🗻3〕─3─古墳人が日本に移民して古墳時代が始まり日本国が誕生した。日本語の原郷。蒙古斑。~No.8 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人の単一性・閉鎖性・排他性・不寛容・空気を読む(同調圧力)・ムラ根性・島国根性など負のイメージをまとった気質・性格・思考・行動の根源的原因は、明治から昭和前期までの儒教価値観による軍国日本ではなく、はるか大昔の古代人である平和志向の縄文人、好戦志向の弥生人、日本統一を果たした古墳人まで遡る。
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 古墳時代とは、3世紀後半から7世紀に至る年代。
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 魏志倭人伝(魏書倭人伝)には、3世紀頃の倭国(日本)の政情や風俗などが記述されている。
 卑弥呼が治めた邪馬台国は、2世紀後半から3世紀前半に倭国(日本)に存在した国である。
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 古墳人とは、漢族中国人や朝鮮人・韓国人ではなく、蒙古斑を持った北東アジアの満州遼河流域に住んでいた人々で、故郷で住めなくなった何かの理由で南下し、移動しながら大陸文明の新しい知識や技術を身に付け、朝鮮半島を通過廻廊として使い日本列島に渡ってきた人々である。
 つまり、満州遼河流域民が移動して、漢族中国人や朝鮮人・韓国人の中に通り過ぎたという痕跡として遺伝子を残し、日本に渡って古墳人となった、という事である。
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 2021年11月28日号 サンデー毎日「日本人の祖先『古墳人』のなぞ
 縄文人弥生人だけじゃなかった
▶本州に住む現代人の遺伝子の7割が由来
▶定説『二重構造モデル』は正しくなかった!
 日本人の祖先は縄文人弥生人だけではなかった──。そんな内容を含む論文が9月17日、米科学振興協会が発行する科学誌『サイエンス・アドバンシズ』(電子版)に載った。筆者の一人、金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覺張(がくはり)隆史助教に話を聞いた。
 ──『日本人の祖先は縄文時代(約1万6500~約3000年前)から日本列島にいた縄文人、それに弥生時代(約3000~約1700年前)に大陸から移住した弥生人からなる』と考えている人が多いと思います。しかし、『現代日本人の祖先は3つある』と論じたのですね。
 覺張 『日本人の祖先は縄文人弥生人』という考えは、埴原和郎先生(東京大学名誉教授、故人)が1991年、『日本人二重構造モデル』を提唱してから定着しました。簡単に言えば、東南アジアに起源がある縄文人という基層集団がいて、弥生時代になってから日本列島に渡ってきた北東アジアに起源がある渡来系集団と混血を繰り返し、今日の日本人になったという内容です。出土した人骨の形質や文化的な形態を比較した推論でした。ただ、この仮説は研究者によって実証的に証明できていませんでした。
 ──なぜですか。
 覺張 理由の一つは多くの人が『この仮説には説得力が十分にある』と感じたからです。もう一つは最近まで科学的分析に限界があったからです。つまり、今では人骨から(人の細胞の中にある細胞小器官の)ミトコンドリアのDNA(デオキシリボ核酸)や、性染色体の1つであるY染色体のDNAを得て、他の人骨から得たDNAと比較していました。これまでは人の遺伝子情報の一部にすぎなかいDNAで比較・検討していたのです。
 今回、私たちの研究グループは、人骨から得た遺伝子情報を解析する際、『パレオゲノミクス』という方法を用いました。古い生物遺体から生物のゲノム(全遺伝情報)を抽出し、比較・解析する研究手法のことです。ミトコンドリアY染色体のDNAだけでなく、全ての遺伝情報を抽出したことで、被葬者同士の血縁関係や親族関係まで分かるようになりました。
