皆殺しにする、と言い出したのです。この時、毛沢東はこう言っています。
 『農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の1,000分の1程度だろうが、都会では比率は人口の1,000分の1を超えなければならない』
 これはすなわち殺人ノルマです。偉大な毛沢東にそう言われたら、農村では1,000人の1は殺さなければなりません。そして都会では1000人の1以上殺さなければならないのです。そうしなければ、その地域を受け持っている担当者のクビが飛ぶ。下手をしたら粛清です。この反革命活動鎮圧で殺された人数は約70万人です。さらに1951年から1952年にかけて展開された官僚主義汚職・浪費の三害と贈収賄や脱税などの五毒に反対する運動の『三反五反運動』によって200万人弱が殺されています。
 約5,500万人の餓死
 その後も毛沢東は『大躍進運動』(1958年~1961年)というバカ丸出しの運動を行いました。
 ……
 結局、農民はどんどん米や穀物を取られていき、どうなったか──夥しい数の餓死者が出ました。『大躍進運動』の間に約5,500万人が餓死したと言われています。5,500万人ですよ!これが1950年代のことなんです。
 ……
 『大躍進運動』のあとには『文化大革命』(1966年~)が起きて、これも悲惨の極みでした。冤罪で殺された人数だけでも900万人といわれ、死者は2,000万人という説もあります。
 私は強く言いたいのです。『いま私たちはこうした国と向き合っているんだ』ということを。私がこれまで中国の粛清史、虐殺史を述べてきて言いたかったのはこのことなのです。
 中国4000年の歴史のなかで平和な時代など一度もありません。それどころか、自分が弱い時はひたすら低姿勢を貫き、いざ自分が強くなったら、なんでもやる。その時にはかつての仲間や義理や恩など一切関係ない。世話になったり支えてくれた仲間、恩人でも誰でも平気で虐殺する。こうした国が隣国にあり、いまや日本への領土的野心を隠さず、すでに尖閣をはじめ侵略行為を強めているのです。その危機感が日本人にはあるのでしょうか。
 日本で行われた下実験
 問題はそれだけではありません。清の時代を例にあげますと、女真族が中国を完全に支配していたことは前述しました。中国人はみな辮髪を強制されたり、一般民衆の中国人は差別されていた。
 しかし、清の時代に女真族の数は当時の中国の人口で何%いたかお分かりでしょうか──約3%といわれています。たった3%の女真族が中国を安全制覇したのです。元の時代もそうです。たった数%のモンゴル人が中国全土を治めていた。
 いま日本の人口は約1億2,000万人です。極端な事を言いますと、3%つまり約360万人いれば日本全土を支配することも可能だと言えるのです。かつて中国人がたった3%の女真族に200年以上支配されていたように──。
 いま日本には中国人がどんどん入ってきていることは周知のとおりです。そして中国には国防動員令があります。これは、習近平をはじめ中国政府が『外国にいる中国人たちよ、全員テロリストになれ』と指示したら、日本にいる中国人は全員蜂起し、テロリストにならないと処罰されるという法律です。
 この下実験はすでに行われていると私は思っています。2008年の北京オリンピックの時です。あの時、チベットへの弾圧に対する抗議の意思表示として、日本在住チベット人チベット解放を支持する団体の人たちが、チベット国旗を持って長野県からスタートした聖火リレーの街道に立ちました。そこへ在日中国人が大勢やってきて、街道にいたチベット人や日本人に襲いかかったのです。あの時、中国政府は大使館を通じて『中国に文句を言う奴らを徹底してやっけろ』と命じ、数千人の在日中国人が動員されたといわれています。
 中国人たちは大暴動を起こし、チベット人や日本人に対して暴行を行ったにもかかわず、時の福田康夫内閣は『中国と問題を起こしたくない』との意向から中国人をほとんど逮捕せず(しても保釈)、逆に、殴り返した日本人を逮捕するなど異常な行動に出ました。
 何よりも恐ろしいことは、繰り返しますが、中国政府が大使館を通じて『長野に集まれ。中国人は暴れろ』と命じ、それが実行されたといわれていることです。まさに国防動員令の予行演習、下実験だったのではないでしょうか。
 もちろん、日本に来ている中国の人たちすべてがテロリスト予備軍だとは思いません。私の知っている中国人にも、ものすごくいい人がたくさんいます。しかし、なかにはバリバリの中国共産党員でスパイ活動を行っている中国人もいることは事実です。そして、いざもし日本と中国の軍事的緊張感が高まったとき、中国が国防動員令を持ち出し、『在日中国人よ、一斉蜂起しろ』と命令したら、法律上は中国人はその命令に従わなければならないのです。
 日本では『いまはまだ日本に中国人はそうたくさんいない、せいぜい100万、200万人で、人口で見るとわずか1、2%でしょ』と気楽に考えている人がいるかもしれません。ですが、歴史を見ると3%で国を支配できるのです。これは中国だけではなく、たとえばかつて白人による有色人種の植民地支配などの歴史をみてもそうです。わずか人口の数%の白人が有色人種の国を支配していた。そのことは史実として明らかです。
