☱21〕─3・B─マスコミの取材手法は今も同じ、関東大震災で最悪の"朝鮮人デマ"。~No.47No.48 

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 2021年9月1日12:15 MicrosoftNews PRESIDENT Online「「マスコミの取材手法は今も同じ」関東大震災で最悪の"朝鮮人デマ"が広がった根本原因
 © PRESIDENT Online 1923年9月、関東大震災でがれきと化した町を歩く被災者ら(東京)
 1923年9月1日の関東大震災では、「朝鮮人が放火や略奪を犯した」というデマが流れ、各地で自警団による朝鮮人虐殺が起きた。ジャーナリストの渡辺延志さんは「当時の新聞各紙は『朝鮮人暴動』の流言を大々的に報道していた。だが、その取材手法は現代の記者でも同じだ」という――。
 ※本稿は、渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
 取材の大きな比重を占めたのは東京からの避難民
 『東京大学新聞研究所紀要』で発表された「関東大震災下の『朝鮮人』報道と論調」という論文によると、東京や大阪、朝鮮などの新聞20紙のうち、関東大震災での朝鮮人を巡る記事が最も多かったのは仙台に本社を置く河北新報で、全体の11.3%に上った。
 河北新報においては、「朝鮮人による暴行」流言が全国平均を大きく上回る量で報道され、他方、「朝鮮人に対する暴行」については、あまり報道されないか、あるいは「取締り」というボカされた表現で報じられているにすぎない。
 河北新報は震災のニュースを全国に先駆けて入手し、迅速な報道によって、東北地方の人びとに震災の速報を次々と伝えたが、それと同時に「朝鮮人暴動」流言もまた、同紙の報道を通じて東北地方に広く伝播することになったのである――と論文は指摘している。
 震災直後の混乱期に河北新報の報道の中で大きな比重を占めたのは東京からの避難民の談話であり、「これらの談話の内容は、とくに朝鮮人による暴行に関しては事実を著しく歪め、あるいは誇張した流言に満ちていた」とも研究は指摘している。
 体験者や目撃者の証言取材は記者の基本動作
 だが、新聞記者としてその場に自分がいたならと考えると、やはり同じ様な記事を書いただろうと思えてならない。聞いた話の内容が本当に事実なのかを確認する手段はない。
 だが、語っている人たちに嘘をつく理由が考えられない。数多くの人に話を聞けば聞くほど、内容は似通っている。全国どこの新聞であっても、一本でも多くの記事を載せたいという段階だった。
 そもそも事故や災害の現場で、体験者や目撃者を探して証言を集めるという取材は今日でも珍しいものではない。記者の基本動作ともいえる。
 例えば、2020年、新型コロナウイルスによる大規模な感染が確認された中国の武漢から日本人を帰国させるために日本政府はチャーター便を運航した。到着する空港には多くの報道陣が待ち構えていた。そこで帰国者が語った言葉は、そのまま報じられたはずであり、日本国内から見ていただけでは想像できない切実な話であればあるほどニュース価値は高かったはずだ。
 河北新報が群を抜いて多くの記事を掲載したことには理由があったように思えてならない。熱心に報道をしたのは確かだろうが、それと加えて被災者から話を聞くことのできる条件がそろっていたのだ。
 東京を脱出しようとする人が北への鉄道にあふれた
 東京から西へ向かっては鉄道も通信も多くが機能を停止したが、北へと向かう鉄路は動いていたのだ。
 常磐線は9月1日のうちに金町以北が単線で復旧し、東北線も川口以北が単線で復旧した。3日には隅田川橋梁の応急修理を終えた常磐線が日暮里まで開通し、4日には東北線の荒川橋梁が単線で応急復旧され、赤羽、田端を経て日暮里まで運転された。