 目の前に人骨が3つあるとしましょう。それらの人骨から得たゲノムが似ている場合、なぜ似ているのかを知りたくなります。『3人は血縁があったから』『必ずしも血縁がなくても、3人が住んでいた地域の人々のゲノムが似ていたから』といった理由が考えられますが、今まではそこまで精密には分かりませんでした。それが、パレオゲノミクスを使うことによって、血縁があったかどうかまで分かるようになりました。
 金沢から出土の骨で意外な発見
 ──何千年も前の人骨に遺伝情報が残っているものなのですか。
 覺張 日本列島の多くは温帯にあり、湿潤な気候です。そのため人骨がいい状態で残りにくく、これまでは遺伝情報を取り出すことに困難を極めました。ところが近年、人の側頭骨にDNAがいい状態で保存されていることが分かったのです。端的に言えば、耳の穴の中にある『蝸牛(かぎゅう)』と呼ばれる部分から非常に質の高いゲノムを抽出できると分かったのです。
 ──頭蓋骨さえ出土すれば、ゲノムを得られるのですか。
 覺張 その通りです。実際には、骨がどれくらい汚染されているかを計算したり、ほかの骨と比較したり、膨大な作業と検証が必要ですが、おおむねそう考えて間違いありません。
 今回の研究に使ったゲノムは大きく分けて2つあります。1つは、すでに分析されていた船泊貝塚(縄文後期、北海道礼文町)、伊川貝塚(縄文晩期、愛知県田原市)、下本山岩陰遺跡(弥生中期、長崎県佐世保市)から出土した人骨から得たもの。もう一つは、新たに得たゲノムです。これらは上黒岩岩陰遺跡(縄文早期、愛媛県久万高原町)、小竹貝塚(縄文前期、富山市)、船倉貝塚(縄文前期、岡山県倉敷市)、古作貝塚(縄文後期、千葉県船橋市)、平城貝塚(縄文後期、愛媛県愛南市)、岩出横穴墓(古墳終末期、金沢市)から出土した人骨から得ました。ここに挙げた9つの貝塚や遺跡から出土した人骨のゲノムを比較し、その結果を論文にまとめたわけです。
 ──結論をもう少し詳しく説明してください。
 覺張 私たちには『日本人二重構造モデルを検証しよう』といった目論見があったのではなかったし、別の仮説を立てることもしていませんでした。『人骨から得たゲノムに向き合ったからどうんなるか』という単純な関心があっただけでした。今回、ゲノムが明らかにしたことは、日本人の祖先は縄文人弥生人というこれまで考えられてきた2系統だけでなく、弥生時代終末から古墳時代に日本列島に渡ってきた人たちがいたということです(古墳時代は約1700年前~7世紀ごろ)。その人たちのゲノムは現代日本人と近いことも分かりました。私たちはその集団を『古墳人』と名付けました。
 ──論文に載せたグラフを見て、驚いたことがあります。今の中国やロシアなど東ユーラシアの各地で出土した古代の人骨から得た遺伝子情報が、さまざまな色で分けられてあるグラフです。縄文人だけは一色に塗られているのは何を示しているのですか。 
 覺張 各集団の遺伝的構成要素を示すグラフです。縄文人だけは色が1つなのは、縄文人が長い間、他の集団と混血が進まなかったことを示すと考えられます。なぜなのかはまだ明らかになっていません。縄文晩期の伊川貝塚から出土した縄文人の人骨から得たゲノムの配列を解析しました。その結果、縄文人ユーラシア大陸の東端に到達した最も古い人類の系統の1つであることが分かりました。
 弥生時代の骨から得たゲノムの配列を解析すると、縄文人以外の遺伝情報が3割以上入り込んでいることが分かりました。縄文人弥生人の混血が進んでいたと考えるべきでしょう。下本山岩陰遺跡から出土した弥生中期の人骨2体から得たゲノムは、6割が縄文人と共通し、残りは中国の遼河流域(今の遼寧省辺り)などの北東アジアから得たゲノムと共通するものでした。
 先ほどお話しした通り、今までは縄文人弥生人の混血が進んで現代の日本人の大本ができたと考えられていました。『二重構造モデル』ですね。この仮説が正しいなら、弥生人と現代人のゲノムは似ているはずです。しかし、本州に住む現代日本人のゲノムを分析すると、縄文人にも弥生人にもない遺伝情報が7割も入り込んでいます。
 つまり、別の集団が大量に日本列島に入ってきたと考えられます。そのことを物語っているのが、私たちが『古墳人』と名付けた人たちの骨です。金沢市に岩出横穴墓という古墳があります。今から約1500年前、古墳終末期の人骨がそこで出土しました。その人骨3体から得たゲノムを分析した所、東アジアに由来する遺伝情報が含まれていました。
