☰63〕─2─渋沢栄一らは日本の為に朝鮮の近代経済の基礎を築いた。〜No.198No.199 ⑳ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 歴史的事実として、日本人は被害者であり、韓国人・朝鮮人と中国人は加害者である。
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 2022年2月号 WiLL「渋沢栄一まで『悪行』よばわりする韓国
 過剰な『反日思想』がどこまでも韓国を狂わせる
 松本國俊
 最狂の反日反米候補
 2022年3月に控える韓国大統領選挙で、文在寅大統領とは比較にならないほど反日・反米大統領が誕生するかもしれません。彼の名は『李在明』──文大統領の与党『共に民主党』の大統領候補です。
 前京畿道知事である李子の発言は、とにかく反日・反米のオンパレードです。
 ……
 また驚くべきことに、李子は反日だけでなく反米思想も隠しません。
 11月12日、米国のジョン・オソフ上院議員が特使として訪韓した際には、面談の場で『韓国が日本に併合されたのは、米国が桂・タフト協定(1905年に米国のフィリピン統治権と日本の朝鮮半島に対する優越権を相互承認した)によって承認したからである』と、日韓併合の責任は米国にもあると主張しています。さらに、『のちに日本が分断されたのではなく、戦争被害国である朝鮮半島が分断され、戦争の原因になったということは、否定できない客観的事実』と、暗に南北分断と朝鮮戦争の責任まで米国に提起しました。
 ……
 しかし大陸国家だった韓国は、旧宗主国の中国に1000年以上も『畏敬』と『恐怖』の念を抱き続けています。日本統治時代と戦後中国が弱体化していた期間には潜在化していた中国を親分と仰ぐ『小中華意識』が、中国経済が成長するとともに復活してきました。……韓国の経済は今や中国なしでは成り立たず、急速な軍拡も中国に対する韓国の恐怖心に拍車をかけています。
 次期大統領の有力候補である李子自身、米国には朝鮮戦争の責任を問いながら、中国や北朝鮮に対してはなんら言及していません。彼の最終目標は在韓米軍を追い出し、親分たる中国の傘下に入ることではないでしょうか。
 反日・反米に凝り固まった李氏が大統領になれば、日韓関係のさらなる悪化は避けられません。林芳正外相は『日韓関係をこのまま放置するわけにはいかない』と前のめりですが、それでは相手の思うツボです。
 ……
 『朝鮮侵略』という虚構
 ただ李氏が大統領にならずとも、韓国社会が『反日』であることには変わりありません。最近ではNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一が新1万円札の顔の決まった際、韓国メディアは渋沢の功績を『悪行』にスリかえて並べ立てるネガティブキャンペーンを張りました。
 同じことが『週刊金曜日』で行われています。『一橋大生が迫る渋沢栄一朝鮮侵略』と銘打たれた短期連載(全四回)の第一回(11月19日号/著者:牛木未来)では、日本統治下で発行された渋沢の肖像画が印刷された第一銀行券を紹介しながら、朝鮮における近代日本の金融政策が朝鮮侵略と密接にあったと紹介しています。しかし実態は大きく異なります。
 もともと日本は、朝鮮に直接進出する意図など皆無でした。西洋列強の脅威が迫るなか、朝鮮が独力で近代化してくれれば、日本は朝鮮に関わる必要がなく、日清・日露戦争を戦う必要もなかったのです。
 渋沢も『とにかく朝鮮は独立せしめておかねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである』(島田昌和文京学園理事長『第一銀行の朝鮮進出と渋沢栄一』。以下『島田レポート』)と朝鮮の独立を望み、多くの日本人は朝鮮なら近代化を成し遂げるであろうと信じていました。だからこそ、福沢諭吉朝鮮人留学生を慶應義塾大学に受け入れ、近代化を志した金玉均板垣退助井上馨、渋沢らと一緒に支援したわけです。
 ところが朝鮮は、あまりにも西洋の侵略に対する危機意識が欠けており、いくら日本が説得を試みても、清の冊封体制から抜け出す意思が微塵もありません。それどころか、『なぜ欧州文明に魂を売ったのか』と、むしろ日本人を軽蔑し、取り付く島もありませんでした。期待した金玉均も結局、あの閔妃(びんひ)の刺客に殺されました。
