☴14〕─1─北朝鮮のマルクス主義・苦難の行軍・主体思想による犠牲者200万人以上の餓死者。~No.48No.49No.50 ④ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 餓死者の陰には、餓死した犠牲者の数倍にのぼる飢えて苦しむ人々がいる。
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 2016年1月9日 産経新聞「秘録金正日(59) 失政で餓死者200万人超、「米韓のスパイだ」責任転嫁し仕掛けた粛清劇
 1995年夏、北朝鮮は100年に1度といわれる大洪水に見舞われる。金日成(キム・イルソン)時代に「主体(チュチェ)農法」と称して造成した段々畑はもろくも流され、韓国側の推定で穀物収穫量は年間345万トンに落ち込む。
 国内需要には約130万トン足りず、手立てを講じなければ、餓死者が出るのは明らかだった。しかし、金正日(ジョイル)は「苦難の行軍」をスローガンに掲げて乗り切ろうとした。抗日闘争時代、日成の部隊が木の皮で飢えをしのいで行軍した逸話にちなみ、国民にただ我慢だけを強いたのだ。
 食糧不足がピークに達した96年には全国に飢餓が広がり、人口約17万人の北東部、金策(キムチェク)市だけでも毎日200人以上の餓死者が出た。元朝労働党中央委資料研究室副室長の金徳弘(ドクホン)が後に見た内部の統計資料では「96年11月までに少なくとも100万人が死んだ」という。この大飢饉(ききん)での犠牲者は最終的に200万人以上に達したといわれる。
 爆弾テロ画策し韓国反共団体が潜伏?
 全ての責任は、権力を独占する金正日にあったが、言い逃れに終始する。
 「(金日成)首領さまは生前、私に絶対、経済生活(運営)には深く関与してはならないとおっしゃった。党や軍事活動もできなくなると、何度もおっしゃったのです」(96年12月、金日成総合大学での談話)
 民心が離れていくなか、正日は「思想戦」(党員・住民の思想検閲運動)を打ち出す。 「首領さまがいなくなった隙を狙い、米帝南朝鮮(韓国)傀儡(かいらい)らが侵略戦争を仕掛けようとしている。革命の首脳部を暗殺しようとテロ分子を浸透させていることを知らせろ」
 党宣伝扇動部にこう命じ、全国民を巻き込んだ集会を展開させる。
 タイミングを計ったように96年夏には、警察に当たる社会安全部の報告書によって「間諜(スパイ)事件」が明るみに出る。平壌市竜城(リョンソン)区域で住民登録簿を調べたところ、爆破テロを仕掛けようと紛れ込んでいた韓国の反共組織「西北青年団」のメンバーを摘発したとの内容だ。
 実際には、前年末に市安全局住民登録課職員が同区域の行政委員長を「スパイ」として申告、後にでっち上げと判明したはずの案件を社会安全部政治局長の蔡文徳(チェ・ムンドク)が蒸し返したのだ。
 朝鮮中央テレビは韓国団体員が隠し持っていたとする武器を公開する。だが、同部監察課出身の朴文一(パク・ムンイル)によると、「武器は塩水に漬け、さびを作ったものだった」という。事件に信憑(しんぴょう)性を持たせるために施された演出だった。
 蔡は、正日の大学同期生という理由だけで出世コースに乗り、平壌市安全局長に就いた。党の学習を怠ったとして一時、地方の分駐所に左遷されたものの、正日の妹婿の張成沢チャン・ソンテク)の口利きで党組織指導部副部長に昇進。96年から住民の政治動向を監視する社会安全部政治局長を務めていた。 
 「一発やってみせろ」
 蔡文徳からの報告書を読んだ金正日は「住民登録文書の了解(調査)をさらに深化させろ」と社会安全部に指示した。
 「私の登録文書から調査してもよい。スパイ組織を根こそぎ見つけ出すのだ」ともはっぱをかけた。「思想戦」は国を挙げた大捜査劇へと変貌していく。
 正日の指示で、調査を徹底するため、同部内に「深化組(チーム)」指揮部が設置され、蔡が最高責任者に就任した。総勢8千人を投入し地方の道、市、郡にも深化組が組織された。正日への報告役は、組織指導部で司法部門を統括する第1副部長になったばかりの張成沢に任された。