 漢民族との遺伝的親和性が高い
 ──金沢を含む北陸地方は、古代から大陸との交流が盛んだったそうです。つまり、その人骨から得たゲノムの特徴は、北陸地方の人に特有なものという可能性はありますか。
 覺張 もちろんそのような議論はあり得るでしょう。しかし、金沢から出土した古墳人の人骨から得たゲノムと現代日本人のゲノムの特徴は非常に近いのです。また、金沢の古墳人が今の愛知県や静岡県と交流があったことも、研究によって明らかになっています。また、この3体は血縁がなかったことも確認しました。さらに岩出横穴墓は前方後円墳に埋葬されたようなエリート層の墓でないと判明しており、一般的な身分の古墳人と考えていいでしょう。本州の少なくとも中部日本の古墳時代における平均的なゲノムの特徴を示していると思います。
 ──古墳人のゲノムは東アジア由来するということですが、具体的には東アジアのどこですか。
 覺張 朝鮮半島や中国で出土した人骨はゲノムの分析が進んでいません。だからどこなのか特定できませんが、現在分かっている範囲で最も近いのは黄河流域の古代人骨です。漢族との遺伝的親和性が高いということができます。
 縄文人弥生人、古墳人と時代を追うごとに、大陸集団との遺伝的親和性が高くなっていることがパレオゲノミクスによって明らかになったのです。これが『日本人の三重構造モデル』です。
 ──今までの定説を大きく覆す発見です。批判はありましたか。
 覺張 批判の代表的なものは『比較対象として人骨が出土した遺跡をもってして、それぞれ縄文時代弥生時代古墳時代を代表させてよいのか』というものでした。それはその通りだと思いますが、縄文人弥生人、古墳人という3つの大きな祖先集団がいたという発見に変わりはありません。
 ただし、サンプルがもっと必要なのは事実です。例えば、同じ弥生時代の本州から出土した人骨でも、東北地方の人骨と九州地方の人骨では混血の割合が違います。残念なことに、これまでの先行研究は、ゲノムを解析したデータを明らかにしていないものが多いのです。
 今回、あえて学会で発表する前に『サイエンス・アドバンシズ』に国際学術論文として掲載したのも、そのことと関係があります。今まで日本では、学会で発表しても根拠となるデータを公開しないため、他の研究者が検証できないことが多かったのです。今回は掲載前に遺伝子研究の専門家が査読したことで、私たちのデータが裏付けられました。また、これを機に、他の研究者が私たちのデータを広く活用してほしいと考えています。
 日本人の起源を巡るなぞの解明
 ──全国でパレオゲノミクスによる研究が進めば、もっといろんなことが分かりそうですか。
 覺張 そうだと思います。今回の研究チームには富山県埋蔵文化財センターや愛媛県愛南市教育委員会など、地方自治体の組織が加わっています。自治体が保有する古人骨などの文化遺産を、他の機関と共同で学術利用しようという試みでした。ゲノムを分析するには骨が必要になりますが、見方を変えると文化財を傷付けることでもあります。だから自治体の理解が欠かせないのです。理想的には自治体との協力関係が広がり、全国でゲノムの解析が進めば、これまで分からなかった日本人のルーツにつながることが見えてくるでしょう。その広がりに期待したいと思っています。
 また、学問分野や国を超えた研究や協力も望まれます。ほかのアジアの国々で古人骨のゲノム解析が進めば、いろいろななぞが明らかになるでしょう。ゲノムの分析だけでは分からないこともあります。例えば、人の移動です。出土した人骨の持ち主だった人は生前、どんな動きをしたのか。歯のエナメル質を分析すると、その人がいつどこで暮らしていたかが分かります。研究が進めば、日本列島に住んでいた古代人の思いもよらない行動が明らかになるかもしれません。今回のパレオゲノミクスを用いて日本人の三重構造を明らかにしましたが、日本人の起源を巡るなぞの解明は緒についたばかりなのです。
 構成/ライター・角山祥道」
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 2021年11月13日 MicrosoftNews 毎日新聞「日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
