☵34〕─8・E─東京五輪。韓国選手団の勝つ為には手段を選ばず。李舜臣は講和成立後に戦死。~No.287 ⑲  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 2021年10月号 WiLL「北京五輪ボイコット──ジェノサイド国家で平和の祭典だった⁉
 お家芸のテコンドーで金がゼロ。反日を頑張りすぎて強化忘れた?
 WWUK({ウォーク}ユーチューバー)
 ボイコットじゃないの?
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 横断幕・垂れ幕騒動
 いざ開催となったら、何食わぬ顔で大韓体育会(韓国オリンピック委員会を兼ねる団体)および韓国選手団が来日。
 選手村に着くや否や、居住棟の壁面に、韓国で抗日の英雄とされる李舜臣(りしゅんしん)将軍の言葉『尚有12舜臣不死』(まだ私には12隻の船があり、私はまだしんでいません)をアレンジした『臣にはまだ国民5,000万人の応援と支持が残っています』という文言とともに、反日丸出しの横断幕を掲げたのです。これを受けて、IOCは、政治的活動を禁じる五輪憲章第50条の違反と見なし、横断幕の撤去を求め、韓国側は応じることに。
 ところが、それでも懲りないのが韓国。続いて『ポム ネリョオンダ』(=虎が降りてくる)という言葉とともに、アムール虎を朝鮮半島のように描いた垂れ幕を掲げました。大韓体育会は、『韓国選手の挑戦精神を虎にたとえたもの』と説明しましたが、真意はどうか。
 実は、この絵の原画は『槿域香山猛虎気象図(きんいきこうざんもうこうきしょうず)』といって、韓国・北朝鮮では有名な反日の象徴でした。虎は朝鮮半島で神聖視されており、20世紀初頭、日本統治に抵抗する朝鮮の地形を朝鮮虎に象徴化して描かれたのです。
 ……
 IOCから再三の警告を受けているにもかかわず、こんな垂れ幕を続けて出すのは、どういう神経なのか。来日前から、このような反日宣伝物を複数枚、準備していたということであり、韓国は五輪精神に真っ向から反し、ただただ反日プロパガンダを行うためだけに世界から注目される東京五輪をここぞとばかりに利用したのです。
 旭日旗アレルギー
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 放射能ばかり関心
 福島県への風評被害を煽る
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 しかし、イチャモン・難クセでも相手の調子が崩れれば、儲けもの。勝つためなら、なりふり構わない韓国チームは、手段を選びません。
 勝つためには手段を選ばず
 2014年、アジア競技大会が仁川で開催されたときもそう。バトミントンではシャトルはとても軽く、少しの風でも影響を受けやすいので、会場は風の影響を最小限にするため、空調等にも配慮が必要です。
 ところが仁川大会では、空調が意図的に操作された疑惑が持ち上がりました。日本代表と韓国代表との準々決勝の際、日本側チームに不利な向かい風が吹いた。コートチェンジした際に、今度は追い風になるところ、空調の風向きが変わり、またしても日本側チームに向かい風が吹くことに。結果、日本代表が敗れ、日本選手やコーチから疑問の声が上がることに。
 真偽は定かではありませんが、正直に言って、韓国ならやりかねません。
 歴史的に見ても、韓国は常に勝つためなら手段を選びません。先の李舜臣将軍は慶長の役で日本軍と戦いましたが、豊臣秀吉の死で日本軍は講和を提案しました。講和成立後、日本軍が撤退するスキを狙って後方から攻撃、だまし討ちをしたのです。結局、李舜臣将軍は日本軍の反撃を受け、あえなく戦死。
 韓国は卑怯な手段を使ってでも、とにかく勝利を得ようとする。それが現代まで受け継がれ、〝平和の祭典〟五輪を汚すような行為を繰り返します。
 五輪後も旭日旗をめぐるウソ 
 もはや世界は〝韓国パッシング〟
 東京五輪で浮き彫りになった韓国の異常性の元凶はどこにあるのか。
 それはやはり、幼いころから受けている反日教育の影響が大きいのではないでしょうか。日韓併合時代をはじめ、日韓の歴史を歪曲し、捏造。それをそのまま子どもたちに教えるので日本に対する恨みつらみ、いわゆる〝恨(ハン)〟の感情が植え付けられているのです。そのため、日本をいくら嘲弄(ちょうろう)し、貶め、差別しても、その過程で憲法や法律、国際法を無視したとして、反日無罪として一切罪に問われない。
 そんな歪んだ精神構造のために異常な感覚が醸成(じょうせい)され、一般的な道徳意識が麻痺し、果ては日本だけではなく、他国に対しても差別的かつ攻撃的な姿勢を高めるまでに至っているのです。
 また、韓国は儒教の影響が強く、人間関係では、上下関係が非常に厳しいため、相手が上か下かといった序列に、過度にこだわる傾向があります相手を見下す発言や態度で精神的に攻撃することで、自分の優位性を相手や周囲に示すという、いわゆるマウンティングが日常的に行われています。
