☴13〕─北朝鮮は飢える労働者を虐殺した。黄海製鉄所虐殺事件。~No.46No.47 

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 2021年9月7日 MicrosoftNews JBpress「脱北者が語る、飢える労働者を虐殺した黄海製鉄所虐殺事件の真実
 © JBpress 提供 「苦難の行軍」の頃の金正日総書記(写真:S009/Gamma/AFLO)
 © JBpress 提供 黄海製鉄所の前身の日本統治時代の日本製鐵兼二浦製鉄所(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)
 © JBpress 提供 「苦難の行軍」の時の北朝鮮。軍人からや学生、子供が畑作業に従事している(写真:ロイター/アフロ)」
 かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏による今回の手記は1998年に起きた黄海製鉄所虐殺事件について。
 ◎李 泰炅氏の連載はこちら (https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください
 大韓民国に定着して12年になったが、北朝鮮にいた時に松林市に住んでいた縁から、「松林」や「黄海製鉄所」という言葉に敏感だ。
 インターネットで松林市や黄海製鉄所を検索すると、「民主化蜂起」「市民蜂起」「黄海製鉄所労働者暴動事件」「虐殺事件」「北朝鮮版5.18抗争(光州事件)」などの言葉が並ぶ。
 ピサの斜塔は横から見なければ傾いていることが分からないように、見る角度によって異なることがいろいろある。「松林事件」と検索すると、数百、数千人の労働者が虐殺されたという記録が並んでいるが、1998年8月に私が見たものとはだいぶ異なる。
 松林製鉄所の民間人虐殺事件とは
 事件を要約すると、金正日総書記の「苦難の行軍」時代、黄海製鉄所の幹部が銑鉄を集め、中国でトウモロコシと交換した。労働者を食べさせるためだった。しかし、党に報告しない秘密裏の行為だったことから、副支配人や販売課長、業務部支配人、生産課長など幹部8人が逮捕され、銃殺された。
 「南朝鮮のスパイが入り込んで黄海製鉄所の設備を毀損させた。幹部が韓国のスパイとつながっていた」という名目だった。
 ところが、労働者を食べさせるために努力した幹部の銃殺に労働者が激怒してデモを断行。翌日未明、保衛司令部が戦車と機関砲を動員して労働者を殺戮した。銃の乱射は10分にわたって続いた。戦車の車輪には肉片がつき、腕と脚があちこちに飛び散るなど凄惨な殺戮で、数百人から数千人が死んだという。
 金日成主席の担当看護婦で、故郷の松林に戻って市の病院に勤めていた看護婦も銃殺現場を見て激怒し、マイクを手に「このような無謀な銃殺をなぜ行うのか。自分のためにやったわけでもないのに、死刑にするとはあまりにもひどい」と抗議すると、その場で縛られ銃殺された。その後、銃殺された死体が埋められた盛土に、数百個の花が置かれたという。
 金日成の服喪期間に底をついた食料
 1998年8月当時、私は松林に住んでいた。松林市民に対する国からの配給は4年前が最後だった。その後、市民は何とかやりくりして食料を調達していたが、金日成主席が亡くなり、13日間の国家葬が続くと、どの家も食料が底をついた。金日成主席の服喪期間の商売は、首領の神格化を否定する行為と見做されたからだ。全国民が喪に服さなければならなかった。
 苦難の行軍は突然、襲って来るものではない。松林の「苦難の行軍」はこの頃に始まった。
 北朝鮮の行政区は大きい順に、「郡」「市」「群」「里」「洞」という単位で構成されている。松林の場合、6カ所の里の中に19カ所の洞がある。松林は人口密度が全国で最も高く、北朝鮮南端の開城から北端の穏城まで商売に出向く市民が少なくない。
 「苦難の行軍」の時代、地元の黄海製鉄所で働く労働者は、当局が黙認する中、工場で製造した石油コンロを持ち出し、自転車で郊外の村に行きトウモロコシと交換した。その後、工場が完全に止まると、労働者は工場の機械類を取り外し、穀物と交換した。電気がなければ何も製造することはできないため、工場にある機械類は意味がないと判断したのだ。
 その当時、黄海製鉄所は火力発電所から電力供給を受けていたが、文徳(ムンドク)、粛川(スクチョン)、价川(ケチョン)などの炭鉱で石炭が生産されず、火力発電所の稼働もままならなくなった。その中で、黄海製鉄所も稼働を維持できなくなったということだ。
 「朝鮮の心臓」と言われる平壌には電力が供給されていたが、時間別に供給される電気を松林に分けることはない。上水道も寸断され、水、火、米がすべてなくなり、餓死者が急増した。餓死者が増加し、道端にも死骸が放置されるような惨状である。
 ある日、朝起きてマンションのベランダに出ると、その下に身体が折れ曲がった遺体が横たわっていた。駆け付けた保衛員(警察官)が調べると、配給所の塀に「お腹が空いて生きていけない。米をくれ」と石炭で書いた書き込みが見つかったため、当初は餓死したものと思われた。ところが、遺体を見ると餓死とは思えないような損傷があった。
 その後、すぐに「殴られて死んだ○○作業班の秘書だ」という噂が流れてきた。私もよく知っている職員の夫で、この話は噂ではなく真実だった。食べていくことすら大変なのに、過度に党の忠誠心を要求したことに恨みを感じた人が真夜中に殴り殺したという。