 日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。
 日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。
 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。
 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。
 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。
 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】」
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 日本人とは、人種・民族・部族ではなく、日本列島に住んでいる全ての人間の事である。
 日本列島に各民族が生まれる前の人間は、日本民族は日本土人倭人)で、琉球民族琉球土人琉球人)で、アイヌ民族アイヌ土人アイヌ人)であった。
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 現代日本人には、日本民族帰化人=日本国籍取得外国人を含む)と日本国民(渡来人=日本居住外国人を含む)が存在する。
 帰化人と言っても、日本天皇・日本国・日本民族への忠誠度・忠誠心で、現代の帰化人と昔の帰化人は違う。
 渡来人には、日本天皇・日本国・日本民族への忠誠心がないどころか拒否していた。
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 日本土人とは、先住民の縄文人と遅れて流れ着いた弥生系渡来人が乱婚し混血して生まれた日本列島人の事である。
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 日本の歴史には、海洋・九州・宮崎・日向国高天原神話(女性神神話)・天孫降臨神話・神武東征神話・ヤマト王権などの開闢神話=天皇神話に基ずく正統な日本民族の歴史(天皇の御威光)と、大陸から移住してきた縄文人弥生人、古墳人など多くの人間が乱婚し混血てして産まれたという科学研究に基ずく正当な日本人の歴史(政治権力・宗教権威)が存在し、その2つが不即不離の関係で同時に現存している。
 普通の国の歴史は1つしか存在せず、国家・国民・民族の歴史と人類の歴史は別次元で別個の独立した歴史である。
 民族神話学・民俗民話学と科学的人類進化・文化人類学・自然人類学が複雑に絡み合って共存・共生・補完するという意味で、日本は特殊で特別な、それこそ他に例がない奇跡的な、世にも不思議な奇妙奇天烈な変わった国であり民族である。
 それは、優秀を意味しないし、優劣・上下の差別化を決める判断材料にもならない。
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 テンミニッツTV 講師一覧 斎藤成也 講義詳細
 縄文人弥生人の混血は古墳時代から始まった
 核DNAからさぐる日本のルーツ(7)縄文人弥生人の混血
 斎藤成也斎藤成也国立遺伝学研究所集団遺伝研究室 教授/総合研究大学院大学 教授/東京大学大学院 教授
 情報・テキスト
 ヤポネシア人には、縄文人の血を残すアイヌ人とオキナワ人、弥生人の血を引くヤマト人の二重の構造があると、これまで論じられてきた。彼らは、どこで出会ったのだろうか。今回は、古墳時代の東北を取り上げる。(全11話中第7話)
 時間:10:21
 収録日:2018/09/26
 追加日:2019/04/07
 ジャンル:
 歴史・民族考古学
 科学技術生命科学・ゲノム
 タグ:
 遺伝子
 キーワード:
 縄文人 アイヌ ヤマト 弥生人 ヤポネシア
 ≪全文≫
ヤポネシア人は他の大陸の人々と異なる
 さて、東ユーラシア人の遺伝的関係について、さらにいろいろな人たちを比べますと上の図になります。この結果を最初に見た時は驚きました。これは、いかにわれわれヤポネシア人が、他の大陸の人々と違うのか、明瞭に表している図だからです。これも主成分分析ですが、東アジアから東南アジアの大部分の人たちは、楕円の中に入ります。
