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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
令和4年2月号 正論「岸田政権の対中姿勢を問う
熱狂と冷却とを繰り返す日中関係 宮崎正弘
米中対決は外交舞台で非難の応酬を繰り返すが、米国のGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)やウォール街は親中派が多い。なにしろ頂点に立つバイデン大統領は、表向きの対決姿勢とは裏腹に心中は親中派だ。それゆえ米国の対中政策はジグザグを描く。
米国の政治・歴史学界は中国政策に対して、従来の『関与』論から『封じ込め』へと流れが変わった。そればかりか一般米国民も急速に冷めた。こうした世論を背景に中国のスパイ網の摘発や留学生へのヴィザ制限、孔子学園閉鎖などが続いた。ウイグルにおける少数民族弾圧を『ジェノサイド』と決めつけたトランプ前政権の制裁路線をバイデン政権も継承し、西欧諸国も追随した。
バイデン政権は『人権』が表看板だから、経済、交易、金融を別として、この線だけは譲れない。
日本でも尖閣をめぐる中国海警の度重なる侵犯行為を目の前に反中感情が強まった。日中友好議員連盟は工作機関と米国が認定したため、林芳正外相は外相就任にあたり議連会長を辞任した。
お互いが大量殺戮兵器を競い合っている以上、核戦争を回避するのは常識だから、米国は核軍縮交渉を中国と展開したい。
去る11月16日に米中首脳会談がオンラインで行われた。案の定、成果はゼロに等しく、バイデン大統領にトランプのような迫力がなく、中国側に押されっぱなしだった。ジェノサイドは『内政干渉』でおしまい。台湾防衛は曖昧なまま、核軍縮交渉には応じなかった。
こうした現状をみるにつけ、筆者は歴史を紐解いて、日本の対中姿勢は『熱狂』と『冷却』の繰り返しだったことを改めて認識したのだった。
日清戦争直後から夥しい中国人が日本に留学に来た。第一号は汪兆銘、魯迅も蒋介石も周恩来も。
日本の政治家、運動家などは孫文を熱烈に支持した。ところが孫文はソ連の巧妙な策略に騙され、日本から離れた。
戦後も日本は中国に惜しみない援助を与えた。新聞やTVは日中友好大切と獅子吼(ししく)し、外務省チャイナスクールが復活した。
中国との関係はそもそも未知との遭遇だった。
人づての伝聞をもとに『偽史倭人伝』が書かれた。しかし『倭』は侏儒(しゅじゅ)を意味し、邪馬台国と卑弥呼に侮辱的な漢字を充てた(白鳥庫吉博士は『倭』は当時『イ』と発音した筈で北九州の伊都だろうと推定したが、この論議は長くなるので本稿では措く)。
たしかに漢字の文献も政治システムの智慧も中国からもたらされた。仏典とともに仏像が日本に百済経由でもたらされたのは6世紀中葉である。書籍はサンスクリット語からの中国語への翻訳本だった。朝廷は当初、仏教を嫌い、仏像を難波の河に捨てた。
この仏像を篤く信仰し、布教の支援を始めたのが新興勢力の蘇我氏だった。
物部氏が廟議において仏教普及に反対した。物部氏はニニギノミコト以前に天孫降臨したニギハヤヒに随行した由緒ある近衛集団であり、王城を邪(よこしま)な外来思想が汚すことに反対だった。
仏教は中国を経由したのであり、大和朝廷は外来思想に距離を置いた。また仏典の原典が恣意的に中国語に翻訳されると、漢語のもつドライさは原典が持つ情緒的な教えを正確には伝えない。つまり物部氏は『文化防衛』のために蘇我氏と対立したのだ。
蘇我氏は多くの渡来人をい擁し、かれらは新田開発、溜池の造成、築堤(ちくてい)、殖産、とりわけ織物、窯業(ようぎょう)、交易にあたらせたため既存の豪族より財を扶翼し、朝廷と外戚関係を結ぶまでに勢力を拡大していた。
この中国熱を冷ましたのが645年の『乙巳(いっし)の変(大化の改新の糸口)』だった。仏教擁護者の蘇我一族を討った政変である。
ところが半世紀を経ずして隋の影響を受けた大宝律令が成立する。直輸入ではなく日本的咀嚼の後の定着である。つまり仏教信仰の蘇我氏は討ったが、仏教そのものは朝廷が信奉するところとなり、古代神道と混淆(こんこう)する日本的な神仏習合に発展したのだ。
なにしろ寺の入口に鳥居があったり、神社の境内に寺があったりするのは一神教を奉じる外国では考えられないことだろう。