 4日には避難民の無賃乗車が始まり、とにかく東京を脱出しようとする人が北へと向かう鉄道にあふれた。そういう人たちの体験談を集めることで、河北新報の記事は成り立っていた。河北新報が特に軽率だったから流言を多く報道したとは思えない。他の地域の新聞ではできなかった情報を収集できる環境にあったのだ。
 さらに、大きいのは仙台鉄道局の存在だ。首都圏の鉄道復旧へ向けて、仙台鉄道局は資材や人員を真っ先に送り込んだ。列車の運行が可能だったからで、他の地域の鉄道局にはできないことだった。
 「列車内は戦争といっていい状態だった」
 国鉄の業務日誌によれば、仙台鉄道局は早くも2日に、鉄道省や東京鉄道局との間の連絡や作業援助の目的で運輸、運転、工務、電気、経理各課員一名で移動出張班を編成し出発させ、大宮駅構内に仙台鉄道局派出所を設置している。この日誌を見る限り、震災直後に独自の派出所を設けた鉄道局は仙台だけだ。そこからの情報は鉄道電話を通して仙台へともたらされ、それを河北新報が次々と記事にしていったと考えられる。
 5日の紙面には「仙台鉄道局大宮派出員島村書記より鉄道職員の実見談として電話報告してきた」という記事が見える。鉄道電話を頼りにしたのは全国の新聞で共通だったとしても、仙台の河北新報だけは独自の情報源を持っていたといえるだろう。
 東京から押し寄せた避難民が東京の空気を運んできたことも考えなくてはいけない。同じく動いていた鉄道でも碓氷峠より西の信越線では雰囲気が相当に違っていたことを当時の新聞は伝えていた。それに対して、東北線常磐線の沿線は殺気だった状態で、武装した自警団が列車内や駅を動き回っていた。戦争といっていい状態だったことを避難民の証言は伝えている。
 東京一帯の被災地の空気がそのまま北へと流れ込んでいたのだ。その環境の中で最も情報を集めやすい立場にいたのが河北新報だった。河北新報の記事が震災直後に際立って多かった、それが理由だったと思えてならない。
 情報源が明らかでない「不逞鮮人団の襲撃」記事
 東大新聞研の紀要に載った論文は、河北新報の記事の内容も分析している。5日朝刊の以下の記事は「事実無根の流言にすぎない」と指摘している。
 「東京における惨害後の混乱はますます激しく、不逞鮮人団が襲撃して各所に争闘を起こし、危険極まりなき状態なので、陸軍では戒厳令発布と同時に、近衛第一両師団並びに宇都宮、高田両師団より一部の兵力を増加し秩序維持に努めているが、なお充分でないというので、三日夜、第二師団に出動命令を下した。」
 4日夕刊の以下の記事に対しては「クレジットがついておらず、情報源が明らかでない。しかし、記事の内容からみて、戒厳軍ないし警察筋からの情報である可能性が示唆される。「朝鮮人暴行」流言を朝鮮半島における独立運動と結びつけて「説明」している点で、強い政治的な意図をもったデマゴーギーの性格をもつ流言報道といえる」と指摘はさらに厳しい。
 「東京の大惨害は地震と暴風を奇貨とし朝鮮の独立陰謀団が時期到来とばかり爆弾放火の大残虐を断行したという事はいよいよ明瞭となったらしく、かかる大陰謀を企ててることを未然に察知できなかった残触内閣は野垂れ死にとなり、これを幇助した政友会の幹部連が頸を並べて圧死したと伝えられ国民の義憤を避けてるが、宇都宮駅にて逮捕した鮮人の自白により彼等は鉱山または水力電気工事、鉄道工事の人夫に雇われて巧みにダイナマイト類を取しビール瓶等に入れて某所に蔵匿し置き、微妙な暗号符牒にて互いに気脈を通じ、東京を中心に機会を狙って居たが、民心倦怠して緊張せず思想はますます悪化し、内閣の奪取運動に夢中になってる矢先、大地震大爆風大火災にて大動揺となるや彼等の組織せる決死隊は枢要の官衙、銀行、富豪等に対して爆弾放火をなし、やがて無政府状態に陥らしめ、暴動化せしめんと計画し、丸に一は爆弾係、山の形二つは放火係、丸に井桁は毒殺係という符牒を定めたもので、戒厳令を敷かれ軍隊ため追撃さるるや、学生その他に化けて罹災者と共に八方に遁走し、中にも最後の爆弾を試むべく宇都宮駅に下車せんとした鮮人十数名あり、大格闘して内四名を捕縛し、他は死に物狂いになって逃亡し甚だ険悪なので、第二師団にも出動命令あり。四日午後一時十分発列車にて第二十九連隊の(一字欠)部が武装して宇都宮方面へ急行し、また五日午前五時三十分発列車にて工兵第三大隊及衛生隊約五百名が東京方面へ急行するそうだが、本県警察部にても怪しい朝鮮人は全部検束することとし、隣県警察部と相策応するなど警察は徹宵し異例の緊張振りである。」