 ところが少しずれて、右に朝鮮半島の人々(韓国人)、ヤマト人、オキナワ人、そしてアイヌ人ということで、全体として線のように延びています。この向こうには当然、縄文人がいます。現代人を調べた結果ですが、今までのいろいろな人類学の研究成果から、縄文人との混血の程度として(アイヌ人は)高い、(オキナワ人は)中ぐらい、(ヤマト人は)低い、(韓国人は)ほとんどゼロ、(その他の東アジア人は)全くゼロ、ということを表していると間違いなく解釈できます。
 一方、図の左上の方に離れているのはウイグル人です。ウイグル人に関しては、私も一度、新疆ウイグルカシュガル市を訪問したことがありますが、彼らの顔付きは一般の東アジアの人とはかなり違います。いわゆるヨーロッパ的な顔付きをしています。そういうことで、遺伝的にも図のように離れています。それから、その右下はシベリアのヤクート人ですが、ウイグル人とはまた違って、最近になって歴史的にロシア人との混血があるということが知られるようになりましたが、こちらも離れています。したがって、ウイグル人とヤクート人は縄文人と全く違う西ユーラシア人との混血ということで、このように離れているといわれます。
 かつて、アイヌ人の顔付きがヨーロッパ的な顔付きをしているということで、アイヌ白人説もありましたけれども、この図から見てもお分かりのように、それは全く否定してもいいと思います。
 では、なぜアイヌの人たちがあのような特殊な顔付きをしていたのでしょうか。特に100年前の人の写真を見ると、非常に驚きます。これは、縄文人が非常に特殊な顔付きの人たちで、その縄文人のDNAを一番色濃く受け継いでいるアイヌの人たちにそうした顔付きが残っていると考えればいいかと思います。
●現在のヤマト人には2割弱しか縄文人の血が流れていない
 さて、今度は再び集団の間の関係をもう少し詳しく調べていきます。先ほどお見せしたような系統樹を仮定して、いよいよ混血の割合を推定することをします。ここでは、ヤマト人、つまり歴史的には本州、四国、九州に主に住んできた人々に、北海道あるいは千島列島、樺太にずっと住んできたアイヌ人、要するに縄文人ですが、その縄文人のDNAがどれくらい伝わっていたか。これは昔から日本の人類学では大問題で、いろいろな割合の推定値が発表されています。
 そこでわれわれは、現代人だけからですが、推定してみました。詳細は割愛しますが、ゲノムのデータを使って推定し、縄文系の人たちの直系の子孫が今のアイヌ人だと仮定しました。これは間違っているのですが、いろいろな仮定をしないと残念ながらいろいろと計算ができないので、そういう仮定をしたのです。
 一方、弥生人ですが、弥生人から枝分かれしたのが東アジアの人々です。これはだいたいいいと思いますが、そのように推定してみますと、われわれには14パーセントから20パーセントほどしか縄文人の血が入っていないという推定値が出てきました。「しか」と申しましたのは、こうした値が出る前は、何となく7:3で、7割が弥生系で3割が縄文系ではないか、あるいは6:4など、いろいろな推定があったからです。それが、3割どころか2割を切るという推定値が出てきたわけです。これが重要です。
 それからもう1つ、図のような系統樹を仮定することによって、いつこうした混血が始まったのかも推定することができます。すなわち、アイヌ人の祖先集団、いわゆる縄文人と、本土人(ヤマト人)の祖先集団は、どこかで出会って、恋をして、そして子どもが生まれます。これが混血ですので、それがいつ起こったのか、ということです。
縄文人弥生人は、古墳時代に東北で出会った
 そうしますと、いろいろな仮定が考えられます。今がいつかということも微妙ですが、今からだいたい58世代前から55世代前までさかのぼります。親と子どもの年齢差である1世代は、最近は晩婚傾向がありますので30年です。図では赤文字で書いてありますが、1世代30年として、これに30を掛けます。例えば、2010年あるいは2000年を現在として引き算をしますと、およそ紀元3~4世紀、すなわち古墳時代の初めとなります。これを1世代25年とすると、古墳時...