 しかし朝鮮が西洋列強の手に落ちれば、日本の独立も危うくなります。『島田レポート』には渋沢栄一の朝鮮への思いが書かれており、そこには『(韓国が)他外国の管理の下に韓国の生命を託するに至るがごときことあらんか、これただに対岸半島の死活問題たるのみに非(あら)ずして(中略)日本の栄枯盛衰の岐(わか)るる大関係を生ずる』とあります。
 だからこそ、渋沢は巨額の資金を朝鮮半島に投じ、当初10年間に莫大な赤字を抱えながらも採算を度外視して、朝鮮経済の近代化に必死に取り組んだのです。同レポートによれば、渋沢は朝鮮王室を尊敬し、政府高官を高く評価しており、朝鮮を謗(そし)る者に反論して、朝鮮保護の者の位置にいたとあり、彼は当時、珍しいほどの親朝鮮派でもありました。
 『週刊金曜日』の記事には《朝鮮侵略を目的とした戦争である日清戦争》とありますが、これも真っ赤なウソ。幕末の外交官・陸奧宗光も著書『蹇蹇録(けんけんろく)』(1895年成立、1929年刊行)で、『当時の日本人は皆、日本が多少苦労しても、朝鮮を助けるのが道義の国としての務めで、わが国(日本)は強き(清)を抑え、弱き(朝鮮)を助けることを避けるべきではないと考えていた』(仮名遣いなどは改めた)と書き残しています。渋沢も同じ気持ちだったのでしょう。
 戦争終結の際は、その戦争目的を講和条約の第一条に謳(うた)いますが、日清戦争講和条約である下関条約の第一条には、朝鮮を独立国とする記述があります。日清戦争の主目的とは“強きを挫(くじ)き、弱きを助け”て、朝鮮を独立させる(清に朝鮮の独立を認めさせる)ことにあったのです。
 自業自得の財政混乱
 《日本貨幣の浸透は、朝鮮社会にもともと存在した貨幣の価値を下落・不安定化され・・・》(『週刊金曜日』)という記述も看過できません。
 当時の朝鮮に存在した貨幣は『葉銭』と呼ばれる穴開き銭くらいです。ロシア大蔵省が調査した資料をもとに農商務省(現在の農林水産省と通算産業省を合わせた組織)が刊行した『韓国誌』(1905年)には、当時30ドルに対して穴開き銭が2万4,000枚も必要で、ソウルから港に運ぶのに馬4頭、6人が必要だったと記載されています。
 それも品質にバラつきがあり、信頼性に欠け、当時の朝鮮では物々交換が主体でした。
 1884年、朝鮮政府は銅貨の鋳造(ちゅうぞう)を計画。渋沢の第一銀行は、これに資金を融資します。しかし結果的に計画は中止になり、担保の銅塊30万斤を朝鮮に残した第一銀行は大損を被(こうむ)ることになりました。
 その後、朝鮮政府は『白銅銭』を製造しますが、これも品質にバラつきがあり、ソウル近辺で流通するのみ。そこで『新式貨幣発行章程』(1894年)に基づき、朝鮮政府は新たな貨幣の発行を考えますが、当時の朝鮮は技術力に乏しく、一定の品質を保つ近代的な貨幣製造を自前で行うことが叶いませんでした。その代替案として外貨の流通利用が開始され、最も信頼できる通貨として『円』の流通が始まりました。
 しかし1898年になると、額面の2割ほどの費用で製造可能な前出の白銅銭を朝鮮政府が大量に製造し始めます。さらに鋳造権を政府高官に売却したことで、銅に鉛を多く混ぜた粗悪な貨幣となり、白銅銭の価値を一気に下落させます。混乱に混乱を重ねて、朝鮮の貨幣価値を低下・不安定化させたのは朝鮮人自身なのです。
 それだけではありません。当時の李氏朝鮮には産業発展に不可欠なインフラも資金の蓄積も技術なく、大規模市場も存在せず、人々の意識は古代国家の域にあり、自ら近代経済社会へ脱皮するのは不可能でした。ハーバード大学教授で朝鮮史専門家のカーター・J・エッカートも、その著書『日本帝国の申し子』(草思社)のなかで、『歴史的に見て、資本主義の萌芽(ほうが)が李朝にあったという事実が必要になるのは、偏狭なナショナリズムを正当化する時だけである。そのような偏狭な考え方が第三者の興味をそそるはずはなく、朝鮮の歴史ともほとんど関係がない』
 1905年、日露戦争に勝利した日本は朝鮮が独力で近代化するのはもはや不可能と判断し、正式な国際条約で韓国を保護国とし、日本の支援で近代化を進めることになったのです。