乙巳の変は中大兄皇子と中臣鎌足が主役。鎌足は蹴鞠の場で中大兄皇子と接触に成功して昵懇となり、密談の場所が桜井の談山神社だった。宏大な敷地の内に南淵塾があった。古代中国の農村社会を規範として、農村共同体の再現が大化の改新の企てであったとすれば、乙巳の変に思想的影響力を持ったのは留学帰りの南淵請安である。
崇仏派は、新興の豪族・蘇我氏。保守側の物部氏は敗北して表舞台から去ったが、蘇我氏と中大兄皇子とに対立関係が続いた。異端を受け入れない大和朝廷の強い姿勢により仏教容認には時間がかかった。この時代は先鋭対立というより『共存』していた。
仏教が決定的に優勢となったのは聖武天皇からである。乙巳の変から100年後の天平17(745)年に東大寺の大仏造営が開始され、奥州に金が算出したことに助けられ、7年後(天平勝宝4年)に開眼供養会が盛大に催行(さいこう)された。しかし東大寺を護る神として八幡神の神霊が分祀された。まさに神仏混在時代だ。
昨今、日本では結婚式をキリスト教会、正月のお願いことは神社参拝、お寺の厄介になるのは墓参りと葬儀、戒名をいただく儀式だけになった。多神教混在というより、というより、これこそ山本七平が言った『日本教』であろう。
親中派を一掃した天武天皇
元明天皇の御代、まつりごとの中枢は蘇我氏の滅亡とともに最大の皇位継承者候補だった古人大兄皇子が消され、勝者となった中大兄皇子(のちの天智天皇)が主導した。
天智天皇は開明的だったが、祖国防衛には敏感だった。当時、朝鮮半島の南端は任那(みまな)であり、百済は日本の保護領と言って良かった。百済の王子が日本に亡命し、援助を求めたため天智天皇は出兵を決断する。
それまでにも粛慎(みしはせ)の襲来、神功皇后の新羅征伐、継体天皇の任那4県の百済への譲渡などの経緯があったものの、本格的な対外戦争は白村江の戦いが初めてだった。
白村江は『古代のノモンハン』ではなかったか。
局地戦では負けたが、全体では五分五分だった。関東軍参謀だった辻政信が言ったように『負けたと思うから負けなのだ』。
結果、日本は防衛に力点を移し、近江に遷都した。百済からは2,000名を超える知識人が日本に亡命した。新羅の背後に中国があった。崇中派はおおきく後退した。
天智が崩御すると壬申の乱が勃発する。
大海人皇子(天武天皇)は先手必勝とばかり吉野から抜け出し、伊勢から尾張、美濃で豪族らを糾合し、高市皇子を将軍に近江朝の大友皇子と交戦、西国の豪族を集めきれなかった近江朝を滅ぼした。天武天皇は不破関(関ヶ原)を先に抑えて勝利の足がかりを築いた。
この『壬申の乱』は皇位継承の争いだけでではない。親中派の排斥という政略が基軸にある。大友皇子の側近は親中派だらけ、しかも大友皇子の母は舎人の娘だった。
このとき『大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ』(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
いまでいう次官級、局長クラスの官吏数十人が渡来人だった。親唐派が政権をかため、誤った判断をしていたのである。
壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は防衛力強化の政策を採った。
以下は天武天皇の勅(天武天皇13年)である。
『凡(およ)そまつりごとの要は軍事なり。是を以て、文武官の諸人も、務めて兵を用い、馬の乗ることをならへ。すなわち馬・兵、あわせて当身の装束の物、務めて具に備え足せ』(日本書紀 巻29)(政治の中枢は軍であり、官も民も防衛を怠らず、兵器を常に手入れし、防衛鍛錬を日々忘れるな)
さらに後日、天武天皇はもっと具体的な勅を発して曰く。
『(高官は)人ごとに鎧一丁、太刀一口、弓一張、箭(や)一具。鞆(とも)一枚。鞍馬。勤冠より進冠に至までには、人ごとに太刀一口、弓一張、矢一具、鞆一枚。かくの如く予(あらかじ)め備えよ』(日本書紀 巻30。岩波文庫)
朝廷の『崇中派』の末路
『藤原仲麻呂の乱』は保守の勝利となった。
親中派というより『崇中派』の藤原仲麻呂を討ったのは、位階から律令までシナ風に染め上げるように仲麻呂が日本の政を麻痺させていたからだ。
藤原仲麻呂は叔母でもある光明皇后に気に入られ、トントン拍子に出世街道を歩いた。
中臣鎌足が『藤原』姓を賜り、鎌足の子である不比等が飛躍的に台頭し、その子の四兄弟が疫病で死ぬと、不比等の孫にあたる藤原仲麻呂の時代がやってきたのだ。
光明皇后は孝謙天皇を即位させたのち、皇太后となった。皇太后と天皇の連絡通路、そのまつりごとの中枢を握る地位を確保するや仲麻呂は天皇、皇太后、そして皇子を操り、政治を壟断(ろうだん)した。目標は唐の官位や律令、納税、戸籍など諸制度を積極的に取り入れて日本を唐風にすることにあった。
