🗾2〕─1─日本のムラ意識・性善説・お人好しは縄文人からの民族遺産であった。~ No.2No.3No.4 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年10月14日号 週刊新潮「人間、この不都合な生きもの 橘玲
 SNSの投稿をなぜ信用してしまうのか
 ここ何回か、『バカに引きずられる効果』について書いた。わたしたちは自分はつねに『平均以上』だと思っていて、能力のない者が実力を大幅に過大評価する一方、第一印象で相手を『平均的』と見なすため、能力に高い者は(相手も同じ位だろうと思って)自分の成績を過小評価し、結果として、バカと利口が『熟議』すると悲惨なことになってしまうのだ。
 この『平均効果』で、現代社会で起きているさまざまな混乱をとてもうまく説明できる。
 ツイッターなどのSNSでは、すべての発言が平等に表示される。これはかつて『言論空間の民主化』ともてはやされたが、やがて陰謀論の温床になることがわかり、当初の熱狂はすべて消え失せた。
 見ず知らずのひとの発言を評価するとき、わたしたちは実績よりも『自信』を参考にする。どれほどバカげた主張でも、相手が自信たっぷりだと思わず信じてしまうのだ。
 『相手のことをとりあえず信用する』のがデフォルトになっているのは、ヒトの本性が性善説というより、脳の認知能力に限界があるからだ。
 わたしたちは日々膨大な選択をし、判断を下しながら生きてきている。そんななかで、ひとつのことをじっくり考えて、なにが正しいかを決めるのはものすごく大きなコストがかかる。
 過酷な環境で素早く判断をしなければ生き延びられないなら、もっと効果的なのは『デフォルト』を決め、それに反した『異常』な出来事だけに関心を向けることだ。これで『考える』ことを最小限にし、希少な認知資源を無駄にしなくてすむ。

 人類は数百万年にわたって、最大で150人程度の濃密な共同体のなかで暮らしていたとされる。そのような環境では、相手の言葉をとりあえず信じるのが最適戦略だ。『いいひと』はだまされてヒドい目に遭うこともあるだろうが、そのときは不正を大声で言い立て、周囲の同情を買うことで相手に制裁を加えられる。
 誰もが隣人の私生活を知っている『超監視社会』では、相手をだます=悪い評判が立つと共同体から排除されてしまう。旧石器時代には、それは即座に『死』を意味しただろう。このようにして、正直に振る舞うことと、相手を信用すること、すなわち『性善説』が進化したのだ。

 認知的能力を節約
 だがこの評判システムは、ウソをついた者を特定して制裁する『暴力装置』がないとうまく機能しない。無条件でなんでも信用する相手にどれほどヒドいことをしても処罰されないなら、いいようにだまして得しようとする『性善説』がのさばるに決まっている。
 こうして、人口が増えてだまされるリスクが大きくなるにつれて、信用を補完するさまざまな社会制度が生まれた。かつてはそれは身分やイエだったが、いまでは学歴や資格、所属する組織だ。わたしたちは、医師・弁護士などの資格者や一流企業の従業員を無条件で信用してしいる。
 だがSNSには、こうした信用を補完するものがほとんどない。本名なら経歴を検索するが、匿名アカウントには使えない。フォロワーの数を知ることはできるが、それが信用力と連動している保証はない。
 それにわたしたちは、匿名の信用力が本名よりも低いと思っていない。隠蔽された事実を暴くために、匿名にせざるを得ないかもしれないのだ。
 ひとは『進化の設計図』によって、SNSの投稿をデフォルトで(とりあえず)信用する、これを巧妙に利用しているのが、『反ワクチン』派のプロパガンダだ。
 典型的なのは、『医療関係者ですが、建康だった知人がワクチン接種の翌日に突然死し、そのことはいっさい報じられていません』という類の匿名投稿だ。ほとんとうに医療関係者なのか、接種後の突然死が実際にあったのか、検証は不可能だが、だからといってつくり話と決めつけることもできない。
 このようなとき性善説では『そんなこともあるかも』とデフォルトで信用する。疑うためには、そのアカウントの過去の投稿を調べたり、批判的なコメントを読んだりしなければならないが、わざわざそんなことをするひとはほとんどいない。なぜなら『面倒くさい』から。
 脳は大量のエネルギーを必要とする器官なので、ふだんは自動運転に任せ、認知的な能力を徹底的に節約するようにできている。いったん『信じる/信じない』と決めてしまったら、よほどのことがないと、その判断を見直そうとは思わない。