 最初は国家財政の仕組みを教えました。李朝体制下では賄賂が当たり前に横行しており、国家予算と宮廷予算を混同するなど、近代的な財政制度が整っていなかったからです。そこで当時、大蔵省(現、財務省)主税局長だった目賀田種太郎が財政顧問として派遣され、国家予算の編成や決算方法など、近代的な財政機構を導入することで、朝鮮財政の近代化を図りました。
 さらに1905年に混乱を極めた貨幣制度を整理するため、目賀田は日本貨幣と第一銀行の銀行券の無制限流通を承認。信用のある日本貨幣が朝鮮で使用できるようになり、朝鮮経済は安定化します。一方、先述した白銅銭による混乱を収束させるため、4年の歳月をかけて白銅銭や葉銭の回収を行いました。
 また、目賀田は韓国の新貨幣製造にも着手。安定した取引を可能にするため、大阪の鋳造局に製造を依頼し、一定の品質を保つことも可能にしました。
 ちなみに1906年、朝鮮政府に初めて国家予算を編成させた際、近代化に不可欠なインフラ整備だけで3,000万円かかるところ、朝鮮国内の徴税だけでは750円ほどしか集まらず、結果として2,000万以上の差額を日本の納税者が負担しています。日本は金融の混乱に乗じて利益を得たどころか、むしり身を削ってまで、なんとか朝鮮経済を安定化させようと試みたのです。
 近代化を目指した『一進会
 『週刊金曜日』連載の第二回『鉄道建設 狙いは農産物と綿製品の運搬』(11月26日号/著者:熊野功英)では、朝鮮における日本の鉄道建設は日本軍の大陸進出が目的であり、建設にあたって朝鮮人が酷使されたとあります。
 しかし実際には、鉄道建設には大勢の朝鮮人が進んで協力しています。当時、朝鮮でも最も大きな力を持っていた政治団体は『一進会』です。『公称100万人』と謳われた一進会の人々は、欧米列強がアジアを侵略するなかで、韓国存亡の機を打開するには日本と協調する以外にないと考えていました。保護国化も日韓併合も朝鮮近代化のために、彼らが積極的に日本側に求めていたのが歴史的事実です。日露戦争の際は会員およそ20万人が鉄道建設に協力してくれました。しかも鉄道建設に伴う負傷者への見舞金や殉職者への弔慰金などもすべて払ってくれたのです。
 一進会の協力がなければ、日本は日露戦争を戦い抜けなかったのではないでしょうか。ところが、祖国のために尽力する彼らを『裏切り者』と呼んで襲撃する集団が現れる──現在では『抗日の英雄』とされている義兵です。
 彼らは解散した朝鮮王室の軍隊が中心となり、日本の朝鮮保護国化に反対する名目で結成されましたが、結局、野党集団になって無法者です。各地に根を張って民衆に重税を課し、ときには地主の子供を誘拐して身代金を取ることもありました。やがて同胞である朝鮮人部落を襲撃するようになり、略奪を繰り返しました。村々では『自警団』までつくったそうです。日本軍が懸命に取り締まり、朝鮮人から感謝されたという証言もあるほどです。
 その義兵たちが一進会を襲撃し、900人も殺しています。鉄道建設における朝鮮人の犠牲は朝鮮人自身による側面もあるのに、そのような事実は『週刊金曜日』の記事では少しも触れられていません。
 そのほか、《1億人以上と推定されるほどの朝鮮人が動員され、無償に近い賃金で過酷な労働を強いられた》《軍令を発令し、治安維持や鉄道・電信の保護という名目で軍事支配を強めていった》という記述にしても不可解です。
 日露戦争時、大韓帝国は中立の立場であり、日本軍のほとんどは満州で戦っていました。物理的にも日本軍が軍事支配できるはずがありません。延べ1億人の朝鮮人を過酷な労働でこき使えば、必ず全土で暴動が起こるはずです。そうなれば、日本軍は満州から軍隊を動員せざるを得ず、日露戦争どころではなくなるでしょう。
 物資の輸送手段として鉄道の敷設が必要だったのは確かです。しかし乗客の大半は朝鮮人でした。鉄道の開通により、往復に2ヶ月以上かかっていたソウル・釜山間は3日に短縮。鉄道開通によって人・モノ・金の移動手段ができて、初めて近代化の基礎が成立したのです。
 『週刊金曜日』もそうですが、韓国側に立つ歴史認識は『こんな残虐な仕打ちを〝日本なら〟やっていたはず』という結論(願望?)が先にあり、そこに事象をねじ曲げて当てはめているだけの話です。
 日本こそ収奪された
 保護国化した後も朝鮮政府による近代化は遅々として進まず、ロシアは相変わらず朝鮮半島を狙っています。日本はやむなく膨大な負担を覚悟の上で韓国と併合条約を結び、日韓併合に踏み切りました。
