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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
世界には親兄弟の死体が怪物として生まれ変わって、愛した家族や親族を含めた人々を無差別に惨殺するというホラー物語が存在する。
欧米ではゾンビであり、中華ではキョンシーである。
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日本の伝統民族宗教とは、「自分の」、祖先を氏神・祖先神・人神として祀り、家族を仏として弔い、死者の魂・霊魂と共に生活して生きる事である。
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2022年2月17日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
掘墓鞭屍
日本の歴史学には日本史と支那史に西洋史しかない。その中間は語られない。
支那の王朝史は分厚く語られるが、長城の向こう側は往々無視される。それは違うと岡田英弘は言った。
支那も含めたあの辺の歴史はむしろ長城の向こうが原点で、そこに興った民族が西に東に勢力を張って文化を生んだ。
彼らはたまたま漢民族の地・中原に入り、例えば殷王朝を建て、青銅器文化をもたらした。
支那はむしろ文化的には辺境の地だった。
殷の次に西戎(せいじゅう)がきて周を建てた。このとき支那人がちらり歴史に登場する。司馬遷の『史記』が伝える呉王夫差や越王勾践だ。
呉の軍師、伍子胥の話も出てくる。彼は楚の平王に父を殺された。その恨みを晴らすべく呉の軍勢を使って楚を攻め滅ぼす。
しかし平王はすでに身罷っていた。彼は王の墓を暴き、屍を引き出して『鞭打つこと300回』とある。『史記』にはそういう非常識と奸計と誣告と残忍さが山とある。支那人の生き様がよく出ている。
そんな連中の争いだから結果はまた外来の東夷の秦に持っていかれる。
それでも無頼漢、劉邦が秦のあと、支那人として初の王朝を建てた。
ずっと外来王朝の奴隷だった支那人は喜び、王朝の名『漢』を自分たちの民族名とした。
彼らはそこで異民族はさて置いて漢民族を飾り立てた正史を書いた。越王勾践と美人の西施(せいし)を書き、劉邦を称える。
司馬遷の『史記』と班固(はんこ)の『漢書』がそれだ。
ただ、永遠のはずの漢王朝はすぐ倒れ、またぞろ外来王朝が続く。
再び漢民族の王朝が立つのは1100年後の明まで待たねばならなかった。
自分の国の主にもなれないどころか奴隷にされる。
悔しさをどう紛らわすか。そこは姑息の民だ。
ホントウは何の文化もない、辺境の地だけど、ここを文化の中心地、世界の中心地と思い込もう。
その上で『夷狄は力こそあっても文化を持たない人間以下の存在』で、『漢民族は優れた人間で本当の文明を持つとする中華思想を生みだした』(岡田英弘『皇帝たちの中国』)。
岡田はそれを『自尊心を傷つけられた漢民族の病的な心理から出た悔し紛れの言い訳』(同)と言う。
そして今、漢民族としては明に次ぐ3番目の共産党王朝を樹立している。
習近平は『偉大な中華民族』という『言い訳』を繰り返すが、その中華民族が昔の『嘘つき漢民族』と変わらないことを周恩来が身をもって示している。
彼は毛沢東を30年支えながら、膀胱がんの治療も許されず憤死した。
遺言は一言『散骨しろ』だった。
墓を作れば、現代の伍子胥が必ず出てくる。掘墓鞭屍の屈辱だけは御免蒙りたい。鄧小平も同じ。遺骨は海に撒かれた。
二人は今の支那人の虚言癖から誣告好きから残酷さまで、漢民族と名乗ったあのころから何の進歩もないことを確信していた。
外来民族の文化を『わが民族のもの』に改竄して恥じない習近平も『変わらぬ漢民族』を証明する。驚くのはそんな支那人に迎合する日本人が多いことだ。
例えば偽りの歴史の創始者、司馬遷を崇めて『彼に遠く及ばない』という意味の名を名乗る者もいた。
ニトリの会長は『日本人の祖先は支那人』で『支那人の血を引くから知能が高い』(テーミス2月号)と言う。『日本は支那なしで生きていけない』とも。
遺伝子はその説を嘘と証明されているし、支那人はいない方がむしろいい。
ウイグルのジェノサイドで名指し批判を避けた岸田文雄は『苦しいときに手を差し伸べてくれた』と東京タワーを赤く照らして春節の祝辞を送った。
支那は嘘の歴史を振り回して日本にたかり、日系企業の焼き討ちもやった。
国民の89%は彼らの意図を知り、嫌っている。
石原慎太郎も『支那で儲けようと思うな』と遺言したじゃないか。」
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日本民族は、数万年前の石器時代・縄文時代から日本列島で生きたいた。
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漢族中国人は、朝鮮人とは同質で似ているが、日本民族とは異質で似ていない。
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日本民族と漢族中国人・朝鮮人は、同じアジア人であっても別系統のアジア人である。
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日本にとって中国・朝鮮は、古代から変わる事のない敵であって、友好や善隣など存在しなかった。
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縄文人であるヤポネシア人・石器人、日本土人、は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土、南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部まで、西は朝鮮半島南部、日本海を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と軽蔑していた。
日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
数万年続いた日本列島の石器時代・縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
日本民族・琉球民族・アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州・樺太、北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいた人々が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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日本民族は、血の繋がった祖先から命・魂(霊魂)、身体、心、志、気持ち、気概を受け継いで産まれ生きてきた尊い人であって、全知全能の唯一絶対神が自分に似せた姿に土塊・塵・ゴミをこねて形を整え命・魂を吹き込み祝福した貴い土人形ではなかった。
