🏹59〕─1─中国の最新鋭国家運営システム「律令制」はなぜ日本で消滅した。~No.183No.184No.185 

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 2021年7月4日 MicrosoftNews JBpress「中国の最新鋭国家運営システム「律令制」はなぜ日本で消滅した
 玉木 俊明
 © JBpress 提供 奈良市役所で展示されている平城京の復元模型(名古屋太郎, CC0, ウィキメディア・コモンズ経由で)
 歴史を遡ると、古代の日本は中国、そして朝鮮半島の影響を大きく受けてきました。漢字や仏教・儒学などの文化や、稲作や鉄製農具、養蚕、機織りなどの技術は、大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人によって日本に伝えられました。それ以外にも、日本の国家形成において極めて大きな役割を果たすシステムを中国から導入しました。それが「律令」です。
 律令とは、ざっくり言えば「律」は刑罰のきまり、「令」は政治を行う時のきまりで、中国では秦のころから整備されはじめ、隋・唐の時代に精緻化され、明の時代にまで機能し続けました。日本では奈良時代に中国にならって律令に基づく国家機構の整備に着手しますが、同じころに新羅渤海といった中国の周辺国も律令を取り入れています。中国の律令制はそれほど先進的で、統治機構を整備するために重要な役割を果たすものでした。
 律令制整備しながら38年で滅亡した隋
 まずは日本が国作りの手本にした中国での律令の確立、さらには中央集権化をなしとげた隋の成り立ちを見ていきましょう。
 隋が中国を統一するのが589年です。それ以前、中国はいくつかの国に分かれていました。劉邦が建国した漢(後漢)が、黄巾の乱によって弱体化し、それをきっかけに国内が分裂する魏晋南北朝時代(184〜589)へと突入しました。
 このように多くの国が興亡する中から成立した隋は、それまでさまざまな国で用いられていた制度を受け継いでいました。南北朝時代北魏(386〜534)からは均田制や租庸調制を、西魏(535〜565)からは府兵制を採用しましたが、さらにそれらを整備し、律令制を確立しました。さらに試験によって公正に公務員を募集する科挙を創始しました。これはそれまで貴族などが独占していた政府の役職を、身分に関係なく能力のある者にあたらせるための画期的なシステムでした。また州県制を敷いて中央集権体制の合理化を進めました。
 隋はおよそ300年ぶりに中国を統一した王朝でした。当時の日本は、この隋に遣隋使を派遣し、国交を結びます。
 ところがおよそ300年ぶりに中国を統一し、高度な統治システムを確立した隋も、建国から38年、統一から数えればわずか20年で滅亡してしまいます。大規模な土木事業や度重なる高句麗遠征などで苦しめられた民衆の不満が爆発した結果でした。
 隋が取り入れた律令制に磨きをかけた唐
 隋に変わって成立したのが唐です。唐の太宗(李世民)は、隋の失敗を教訓に、統治機構をさらに整備しました。
 唐は、隋と同様に「土地と人民は皇帝の支配に服属する」という思想にもとづいた律令制を採用します。税制では租庸調制と均田制を、兵制では府兵制を、官吏登用制度では、隋と同じく科挙制を採用しました。精緻な官僚機構は、勤務評定と昇進の仕組みもしっかり備えられ、州・県による地方統治がなされました。均田制や府兵制は、民衆を支配する機能を持つのと同時に、大土地を所有し力を蓄えていた門閥貴族の伸長を抑え、皇帝に力を集中させるという意味合いもありました。
 こうした唐の中央集権体制は、同時代のヨーロッパでは到底お目にかかれない、進んだ統治システムでした。
 国家基盤が整備された唐は、経済的にも大いに繁栄しました。隋が建設した大運河があったのも幸いしました。唐はこれを利用し、華北と華南の経済圏を統合することに成功します。
 白村江の戦いで受けたショック
 唐の都・長安は、当時100万人の人口を擁しており、当時のユーラシア大陸で最大級の都市でした。多くの外国人が訪れ、文字通りの国際都市です。隋と通商往来していた国は十数カ国でしたが、唐のそれは70カ国以上だったそうです。具体的には、タクラマカン砂漠を旅してきた西方の商人であるイラン人、トルコ人、ソグド人、もちろん日本からも遣唐使がきますし、インドネシア朝鮮半島からも長安に訪れる人たちがいました。