 それは韓国側が望んだことでもありました。今で言うなら、開発途上国が米国の51番目の州になるようなものです。それ以上に近代化の道はない、と当時の韓国政府自身が判断したのです。日韓併合は弱肉強食の時代にあって、日韓両民族が生き残るためのぎりぎりマイナスの選択でした。
 日本は朝鮮統治期間中、額面にして20億7,902万円(1円を平均3万円で換算すれば約63兆円)を朝鮮近代化のために支援しました。日割りにすれば、現在の価値で1日45億円に上ります。
 すべては朝鮮のレベルを内地と同等に引き上げるためでした。そればかりか、日本は終戦時に朝鮮半島に現在の価値で16兆円に上る非軍事資産を残しています。
 国際法上、日本のものですから、1965年の日韓請求権・経済協力協定で日本はその請求権を放棄し、さらに8億ドルの経済援助(無償3億ドル・有償2億ドル・民間借款3億ドル)を韓国に与えました。当時、外貨保有高18億ドルの4割をあてたのです。
 『収奪されたのは日本だった』と言っても過言ではありません。
 韓国の発展は日本統治時代に整えられた教育制度や近代的経済制度が土台にあり、日本の官民が心血を注いで投資したインフラや産業資産、さらに戦後の経済援助の上に形成されているのです。サムスン電子現代自動車など、韓国経済をリードしているトップ企業の多くが、日本統治時代に産声を上げ、日本企業の協力で発展してきました。
 それらの事実に目をつぶり、ひたすら日本を貶(おとし)め、韓国経済の基盤を築いた渋沢の業績までを『悪行』と言い募るネガティブキャンペーンを張るとは、まさに恩を仇で返す返す言言語道断の所業ではないでしょうか。」
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 朝鮮は統一新羅以来、中国同様に反日・敵日・侮日であり、日本との友好・善隣を望まなかったし、日本人を敵とみなして友人・親友・戦友になる意思は微塵もなく、日本を何度も侵略し虐殺と強奪そして強制連行を繰り返していた。
 古代から、日本はいつ侵略してくるか分からない、油断も隙もない恐ろしい敵国に包囲され続けていた。
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 日本国籍を持つキリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 現代日本人には、戦前の日本人、特に江戸後期・幕末・明治に近代的軍国主義化を急いだ日本人の気持ちなどどうあがいても理解できない。
 何故なら、現代の日本人には民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないからである。
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 日露戦争時。反日・敵日・侮日の朝鮮人達は、全兵力を投じてなお苦しい戦いを続けている日本軍の後方で重要な補給路がある朝鮮半島で義兵闘争として内戦を繰り広げていた。
 同様に、日本国内には数は少ないが反天皇反民族反日本の無政府主義者キリスト教原理主義者の日本人達が存在していた。
 当時の大韓帝国は局外中立を宣言していたが、反日・敵日・侮日の親ロシア派・親中国派はウラで日本軍機密軍事情報をロシア軍に知らせていた。
 世界の共通認識は、「ロシア軍大勝利。ロシアは、日本を軍事占領して植民地とし、日本天皇を殺害して皇室を消滅させ、日本国をロシア人居住・日本民族居住、朝鮮人居住、中国人居住などに幾つに分割し、日本という地名を地球上から消滅させる」であった。
 ロシアは、ポーランドフィンランド、トルコ、ウクライナその他多くの国や地域を侵略し虐殺と強奪を重ねて領土を拡大していた。
 白人キリスト教徒にとって、異教徒日本人はアフリカ人同様に文明を持たない人間以下の奴隷であった。
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 江戸後期・幕末の尊王攘夷とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から神国日本と現人神天皇を命を捨てても護る事で、正しい民族主義、正義のナショナリズムであった。
