🏹13〕─1─執権北条泰時は人身売買を再び禁止した。『吾妻鏡』。『明月記』。寛喜2年(1230年)。〜No.34 

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 2022年2月6日 MicrosoftNews 女性自身「鎌倉殿の時代に横行していた人身売買 戦国時代には日本人が奴隷として海外に売られていた!
 © 女性自身 鎌倉幕府跡地のひとつ「宇都宮辻子幕府跡」
 『鎌倉殿の13人』(NHK)が好調を持続している。初回放送後にはツイッターで世界トレンド1位を獲得、同時・見逃し配信サービスでの視聴も好調で、前作の2~3倍にも上っているという。「首チョンパ」「平家をぶっ潰すぜ」など現代風の台詞や、小池栄子演じる政子の“クネクネ艶技”など、コメディ要素たっぷりの大河に今後ますます注目が集まりそうだが……。
 「今回の大河では、北条家を中心になんともユーモラスなやりとりが話題を呼んでいますが、史実から見ると、実は鎌倉時代はそんな明るいだけの時代ではありませんでした」
 こう語るのは、歴史学者の渡邊大門さんだ。大河では描かれていない日本史のカゲの部分を『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』の著者でもある渡邊さんに解説してもらった。
 「日本では鎌倉時代になって奴隷制度が禁止されます。ところが、寛喜2年(1230年)~寛喜3年(1231年)にかけて発生した『寛喜の大飢饉』が起きて、多くの庶民は困窮します。生活困窮者が妻子や従者を売り飛ばしたり、裕福な家に下働きとして身を置いてもらうなどが跡を絶たない状況となり、幕府は非合法ながら人身売買を認めざるを得なくなったのです」
 寛喜2年の夏は冷夏と長雨が続き、そうした天候不順が農作物の収穫量の減少を引き起こし、飢饉の原因になったという。
 「人々はわずかに残った備蓄穀物を早い段階で食べ尽くしてしまい、全国的に餓死者が続出しました。激しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたといわれるほどだったといいます。また、翌寛喜3年は一転して激しい猛暑に見舞われて、旱魃(かんばつ)が農民を苦しめました」
 京都や鎌倉といった都市部に生活困窮者が流入し、『明月記』(藤原定家の日記)には、餓死者の死臭が漂ってきたという生々しい記述もあるという。そのような大飢饉を経て、幕府は延応元年(1239年)4月に次のような法令を出した。
 《寛喜3年に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。人身売買は、その罪が実に重いものである。しかし、飢饉の年に限っては許可する。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれのないことである。両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない》
 『寛喜の大飢饉』から8年たった当時でも、人身売買をめぐる問題は深刻だったことがこの法令からもうかがえる。このときの将軍は藤原(九条)頼経、執権は北条泰時(義時の長男)だった。そして、歴史書吾妻鏡』には、同年(1239年)5月に幕府が人身売買を再び禁止したことが記されている。
 その後、鎌倉幕府が滅亡し、室町時代となった1300年代中盤以降、日本人が近隣諸国の外国人を連行してきて、国内で人身売買を行い、さらには日本人も奴隷となって海外へと売られていく時代になっていく、と渡邊さん。
 「14世紀~15世紀にかけて、主に日本人が朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い、現地の人を連れ去り、食料などを盗むといった海賊行為が急増していきます。中国や朝鮮の人は、この海賊たちのことを“倭寇”と呼び、倭寇に連れ去られた人たちは、日本国内で人身売買されることが常態化していくのです」
 さらに戦国時代になると、国内の合戦の場では“乱取り”といって、どさくさに紛れて人を連れ去ったり、物を盗むことが横行したという。
 「豊臣秀吉の時代に、戦が続いていた九州では、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題になります。日本人奴隷を船に乗せて東南アジアなどをまわって転売していくんです。当時、ポルトガルはマラッカやインドのゴアなど多くの植民地を持っていたので、格安で手に入れた日本人奴隷を寄港した先で売って、そこで使役させていました。戦国時代には、かなり多くの日本人奴隷が海外へと売り飛ばされることが実際にあったのです」
 天正15年(1587年)4月、九州平定を終えた秀吉は、家畜のように扱われている日本人奴隷が、ポルトガル商人が準備した船に次々と乗せられる姿を見て激怒したという。
 「『イエズス会日本年報』には、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョが、日本人奴隷の問題で口論したことが書かれています。そして天正15年6月19日、秀吉はキリスト教の宣教師を追放するなど、5か条にわたる“伴天連追放令”を発布。その後、江戸時代に入り、日本人奴隷交易は終息へと向かっていきます」
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上に及んだという。ドラマの中では描かれない“負の歴史”を知ったうえで大河を見ると、また違った興味が湧いてくるかもしれない。」
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 歴史的事実として、日本は何時の時代でもブラック社会であり、日本人は地獄のような世間を命が尽きるまでのたうち回りながら必死に生き、夢も希望もない貧困の中で子供を産み育て、呪われた子孫を残した。
 その呪われた子孫が、現代の日本人である。
 日本には、古代から現代に至るまで、癒やされる事のない、許される事のない、どうにもならないドス黒い暗黒の闇が存在する。
 日本人の心の奥底に業(ごう)という醜く穢れた鬼が住み着いている。
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 キリスト教は日本に2つのモノを伝えた。
 1つは絶対神の福音による光の「愛」で、もう1つは信仰者による闇の「憎悪」である。
 その結果として起きたのが、非人道的犯罪として世界記憶遺産に認定されたキリシタン弾圧である。 
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 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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