官位や行政機関の部署の名称をすべて唐風に変えたため国風を重んじる保守派からは目の仇にされた。大国、文化先進国というシナへの誤解は日本の針路を大きく左右した。
藤原仲麻呂は価値紊乱者であり太政大臣を『大師』、左右両大臣をそれぞれ『大博』『大保』、大納言を『御史大夫』という具合に改称した。
日本独自の文化、伝統への斟酌(しんしゃく)は希薄で、藤原仲麻呂は当時の宮廷の保守主義の人々から疎まれた。藤原仲麻呂の前に立ちはだかったのは保守主義の持ち主、橘諸兄とその子、橘奈良麻呂である。橘諸兄は光明皇后の異父兄、妻は藤原不比等の娘、葛城王と言われた。
橘諸兄は元正天皇の信頼が篤く大仏造営には反対したほど保守思想家だった。しかし讒言されて失脚した。息子の橘奈良麻呂も757年、仲麻呂の仕掛けた謀略に嵌(は)められ、『橘の乱』を引き起こそうとして、それを予想していたかのように藤原仲麻呂の反撃と鎮圧は迅速かつ過激だった。聖武上皇がみまかると、クーデター計画があったなどとして橘奈良麻呂以下、関与した443人を厳格に処刑し、ライバルの芽をしっかりと摘んだ。
保守陣営はこのときの失敗で大きく後退を余儀なくされた。親中派が権力を押さえたのだ。
『橘の乱』など、実際には反仲麻呂派が宴会などで不満を述べあい、軽い気持ちで軍を動かすなどと大言壮語し合った。兵の動員計画は杜撰(ずさん)を極め、詰めが甘かった。その計画を密告され、関係者が拷問され、大がかりな反乱計画がでっち上げられた。橘奈良麻呂の変はあっさりと鎮圧された。これによって奈良時代に保守思想は大きく敗れた。
実力者の左大臣、仲麻呂の兄である藤原豊成が左遷され、替わって仲麻呂が右大臣に出世し、翌年、てなづけてきた淳仁天皇が即位する。大和王朝は仲麻呂の天下となった。
養老律令など諸制度をすっかり唐風に改めるという暴挙、しかも太政大臣としてほぼ独裁的に君臨し、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜った。この名前の意味は『ひろく恵を施す美徳』、秩序紊乱者を『押しまくって勝った』ことに由来する。
……
しかし仲麻呂政治で特筆しておくことがある。
彼は崇中派というども国家安全保障には敏感でアジア情勢を的確に判断し、新羅への大軍の出兵を3年がかりで準備していた。
実際に3万近い部隊編成も決め兵隊、装備も揃えた。400艘近い船団は筑紫に待機した。この新羅への出兵は、疫病の大流行によって阻まれ沙汰止みとなった。
数年後に仲麻呂を討つことになるのが、意外なことに弓削道鏡が発議し、冷遇されていたエリート・吉備真備が軍事作戦を練った。
真備は阿倍仲麻呂の同僚で唐に2回、留学した。仲麻呂の野望は潰え、一族は琵琶湖西岸で斬られた。
遣唐使の廃止
菅原道真は中国から学ぶもの少なく逆に遣日使は日本への亡命者ばかり。
シナ風を絶ち、国風の確立こそ遣唐使廃止の目的だった。
菅原道真はなぜ神となったのか。
日本全土にある天神、北野神社の主神は菅原道真である。彼の最大の功績は遣唐使を廃止したことである。保守回帰を成し遂げた偉大な思想家として再評価が必要だろう。唐風に染まった日本文化を国風に戻し、保守回帰を成し遂げたのだから。
遣隋使・遣唐使は294年間に22回派遣され、菅原道真の建言でよやく沙汰止みになった。
第1回遣隋使が送られたのは西暦600年で、計3回派遣された(4回ないし5回との説あり)。614年の派遣で隋が滅亡したことを知り、次の遣唐使派遣は630年である。以後、838年まで続いた。894年にも派遣方針が固まっていたが、菅原道真が中止を建言した。
……
国民は中国に冷たい目
かくして熱狂のあとには冷却がくる。
日本政府の軽はずみな経済外交、その中国依存に、米国は不信を募らせている。RCEP(地域的な包括的経済連携)とTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)だ。両方も加盟する日本、どちらにも加盟しないアメリカ。
しかしRCEPは中国主導であり、アメリカは日本への不信感を増大させざるを得ないだろう。
岸田政権は米国メディアから『中道からやや左』と位置づけられるが、米国の如くあからさまな中国敵視を避けている。
ところが日本の民意は、どの世論調査を見ても『中国が好き』との回答は驚くほど少ない。財界の中国べったりを危険視する意見がとみに増えた。