 深化組の捜査が動き出したのは97年初めとされる。農業担当党書記の徐寛煕(ソ・グァンヒ)が最初の標的となった。金日成の農業政策を現場で支えてきた人物だ。
 寛煕には、肥料30トンを親戚らに横流しした容疑がかけられた。配分をめぐる手違いにすぎなかったとみられるが、機を見るに敏な張が事件を利用した。
 張が上げた資料に目を通した後、正日は吐き捨てるようにいった。「肥料(事件)だけでは弱すぎる」
 義兄の言質を得たとばかりに張は蔡に告げた。「将軍さまから全権を委任してもらった。この機会に、社会安全部を動員して一発やってみせろ。背後を徹底調査しろ」
 正日や張の思惑を忖度(そんたく)した蔡は、寛煕を「何十年も前から共和国(北朝鮮)内部に潜伏して、米国と南朝鮮のために党の農業政策を破壊したスパイ」に仕立て上げた。朝鮮戦争期間中の経歴に「1カ月の空白」があり、この間に米韓に抱き込まれたとする罪状が捏造(ねつぞう)された。
 97年9月中旬、平壌南部、統一通り近くの丘で、3万5千人もの群衆が見つめるなか、寛煕の銃殺刑が執行された。現場に居合わせたという元党幹部の金哲鎮(チョルジン)は「拷問のせいでボロボロになっていた徐寛煕の口には、くつわがはめられていた。声を出すのを恐れたからです」と証言する。
 「刑場」には、スパイ組織の一味とされた西部、平安南道(ピョンアンナムド)の協同農場女性管理委員長の黄今淑(ファン・グムスン)ら17人も引きずり出された。群衆は「南朝鮮傀儡の手先を殺せ」と罵声を浴びせた。
 死者をもう一度「公開処刑処」
 徐寛煕の処刑は、摘発の幕開けにすぎなかった。死んだ人物の「公開処刑」まで行い、恐怖心をあおり立てた。
 84年に死亡し、革命烈士陵に埋葬された元農業担当書記の金万金(マングム)について、農業政策の失敗の責任が問われた。掘り出した遺骨を人民裁判にかけ、再度この世から葬られた。
 これを皮切りに、蔡文徳は本格的な北朝鮮魔女狩りに踏み切る。
 まず、「深化組」上層部が個人的な恨みを抱く幹部が餌食となった。象徴的人物が本部党責任書記の文成戌(ムン。ソンスル)だ。正日の異母兄弟やその親族を監視する役目を与えられていたが、しばしば、張成沢の越権行為や女性関係を金日成に報告し、張の恨みを買っていた。
 次に逮捕されたのは、党政治局委員で平安南道党責任書記の徐允錫(ユンソク)や、平壌近郊の南浦(ナムポ)市党責任書記の朴勝一(スンイル)ら。允錫は蔡を地方に左遷した元上司だ。
 文は、尋問中に顔の原形をとどめないほど殴られ、自ら独房の壁に頭を打ちつけて自殺。允錫は拷問で精神に異常をきたした。
 これを聞いた金正日は「文成戌は信念の強い人間だ。徐允錫は信念がない」と冷酷に応じたという。
 逮捕者は次第に膨れ上がり、98年までに金日成時代の老幹部を中心に3千人近くが処刑され、1万人以上の縁故者が収容所に送られた。しかし、深化組事件はその後の展開によって、人々に正日統治の恐怖をさらに深く植え付けることになる。=敬称略」
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 2021年9月9日 MicrosoftNews AFPBB News北朝鮮が軍事パレード 建国73年
 【9月9日 AFP】北朝鮮は建国73年を迎えた9日未明、首都平壌金日成広場(Kim Il Sung Square)で民兵組織「労農赤衛軍」や治安を担当する「社会安全軍」を中心にした軍事パレードを行った。国営朝鮮中央通信(KCNA)が報じた。北朝鮮が軍事パレードを実施するのは、この1年間で3回目。
 北朝鮮は、国際社会に制裁を科されているにもかかわらず、核兵器とミサイルの開発を続けており、軍事パレードでその成果をアピールすることが多い。
 しかし、今回はかなり控えめな内容で、戦略兵器も登場しなかったとみられる。パレードの最後に登場したのは恒例の巨大なミサイルではなく、社会安全軍の消防隊だった。
 KCNAによると、金正恩キム・ジョンウン、Kim Jong-un)朝鮮労働党総書記は「全国民に温かいあいさつをした」が、演説はしなかった。