 流言をそのまま伝えた部分のあるのは、確かにその通りだ。だが、この記事を読んだ河北新報の読者が情報源で悩むことがあったとは思えない。
 朝鮮人捕縛に向けて郷土の陸軍部隊が出動
 この二つの記事に共通するのは「第二師団に出動命令が下った」ことを伝えていることだ。ほかの師団は宇都宮(第一四師団)、高田(第一三師団)と地名が示されているが、なぜ第二師団は地名の師団名ではなかったのか。
 理由は明白だ。第二師団は仙台に司令部を置いた部隊だったからだ。第二師団を知らない河北新報の読者がいたとは思えない。師団長は親任官相当職であり、勅任官の県知事よりも席次の高い役職だった。
 日本陸軍の部隊は地域で集めた兵により編制されていた。師団は通常四個の歩兵連隊を抱えていたが、記事に登場する第二九連隊は仙台に駐屯した歩兵の部隊であり、宮城県出身の兵で編制されていた。その郷土部隊が出動することを、この河北新報の記事は報じているのだ。
 4日の夕刊は一面に「第二師団の二個連隊/本日午後仙台駅出発」という記事を載せている。
 「東京市及びその付近の震災救援のため三日午後八時、大湊要港部司令官を経て第二師団司令部に対し、有力なる通信班を有する工兵隊並びに衛生隊の出動命令あり。師団司令部にては、最も機敏迅速に直ちに在仙各隊及び若松、山形各隊に命令して四百名の衛生兵を臨時編成し、医官十四名これを引率し、一方工兵第二大隊三百名は佐藤大佐これを指揮して四日午前五時三十分、東京市外田端へ向け出発」と伝えている。
 ニュースの重要性を強調するための記事の仕立て方
 それとは別に仙台の歩兵連隊に出動命令のあったことも報じている。3日の夕刊には「第二師団の出動は未だ決定していない」という記事もあり、第二師団の動向には地元で大きな関心が集まっていたことを物語っている。
 5日の朝刊には「動員下令の第二師団」という写真も載っている。仙台駅前の広場で銃を手に整列した姿で、「不鮮人跋扈(ばっこ)の東京へ出発」との説明がついている。
 歩兵の一個連隊は約2000人であり、その規模の部隊が武装して混乱を極め、朝鮮人の集団と戦争状態とも伝わる東京方面へと出動するというのだから、河北新報にとっても、その読者にとっても、これ以上はない関心を集めるニュースだった。読者の中には家族や知り合いに兵士のいる家庭もあっただろう。
 このニュースの行間には、そうした事情が、記者と読者の間の暗黙の了解が詰まっているのだ。
 河北新報にとって第一級のニュースである。「出動命令が下った」というだけではとても記事として成立しない。なぜ出動するのか、それがいかに重要で危険な任務であるかを説明する必要があった。当然、第二師団で取材もしただろう。それに加えて手元にあった東京方面の最新の情報を加え、この記事は生まれたはずだ。
 もし私が取材のデスクであったなら、そのようにして記事を仕立てることを記者に指示したことだろう。
 ---------- 渡辺 延志(わたなべ・のぶゆき) ジャーナリスト 1955年生まれ。2018年まで朝日新聞社に記者として勤務し、青森市三内丸山遺跡の出現、中国・西安における遣唐使墓誌の発見、千葉市の加曽利貝塚の再評価などの報道を手がけた。著書に『歴史認識 日韓の溝』(ちくま新書)、『虚妄の三国同盟――発掘・日米開戦前夜外交秘史』(岩波書店)、『軍事機密費――GHQ特命捜査ファイル』(岩波書店)、『神奈川の記憶』(有隣新書)など。 ----------」

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