 そのため唐は、官吏登用において外国人にも門戸を開いていました。例えば日本から遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂(698〜770)は、高官として引き立てられています。このことを見ても、当時の長安は極めてグローバルでオープンな最先端の都市だったことが分かります。
 ただ隆盛を誇る強大な帝国がすぐ隣にあることは、日本にとって喜ばしい側面だけではありませんでした。当時の日本にとっての唐は、学ぶべき先進国でもありますが、もしかすると侵攻してくるかもしれない脅威でもあったのです。
 日本がその脅威を目の当たりにするのが、飛鳥時代の中頃、663年の白村江の戦いです。
 朝鮮半島で勢力を伸ばした新羅は、唐と手を結んで百済を滅ぼしてしまいます。国を喪った百済の遺臣たちは日本に「百済復興」のための救援を求めてきました。日本にとっては唐も百済も友好国でしたが、このとき日本は百済の要請に応え、唐・新羅連合軍と戦うべく、大軍を朝鮮に派遣したのです。しかし結果は大敗。もちろん百済再興も泡と消えました。これが白村江の戦いです。
 コテンパンにやられた日本は九州北部に防人を置くなどして唐や新羅の襲来に備えますが、百済を占領した唐の軍は、白村江の戦いから2年後の665年に、254人からなる使節を送り込んできました。どうやらこのときに一種の敗戦処理が行われたようです。当時の日本は、唐に攻め込まれることを本当に恐れていたのだと思います。簡単に攻め落とされないためには、国の統治体制を強化し、天皇中心の国に作り直さなければなりません。
 そこで日本は、唐に倣って律令による中央集権制を確立することにします。これが日本で律令制が取り入れられた大きな要因でした。
 唐の律令制をそっくり移植
 日本の律令は原則的には唐の律令の模倣でした。本格的な律令編纂は飛鳥時代末期に、天武天皇(?~686年)の命によって始まり、持統天皇(645~703年)の時代に、まず令が施行されます(飛鳥浄御原令)。さらに文部天皇のときに大宝律令が完成します(701年)。
 また唐の長安の都市整備をみならって、奈良に平城京を築いて遷都を実施します。東西約4.2キロ、南北約4.7キロの大規模な都市は長安と同じ建築様式でつくられました。奈良時代の始まりです。
 このように律令も都も唐にそっくり真似てつくられ、日本は律令国家として生まれ変わります。豪族による連合国家的色彩が強かった日本は、天皇を中心とする、官吏の優越性が高い国家体制を志向するようになりました。豪族による土地や人民の私有は廃止され、土地はすべて公地となり、班田収授法に基づいて公民に割り当てられ、その代わりに公民は税を納めることが求められるようになりました。土地や人民を取り上げられた豪族は、貴族として官職などが与えられました。
 律令制はまさに日本の国家体制を激変させたのです。
 日本の実情に合わなかった部分も
 その日本の律令制、実際の運用はどのようなものだったのでしょうか。
 日本の律令制の規定は唐のそれをほぼそっくり輸入したものでしたが、実は運用面ではだいぶ違いがありました。
 例えば地方行政制度です。唐が採用した州県制では、州の州刺史、県の県令という長官と次官は中央から派遣されていました。
 しかし国・郡・里(郷)の三層構造に分けられた日本の地方行政では、国には国司、郡には郡司、里には里長(郷長)が置かれましたが、国司こそ中央から派遣された官人でしたが、郡司・里長はその地域の有力豪族から任命され、実質上、彼らがもとから支配していた地域を行政単位とすることが認められていました。
 要するに、中央集権を目指してはいましたが、それが地方の末端まで徹底されてはいなかったのです。これはおそらく、日本の土俗的な社会がまだ色濃く残っていたからだと思います。中国の律令制は、秦の統一から数えてもおよそ900年の歳月をかけて磨き上げられてきたシステムですが、それをほんの少し前まで豪族の連合政権的な性格を持っていた日本が輸入したのですから、社会の実情に合わないところがたくさんありました。そのため、日本に合うようにアレンジされたり、あるいは規定は存在しても実際には運用されなかったりしたものもあったのです。
 また詳細は省きますが、日本が採用した官僚制の位階序列をもとにする官位相当制も、大和時代からあった氏姓制度の色彩を残したものになりました。後に、この律令制に基づく官僚社会の中で勢力を拡大していったのが藤原氏でした。
 崩れ行く公地公民
 このように、天皇中心の中央集権体制を目指した日本の律令制ですが、実際には豪族の力は一定程度温存されていました。