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 朝日新聞
 よろいを着た古墳人、正体は村の長? 火山の下から覚醒
 2020年6月13日 16時55分
 古墳人が身につけていた甲(よろい)=群馬県渋川市北橘町、県埋蔵文化財調査センター発掘情報館、柳沼広幸撮影
 火山と共に暮らす群馬を象徴するような発見だった。榛名山のふもとの渋川市金井の金井東裏遺跡で8年前、古墳時代の人骨が甲(よろい)をまとった姿で見つかった。「甲を着た古墳人」の発掘は日本初。噴火による火砕流の犠牲者が1500年の永い眠りから目を覚ました。
 甲は、小さな鉄の板(小札(こざね))1800枚を絹糸の組みひもでつなぎ合わせた当時の最新技術だった。人骨の下には冑(かぶと)も。別の甲も巻いた状態で見つかった。中にあった鹿の角で作られた小札の発見も国内初。銀と鹿角(ろっかく)で飾った矛(ほこ)も発掘。人骨は40代の男性で身長は164センチと推定された。渡来系の特徴があった。
 男性は榛名山の方に向かってひざをつき、うつぶせに倒れていた。「山の神に祈っていたのか、戦いを挑む姿をみせて邪(じゃ)を払おうとしていたのか」。発掘調査した県埋蔵文化財調査事業団の杉山秀宏・上席調査研究員は、発掘状況や遺物から、災厄を避ける儀式を行おうとしていた可能性があるとみている。
 甲や冑、武器は装飾的で、実用というより権力の象徴とみられる。近くでは朝鮮半島から伝わった馬が育てられ、鉄器や鹿角器が作られていた。「専門的な技術者集団の村があり、そこの長(おさ)だったのでは」と杉山さん。首飾りと一緒に見つかった女性「首飾りの古墳人」や、5歳前後の幼児、乳児の人骨も発掘された。人の足跡や馬のひづめ跡、祭祀(さいし)跡からは大量の土器。火砕流で人々の営みが一気に埋まり、当時の生活ぶりを今に伝えている。(柳沼広幸)
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 群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館 古墳人の甲や冑を展示。渋川市北橘町下箱田784の2。開館は日曜から金曜の午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。土曜、祝日は休み。入館無料。電話0279・52・2513。
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 朝日新聞
 日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
 石倉徹也2021年9月18日 3時00分
古墳人の男性の復顔像。群馬県渋川市の金井東裏遺跡で出土した頭蓋骨(ずがいこつ)から復元された=群馬県立歴史博物館提供
写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
 金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。
 金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。
 日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。
 研究チームは、約9千年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
 その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。
 大陸からの移住、新技術持って次々に?