 このような日頃からの韓国国民の習慣が、東京五輪を通じて世界に露呈したのです。
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 反日プロパガンダに負けるな
 しかしながら、韓国は今後も何ら反省することなく、反日プロパガンダ活動を続けるに違いありません。
 国際社会では声の大きさに依るところがありますから、日本は引き続き、韓国のプロパガンダに対して徹底的に対抗するべきです。
 ユネスコは、世界遺産として登録された『端島軍艦島)』など日本の近代産業施設に対して、『植民地時代における強制連行の歴史をきちんと知らせていない』という結論を下し、是正を求めましたが、これも韓国の団体による執拗なロビー活動があってのこと。
 ……
 先の日本の野球代表チームは韓国戦に勝利した後、無観客のスタンドに向かって帽子を取って一礼、さらに韓国チームにも一礼するという素敵なマナーを見せてくれました。イチャモンだらけの韓国チームとは対照的です。
 ……」
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 中国や朝鮮において講和が成立し平和状態を回復しても、撤退する敵軍を追撃して殲滅する卑劣な行為は「正しい事」とされている。
 同じような卑怯な行為をソ連軍は、8月15日に軍国日本が降伏した後に千島列島東端の占守島を攻撃したが、降伏したはずの日本軍守備隊の逆襲によって甚大な被害を出し、アメリカのフランクリン・ルーズベルトヤルタ会談で認めた北海道占領による割譲という最終目的を達成できず失敗した。
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 ウィキペディア
 李舜臣(日本語読み:り しゅんしん、朝鮮語読み:イ・スンシン、朝: 이순신、1545年4月28日(明暦: 嘉靖24年3月8日) - 1598年12月16日(明暦: 万暦26年11月19日))は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、여해)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍した。韓国では救国の英雄とされる。朝鮮内の党争[注釈 1]の影響で李の対立側である元均らの勢力によって、懲罰を受けて兵卒に落とされ一時失脚していたが、軍を率いていた元均が戦死したことで危機感を覚えた朝鮮王によって復権し、日本軍と戦う。最期は露梁海戦で戦死。死後に贈られた諡は忠武公(충무공)。  

 慶長の役
 豊臣秀吉の死後、日本軍に退却命令が出されると小西行長は明との間に講和を成立させた後、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出、海上封鎖を実施し小西らの退路を阻んだ。講和後のこの明・朝鮮水軍の行動(ただし明とのみの講和で朝鮮との講和は成立していない)に、小西軍は順天城での足止めを余儀なくされた。この小西軍の窮状を知った島津義弘ら日本側の諸将は急遽水軍を編成して救援に送ることとなり、これに対し李舜臣および明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて東進し島津水軍を露梁海峡で迎え撃つこととなった。
 この露梁海戦では、夜半からの戦闘が長時間続き、日本軍、明・朝鮮水軍の双方が大きな被害を被ったとされる。明・朝鮮側の資料では自軍の勝利を強調しているが、明軍では副将鄧子龍が戦死、朝鮮軍では主将の李舜臣が島津兵の鉄砲の弾丸を受けて戦死した(後述)。朝鮮軍ではさらに、李英男(加里浦僉使)、方徳龍(楽安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良、といった将官が戦死した。一時突出した明軍の主将陳璘も日本軍の包囲から危うく逃れている。 朝鮮側は将軍の戦死や損害過多で統制を欠き、作戦行動の継続が不可能となり、小西軍の救援に駆けつけた島津軍は、殿軍を務めて無事にこれを撤退させ当初の予定通り救援任務を完遂した。
 最期について
 韓国では、李舜臣は露梁海戦において「大敗した日本軍を追撃中に」「流れ弾に当たって」戦死したと一般に信じられており、日本の一部書籍においても、そのまま引用しているものが見受けられるが「流れ弾」については文献の裏づけはない。 「追撃」については朝鮮側の史料である柳成龍『懲毖録』によるもので、李舜臣の死のことを「李舜臣は日本軍を大いに撃破し、これを追撃している最中に鉄砲の弾丸で戦死した」と記している。
 一方で同じく朝鮮側史料である『乱中雑録』には、日本水軍と戦闘になった後、朝鮮水軍は主戦場であった海峡口から見て南西の観音浦(海戦前に朝鮮水軍が潜んでいた湾)へと一時後退しており、また李舜臣は日本船の船尾に伏せた兵の一斉射撃により撃ち倒されたと記されている。