 KCNAによると、共同農場の労働者らは、「有事の際に、侵略者とそれに従属する部隊を壊滅させる火力を持った大砲を積んだトラクター」で参加した。
 映像は国営朝鮮中央テレビ(KCTV)による放送の一部。」
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 ウィキペディア
 苦難の行軍(朝鮮語:고난의 행군)とは、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)で1996年1月1日の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の新年共同社説で使われた、当時の飢饉と経済政策の失敗による経済的困難を乗り越えるためのスローガンである。1938年(昭和13年)12月から1939年(昭和14年)3月まで金日成抗日パルチザン満洲で日本軍と闘いながら行軍したとされることになぞらえている。
 概要
 北朝鮮では、金日成死去後・金正日体制に移行した1994年から1998年にかけて、朝鮮戦争休戦後最大規模となる飢饉が発生、1995年夏の大水害をきっかけとして深刻化し、1998年末までに30万人から300万人が死亡したといわれる。この飢饉が深化組事件の遠因となった。この時期は出生率も3割ほど低下しており、2014年にはこの時期に生まれた世代が徴兵されると、120万とされる現在の朝鮮人民軍の兵力を維持できなくなるため、北朝鮮は女性の徴兵義務化を発表している。
 北朝鮮は苦難の行軍が始まった1994年に徴兵検査基準を変更し、「身長150cm以上、体重48kg以上」を「身長148cm以上、体重43kg以上」に引き下げ、さらに、苦難の行軍期に年少期を過ごした子供が、徴兵年令である17歳に達した2008年からは、その徴兵検査基準も撤廃され、健康であればすべての若者を徴兵対象者にすると変更した。徴兵検査基準が変更されたのは若者の成長不足のためであり、大量の餓死者が発生した苦難の行軍により、著しく人口が減少し、兵士充足率が急減していることが分かる。さらに、CIAなど5つの情報機関が共同で作成し、国家情報会議のウェブサイトに掲載された「世界保健の戦略的示唆点」は、「北朝鮮では1990年代に広範囲に及ぶ飢餓が発生してから深刻な栄養不足状態が続いており、児童の半数以上が成長障害か低体重、青年層の3分の2に栄養失調や貧血がみられる」「2009年から2013年の潜在的徴集対象の17%から29%が知的能力に欠け軍生活不適格者となる」「北朝鮮の軍人らは自身に対する食糧配給がきちんと行われても栄養失調にあえぐ家族を心配するようになり、これが忠誠心の低下につながりかねない」と報告している。
 1999年4月30日『朝鮮日報』によると、テポドン1号発射には最低3億ドルかかり、3億ドルで国際市場のトウモロコシを買えば約350万トンになり、それだけで北朝鮮全国民の1年分の食糧となる。1999年4月22日『労働新聞』は、金正日の「(1998年8月のテポドン1号発射について)敵は何億ドルもかかっただろうと言っているが、それは事実だ」「私は、わが人民がまともに食べることができず、他人のようによい生活ができないということを知りつつも、国と民族の尊厳と運命を守り抜いて明日の富強祖国を建設するため、資金をその部門に振り向けることを承諾した」という発言を報じている。安明進によると、1990年代後半に金正日は「反乱が起きたら全部殺せ。餓死者は死なせておけばいい。私には2千百万全部の朝鮮人民が必要なのではなく、百万の党員がいればいいんだ」と発言した。
 北朝鮮労働者の国家的な海外派遣は、1960年代より行われていたが、苦難の行軍に伴う生活苦の経験を契機として、ロシアの森林(北洋材)伐採現場や中東の建設現場に、進んで出稼ぎとして赴く者も出るようになった。
 2021年4月に開催された朝鮮労働党第6次細胞書記大会で金正恩総書記は「自己の党(朝鮮労働党)を守るために数十年間もあらゆる苦難に耐えてきた人民の苦労を今は一つでも軽減し、人民に最大限の物質的・文化的福利をもたらすために、私は、党中央委員会から始めて各級党組織、全党の細胞書記がより厳しい『苦難の行軍』を行うことを決心した」と発言し、『苦難の行軍』に言及して体制の結束を高める方針を示した。
