☰44〕─1・B─福沢諭吉『学問のすすめ』。実社会において「人間は平等では無い」。~No.113No.114No.115 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年12月24日号 週刊ポスト「逆説の日本史  井沢元彦
 近現代編 
 大日本帝国の確立 Ⅱ
 『好敵手』中華民国の誕生 その⑨
 中華民国が2500年待つ続けた『人間は平等では無い』という信念
 『天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず』は福澤諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の言葉としてあまりにも有名だが、この続きを知る人は少ない。まず、この言葉を受ける一句に注目していただきたいのだ。それは『といへり』なのである。現代語に訳せば『とは言うけれど』なのである。お気づきだろうが、このよに文章をつなげば当然その後に続く文章は、その前の文章とは反対の内容を語ることになるはずだ。つまり、『人間は完全に平等である』の反対である。実際、この『といへり』の直後は『人間は平等』を補足する言葉なのだが、その少し先に『されども』という接続詞があって次のようになっている。

 されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人(げにん)もありて、そのありさま雲と泥との相違あるに似たるは何(なん)ぞや。その次第、はなはだ明らかになり。『実語教(じつごきょう)』に、『人学ばざれば智なし、智なき者は愚人(ぐにん)なり』とあり。されば賢人(けんじん)と愚人との別は、学ぶと学ばざるとにより出来るものなり。また世の中にむづかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむづかしき仕事をする者を身分重き人名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人といふ。すべて心を用ひ心配する仕事はむづかしくして、手足を用ふる力役(りきえき)はやすし。ゆゑに医者・学者・政府の役人、または大きな商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓(おおひゃくしょう)などは、身分重くして貴(たふと)き者といふべし。(『学問のすすめ』伊藤正雄校注 講談社刊)

 おわかりだろう。実社会において『人間は平等では無い』と福澤は述べているのだ。では、そんな社会でどうしたら浮かび上がることができるのだろう。その答えもある。

 身分重くして貴ければ、おのづからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるやうなれども、その本(もと)を尋(たづ)ぬれば、ただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違も出来(でき)たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺(ことわざ)にいはく、『天は富貴を人に与へずして、これをその人の働きに与ふる者なり』と。されば前にもいへる通り、人は生まれながらにして貴賎(きせん)・貧富の別なし。ただ学問を勤(つと)めて物事をよく知る者は、貴人となり富人となり、無学なる者は、貧人となり下人(げにん)となるなり。(引用前掲書)

 あらためて解説するまでも無いだろうが、要するに最初はみんな平等なはずの人間の格差が生じるのは、学問を修めたか修めなかったかによって決まる、というのである。だからこそ、この本のタイトルは『学問のすすめ』なのだ。では、こうした考え方は福澤のオリジナルなのか?そうでは無い。実際に福澤は自説の補給材料として『実語教』という書物を引用しているではないか。では、これはどんな書物か?

 平安時代の教訓書。1巻。著者・成立年とも未詳であるが、俗に、空海の著といわれる。経書(けいしょ)の中の格言を抄録し、たやすく朗読できるようにしてあり。江戸時代には寺子屋などで児童用教科書として使用された。(『デジタル大辞泉小学館

