🏹20〕─2─元寇「幕府軍が一騎打ちでボコボコにされた」は本当か。「蒙古襲来絵詞」~No.61No.62No.63 

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 2021年6月21人 MicrosoftNews JBpress「元寇幕府軍が一騎打ちでボコボコにされた」は本当か
 © JBpress 提供 (写真はイメージです/Pixabay)
 © JBpress 提供 「蒙古襲来絵詞」に描かれた、元軍に突進する竹崎季長
 (花園 祐:上海在住ジャーナリスト)
 鎌倉時代を代表する歴史的な戦いといえば、1つは「承久の乱」(1221年)、そしてもう1つは、元軍(モンゴル軍)が九州に侵攻してきた「元寇」(1274年、1281年)で間違いないでしょう。
 特に後者の元寇は、中世日本における唯一の国際戦争であり、規模も近現代以前では最大級と言っていいほど大規模なものでした。なんといっても、中国大陸を支配するまでになった強大な軍隊が日本を攻めてきたのです。日本社会に与えた影響はきわめて大きく、後の鎌倉幕府崩壊の遠因にもなったと指摘されています。
 そんな日本人ならだれもが知る元寇ですが、近年に入り新しい発見や新説の発表が相次いでいます。それらの研究の進展に伴い、これまで半ば常識と見られていた定説が大きく覆される事例も出てきました。
 そこで今回から3回にわたり、歴史学者である服部英雄氏(九州大学比較社会文化研究院名誉教授)の著書『蒙古襲来』(山川出版社)を参考資料として、鎌倉時代の日本を揺るがした元寇について取り上げたいと思います。
 初回の今回は、1274年に起きた「文永の役」こと第一次元寇に関して、日本の武士の一騎打ち、そして元軍の残虐行為の有無を検証します。
 なお、中国王朝としての「元」朝の成立年は1271年ですが、本稿ではその前身となったフビライ・ハーン率いるモンゴル帝国も含めて「元」と総称しますのでご了承ください。
 一騎打ちなんてなかった?
 これまでの日本の歴史教育では、元寇に関して、元軍の兵器や戦術に鎌倉幕府軍は大いに苦戦させられたと教えてきました。その際、日本側の「一騎打ち」が通用しなかったとの説明もなされてきました。
 当時の日本の戦は、武士団の大将同士が戦闘前に名乗りをあげて一騎打ちで戦うスタイルだったのに対し、元軍は複数人がまとまって戦う集団戦法を採っていたという説明です。両者が戦ったら集団戦法の方が強いに決まっており、この戦法の差によって幕府軍はさんざん打ち負かされたと言われてきました。
 しかし、当時の武士が本当に時代錯誤な一騎打ちを行っていたのかについて、近年は疑義が唱えられるようになってきています。
 たとえば、実際に元寇で戦った竹崎季長(たけざき・すえなが)が恩賞獲得目的で戦闘の実態を描かせた「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)という絵巻物の描写とは一致しないのです。
 蒙古襲来絵詞の中に、文永の役竹崎季長本人が一騎で突進し、馬が元軍兵士に射殺される場面があります(歴史の教科書で見たことがあると思います)。この絵が、よく一騎打ち文化の証拠とされてきました。しかし蒙古襲来絵詞の別の箇所では、複数人の騎馬武者がかたまりとなって弓で射かける場面も描かれています。
 また蒙古襲来絵詞には、竹崎季長が家子郎党とともに行動している記述もあり、日本側も集団戦が基本であったことが伺えます。中国側の資料にも、幕府軍は四方から押し寄せて来たなどという戦況が描かれています。時代錯誤な一騎打ちで戦っていたという記述はみられません。
 根拠とされた史料は“トンデモ本
 では、なぜ幕府軍が一騎打ちをしていたと後世に伝わってしまったのか。服部英雄氏は、文永の役の重要史料とされてきた「八幡愚童訓」(はちまんぐどうくん)が原因であると指摘しています。
 八幡愚童訓とは、元寇が終わってから数十年後に書かれたとされる史料です。文永の役、特に対馬壱岐島における戦闘を描いた唯一と言っていい史料で、これまで両島における戦いに関する研究はほぼこの資料のみに依存してきました。先ほどの一騎打ち戦法の無力さに関する記述も、この八幡愚童訓を出典としています。
 しかし服部氏は、八幡愚童訓はきわめて信用性の低い史料であると断じています。事実関係をはじめ実態にそぐわない記述が多いからです。
 一例を挙げると、文永の役の戦闘期間について八幡愚童訓では「元軍の博多湾突入後、嵐に遭って即退散し、1日で終わった」というふうに記述されています。しかし服部氏の研究によると、他の史料では戦闘が少なくとも数日間は継続していたことになっています。また元軍の出発から帰還までの行程から計算してみても、即日退散したのでは日程がまるで合わないそうです。
 そもそも八幡愚童訓の記述は全体からして非常に怪しく、“トンデモ本”と言っても過言ではないような内容です。具体的には、幕府軍が元軍に散々に打ち負かされて退却した後、八幡神の化身である白装束の神兵30人が現れて元軍を追い返したので日本は守られたと書かれてあります。言うまでもなく、中国側の史料に神兵が出てきたなどという記述はありません。むしろあったら怖い。
 こうした信頼性に欠けるトンデモな内容にもかかわらず、八幡愚童訓は元寇における第一級史料として長年にわたり君臨してきました。その史料価値について、大正時代に疑義を唱えた学者もいたそうですが、その後の皇国史観もあってそうした声はかき消されてしまったそうです。
 「手に穴を開けて数珠つなぎ」は本当か?
 八幡愚童訓では、元軍の兵士が殺した日本兵の腸を食べていたなどと、元軍の残虐性を際立たせるような記述もみられます。しかし出典が出典なだけに、そんな記述を事実として取り扱うのは注意が必要でしょう。
 元軍の残虐性を示すエピソードとして、「対馬壱岐島で捕らえた女性の手のひらに穴を開け、ひもを通して数珠繋ぎにして船に括り付けた」という話も伝えられています。この話は日蓮宗の開祖である日蓮が書いた書状に書かれたものですが、逆を言うと、その日蓮の書状以外には一切見られない描写です。
 しかし、「手に穴を開けて数珠つなぎ」という描写は、やはりオーバーではないでしょうか。
 というのも、日蓮元寇以前に、仏法が栄えなければ日本は滅びると予言していました(立正安国論)。その後、元軍が現れると「ほら、言ったとおりじゃん」とばかりに自分の正しさを主張します。当時の日蓮は、言ってみれば元寇の脅威や恐怖を煽る側の立場であり、その残虐性を際立たせようとしたのは決して不思議ではありません。また、そもそも日蓮元寇の戦況を直接見ていません。伝聞でしか知らなかったということを踏まえると、上記の描写が事実であるかは疑わしいところです。
 元軍が日本の侵攻拠点として占領した対馬壱岐島で島民の虐殺を行い、島民を奴隷として本国に連れ帰ったことは、中国側史料にも記録されています。残虐行為があったことはほぼ間違いないでしょう。しかし「手に穴開け数珠つなぎ」に関しては、事実として扱うべきではないと思われます。
 今回は、近年になって見直されている文永の役に関する諸説について取り上げました。次回は、「弘安の役」こと第二次元寇について取り上げます。
 ・参考書籍:『蒙古襲来』(服部英雄著、山川出版社
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蒙古襲来
蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 (中公新書)