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2021年11月4日号 週刊文春「文春図書館
評者 小島毅
『天下』VS『本土』──儒教から中国を読み解く
『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』 福島亮大著 講談社
気鋭の中国学者による刺激的な中国論。『中華』圏に現存する3つの政治社会(中国・香港・台湾)を対象に、時事問題を見る視点を提供している。ただし台湾の比重はやや軽く、中国と香港の対比が中心だ。
その際に活用されるのが儒教の経学(経典解釈の学術)の一つ『春秋学』だ。著者は2000年前に成立したその二つの流派、公羊学と左氏学の世界観・対外意識を使う。公羊学は強大な漢帝国のイデオロギーで、『大一統』をかかげて世界の統合を目指した。他方、左氏学は『尊王攘夷』をモットーに自衛戦略をとり、(著者によれば)のちに朱子学の教義となった。
本書はこれを『天下』(中国)対『本土』(香港)と図式化する。日本語と異なり、『本土』という中国語は当該地域それ自体を指す。香港の本土主義とは、大陸中国と同一化するのではなく、香港らしさを追求することなのだ。著者はこれを左氏学の攘夷思想に見立てる。
これに対し、北京政府の御用学者たちは公羊学的に天下システムという世界主義を声高に主張する。『「天下」という理念はあらゆる文化や民族を包合する』。著者は、彼らの見解を学術的な観点から厳しく批判する。
北京政府は儒教を尊重して国威発揚に努めている。とはいえ世間に流布している『儒教だから中国はダメ』式の決めつけと異なり、本書の議論は学術的だ。
ただし、『香港版の「自由民権運動」』を著者が手放しで礼賛するわけではない。香港がイギリスの植民地として外からの近代化を強いられてきた歴史と、1997年の「返還」後の変化をふまえて、今の状況があることを強調する。雑誌連載が昨年(2020年)6月末の香港国家安全法施行をはさんでいるためか、民主化デモの将来についてやや楽観的な記述も混じっている。現時点から振り返ると、事態の急速な悪化にあらためて驚きを禁じえない。
タイトルの『ユーラシア』について。近代の言説は『地中海世界から発展したヨーロッパの国際社会のモデル』で営まれてきた。これが東アジアという別の伝統をもつ地域に伝わったとき、両者の『コンフリクトの場としてのユーラシア』が誕生する。つまり、本書におけるこのことばは自然地理学の空間概念ではないので、要注意。
著者は幅広い分野の読書による知見を本書全体にちりばめているが、この簡単な紹介文では具体的な言及する余裕がない。こうしたペダンチックとも受け取られかねない叙述のありがたさは、わかりやすい本の氾濫に対する著者の批判にもとづくのだろう。私も同感だ。物事を単純化して述べた本しか読まないと、その本質を理解する道は閉ざされてしまう。
本書は読者に深く考えさせる書き方をしていて咀嚼に時間がかかる。……」
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中国史の2大基本キーワードは、1つ目は民意識で同種・同族の農耕民族と異種・異族の遊牧民族で、2つ目は世界観で中国天下(本土主義)と中華天下(世界主義)である。
中国の歴史とは戦争の歴史であるが、古代から現代に至るまで2大基本キーワードで侵略戦と防衛戦を繰り返してきた歴史である。
中国共産党・習近平が目指す「栄光ある偉大な中華」「取り戻す中華」とは、漢民族の中華天下である。
つまり、中華天下の範囲は広大で、地球、地上すべてであり、宇宙時代・インターネット時代の現代では宇宙空間や仮想空間まで含まれる。
中国共産党が統治する現代中国は、共産主義体制で世界第2位の経済大国ではあるがそれは着ているファッションで、その下の生身の身体は古代古典認識の中国人とかわりがない。
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中国共産党は、地球・宇宙・インターネットを偉大な指導者の支配下に置き、優れた指導者の語録(名言集)を正しいイデオロギーとして広めようとしている。
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歴史的事実として、日本は被害者で、中国や朝鮮は加害者であった。
日本国と日本民族にとって、古代から現代に至るまで中国はいつ侵略してくるか分からない恐ろしい仮想敵国で、友好国ではなかった。
中国と交流したのは戦う相手である中国を知る為であったが、緊張感・恐怖心・危機感を長く保てない日本国と日本民族は精神的に辛い為に中国や朝鮮に対して鎖国策を採用して国家間の正式・公式な交流を一切遮断した。
つまり、日本国内だけの平和と安寧を保つ為に、痩せ我慢で「貧しさ・貧困」を覚悟して、中国世界と繋がって金を稼ぎ富を蓄え豊かになる事を切り捨て、人の自由な往来を禁止した。
徳川幕府は、幕府の許可かなく、許可を受けた商人以外が中国交易を行う事を抜け荷・密貿易として厳罰を以て厳しく取り締まった。
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ウィキペディア
『春秋』(しゅんじゅう)は、古代中国東周時代の前半(=春秋時代)の歴史を記した、編年体の歴史書である。一方で、儒教においては単なる歴史書ではなく、孔子が制作に関与した思想書であるとされ、儒教経典(五経または六経)の一つ『春秋経』として重視される。『春秋』が読まれる際は必ず、三つの伝承流派による注釈「春秋三伝」のいずれかとともに読まれる。『春秋』は、春秋学と呼ばれる学問領域を形成するほどに、伝統的に議論の的になってきた。
概要
『春秋』が扱う年代であることから、「春秋時代」という名称が生まれた。
儒教においては、『春秋』は孔子によって制作された、もしくは原初の『春秋』があってそこに後から孔子が手を加えたとされる。しかしながら、孔子が手を加える以前の原初の『春秋』は既に散佚しており、孔子が『春秋』のどこに手を加えて経書の『春秋』にしたのか、不明なところも多い。