現在、大きな流れは日中冷却に向かっている。振り返れば田中角栄の訪中による日中国交回復から半世紀を閲(けみ)している。
パンダ熱狂は急速冷凍庫のように冷めた。
ムードは1989年6月4日の天安門事件で暗転し、中国礼賛だった日本のメディアは一斉に中国共産党の暴力を非難した。親中派だったチャイナ・ウォッチャーの多くが顔色を失った。
以後、江沢民の反日キャンペーンの徹底があって日中友好ムードはしらけ、2005年の反日暴動で国民の多くが中国への期待や希望を捨てたのではないか。親中国派議員らは口をつぐみ、崇中派は影響力を徹底的に失い、そのうえ尖閣諸島への中国海警の度重なる領海侵犯で、国民の多くは中国への怒りを抱くに至った。
現在の日本に『令和の藤原仲麻呂』は居ない。
しかし中国に毅然とした態度を示す『令和の菅原道真』も不在である。
こんなときに岸田政権の外交が誤らないよう心ある政治家や有識者、在野の行動に期待したい。」
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日本国内は、飛鳥時代から現代まで、多数派の中央・親天皇・民族・知中=反中・保守と少数派の地方・反天皇・反民族・親中=崇中=媚中・革新という二派で争ってきていた。
親中は時代によって代わり、昔は古典の漢籍などを読んで中国に憧れる崇中派であり、現代は利益・金儲けの為に中国共産党に忖度する媚中派である。
昔の崇中派が憧れた理想的中国とは、古代周王朝や異民族征服王朝の隋や唐であった。
つまり、昔の聖人君主が徳治で治めた中国と現代の中国共産党が恐怖と暴力そして死で統治する中国とは別の中国である。
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現代の日本人、特に高学歴の知的エリートや進歩的インテリには民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はなく、そのため歴史が理解できない。
その象徴的日本人が、中国共産党に忖度し中国の利益の為に行動して日本国の国益に損害を与えて恥じない親中国派・媚中派である。
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ヤマト王権・日本天皇は、中国の侵略から日本国と日本民族を守る為に、地方に点在していた反ヤマト・反天皇勢力を切り従えて国内を統一した。
が、反天皇・反民族・親中勢力は雑草の根の如く日本各地に残った。
その雑草の根は現代日本でも存在し、反天皇反民族反日本のマルクス主義・共産主義やキリスト教が日本天皇の崩壊・日本国の破壊・日本民族の消滅へと栄養を補給して後押ししている。
歴史的事実として、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
日本の共産主義勢力を陰で操っていたのが、ソ連と中国共産党であった。
その流れが、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育者に流れている。
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歴史的事実として、日本にとって中国や朝鮮は敵であって友好・善隣など存在しなかった。
中国や朝鮮に存在するのは、敵日・反日・侮日であって親日・知日ではない。
日本が好きな中国・中国人とは、孫子や韓非子、秦の始皇帝や漢の武帝、項羽と劉邦、三国志の英雄豪傑、ジンギスカンなどごく少数の皇帝や武将と軍師、孔子、孟子、老子、荘子などの数えるほどの思想家、王羲之、杜甫、李白、白楽天などの数少ない文人墨客、鑑真、玄奘三蔵法師などほんの一握りの高僧名僧などで、それも唐の玄宗皇帝御代までの古代に集中している。
古代中国と中世・近代そして中国共産党が支配する現代中国とは別の中国で、古代中国の生命溢れた息吹は現代の中国には存在していない。
つまり、日本人が憧れる中国とは大昔に死んでしまって現代には残っていない幻想に過ぎない。
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中国共産党は、結党以来変わる事がない邪悪な敵日である。
中国軍は、日本に対して復讐戦・報復戦を計画して軍備拡大を進めている。
中国の教育は、反日洗脳教育を徹底している。
中国共産党と中国軍の正統性は、抗日戦争に勝利した事である。
中国共産党や中国軍は、数多くのスパイや工作員を日本国内に潜伏させ活動している。