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日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
何故なら、帰化人は利他として天皇に忠誠を誓い日本国の為に働いたからであり、渡来人は自利として天皇への忠誠を拒否し日本国に叛き自分の為のみに働いたからでる。
昔の歴史は帰化人の神話・物語であったが、現代の歴史は渡来人の話である。
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日本民族は自分の父母・祖父母・曾祖父母・祖先を、「家の神様」として神棚に祀り、「家の仏」として仏壇に納めた。
家の神様や家の仏様は、必ずしも血縁者だけではなく血の繋がりのない赤の他人の他家からの養子も入っている。
日本の世襲とは、そういう意味である。
日本民族の宗教とは、自分につながる祖先を祖先神・氏神様として祀る人神崇拝宗教つまりローカルな家・家族・一族限定宗教であって、天地創造の絶対神の福音を信じる信仰宗教・啓示宗教・奇跡宗教・救済宗教といった人種・民族といった枠組みを超えたグローバルは普遍宗教ではない。
その象徴が、最高神である女性神・天照大神を祀る天皇家・皇室である。
日本の宗教では、仏教が伝来するまでは人が死んで行く死後の世界はなかった。
天上界の高天原も地下界の黄泉国も、死ぬ事がない天孫系(天皇系)の天つ神が住む世界であり、死んでしまう八百万の神である国つ神が行ける世界ではないし、ましてや人が死んでいく世界でもなかった。
死んでしまう国つ神や人は、死んだら神域である鎮守の森・ご神体とされる高い山・大岩・巨木・海の向こうに宿り、家の近く・家族の近くにある地元の氏神神社に鎮座した。
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祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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人は、二人の両親から産まれてくる。
日本民族の祖先な数は?
日本人の命が尊いわけ。
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祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
14世代前では、8,192人。
23世代前には、419万4,304人。
25世代前では、1,677万人。
27世代前では、1億3,422万人。
だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。
30世代前には、5億3,687万912人。
40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
100世代前の、祖先の人数は?
指数関数的な増加。
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祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
それが、命の重みである。
そして、日本の家である。
昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
この世は、生きるに値する。
命は、等しく尊い。
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日本民族の宗教とは、亡き家族の魂を仏として弔って拝み、祖先の霊魂を祖先神・氏神の人神として祀り崇拝する事で、そこにあるのは「畏れと加護の慎み」であって「奇跡と恩寵の信仰」ではない。
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祖先神・氏神の人神崇拝とは、永遠の命、生命の連続、命の継続として、祖先から子孫への絆であった。
日本民族は、家族・自分の欲得としての短期的願望と家・子孫の理想としての長期的願望を持っていた。
日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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小林武彦(東京大学定量生命科学研究所教授)「いま、私たちが存在するのは、過去に夥しい死に支えられているから。生き物にとって死とは、進化を実現させるためにある。変化と選択を繰り返して進化し、生き残った末裔が私たちなのです。自分も生まれてきた以上は生を謳歌し、命を次の世代につなぐためにも〝利他的に〟死んでいかなければならないのです」
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靖国神社の心・志・精神は、戦前の軍国日本にはあったが、戦後の平和国家日本にはない。
が、1980年頃まではあったが、1990年以降から消え始め、2020年以降には消滅した。
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諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか?死んだ仲間もそうなのか?あの兵士たちも、無意味だったのか?いや違う‼あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼あの勇敢な死者を‼哀れな死者を‼想うことができるのは生者である我々だ‼我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
同じ自殺行為といっても、カミカゼ特攻とイスラムテロリストの自爆テロとは根本的に意味が違う。
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映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
私は お前に教えられた。
それは
命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
海に生まれた命を奪い
野山に育つ命を奪い
人は生きて行く。
罪を背負い
それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
だからこそ
この世は美しい。
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