 『明史』では「鄧子龍の救援に赴き、死亡した」とのみ記されている。日本側文献『征韓録』によれば、「小船で先出してきた鄧子龍が従卒200余兵とともに討ち取られるのを救援するために進出したところを、和兵に囲まれ船を乗っ取られた」とのみ記し、死に至る詳細については残されていない。
 なお、韓国では英雄化が過ぎるあまり、日本軍撤退後は自分が不要な存在となり、以前と同じく不当逮捕されて死罪とされることを見越して、自ら華々しい死に場所を求めたという説や、戦争を生き延びて隠遁生活を送って戦後に死亡したという説が唱えられることがあるが、肝心の李舜臣本人は死の数日前から日記を書くのを止めてしまっていることもあり(これはこれで死を覚悟したと受け取れるが、少なくとも現存する部分にはこの時点で死ぬつもりだったということを示す記述はない)、根拠となる史料は皆無である。
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 露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。
 露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷[8]と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の一部文献では成功した作戦として記述されることもある。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。
 結果
 文献では双方が勝利として記述している。しかし明・朝鮮側は、待ち伏せであったにもかかわらず、結局は小西行長軍を取り逃がしてしまった上に、日本側の将クラスの首級を一つも挙げられず、逆に李舜臣、鄧子龍、李英男、方徳龍、高得蒋、李彦良ら諸将を戦死させて失った。一方、日本側は小西軍の撤兵は成功させたものの、夜間の待ち伏せから開始された戦闘は終始不利であった。双方の部隊とも被害は甚大で、痛み分けであったといえるが、戦術的には苦戦を強いられた日本軍の勇戦がめだち、殿(しんがり)の任を果たして血路を開いて脱出して、多数の捕虜を得ようとしていた明・朝鮮側の戦略の意図を破綻させた。
 いずれにせよ、既に上層部での和議が結ばれて全日本軍が撤退していく最中の戦いであり、大局に与えた影響は少なかった。全体から見れば被害はさほど大きくはなく、日本の再侵攻もなかったため、朝鮮側の損害がその後に響くこともなかった。
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 韓国の反日・侮日・敵日の元凶は、消える事がない正統な朱子学儒教=中華儒教の猛毒である。
 日本の儒学は、論語儒学陽明学など中国や朝鮮で禁止され弾圧された異端な諸派儒教である。
 所詮、現代の日本人は「論語読みの論語知らず」で論語の神髄が理解できない。
 中華儒教の価値観や常識は、中国や朝鮮を根底から支配しているが、日本では影が薄いが日本人の中の親中国派・媚中派、親韓国派、親北朝鮮派らは強い影響を受けている。
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 渋沢栄一は、商いには論語が大事であるとを説いたが、商いを下等で下賤で卑しい行為と否定する儒教を説いてはいない。
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 韓国は、北朝鮮同様に反日・侮日・敵日としてかわる事がなく、親日・知日として友好・善隣など望んではいない。
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 歴史的事実として、日本にとって朝鮮とは古代からかわる事がない敵であって、一部以外を除いて友・友人、親友ましてや戦友になった事はない。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは日本人共産主義者テロリスト同様に、人道貢献と平和貢献を行っていた昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 日本国内には、彼らに協力するマルクス主義の反天皇反民族反日的日本人が存在していた。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 歴史の事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
 日本の戦争は、領土拡大目的の侵略戦争ではなく、天皇・国家・民族を外敵の侵略から守る積極的自衛戦争であった。
 つまり、日本国・日本民族にとって中国や朝鮮は略奪と虐殺を猟奇的に行う恐ろしい侵略者であった。
 この関係は、未来永劫かわる事はない。
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