『春秋』の内容は、王や諸侯の死亡記事、戦争や会盟といった外交記事、および災異説にもとづく日食・地震・洪水・蝗害といった災害記事が主たる内容で、その体裁は、年月日ごとに淡々と書かれた年表あるいは官報のような体裁である。そのような淡々とした記述の背後に、孔子の思想が隠されているとされる(#春秋学)。
記事にされる出来事は魯国での出来事を中心としており、紀年法も魯国の君主の在位年が用いられている。扱われる時代は、上は魯の隠公元年(紀元前722年)から、下は哀公十四年(紀元前481年の「獲麟」と呼ばれる出来事)までの242年間にわたる。(ただし、後述の『左氏伝』の春秋だけは、「獲麟」の2年後の孔子の死去まで扱う。)
春秋学
『春秋』は極めて簡潔な年表のような文体で書かれており、一見そこに特段の思想は入っていないかのように見える。
しかし後世、孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方が一般的になった(春秋の筆法)。例えば、「宋の子爵(襄公の事)が桓公の呼びかけに応じ会盟にやってきた。」というような文章がある。しかし実際は宋は公爵の国であった。これに対して後世の学者は「襄公は父の喪中にも拘らず会盟にやってきた。不孝であるので位を下げて書いたのだ。」と解釈している。
このような考え方によって、『春秋』から孔子の思想を読みとろうとする春秋学が起こった。それは実際には、『春秋』を素材にして自らの社会思想を展開する作業になる[1]。
前漢の武帝の時、公羊伝にもとづく春秋学を掲げた董仲舒が出て『春秋』を法家思想に変わる統治原理を示す書として顕彰した。その後、五経博士が設置され、『公羊伝』『穀梁伝』が学官に立てられていたが、新では劉歆が『左伝』を学官に立てた。後漢では左伝は学官に立てられず、もっぱら公羊学が行われたが、『左伝』に服虔が訓詁学に基づいて注をつくるなどして、やがて公羊学を圧倒した。これに対抗して公羊伝には何休が注をつけ『春秋公羊解詁』を作ったが、西晋の杜預が『春秋』経文と『左伝』とを一つにして注釈を施した『春秋経伝集解』を作り、以後、春秋学のスタンダードとなった。唐代には『春秋経伝集解』に対する孔穎達による疏の『春秋正義』が作られた。しかし、唐代以降、三伝(特に『左伝』)は『春秋』の注釈として否定的にとらえられるようになり、宋代になると三伝は排斥されて新注が作られた。
日本では明治時代に竹添進一郎によって『春秋経伝集解』を底本とし、清代の注釈を増補した『左氏会箋』が著された。
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『春秋公羊伝』(しゅんじゅうくようでん、旧字:春秋公羊傳、拼音: Chūnqiū Gōngyángzhuàn)は『春秋』の注釈書であり、『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並んで、春秋三伝の一つとされる。『公羊伝』は斉の地に栄えた学問と考えられており、「復讐説」などの春秋学の根幹となる思想を解明した。
公羊学の展開
公羊学とは、孔子が作ったとする『春秋』を公羊伝に基づいて解釈する学問であり、さらにそこで発見された孔子の理想である微言大義を説き現実の政治に実現しようとする政治思想である。『公羊伝』は今文学、『左氏伝』は古文学であることから、公羊学の背景には今古文論争がある。
前漢の董仲舒によって形作られ、後漢の何休によって大成された。何休以後は、『春秋』を『左氏伝』によって解釈する左伝学が主流となり、公羊学は衰退した。
清代になると、常州学派によって公羊学が重視されるようになり、清末の学問や政治思潮に大きな影響を与えることになった。康有為などの戊戌変法派の思想的柱となった。
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『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字体:春秋左氏傳、拼音: Chūnqiū Zuǒshìzhuàn)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』(単独の文献としては現存しない)の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝(公羊伝)』『春秋穀梁伝(穀梁伝)』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。前漢末の劉歆によって、後漢では三伝の中で『左伝』が一番高く評価された。これは撰者の左丘明が孔子の弟子であるためとされた。
春秋学
『春秋』の注釈として前漢では公羊伝・穀梁伝が学官に立てられていたが、新では劉歆が『左伝』を学官に立てた。後漢では学官に立てられなかったが、服虔が訓詁学に基づいて注をつくるなどして、やがて公羊学を圧倒した。西晋では杜預が『春秋』経文と『左伝』とを一つにして注釈を施した『春秋経伝集解』を作り、以後、春秋学のスタンダードとなった。唐代には『春秋経伝集解』に対する疏の『春秋左伝正義(春秋正義)』(『五経正義』の一つ)が作られた。南宋の儒学者朱熹は「左伝は史学、公・穀は経学」と述べ、『左伝』を歴史書として考えている。
日本でも古くから読まれており、「鼎の軽重を問う」「風馬牛」など、左伝を根拠とする故事成語は現在日本でもしばしば使われている。特に福澤諭吉は『福翁自伝』で「殊(こと)に私は左傳が得意(とくい)で大概(たいがい)の書生(しよせい)は左傳十五卷(くわん)の内三四卷で仕舞(しま)ふのを私は全部(ぜんぶ)通讀(つうどく)凡(およ)そ十一度び讀返(よみかへ)して面白(おもしろ)い處は暗記(あんき)して居た」と述べている。
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