 さらに問題なのは、『平均効果』によって、自分の判断を(大幅に)過大評価していることだ。この状況で自分とは異なる主張に接すると、それを個人攻撃だと思う。これは不思議な現象だが、不特定多数に向けた発言でも、面と向かって『お前はバカだ』といわれたように感じるひとが一定数いるようなのだ。
 ひとは攻撃されれば反撃するし、自尊心を守るためにはなんでもする。SNSで執拗に誹謗中傷を繰り返すのは、傷ついた自尊心を回復しようとしているのだろう。
 隣の大国に・・・
 自分の方が優位だと思っている相手から批判されると、アイデンティティへの重大な脅威になる。
 自分が白人であることしか誇るものがないのが『白人至上主義者』だが、ネトウヨは『日本人』であることしか誇るものがない。その壊れやすいアイデンティティに必死にしがみつくことが、敵対する者に『反日』のレッテルを貼って『在日認定』する際限のない憎悪となって表れるのだろう。
 『女性は男より劣っている』というジェンダー観をもっている場合は、男性中心主義への批判を異常に敵視するようになる。これが『ミソジニー(女嫌い)』で、それに対抗して『フェミニスト』が男社会を過剰に敵視する傾向も、日本だけでなく世界じゅうで起きている。
 このようにしてSNSでは、なにが事実でなにがフェイクか検証されないまま、異なるアイデンティティをもつ者がお互いに『部族(トライブ)』をつくって罵詈雑言をぶつけあう。
 致命的なのは、脳にネット上のたんなる言い合いと、部族間の殺し合いの区別がつかない(らしい)ことだ。進化の過程にSNSなどなかったのだから、それに適応できるはずがない。こうして、ささいな対立が収拾(しゅうしゅう)のつかない混乱へと拡大していくのだろう。
 このやっかいな問題を解決するには、投稿者一人ひとりを(マイナンバーなどで)本人と紐づけて、ルール違反を即座に処罰できるようにしなければならない。それに加えて、投稿者の信用度を評価して公開し、一定以下だとSNSから排除する仕組みも必要だろう。
 このように考えると、どんどん隣の大国に似てくるが、性悪説のぎすぎすした社会ではなく、性善説を守ろうとすればこうなるほかないのかもしれない。
 原理的に考えれば、バカを排除する以外に、『バカに引きずられる効果』から逃れる道はない。このことは、バカが我が物顔で跋扈するSNSを見れば明らかではないだろうか。」
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 縄文人の特性である性善説・お人好しは、手漕ぎ丸木舟で海を渡って来た南方系海洋民の船乗り遺伝子であった。
 つまり、漢族系中国人や朝鮮人とは違うのである。
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 日本民族は、アイヌ民族琉球民族同様に縄文人の子孫で、石器時代縄文時代から日本列島に住み着いていた。
 縄文人は大らかであった。
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 土人であった日本民族は、南・西・北から海を越えて流れ着いた弱者、あるいは政争・内戦に負けて逃げてきて敗北者と見境なく乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種であった。
 そこには、たぶん、愛だの恋だのは存在せず、自然な野生の本能として、オス・男性は自分の遺伝子を残す、メス・女性は優秀で元気な子供を産む、ことしか存在しなかった。
 が、それは反社会的イデオロギー共産主義、左翼・左派)の「フリーセックス」とは違う。
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 日本人特有の性悪説・劣等感・ひがみ根性・嫉妬・村八分・ムラ根性など数多くの負の感情は、弥生時代古墳時代に地獄のような生存競争に負けて逃げてきた大陸や半島の弱者や敗北者が持ち込んだ。
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 現代日本人は、渡来人達と見境のない雑婚を繰り返し混血の雑種で弥生人となって縄文人の良い所の多くを失った。
 その事実が、殺戮を繰り返した弥生の大乱である。
 ゆえに、弥生化している現代日本人には縄文人を誇る資格はない。
 自然破壊を繰り返す現代日本には、縄文的な所はなく、縄文らしきものは土の中に死んだ遺跡として埋まっている。
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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