 大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながっていったとみている。
 古墳時代は3世紀後半~7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。
 今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された3体にとどまる。新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。
 研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張(がくはり)隆史助教(考古科学)は「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」と話している。
 論文は以下のサイト(https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419別ウインドウで開きます)から読むことができる。(石倉徹也)
 古墳時代とは――大和政権が支配し、各地に前方後円墳
 縄文、弥生に続く3世紀後半~7世紀までの時代。農耕技術の発展や武器の普及などにより権力や富みが集中して階級社会が生まれ、大和地方を中心とする大和政権が成立。指導者たちを葬った巨大な前方後円墳が各地に造られ、武具や鏡などが副葬された。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)や、世界文化遺産の大山古墳(伝仁徳天皇陵堺市)も有名だ。
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 ウィキペディア
 古墳人とは古墳時代に日本列島に居住していた人々の総称。弥生時代以後に中国大陸や朝鮮半島等から渡来して、古墳文化を担った。 在来の縄文人弥生人と混血し、現日本人を形成していった。本州の「現代日本人」におけるゲノムにおいては約7割近くを占める。
 概略
 長らく日本人の起源を縄文人弥生人の「二重構造」でみる説があったが、金沢大学、鳥取大学アイルランド・ダブリン大学などの教授、研究員からなる国際共同研究グループが考古遺跡から発掘された人骨からDNAを抽出し、最新のゲノム分析を行った結果、「縄文人」「弥生人」「古墳人」は異なるゲノムであり「三重構造」であることを証明した。
 形質的特徴
 古墳人の形質的特徴は弥生人同様あまり一定ではなく、地域によっても個体差があり、関東、東北にみられる特徴は鼻が低く広く、彫りは浅くのっぺりとしており、眉間部の隆起はあまりないが、頬骨が発達しエラが張っている。
 北部九州から山陰地方など日本海側ににかけては、弥生人などにみられる高い顔、高い眼窩、細長い梨状孔などの特徴を持った古墳人骨も出土している。
 顔や眼窩の高さがやや低い古墳人が、中南部九州や山陽地方にみられる。
 身長が高く古墳時代は日本の歴史の中で現代を除き1番高身長である。
 古墳人のルーツ
 日本列島で古墳や馬、馬具などが現れるのは弥生時代以後の古墳時代であり、この頃に朝鮮半島を経由して日本列島に渡来したと思われる[誰によって?]。
 分子人類学からみた古墳人のルーツ
 父系のルーツ(Y染色体ハプログループ)
 古墳人にみられるO3a2cY染色体ハプログループは東アジア全体で見られるタイプで、特に中国大陸で高頻度である。ハプログループO系統は東アジア南部が起源とされており、O3系統は黄河上流付近まで北上したグループと思われる。
 古人骨ゲノムデータの主成分分析
 成分分析では現代日本人と大陸集団との中間に位置し、縄文人弥生人よりも現代日本人との遺伝的親和性が高い。
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 184年の後漢末期に起きた黄巾の乱から三国鼎立時代、曹氏魏王朝、317年の司馬氏晋王朝建国までの長い戦乱で、古代漢族中国人の総人口が3分の1まで激減した為に人口回復の為に周辺の異民族を大量に受け入れて新たな漢族中国人とした。
 589年 異民族の楊堅は、南北朝の動乱を鎮め、中国を再統一して隋王朝を建国した。
 隋の第2代煬帝は、高句麗遠征と大運河建設で国力は疲弊した。
 618年 李淵が隋の恭帝禅譲を受けて唐王朝を建国して、中国に安定をもたらした。
 626年 李世民は、玄武門の変で兄弟を殺し、父高祖に禅譲を迫って退位させ、不満分子を掃蕩し、第2代太宗として即位し、貞観の治を行った。『貞観政要』。
 唐の3代高宗は、国力(軍事力と経済力)が充実するや積極的膨張政策を採用して周辺諸国への侵略戦争を始めた。
 660年 唐は旧新羅と連合して百済を滅ぼし、663年に倭国(日本)・百済残党連合軍を白村江の戦いで破り、日本侵略の準備を始めた。
 倭国は、唐新羅連合軍の侵略に備えて防衛体制を急いだ。