 私はいま、声を大にして強く訴えたい。日本人はいまこそ、歴史にしっかりと学ぶべき時ではないか、と」
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 現代日本人とくにマルクス主義者は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はなく、アジアを支配する儒教の有害・猛毒を理解できない。 
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 中国の歴史には、日本軍が行ったとされる第2回南京事件三光作戦以上の残虐・虐殺が数え切れないほど存在する。
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 日本軍は、戦争として人殺しの犯罪を行ったが、同時に戦場で国籍・人種・民族に関係なく数百万人から1,000万人以上の被災者を助けるという人道貢献も行っていた。
 八紘一宇の精神を持つ日本民族には差別意識が薄く、助ける時は中国人・朝鮮人・ロシア人・ユダヤ人・その他の人々であろうと自助能力ある日本人を差し置いて助けた。
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 中国共産党による、ウイグル人チベット人・モンゴル人・少数民族に対するジェノサイドとは漢族系中国人の正当な権利である「中国4000年の報復」である。
 故に、中国人には周辺民族(日本人も含む)に対するジェノサイド、ホロコースト、大虐殺は正当な復讐行為であるとして罪の意識・罪悪感はない。
 では何が中国人を地獄のような報復・復讐に駆りたてたかと言えば、家奴という最下位の身分に落とされ、牛馬の如く苦役を強いられ、生かさず殺さずの生活まで搾取され、獣の様に駆りたてられ惨殺された、という人間以下の扱いを受けてきたという記憶・記録である。
 つまり、儒教の一族・家族中心宗族主義で、祖先が受けた悲惨な仕打ちを現代の自分が果たす、という事である。
 そこには、「仇を恩で報(むく)いる」は存在せず、単なる文学上の言葉の文(あや)に過ぎない。
 人としての徳や礼儀・礼節はなく、信義や道義もなく、信用も信頼もなければ、約束も存在しない。
 友・友人はいなければ、親友さえいない。
 男尊女卑の儒教における夫婦別姓では、夫・男にとって妻・女は殺しても構わない家畜に過ぎなかった。
 中国の嘘を信じるのは、教養も分別もない文盲の日本人だけである。
 漢族系中国人によるウイグル人チベット人・モンゴル人・少数民族に対するジェノサイドは、祖先が被った不名誉な歴史を忘れ、偉大な中国人は全人類に対する唯一の絶対的上位者・支配者であるという自己満足を得る為の避けては通れない通過儀礼に過ぎない。
 つまり、中国民族の本性と言うべき「被害妄想」の非文明無教養な小人根性そのものである。
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 日本と中国・朝鮮とは、一衣帯水・同種同根ではなく全てが正反対の様に違う。
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 歴史が証明する通り、中国人や朝鮮人は日本列島で生きられるが、日本人は中国大陸や朝鮮半島で生きられない。
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 中国人や朝鮮人人間性は、正常な心理学では説明できない。
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 日本は神々による神話・物語の国(神の国)であり、中国と朝鮮は聖人君主・英雄豪傑の伝説・伝記の国(人の国)である。
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 黄河文明を生んだ純種の古漢民族三国志時代から五胡十六国時代の間に大半が死滅し、それ以降の現代までの中国人は雑種の新漢民族である。
 孔子の子孫である孔家などごく少数の名門一族は、今日まで生き残っている。
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 反天皇反日本人とは、非人間・人命軽視の虐殺・ホロコースト・ジェノサイドの容認派・擁護派・賛成派・推進派である。
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 現代の日本人は、昔の日本人とは違って、民族の歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく事実に基づいた本当の歴史が理解できない、それは中華の中国史朝鮮史さらには西洋史や中東史など人類史・世界史に対しても同じである。
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 歴史に見て、「菅原道真遣唐使延期によって国を閉ざした」事は偉大な決断であった。