 だが、防犯カメラも何もない松林では事件性があったとしても犯人を捕まえることは難しい。保衛員は検証を行うため、疑わしき人物のノートを取り上げて筆跡を調べたが、まともな筆跡鑑定員がいない中で犯人を見つけるのは不可能だ。結局、この事件も多くの餓死者の遺体として処理をせざる得なかった。
 新設された遺体処理作業班の報酬
 1996-1998年は全国が餓死者の死体が溢れた大餓死の時代だった。
 苦難の行軍であらゆる職業が消える中、松林補修事業所(住居を補修修理する事業所)に遺体を処理する「遺体処理作業班」が作られた。彼らの報酬は数本の酒と豆類を肉のように成型した精進料理のようなおつまみ数点だった。
 配給が途絶えて生産が中断した黄海製鉄所の党委員から、工場や職場の餓死を防ぐため、あらゆる手段で職場の従業員を食べさせるようにという指示が出された。私の勤務先もアイスクリームや薬を作って販売した。しかし、それだけで従業員と家族を食べさせることは難しい。
 1948年に北朝鮮政権が樹立して以後、暴動という言葉を多く耳にしたが、噂に過ぎなかった。一方、暴動の準備をしていた時に一網打尽になったという噂はたくさん聞いた。1976年の海州暴動で3万人以上が射殺されたという話や1995年に第6軍団がクーデターを起こそうとして摘発され、粛清されたという話もある。
 同じように、黄海製鉄所で数千人の労働者が暴動を起こしたのか。韓国メディアが言うような光州事件北朝鮮版だったのか。韓国で伝えられているように、銃殺現場を見て激怒した看護師がマイクを持って労働党の銃殺に反対することなどできたのだろうか。誰が遺体を埋める盛土を作ったのか。また、独裁政権下で、花を添える行為を行えたのだろうか。
 次回以降、筆者が目撃した真実を書いていこうと思う。
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 黄海製鉄所(ファンへせいてつしょ)は、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の黄海北道松林市にある製鉄所である。工場の敷地面積は330万m2(約100万坪)。
 関連事業を統合した企業体黄海製鉄連合企業所(ファンヘせいてつれんごうきぎょうしょ)を構成している。
 沿革
 前身
 詳細は「日本製鐵兼二浦製鉄所」を参照
 黄海製鉄所の前身は、日本統治時代に建設された「兼二浦製鉄所」である。兼二浦製鉄所は三菱系の三菱製鉄が建設して1918年に操業を開始し、後に日本製鐵の運営となっている。製銑設備と製鋼設備を備え、年間に約25万トンの銑鉄と約5.9万トンの鋼鉄を生産できた。
 第二次世界大戦
 朝鮮戦争では爆撃を受けて溶鉱炉がすべて破壊されるが、1954年6月の平炉復旧を皮切りとして1950年代後半の五カ年計画期に再建が進められた。1960年代に設備が増設されたことによって、製銑、製鋼、圧延の3要素を持つ一貫製鉄所になった。
 1970年代に小規模溶鉱炉を拡張、新設して銑鉄生産能力を約27万トン増大して、鉄線、ロープなどを生産する銑材圧延設備も建設された。
 1980年代にも生産能力を拡張して生産工程の自動遠隔調整システムを導入。年間約1万トンのステンレス鋼板設備、連続造塊機などが建設された。同製鉄所の年間の鋼鉄生産量は約145万トンは、北朝鮮全体の年間鋼鉄生産量、約600万トンの24%に当たる。
 1990年代後半以降は、電力事情の悪化や食料難や原料供給の不足などの経済危機の影響や、設備の老朽化により、鉄鋼生産量が減少している。1998年には製鉄所の労働者が食料の配給を求めてデモを起こしたものの、北朝鮮当局による弾圧に遭い、多数の死傷者を出した。
 黄海製鉄所は鉄鋼生産の効率を高めて原料供給、輸送を円滑に行うため、関連企業を統合した「黄海製鉄連合企業所」を構成している。
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 日本製鐵 兼二浦製鐡所(にほんせいてつ けんじほせいてつしょ)は、かつて存在した日本製鐵株式會社(日鐵)の製鉄所である。朝鮮の黄海道黄州郡(現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海北道松林市)に建設された。
 概要
 1917年(大正6年)に、三菱財閥系の三菱製鐡によって建設された製鉄所である。三菱製鐡の製鉄合同への参加により、1934年(昭和9年)に日鐵の兼二浦製鐡所となった。1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦に伴い、日鐵の手を離れた。1920年代の一時期を除いて、高炉による銑鉄製造から製鋼、鋼材圧延までを手がける銑鋼一貫製鉄所であった。
 製鉄所の立地する兼二浦は朝鮮半島西側(黄海)の町である。周囲には鉱山(鉄山)があり、それらから供給される鉄鉱石で兼二浦製鐡所は鉄鋼を製造していた。

 戦後
 戦後は朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)において黄海製鉄所と名前を変え現在に至っている。
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