 668年 古新羅は、唐の軍事支援を得て高句麗を滅ぼし悲願であつた朝鮮半島統一を果たしたが、唐の高圧に反発して反旗を翻して唐軍を朝鮮半島から追い出し、倭国の軍事支援を得るべく遣日使を派遣して臣下の礼を行った。
 髙宗の逝去で唐の膨張政策は終了し、中国の侵略戦争は宿敵高句麗を滅ぼす事で一定の成果を挙げた。
 690年 高宗の皇后であった武后は、中宗・睿宗を廃立して即位し則天大聖皇帝と称し、国号を周と改め、恐怖政治を行った。簒奪による武周(武氏の周)王朝の成立である。
 705年 廃帝の中宗は、老病で衰弱した則天武后から帝位を譲り受けて復位し、国号を唐に戻した。
 712年 第6代の玄宗皇帝が即位し、国際国家として、中国史上、経済が発展し、高度な文化が花開いた。
 唐王朝は、異民族王朝であって漢族中国人王朝ではなかった。
 755年 安禄山は史思明と共の反乱を起こして、全土に広がった。
 756年 玄宗皇帝は、安禄山の乱の原因となった寵愛していた楊貴妃を殺し、子に帝位(第6代粛宗)を譲って隠居した。
 762年 玄宗皇帝は崩御した。
 907年 唐王朝は滅亡し、中国は大動乱の五代十国の時代に突入した。
 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
 960年 漢族中国人の趙匡胤が中国を再統一し宋王朝を樹立して、一時の平和が訪れたが、中国人特有の権力闘争が激しくなり朝廷内での粛清に次ぐ粛清が絶えず、その為に国力は急速に衰えていった。
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 邪馬台国時代の日本人とは、日本土人の事である。
 世界文明・黄河文明の中華世界(中国や朝鮮)から見れば、日本土人は文明を持たない教養・知識なき野蛮な未開人と見下し軽蔑して「倭人」と呼び捨てにした。
 倭人とは、差別する為の蔑称であって、敬意を込めた敬称ではなく、ましてや尊敬を込めた尊称でもない。
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 戦後民主主義教育における歴史教育は、マルクス主義史観・共産主義史観とキリスト教史観である。
 マルクス主義史観・共産主義史観は、科学重視で正当な日本人の歴史を採用し、天皇神話に基ずく正統な日本民族の歴史を否定し、天皇制度を廃絶する為に子供たちに天皇・皇室を軽視を広めるべく科学的人間の歴史を教えている。
 キリスト教史観は、絶対神の普遍価値観から自然神崇拝・天皇神話も人類の誕生・人類の進化も否定している。
 が、日本民族の正統な神話歴史も日本人の正当な科学歴史も、日本列島では正しい正史である。
 何故なら、日本は中国や朝鮮とは違って、一度も他国に侵略され、征服され、占領され、植民地にされた、奴隷にされ、大虐殺を受けた事がないからである。
 つまり、日本列島の歴史は、中国大陸や朝鮮半島とは違って血で血を洗い死体の山を築き、それを愛でながら酒盛りして宴会を行うような地獄の如き血生臭さは薄いのである。
 それ故に、知識や技術を持っていても腕力(身体能力)なき敗者・弱者は日本列島を目指して中国大陸や朝鮮半島から逃げ出していた。
 日本列島には、人間を捕食するトラやヒグマなどの獰猛・凶暴な大型肉食獣は生息せず、いても臆病な小型のニホンオオカミツキノワグマで、北海道にだけはエゾヒグマが生息していた。
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 日本列島は、明治までは南は奄美大島、西は対馬壱岐五島列島、北は蝦夷地・北方領土までであったが、明治以降は南は琉球諸島=沖縄から北は千島列島までで、樺太南部はロシアと交換して放棄した。
 台湾と朝鮮半島は、日本列島の一部ではなかった。
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 縄文人は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部まで、西は朝鮮半島南部、日本海を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と軽蔑していた。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、縄文人を共通の祖先とする同血族・同種であったが、黄河文明の漢族中国人・朝鮮半島人とは異血族・異種であった。
 日本民族琉球民族アイヌ民族と分かれたのは、遼河流域から渡って来た古墳人と乱婚を繰り返して混血したからである。
 琉球民族は、揚子江流域民や東南アジアの南方系海洋民などと乱婚を繰り返して混血していった。
 アイヌ民族は、シベリア・樺太・千島列島・カムチャッカ半島などオホーツク海沿岸地域の北方系山野民などと乱婚を繰り返した混血していった。
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