 国を閉ざす事で貧しくなろうとも、日本は日本で生きていく決意と覚悟で貧しいなら貧しいなりの日本独自の国風文化を生み出していった。
 それが、世界レベルの豪華絢爛たる中国文化・朝鮮文化とまったく違った地味ながらの雅と粋な日本文化である。
 その深層に不変不動の要・重石として存在したのが神の血筋を正統とする男系父系天皇であった。
 神の血筋を正統とする男系父系天皇の存在が、日本に於ける虐殺という地獄が発生しないように食い止めていた。
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 儒教は、天帝崇拝・皇帝忠誠・自利自愛の絶対的価値観から、利他・慈悲を説く神仏を否定し宗教弾圧・宗教破壊を行いながら、中国や朝鮮を力強く支えた。
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 儒教の男尊女卑による女性に偏見・差別は、歴代皇帝の多くが才色兼備の女性に惑わされて王朝の衰退を招きそして滅びたという歴史的事実からである。
 そして、夫婦別姓・男系相続も他姓の女性が家を乗っ取るあるいは家を滅ぼす事への警戒心の現れである。
 東アジアの女性差別は、西洋の女性は男性より劣っているからという宗教的理由ではなかった。
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 儒教が賢く女性による王朝の衰退と滅亡の教訓とするのが、唐王朝則天武后(女帝)と玄宗皇帝・楊貴妃である。
 女性が政治に口出すと国は滅ぶ。
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 日本国内には、中国を憧れ、中国共産党に媚び諂う親中国派・媚中派=新朝貢派が存在する。
 彼らは、中国共産党が行っているジェノサイドを非難せず、批判せず、無言で容認・黙認している。
 彼らは、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた才能溢れる優秀な次世代に多く存在する。
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 日本民族は小心・臆病・怖がりで気弱・脆弱・ひ弱な為に、死を穢れとして怯え、血が土に流れる事を怖れた。
 それが、民族中心神話・血の神話である。
 日本にも合戦しての殺し合いはあったが、中国大陸や朝鮮半島のような戦争として万人規模の大虐殺はなかった。
 中国大陸や朝鮮半島を掘り起こせば、至る所で、虐殺された人々の人骨が山のように出土する。
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 日本で万人規模の命を奪うのは、人間ではなく天災・飢餓・疫病であった。
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 日本列島、日本国、日本民族は、中国大陸・中国人や朝鮮半島朝鮮人とは違って、気弱であっただけに平和を好み死と血に縁遠かった。
 その証拠が、民族の最高神は女性神天照大御神であり、その女性神からの血筋・血統を正統とする男系父系天皇である。
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 日本民族の祖先とは、日本列島で男系父系の血を絆とするムラ共同体(家族・親友混合共同体)として争う事なく平和に生活していたホモ・サピエンス(元はアフリカ人)、石器人、縄文人に、新しく中国大陸や朝鮮半島の殺し合いの地獄で生きられなくなった弱者・敗者・奇形者・異常者の弥生系渡来人が命からがら逃げ込んできて雑居し、旧人と新人が分別なく乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた穢れた混血の不純な雑種民族である。
 海を渡って日本列島に流れ着いた日本民族は、怖れを知らず困難に挑み続ける勇者・英雄ではないし、優れた冒険家でも賢い開拓者でもなく、ましてや才能豊かな勝者・強者とは無縁であった。
 故に、個人として対決する時、ひ弱な日本人は強靭な中国人や朝鮮人にはかなわない。
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 人の分布として、中国人や朝鮮人は世界中に生活の場・活動の場を広げているが、日本人は日本列島を揺り籠として閉じ籠もって海外と没交渉的に生きている。
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 日本が、中国や朝鮮のような地獄にならずに済んだのは民族中心神話・血の神話を正統とする神聖不可侵の神性を帯びた特殊一族による一子相伝の男系父系天皇(弱者・敗者論理)の存在である。
 日本民族は、血の神話における正統性を消滅させ危険性のある正当な女系母系天皇制度を排除してきた。
 正統な男系父系天皇とは、平和と安定の女性論理であり、共存共生の弱者・敗者論理である。
