🗻95〕─2─平安時代のカブラ頭は非人の証。非僧非俗は親鸞の禿頭宣言。~No.239 ㉙ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年9月19日号 サンデー毎日五木寛之の呆けない名言
 『しかれば己は僧に非ず俗に非ず 親鸞
 非僧非俗とは何か
 35歳のときに後鳥羽上皇によって越後の国に流された親鸞は、みずから禿(とく)と名乗った。愚禿(ぐとく)親鸞の宣言である。
 このことは〈非僧非俗〉の立場に身をおいた親鸞の覚悟として語られることが多いが、僧に非(あら)ず、俗にも非ずというのはどういう位置だろう。
 みずから称した『禿』とは、衝撃的な表現ではないだろうか。『禿』は『禿頭』という言葉からさると、『ハゲ頭』のように受けとられかねない。しかし、当時の『禿』はその反対で、むしろ長髪のザンバラ髪、もしくはオカッパ頭であった。『カブラ』である。
 一般の俗人は、髪を結(ゆ)う。のばした髪をまとめて結うのである。『カブラ頭』は年少の児童の髪型で結わない。
 しかし、成人でカブラ頭の人びともいた。大人でありながら結わない。それらの人びとは当時、非人と呼ばれた。世間から賤視(せんし)された人びとは当時、非人と呼ばれた。世間から賤視された人びとである。いわば聖・俗・非と、3つの世界があったと考えればいい。
 非僧非俗とは、どういう意味か。僧でもなければ俗人でもない。その中間でもない。そのさらに深部である。
 俗人、つまり常民のほかに、カブラ頭の世界があった。『禿』とはその世界のシンボルである。親鸞はみずからをその立場におき、〈愚禿〉を名乗ったのだと私は思う。
 越後に流された親鸞は坊主頭ではなかった。髪を結わなかった。カブラ頭のザンバラ髪であっただろう。想像すると心が躍る。」
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 親鸞は、聖なる僧侶を捨て、乞食坊主・世捨て人・非人(賤民)となった。
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 賤民・非人・部落民の住民は、時代時代で違っていた。
 血と死に塗れ穢れた職業人とは、土の上を走り回って犯罪者を暴力を振るって取り締まる下吏(かり)と人を殺す事を生業とする職業軍人の武者・武士であった。
 マルクス主義史観(共産主義史観)やキリスト教史観では、日本の賤民・非人・部落民を説明できない。
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 平安末期から鎌倉前期にかけて、日本は数多くの天変地異と疫病そして戦乱が絶えない地獄世界で、大量の被災者は生き残れる可能性がわずかでもある京などの町に流れ込み、貧民街に住み着き賤民・非人と同じ物乞いをしながら食いつないでいたが、運拙く死んだ者は葬られる事なく山野に捨てられ鳥や獣の餌となり、寂寥の下で朽ちはて骸を晒した。
 その地獄の様な世の中・末法世界で哀れな人々を救うべく、鎌倉仏教として浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗など数多くの諸宗派が生まれた。
 それが日本の仏教という宗教であった。
 日本の地獄には、キリスト教のような絶対神を信仰する普遍宗教(奇跡宗教)は生まれなかった。
 親鸞悪人正機説である、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)は地獄のような現世を生きる道標として説かれた。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「賤」の解説
 賤 せん
 日本史上,社会から卑賤視され,身分的に最下層におかれた人々。古くは,奴婢と総称された。令制では,人民は良と賤の身分に分けられ,戸令に,陵戸,官戸,家人,公奴婢,私奴婢を五色の賤といい,結婚にも制限が加えられ,異色の者同士が結婚したときには,その所生の男女の帰属についても,種々の規定が設けられ,良民との通婚は許されなかった。しかし,良と賤との間に生れた男女は,一定の手続を経たうえで良民に帰属させるという解放の道も開かれていた。奈良時代には,賤民解放もときにより行われたが,その全面的解放が行われたのは平安時代の延喜年間 (901~923) のことであった。しかし,平安時代後期からは,餌取 (えとり。タカの餌のために鳥や牛馬の肉をとる者) ,犬神人 (いぬじにん) ,夙の者,河原者,屠児 (とじ) など散所,非人と呼ばれる賤民が現れた。江戸時代になると,四民 (→士農工商 ) の下に穢多,非人などの賤民身分が法制的に設けられた。明治4 (1871) 年太政官布告によって,穢多,非人の称号は廃止され,法制的には賤民身分はなくなった。しかし穢多身分の系譜をひく人々は新平民などの賤視的称呼を受け,身分遺制に伴う物心両面の社会的差別をこうむり,第2次世界大戦後にまで及んでいる。 (→部落解放運動 )  
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 本項では中世日本の被差別民(ちゅうせいにほんのひさべつみん)について叙述する。中世日本(平安時代後期から室町時代・戦国時代)において存在していた被差別民が、中世社会の中でいかなる存在であったかについては、1980年代以降、網野善彦らによって急速に研究が進展しており、いまだその評価は確定していない。
 被差別民の種類
 中世の被差別民は、一般的に非人と呼称されていたが、河原者、宿の者、散所民、声聞師(唱門師)などに分類できる。この時代、穢多は河原者の別名であった。
 職業
 皮革、屠畜、清掃、造園のほか、芸能業にも従事した。
 特徴