 餓死者数
 餓死者数は、政治的要因および統計制度・調査方法の不備から、識者によって諸説ある。
 ・韓国に亡命した北朝鮮最高人民会議常設会議議長の黄長燁は、「1996年11月に大量餓死が心配になって、腹心の部下を労働党組織指導部に送って尋ねさせたところ、1995年に50万人、1996年11月までに100万人死んだ。このままなら1997年も100万人、1998年までに300万人死ぬだろう」という結果を得たと証言しており、「自分が統治する人民、国民を300万以上餓死させ、そしてすべての国土を監獄にし、経済的権力、政治的権力、すべてのものを奪い、とうとう精神すらも奪ってしまう」「有事には急変して大勢の難民が韓国に来る、日本に来るという話もありますが、私はそういうふうには思いません。300万人が餓死した時もそのようなことはありませんでした」と述べている。
 ・1996年11月、朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長の金徳弘に対して、朝鮮労働党中央委員会書記局組織部の死亡者の統計担当者が「1995年に50万人、うち党員が5万人、1996年11月までの時点で既に100万人、1997年もこのまま行けば100万人は死ぬだろう」と伝えた[13]。これについて1999年3月に金徳弘と面談した西岡力は、「この統計が総死亡者数だとしても、1995年、1996年の2年間で150万人になる。1997年、1998年も状況は好転していないから少なくとも150万人以上が死亡したと見て間違いないだろう。となると、4年間では300万人以上の死亡者が出たことになる」「面談した際の印象とこれまで文章として発表されたものの内容から、死亡者の数に関する黄氏と金氏の証言は意図的な誇張や歪曲はないと私は判断している」と述べている。
 ・ジャスパー・ベッカー(BBC記者)が、国連などのデータをもとに指摘しているところによると、金日成が死去した直後の1995年、国連が調査した北朝鮮の人口は2400万人だったが、2005年には1900万人に激減しており、わずか10年余りの間に500万人も餓死していると指摘している。
 ・宮塚利雄は、2012年に「10年間で500万人以上の餓死者が出たと言われ、現在は(北朝鮮の人口は)2000万人を切っているとも言われる」と述べている。
 ・李栄薫は『産経新聞』のインタビューに対し、「たとえば、金日成主席の死亡(1994年)から1997年までに金日成の墓のために使われた資金は9億ドル(約970億円)にのぼる。その金があれば、1995年から1998年にかけ300万人が死んだとされる大飢餓の人々を救えたはずだ」と述べている。
 ・救う会事務局長の平田隆太郎によれば、韓国から北朝鮮に向けて風船で散布している北朝鮮向けビラには、「300万人が飢えて死んだ『苦難の行軍』の時、3年間も北朝鮮人民らを養うことのできる8億9千万ドルを投じて自分の父の金日成の死体を飾るのに費やしました。このお金で食糧を買い、飢える人民に食べさせたら、数百万人が餓死はしなかったはずです。これがまさに人民の父母、人民の指導者と騒ぎ立てる金正日の正体です」と書かれている[17]。平田は、「北朝鮮では1994年に飢餓が発生し、1996年、1997年、1998年の3年間で大量の餓死が発生し、1999年まで続き、その数は300万人と言われる。餓死者が大量に出たことは脱北者の証言で明らかであるが、北朝鮮は、この期間も人口が増加したと報告している」「北朝鮮の人口統計は少なくとも300万人の水増しである。特に金正日政権になって餓死者が多発したのである」と述べている。