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 近代的軍国主義国家日本の戦争は、すべて積極的自衛戦争であった。
 少人数の兵力しか持たない弱小国日本は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から神国日本と現人神天皇を死守する為に、ロシアに味方して日本を攻撃してくる中国や朝鮮に対する侵略戦争を強行した。
 朝鮮は、日本を滅ぼす為に、日本への侵略する意思のある西洋大国をそそのかして日本に戦争を仕掛けさせるという陰謀を巡らせていた。
 日本にとって日韓併合とは、ロシア・ソ連、中国・中国共産党に対する母国防衛の避けては通れない自衛戦略であった。
 が、日韓併合の結果、寝首を掻く・後ろから襲いかかってくる危険性のある「獅子身中の虫」としての朝鮮を抱え込むことになった。
 伊藤博文は、その事を恐れて日韓併合には反対していた。
 世界は、国際世論は、援軍なき日本の国防努力は平和に対する罪・戦争犯罪として認めず、日本を攻撃しようとした中国や韓国・朝鮮の言い分を正当として受け入れ日本を激しく非難・批判している。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、江戸時代後期から続くロシアの軍事侵略と戦国時代からのキリスト教カトリック教会・イエズス会)の宗教侵略、そして明治前期にアメリカの軍事侵略とアメリカ・キリスト教会(プロテスタント)の宗教侵略が加わった。
 そして、日本の最大の懸念事項が、ロシアが侵略してきた時に清国(中国)と朝鮮が侵略軍に味方するのか、さもなくば日本に協力し味方してくれるのかであった。
 同様の事は、国内でも琉球民族アイヌ民族にも言えた。
 清国(中国)と朝鮮はロシアに味方して日本の敵となり、琉球民族アイヌ民族は日本の味方となり戦友としてともに戦ってくれた。
 日本の大陸侵略政策は、「西洋列強の侵略から日本を防衛する」という安全保障から中国と朝鮮の反日・敵日・侮日勢力を追放して親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 つまり、中国・朝鮮の、親日派知日派は日本と共に戦う味方であって、反日派・侮日派は日本を攻撃する敵であった。
 日本人は、朝鮮人の良き隣人として、信頼できる友人になり頼れる親友になろうと務めていた。
 が、朝鮮人は、日本人の敵となり友人・親友・戦友になる事を拒否し、日本人の信用を裏切り、日本人の誠意ある努力を踏みにじった。
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 日本民族日本人と韓国人・朝鮮人そして漢族中国人とが腹蔵なく心の内を打ち明けて幾ら話し合った所で絶対に分かり合い、理解し合う事はない。
 そもそもが、日本民族琉球民族アイヌ民族と韓国人・朝鮮人、漢族中国人は同じアジア人といっても別系統のアジア人種で、多くの点で同種同文ではない。
 古代から、日本は朝鮮・中国とは敵対関係で友好・善隣関係など存在していなかった。
 友好・善隣関係を言うのは、歴史が嫌いな親中国派・媚中派である。
 日本にとって韓国・朝鮮は、友・友人、親友、戦友ではない。
 中国や韓国・北朝鮮に存在するのは反日・敵日・侮日であって、親日・知日は存在しない。
 が、日本と朝鮮の険悪な敵対関係は当時から現代の今日も変わる事がない。
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 国際世論は、韓国や北朝鮮における非現実的な感情論の日本批判説明を受け入れ、日本の科学的合理的統計的歴史的事実に基づいた弁明を拒否している。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
 唐の侵略がなかった為、唐に負けない国を作るべく敵であった唐に対する怨讐を捨て、唐を見習い手本とした。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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