 中世に穢れ観念が日本に流入した事により大衆から賤視されていたが、一方で善阿弥が将軍足利義政に仕えた事に見られるように、近世ほど他身分から隔離されてはいなかった。また、中世は身分の流動性が非常に高く、五色の賤や近世部落のような固定化された世襲階級ではなかった。
 歴史的連続性
 律令制下の五色の賤との歴史的連続性については、ほぼ否定されているが、江戸時代の近世部落との連続性は、現在、歴史研究の主要な議論テーマとなっている。
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 非人(ひにん)は、主に、
 日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。
 江戸時代の賎民身分の呼称である。
 いわゆる士農工商には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。さらに多数説によると、非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。
 概要
 非人という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』「提婆品」などにこの単語が見られる。しかし、そこでは差別的な含蓄は一切なく、単に比丘や比丘尼などの人間(mānuṣa)に対してそれ以外の者(amānuṣa)、具体的には釈迦如来の眷属である天人や龍といった八部衆を指す言葉として用いられている。日本では平安時代橘逸勢が842年(承和9年)に反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる。
 非人の語は、時代や地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)が大きく異なる[3]。 非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子等々の生業からくる総称である。狭義の非人は犯罪により非人に落ちた者、無宿の非人とされているがさらなる調査研究が必要とされる[独自研究?]。
 具体的には、罪人・世捨て人・乞食・ハンセン病患者など、多様な人々を含む。基本的な職掌は物乞いだが、検非違使の下で掃除・刑吏も担当したほか、街角の清掃や「門付(かどづけ)」などの芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。また、武装して戦うことや葬送地の管理権を持っており、為政者から施行を受ける権利も有した。
 乞食
 (『和漢三才図会』(正徳2年(1712年)成立)より)
 非人は、関東では穢多頭・弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあった。江戸の非人には、抱非人と野非人との別があった。野非人は「無宿」(無戸籍、人別帳から外れている者)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は、非人小屋頭と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していた。非人小屋は江戸の各地にあった。非人小屋頭はそれぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸には4人(一時期5人になったこともある)いた。この4人の非人頭がそれぞれ弾左衛門支配下にあった。4人の非人頭の中でも特に有力なのが浅草非人頭・車善七だった。
 変遷
 この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年6月)
 非人の形成期には、検非違使管轄下で「囚人の世話・死刑囚の処刑・罪人宅の破却・死者の埋葬・死牛馬の処理・街路の清掃・井戸掘り・造園・街の警備」などに排他的特権的に従事した。また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者や障害者の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能に従事する者もおり、芸能史の一翼を担ってきた。
 鎌倉時代には叡尊や忍性による悲田院の再興を受けて西大寺真言律宗の元に組織化されたり、一遍の時宗とともに遊行する者もいた。中世の非人の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。やがて河原者・無宿者などを指すようになった。江戸時代には身分や居住地域・従事職能等が固定化された。
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 穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。
 解釈
 日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。
 穢多差別は平安時代までには始まったとされ、江戸時代に確立され、呼称は明治時代に廃止された。鎌倉時代までには奈良と京都に「穢多」差別があったことが明らかになっている。
 江戸時代における身分について京都大学名誉教授朝尾直弘によれば「士と農工商の間に大きな身分的格差があるのであって、農工商の三つについてはほぼ同列だと考えられている。これを平民あるいは平人として一括する意見もある。その下にいわゆる「穢多・非人」と呼ばれた階層があった。大きな線、区別は士と農工商、農工商とその下の「穢多・非人」との間にあった、ということが明らかになってきている。」という。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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