 ・趙甲濟は、脱北した北朝鮮政府高官から「2005年に労働党の核心部署が最高人民会議代議員選挙のための人口調査をしたところ、1800万人という数字が出た」という情報を得たとして、「平壌の高官だった脱北者が驚くべき証言をした。彼は、『自分が労働党の核心部署から聞いたことでは、労働党最高人民会議代議員選挙(2003年8月)のため人口調査をしたら、なんと1800万人だったそうだ』『1994年から1998年の4年間で300万人以上が飢え死にした以降も人口の増加はなかった』」と述べている。
 ・李相哲は、「200万人に上る餓死者を出した1990年代後半の『苦難の行軍』」「『苦難の行軍』というのは1990年代後半、自然災害などで苦境に陥り300万人とも言われる餓死者が出た時の状況を指す」と述べている。
 ・近藤大介は、「北朝鮮では、金日成主席が死去し、金正日総書記の時代を迎えた1994年後半から1997年にかけて、3年飢饉が発生。数百万人が餓死したと言われる」と述べている。
 ・武藤正敏は、「1995年前後、餓死者数10万とも100万ともいわれる『苦難の行軍』の時期にも、金正日政権は国民救済ではなく核開発に財源を使ってきた」と述べている。
西岡力は、「1994年金日成死亡直後から配給がほぼ全面的に止まり人口の15%、300万人が餓死するに至った。その後も配給は復活せず党軍治安機関幹部らを除くとすべての住民が政権の統制の外で『チャンサ(商売)』を通じて生計を維持している」と述べている。
 ・私たちの民族助け合い仏教運動本部が中国に脱北した難民に対して、1997年9月30日から1998年9月15日の約11か月間かけて行った「北朝鮮食糧難民1694名面談調査」では、難民に本人を含む総家族数を確認後、1995年8月から1998年7月までの3年間に死亡した人数を尋ね、総家族数は9249人で死亡者は2653人、家族死亡率は28.7%に上る。家族内の死亡率が25%、即ち平均してどの家族でも1人以上死んでいる現象が、全国的に起きている[13]。私たちの民族助け合い仏教運動本部は、「北朝鮮の支配層(おおよそ15%、約300万人)と農民層(おおよそ30%、600万人)を除外した北朝鮮の人口1300万に家族死亡率28.7%をかけると1300万×28.7%≒350万人であり、1995年8月から1998年7月までの3年間で350万人が死亡したと結論付けている。「北朝鮮食糧難民1694名面談調査」では、難民に自分が所属していた人民班(典型的な人民班は平均26世帯、127人で構成されている)の死亡者についても尋ねており、死亡率が27.5%であることが分かり、家族死亡率とほぼ一致する。人民班の死亡率を地域別にみると、平壌11.7%、黄海南道22.4%、咸鏡南道31.2%であり、全国的に大量の死亡者が出ていることが分かる。
 ・1998年7月から9月にかけてジョンズ・ホプキンズ大学難民及び災害公衆保健研究所が440人の在中国北朝鮮難民を対象に実施した面接調査では、440人の難民が属する家族の総人数は1994年7月時点で1782人だったが、1995年から1997年の3年間で214人が死亡、死亡率は12%であり、北朝鮮にいる最も近い親戚259家族の同期間の死亡率は13%である[6]。これに「北朝鮮の支配層(おおよそ15%、約300万人)と農民層(おおよそ30%、600万人)を除外した北朝鮮の人口1300万人で餓死者数を計算すると、1300万×13%≒170万人となり、これに1998年分を加えると餓死者数は約225万人となり、西岡力は「黄元書記の証言から推計した300万人という数字の信憑性が分かる」と評している
 ・駐韓アメリカ合衆国大使館のLARRY ROBINSONが1998年8月にアメリカ合衆国国務省に提出した報告書には、「北朝鮮経済に対する国際社会の主要関心事は食糧不足に集中されている。最近伝えられている北朝鮮関連の断片的な報告は、ある面で過去2年間(1996年、1997年)の状況よりもこの夏(1998年)の状況がましになっているようではあるが、食糧不足が深刻であるということは疑う余地がない。そして過去数年間の累積した食糧不足により北朝鮮の状況は今世紀最悪の飢饉として記録されるだろう。正確な統計はない。しかし、黄長燁とWFPに派遣勤務中に亡命した北朝鮮政府官吏をはじめとする亡命者らと、私たちの民族助け合い仏教運動本部の中国居住脱北者調査の結果、そして一番最近では最高人民会議投票者数などをもとにした中国側の調査によれば1995年以後の飢饉のための死亡者は北朝鮮全体人口の10%から15%に相当する200万人から300万人におよぶものと思われる。これは比率で見る時、1959年から1962年の間の中国の飢饉の2倍以上になるものだ」と書かれている。