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仏教はインドで誕生し、儒教は中国で成立した。
正統性男系父系天皇は日本国と日本民族の為に、仏教を受け入れて信仰し、儒教を敬して遠ざけた。
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日本独自の神仏混在が見える化したのは、聖武天皇によって創建された東大寺の守護神に宇佐の八幡神を神霊として分祀した事である。
神の裔である正統性男系父系天皇の御威光によって、外来仏が在来神より上位の神格である事が確定し、仏教が日本における唯一正当な宗教権威である事が承認された。
ゆえに、日本民族の宗教は日本教・天皇教である。
それは、祖先神・氏神を人神として祀る崇拝宗教である。
日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
日本民族が天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者とは、日本民族であり、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
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歴史的事実として、日本と中国との友好・善隣は斑鳩・飛鳥・奈良・平安初期の中でもごく限られた短い時期にしか存在しない特殊・特異な関係である。
むしろそれよりも長い時期、日本と中国は敵国同士で、小国日本は大国の中国が仕掛けてくる軍事侵略を恐れ警戒していた。
中国の日本侵略に進んで協力していたのが、狡猾で陰険な朝鮮であった。
日本に向かって微笑みながら「友好・善隣」を語り、にこやかに握手を求めてくる中国人は陰険な人間として警戒すべきである。
それが、中国共産党員や中国軍軍人であればなおさら信用しない事である。
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隋は、高句麗を幾度も侵略したが失敗して滅亡した。
唐は敵日の新羅と連合を組んで、親日・知日の百済と高句麗を滅ぼし、日本への侵略を企てていた。
中国は、古代から周辺諸国への侵略を繰り返し、虐殺と強奪を繰り返す犯罪大国で、平和な時代は新たな侵略戦争を行う為の準備期間にすぎなかった。
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現代の親中国派・媚中派は、中央の政権与党である保守とリベラルに多く存在し、国際社会で顰蹙を買った平成元(1989)年の天安門事件後の関係修復と同じな愚行を行おうとしている。
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中国共産党は、結党以来変わる事がない敵日・反天皇であり、日本人共産主義者テロリストの昭和天皇や皇族の暗殺に陰で少なからず関与していた。
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日本国内には、中国共産党・中国軍のスパイ・工作員が多数潜伏して活動し、彼らに協力する日本人も相当数存在する。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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日本民族にとって、中国人と朝鮮人は天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇・法皇は島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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親日派・知日派は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
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898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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