🗻69〕70〕─1─平安時代、才能も地位もあった僧が出世できなかった理由。〜No.184No.185No.186No.187 ㉓ 

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 2021年7月27日 MicrosoftNews JBpress「平安時代、才能も地位もあった僧が出世できなかった理由
 © JBpress 提供 元興寺極楽坊 撮影/倉本 一宏(歴史学者・倉本 一宏)
 才能が出世の妨げになった?
 久々に僧の卒伝である。『続日本後紀』巻十三の承和十年(八四三)十二月癸未条(二十九日)は、謀反(新羅人張宝高〈ちょうほうこう〉と関わりを持って国際交易に手を出し、自邸に武器を蓄積したというもの)の密告があった文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ/先に言及した文室浄三〈きよみ〉の孫で、秋津〈あきつ〉の弟)の伊豆への配流が決定したことに次いで、守印(しゅいん)という僧が死去したことを語っている。
 元興寺の伝灯大法師守印が死去した。法師は和泉国の人で、俗姓土師(はじ)氏、勝虞(しょうぐ)大僧都の弟子であった。延暦二十四年に年分度者として受戒した。生まれつき聡く敏捷で、物の道理に精しく一度耳に聞くとそらんじて忘れず、しばしの間目に触れたものは皆記憶して漏らすことがなかった。法相によく通じ、併せて倶舎宗を解し、論義の座で守用に匹敵し得る者は稀であった。眼・耳・鼻・舌・心・意からなる六根のうち、鼻根に勝れ、守印が他出の間にその房に人が入室することがあると、戻った守印は匂いをかいで自分のいない間に誰が来たか問い、寺の出家見習いの童子を見て、□の飯を食した、と語った。これを検証してみると、真実であり、嗅覚に関わるこの類の評判が広くひろまっていた。残念なことに宮中の講座に列することなく、空しく一房のうちで死去した。行年六十一。
 伝灯大法師というのは天平宝字四年(七六〇)に定められた二色九階の僧位(僧に与えられる位階)のうちの最高位のことである。
 これほど高位にあった守印であったが、僧正・僧都・律師からなる僧官に任じられることはなく、僧綱という僧尼を統轄し大寺院を管理する役職に就くこともなかった。それのみならず、どこかの寺院の寺務を総括する別当の職に任じられたことも伝わっていない。また卒伝によると、宮中に召されてその講座に列することもなかったというのであるから、徹底して出世しなかった人のようである。
 なお、僧の場合、その出自はほとんど問題にならない。守印が王権の葬送を管掌する土師氏の出身だからといって、それが出世できなかった理由とは考えられないのである(古代の高僧は渡来系氏族や地方豪族出身の人も多かった)。
 守印の師である勝虞は、阿波国板野郡の地方豪族である凡直(おおしのあたい)氏の出身で、法相と因明に長じ、元興寺に住した。桓武(かんむ)天皇の病気平癒のために放生を行ない、大僧都となって僧綱の中心となって活躍した。統率力に優れ、任その人を得ると称されるほどであったという。
 このような素晴らしい師匠の教えを受けていながら、守印がまったく出世とは縁遠い人であったとは、やはり本人なりの矜持があったのであろう。
 しかも、まったく能のない人であったならばともかく、博覧強記にして、法相(一切のものの真実のすがた。ものの真実の本性)に通じ、倶舎宗(諸法を五位七十五法に分析してそれらの実在性を認め、世界はこれによって成立し輪廻の苦に漂う人生が存在するから、根本の煩悩を滅し身体的条件のなくなった無余涅槃に達すべきことを説く)を解し、論義の座で守印に匹敵し得る者はいなかったというほどの才を見せていたのであるから、その実力は誰しも認めるものであったに違いない。
 いやむしろ、このような突出した能力が、逆に守印の出世の妨げになったのではないかとの推測は、おそらくそれほど的を外したものではなかろう。
 仏教界であっても、そこは巨大な組織である以上、個人の能力よりも組織をまとめる能力の方が優先されたであろうことは、平安時代の古記録に僧の能力を誉める語として「能治」というものがしばしば見られ、ついには「寺司の掌るところは受領と異ならないのであるから、受領の例に倣って、能治者を兼補させるべきである」などという意見が公卿議定で出されるようになるのである(『小右記』)。
 その卒伝に記された守印の能力というのも、嗅覚が優れていて、自分がいない間に誰かが来たことを知るとか、童子が何か仏教で禁止されている物を食したことを嗅ぎ取ったとかで評判を取ったとかいうものであり、とても高僧のそれとは思えない事柄である。むしろ、そのようなことばかり言っているから出世できないのではないかとも思えてくる。
 そのようにして六十一歳まで生き、空しく一房のうちで死去したというのも、思えばみずから蒔いた種と言えるのかもしれない。
 しかし、このような一介の僧の卒伝を正史である『続日本後紀』に載せた史官の思いも、また推して知るべきであろう。私としても、宮中に出入りして天皇や貴顕の相手ばかりすることによって高位高官に上り、大寺院の経営に奔走する「高僧」よりも、このような人物に共感してしまう、今日この頃である。」
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