 ・朝鮮半島エネルギー開発機構事務局長のCharles Kartmanは、「アメリカ合衆国議会公聴会では北朝鮮で飢え死にした人の数が数百万人になるという主張が出ましたが、アメリカ合衆国国務省はどのように見ていますか」という質問に対して、「誰も分かりませんよ。そのような統計はこの数年間、栄養失調で死んだ人の数字をすべて合わせたものです。その中には栄養失調のために罹った病気で死んだ人たちも含まれています。そのように見れば過去3年間に100万人が死んだという統計も理に適うものかもしれません」と回答している。
 ・北京にある中国政府傘下研究機関が1999年に作成した報告書は大量餓死を認めており、「1995年の大洪水以後、国家の食糧配給は基本的に中断された。1998年、清津市と茂山郡では合わせて4回(ソルラル、太陽節、光明星節、建国記念日)の食糧配給があり、毎回2日分の食糧だった。即ち、365日中の8日分の食糧だ。残りは住民が自分で解決しなければならなかった。清津市と茂山郡だけではない。カネがある者たちは自由市場に行き、高価ではあるが食糧とその他食品を買える。しかし、カネのない者たちは木の皮、草の根、山菜だけを食べている。食品は、極度に不足し自由市場価格は大変高いため、労働者として給料生活をする層でははるかに手が届かない。通常労働者は月80-100ウォン、中佐・大佐の場合でもわずか150ウォン程度だ。このような収入で1キログラム80ウォン程度になる米をどうして買えるだろうか。また、多くの地域ではすでに長期間月給が正常に出なくなっている。ある脱北者は『北朝鮮の人たちはイネの根までみんな食べる』と語った。10キログラムの稲の根に1キログラムのトウモロコシを入れ砕いて麺を作って食べ、トウモロコシは軸まで砕いて粉を作って、山菜の根を入れて粥をつくり食べていると彼は話した。清津市から来たある女性は、女性たちの運命はとても悲惨だと語った。彼女らは夫と子どもの腹を満たすために数十里の道を歩いて田舎に行き食糧を交換してくるのだが、飢えと疲労で多くの人が路上で餓死しているという。海州市から来た脱北者は『海州から清津まで汽車に乗ってくる途中で老人と子供らが汽車の中で餓死した後、道ばたに埋められるのを直接目で見た』と語った。以上の悲惨な状況を総合するとき、1995年からの凶作により北朝鮮人口が300万人減少したという話は信じるに足る」と書かれている。
・牧野愛博(『朝日新聞』ソウル支局長)は、「北朝鮮はご存じのように、1995年から1996年ぐらいにかけて、『苦難の行軍』と言われる大規模な飢饉がありました。非常に食糧不足に陥って、少なくとも30万人ぐらい、多いと200万人ぐらいの人が亡くなったと言われていますけれども、少なくとも私の知っている人でも、地方の都市なんかではかなり餓死者が出て、大変なことになっていた」と述べている。
久保田るり子(『産経新聞』ソウル支局特派員)は、「1996年から1997年、悪天候北朝鮮式農業の失敗で北朝鮮では約300万人規模ともされる餓死者が出て、民心は爆発寸前だった」と述べている。
 ・三村光弘は、「そこにきて1990年代半ばは、北朝鮮にとってかつてない深刻な食糧難の時代でした。餓死者は三十数万人と推計されています。当時はソ連崩壊の直後で、東西冷戦の最前線に位置する北朝鮮がそれまで受けていたソ連、東欧諸国からの食糧援助が途絶えました。国際市場価格よりも有利な条件の貿易もなくなりました。当時は食糧の供給を国が徹底的に管理しており、国民が信じて待っていた食糧の配給が破綻し、多くの人が餓死したのです」と述べている。
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