🌋14〕─2─埴輪作りと古墳造営は民の奴隷労働や強制苦役ではなかった。~No.56No.57No.58 

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 2021年8月12日・19日号 週刊文春「文春図書館 著者は語る
 埴輪群像が教えてくれる古墳時代
 『埴輪は語る』  若狭徹  ちくま新書
 素朴な顔立ちに、ゆるく曲げられた手足。思わず『かわいい』と口にしてしまう人は少なくないだろう。そんな不思議な魅力を放ち続ける埴輪が、いつ、どもように作られ、いかなる意味を付与されていたかを解説したのが『埴輪は語る』だ。
 著者の若狭徹さんは、群馬県群馬町(現・高崎市教育委員会に所属していた1988年、古墳の調査中に埴輪を掘り当てた。以来研究を重ね、現在は明治大学で教鞭をとる。
 埴輪と言えば思い浮かぶのが、人の形をしたタイプ。だが、埴輪の歴史の中では最も後出(こうしゅつ)なのだという。
 『弥生時代、ムラの儀式に用いたために、壺とそれを高く掲げるための器台が作られ始めました。器台は時が経つにつれて王のお葬式の道具となり、文様や美しさに重きが置かれます。やがて巨大化した筒状のものになりかすが、3世紀中頃に前方後円墳が登場すると、この〝円筒埴輪〟が多く並べられ、墳丘を飾り、邪霊から守っていました。
 それから100年後、家や王の道具をかたどった〝形象(けいしょう)埴輪〟が現れます。古墳上に「王の館」を埴輪で表し、埋葬された人物の存在を強くイメージさせたのです』
 人物埴輪が出現するのは5世紀。その後200年にわたって作り続けられた。王の葬列や、王の死を確認する殯(もがり)をあらわしているという説があったが、研究の結果、こんなことがみえてきた。
 『埴輪が面白いのは、彼ら一体一体が役者の役割を演じていることです。出土現場で、埴輪の位置関係や、どの埴輪が対面しているのかを仔細(しさい)に研究すると、埴輪たちは複数場面を演じている、ということが分かりました。猪を狩る様子や、巫女が捧げる聖水を受けるシーンなど、王が生前にしていた儀式が再現されているのです。私が調査を行っていた東国エリアでは、甲冑をまとい武装した、〝武人埴輪〟の出土例が多く、これは東国の王の軍事的役割の高さを示しています。王は死後、古墳に飾られた埴輪を民に見せ「王は我々のためにこんなことをしていた」と偲ぶための劇場の役割を果たしていたのです』
 埴輪は、中央のヤマト王権と諸地域との結びつきについても教えてくれる。
 『人物埴輪は、次第に東国エリアで独自の存在感を放つようになります。古墳文化はヤマトにルーツがありますが、当時東国の諸王は、倭王と個別に結びつきながら、軍事的、経済的支援を行っていました。その見返りとして、ヤマトは彼らに前方後円墳の築造を認めたのです。実際、東国で造られた古墳は、同じ時期に造られたヤマトの古墳と同じ設計で、縮尺だけが違う。同盟を結ぶことに、そのときの最新の設計図をもらっていたのです。東国の王は、地域内の勢力争いで優位にたてるよう古墳を大型化させ、それに伴って埴輪も多様化していった。ヤマトの埴輪文化はすたれた後も、東国では作り続けられ、発展を遂げています』
 さらに、埴輪はその時代の王と民の関係を物語っているという。
 『古墳造りは、共同体を結びつける集団イベントでした。王は生前から、地域の開発拠点に自らの墓を造営して人と技術を結集させ、参加者には食物を再配分する機能も担わさていました。民は、自分たちに富をもたらす王のために、古墳造りに進んで参加していたでしょう。当時の王は祭祀から経済・軍事まで統べる能力を持ち、人々に信頼され王位に就いていた。その生前の業績が埴輪に表されたのです。民からの信託とその統治能力は現代政治の範ともなるものでしょう』」
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埴輪は語る (ちくま新書)
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 日本の歴史には、キリスト教史観、マルクス主義史観・共産主義史観、儒教史観は役に立たない。
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 日本民族は、中国大陸や朝鮮半島での熾烈な政争や地獄のような戦争に負けた敗北者・弱者である弥生系渡来人達が日本列島に命からがら逃げ込んできて、石器時代縄文時代から住んでいた先住民の縄文人と雑婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族、つまり弥生人である。
 弥生人は、中国や朝鮮などの東アジア人と異なる所が数多い。
 弥生人達は殺し合いを始め、1万年以上続いていた縄文の平和は消滅し弥生の大乱時代へと突入した。
 日本文明は、揚子江下流域にあった長江文明の後継文明であって、黄河中流域の中原文明の亜流文明ではなかった。
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