 正当な女系母系天皇とは、戦争と不安定の男性論理であり、生存競争の強者・勝者論理である。
 つまり、日本民族は「負けるが勝ち」として、中途半端勝ち・曖昧勝ちで六分を取り四分を相手に譲って満足した。
 それは、取った敵の駒を自分の駒として再利用する将棋理論である。
 天皇神話における「八紘一宇の精神(大家族主義)」はここにる。
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 反天皇反日本の儒教キリスト教マルクス主義共産主義)は、日本の根幹をなす正統な男系父系血筋の天皇制度を廃絶するべくあらゆる場面で暗躍し、それは現在に於いても存在する。
 キリスト教系テロリストや共産主義系テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺しようとしていた。
 国民世論の70%以上が、戦後の歴史教育で民族の歴史・伝統・文化・宗教を破棄して、正統な男系父系天皇から正当な女系母系天皇への変更に賛成している。
 国際世論は、人類普遍の通念の普及、世界の平和と正義の実現、女性に対する偏見・差別の廃止から、正当な女系母系天皇即位を支持している。
 つまり、日本人の民族性を消滅させるのが最終目的である。
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 中国皇帝や朝鮮国王には、日本天皇のような神聖不可侵にして不変で特殊的な正統性はなく、有ったのは瞬時に取り換え可能な一般的な便宜の正当性のみであった。
 つまり、日本天皇が古いまま変わらないのに対して中国皇帝と朝鮮国王はたえず新しいものに変わるという事である。
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 古代の黄河文明の申し子でる古い漢民族三国時代から五胡十六国時代に絶滅し、隋・唐以降の中国人は北方西方の蛮族の異民族が定住して生まれた新しい漢民族である。
 蛮族の異民族を正当な漢民族に認定したのが、儒教である。
 儒教とは、人種・民族・部族そして地域、職業、性別その他多くの分野で超えてはならない上下関係・身分制度・階級社会に正統性を与える反宗教的支配理論であった。
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 日本には、日本の歴史より中国の歴史が好きで、日本よりも中国に憧れている日本人が少なからず存在する。
 中国好きの日本人が特に好きな中国人とは、戦国時代の孫子孔子、秦の始皇帝劉邦項羽三国志諸葛孔明、唐の玄宗皇帝、中華民国孫文などの英雄豪傑である。
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 江戸時代までの日本人は、友好・善隣で中国と深く付き合えば世界的な富・大金を手に入れて財を成し豊かになれる事を充分理解していたが、中国語の漢籍や古典を読み世界レベルの高度な教養を身に付けて中国を理解して中国を拒絶し、中国と朝鮮との国交を閉ざし、中国人と朝鮮人の入国を禁止し、太宰府次ぎに長崎と貿易港を一ヵ所に限定して交易のみを続け、中国人・朝鮮人と日本人の自由な交流を認めなかった。
 昔の日本は、豊かさや金より人命を優先して中国を拒否して鎖国を続けた為に、世界から取り残されて貧しかった。
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 中国は清国の乾隆帝まで世界最大の富み栄えた大国で、それに比べて西洋諸国は技術力と軍事力を強めても国力はなお乏しく貧しかった。
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 現代の日本人は、国の豊かさの為に中国との貿易を維持する事を最優先とし、中国共産党が行っている少数民族ジェノサイド、普遍宗教団体及び自由・民主派への弾圧などの人命軽視・人権無視の非人道的凶悪犯罪から目を背けている。
 現代の日本が、世界第2位の経済大国として地位を保っていられるのは中国のお陰である。
 その為に、日本、特に国際派と言われる高学歴な日本人で、政治中枢に親中国派・媚中派と在野に反米派・反安保派・反米軍基地が存在している。
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 中国共産党は、中国の歴史の中で最も最強最悪な狂信的殺人集団で、イデオロギーで人を殺してもヒューマニズムで人を助ける事はない。
 日本の反国家・反政府・反体制・反権力・反権威そして反天皇反日的な過激派(テロリスト)の日本人達は、虐殺魔のレーニン毛沢東を崇拝し、虐殺を正当化するソ連中国共産党政府を憧れている。
 国家・国民を支配するのに51%以上の多数派になる必要はなく、3%~5%の少数派で充分である。
 つまり、同調圧力・空気圧に影響されて動く日本(人口約1億2,000万人)を支配するなら3%(約360万人)いればこと足りる。
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