 律令制の重要な部分として、唐の均田制を手本にして定められた班田収授法がありました。これは、国から受給資格を認められた人民へ田が割り当てられ、人民はその田を耕作し、その一部を税として納めるというものです。このベースには、全ての土地は天皇のものという考えがありました。
 しかし、班田収授法は次第に機能しなくなっていきます。田を捨てて流浪する農民が増加したこと、割り当てる田が不足してきたことなどが原因です。
 田地を増やすためには、荒地などの開墾を進める必要がありました。そのために743年に墾田永年私財法が発されました。これは自ら開墾した田の私有を人民に認めるものです。これによって資金力がある寺社や中央貴族、地方の豪族が、農民や浮浪人を雇い入れて開墾を進め、大土地を所有するようになります。こうして次第に公地公民の原則が崩れていきます。そして、ここで寺社や貴族が手にした土地は、後に荘園とよばれるようになります。
 このように律令制に基づく国家運営は徐々に姿を変えていきます。建前は天皇を中心とする中央集権制でしたが、その中で少しずつ貴族や寺社などが力をつけていくことになったのです。
 唐の衰退で海外からのプレッシャーも減少
 さて、日本が手本としながらもその脅威に怯えていた唐ですが、9代皇帝・玄宗の時代に大きな転換点を迎えます。712年に即位した玄宗は当初は善政を施し、唐も大いに栄えるのですが、後に寵姫・楊貴妃を溺愛するようになると政治を疎かにするようになってしまいます。
 政治が腐敗した唐では、玄宗に取り入るべく有力者たちが互いに競い合うようなありさまでした。特に対立したのが、楊貴妃の親戚である楊国忠と軍人・安禄山です。2人の対立はついに臨界点に達し、755年に安禄山は反乱を起こし、洛陽と長安を占領してしまいます。長安は大混乱に陥り、玄宗は蜀(現在の四川省)に逃亡、息子の粛宗に皇位を譲ることになります。
 最終的に反乱は鎮圧され、長安と洛陽も回復しますが、国土は疲弊し、唐はここから徐々に衰退の道を歩むのでした。
 日本は794年に都をやはり長安を手本につくった平安京に移し、平安時代が幕を開けます。唐が衰えを見せてからも遣唐使は派遣していましたが、それも894年についに廃止されました。唐から学ぶべきものはもう学んだ、危険を冒してまで有為の人材を派遣する必要はない、というのが廃止の理由でした。ちなみに、この廃止は菅原道真の建白によるものでした。唐はそれから間もなく、907年に滅亡し、中国は五代十国の分裂の時代に入っていくのでした。
 隆盛極める貴族文化、高まりだす武家社会の足音
 9世紀の末期に遣唐使が廃止されると、中国からの文化的影響が薄くなった日本には、独自の文化が芽生えていきました。いわゆる「国風文化」の勃興です。
 国風文化の特徴のひとつとして、貴族社会の中の文化という点が挙げられます。広大な荘園を経営して経済的に力をつけた貴族たちが享受した文化だったのです。
 また国風文化は、かつて『古事記』や『日本書紀』などが漢文で書かれていたのとは対照的に、カタカナやひらがなが使用されるようになります。その中心となったのは宮中や貴族の家に使えた「女房」と呼ばれた女性たちでした。そのため紫式部清少納言和泉式部の作品は「女房文学」と呼ばれます。豪奢な生活を送る天皇や貴族に仕える才女がその主要な担い手だったわけですが、それにしてもこの時代に女性が文学者になるということは、おそらく世界中で日本だけではなかったでしょうか。
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 この国風文化が栄えた時期は、班田収授も行われなくなり、公地公民の原則に基づく耕作地割り当てという律令制の根幹が行き詰まりを見せ始めた時期と重なります。このとき、中央で政治の実権を握っていたのが藤原氏でした。
 五代十国の混乱の時代に入った中国が攻め込んでくる可能性はなく、中央集権で強い国家体制を築く必要性も薄れたという事情もあるのかも知れませんが、10世紀以降は律令国家の実質は失われていくのでした。
 しかし藤原氏が力を振るう中央の政治はまもなく弱体化を覆い隠せなくなります。そして日本の実権はやがて武士が握るようになります。もはや中央による土地や人民の管理はできず、各地の武士や豪族がそれぞれの領地、領民を管理する分裂の時期に日本も突入します。律令制の一部はその後も生き続けますが、次に日本が統一され中央集権的体制が確立されるのは、秀吉の時代を待つしかありませんでした。」
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