 ここで重要なのは、『経書の中の格言を抄録』したという部分である、『経書』とは『中国古代の聖賢の教えを述べた書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。経籍』(『デジタル大辞泉』)だから、じつはこうした考えのオリジナルは儒教にあるのだ。と言っても朱子学では無い。朱子学が生まれたのは日本における鎌倉時代以降だから、平安時代に成立した『実語教』の内容は孔子の教えである古い形の儒教に沿ったものである。その孔子の言語録である『論語』をあらためて読んでみればわかることだが、じつは『学問のすすめ』を声高に唱えているのはそもそも孔子が元祖であり、福澤の主張はその受け売りにすぎない。しかし、福澤にもオリジナリティーはちゃんとある。それは中国大陸や朝鮮半島ではのちに朱子学の悪影響で、朱子学以外は学問で無いということになってしまった。だから前回述べたように孫文は『無学の人』にされてしまったのだが、ここで福澤が述べる学問とは西洋の学問もほうであって、朱子学では無い。むしろ朱子学のようなものは捨てるべきだと福澤は考えており、だからこそのちに『脱亜入欧』も主張した。つまり、なにを学問とするかについて福澤はあきらかに新しい考え方を述べている。しかし、その根本にあるのは『実社会において人間は決して平等では無い』という、世界でもっともリアリスティックな民族と言っていい中華民族、あるいは漢民族または中国人と言い換えてもいいが、彼らの根本的信念なのである。逆に言えば、優秀な人間と無能な人間が両方いるのが人間社会である。では、そうした人間社会をどのように効率的に的確に運用していけばいいのか?
 こうした社会的前提を絶対的なものとすれば、答えは一つ。優秀な人間を選抜して彼らがそれ以外の愚かな大衆を指導していけばいい、ということになる。その合理的な選抜手段として考案されたのが、儒教そしてのちに朱子学を受験科目とする『国家公務員登用試験』である科挙だ。そしてこの試験は、身分を問わず誰でも受験が可能である。ということは、社会制度としての公平性も保たれる。彼らは、この社会的体制こそ世界に他に類例を見ない合理的で優秀なものだと考えた。だからこそ、それが実施されている場所こそ『中華の地』つまり世界でもっとも優れた中国であり、中国人こそ最高の文明人であるという自負も生まれた。
 『宗教とはすべて迷信である』
 儒教および朱子学のもっとも重要な特質はなにか?これも前に述べたことだが、きわめて重要なことなので再説しよう。それは親に対する『孝』を道徳の根幹に据えることだ。『忠孝』という言い方もあるが、前回も述べたように『孝』のほうが絶対的なものだ。キリスト教社会、イスラム教社会、ヒンドゥー教社会あるいは神道や仏教を信じる日本社会とは違って、神は絶対的なものでは無い。なぜそうなるのか?それは人間が生まれるということは、一人の例外も無く親によって生命を与えられたからであり、その事実はどんな人間でも認めざるを得ない。だからこそ人間は、親に対する報恩つまり『孝』を絶対の規範としなければいけない。しかし、神や仏などというものは合理的に存在を証明することはできない。天国・地獄や来世についてもそうだ。したがって中国人は儒教においては、これら宗教学的概念を一切迷信と考えるようになったのである。儒教が始まった段階で、すでに孔子は『怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず』(神や来世や超自然現象などには言及しない)であった。そんな証明不可能で不合理なものは扱わない、というにだ。そうした考え方は朱子学の段階でさらに強化され、『宗教はすべて迷信である』という強固な考え方が生まれた。
 日本人はすべに歴史を忘れる民族だが、思い出していただきたい。明治の廃仏毀釈朱子学に毒された政府高官が仏教に対してとった態度もそれであった。『逆説の日本史 第23巻 明治揺籃(ようらん)編 琉球処分廃仏毀釈の謎』にも書いておいたが、たとえば廃仏毀釈を担当した役人が仏僧に対し『仏には虚言多し、地獄極楽というものは、この世にあるならば出してそれを見せよ』と迫ったという事件もあった。これに対して仏僧がどう反論したかは興味があればその箇所を見ていただくとして、肝心なのは朱子学に毒されると人間は必ずそういう態度をとるようになるということだ。
 ここで、ちょっと読者のみなさんに質問したい。世の中には迷信というのは確かにある。たとえばキリスト教世界には『13日の金曜日には悪いことが起きる』という迷信がある。では、現代の国家がそれを真実だと考え『13日の金曜日には夜の外出を禁じる』などという法律を作ったら、あなたはその国家あるいは国民をどう思うか、ということなのである。
 まさか、『当然だ』などと思う人はいないだろう。『バカだな』というのが第一声であり、そんな迷信に惑わされて国家の法律を制定するとは、なんと愚かな国家、愚かな国民であるかと考えるだろう。それに間違いないですね?では、ここであらためて前回引用したアメリカ独立宣言を見ていただきたい。

 われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福を追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。(『AMERICAN CENTER JAPAN』在日アメリカ合衆国大使館公式ホームページより)

 人間はなぜ平等なのか?それは、創造主つまり神によって『生命、自由、および幸福を追求を含む不可侵の権利を与えられている』からだ。神がいるからこそ『すべての人間は生まれながらにして平等』なのである。しかし中国人にとっては、これも正確に言えば朱子学によって『宗教つまり神の存在などまったくの迷信』と固く信じる中国人エリートにとって、この独立宣言は『迷信を真実だと考えるバカな連中が信じているウソ』なのである。よく考えていただければわかることだ。では、その中国人エリートはアメリカ合衆国を、そしてアメリカ人をなんと考えているかわかるだろうか。愚かな国家、愚かな国民ということである。
 今の中国は朱子学体制では無いと思われるかもしれないが、その根本にあるのは福澤諭吉も認めている『人間は実際には平等では無い』という、清国が科挙を廃止した1905年まで2500年近く続き、そしてその後も生き続けた固い信念なのだ。日本は幸いにして吉田松陰らが朱子学を一部改変し天皇を『神の座』まで持ち上げることによって『平等化推進体』として、結果的に四民平等を達成したが、中国には吉田松陰はいなかった。そもそも天皇の神格化という作業は『怪力乱神を語らず』という儒教および朱子学の大原則に反している。だからこそ日本では、正統的な朱子学者であった佐藤直方はこれに絶対反対の態度をとった。このあたりのことは、『逆説の日本史』シリーズでも江戸時代編で詳しく書いていたが、それをまとめてわかりやすくしたのが『コミック版 逆説の日本史 江戸大改革編』(小学館刊)である。
 いずれにせよ、科挙によって支えられた朱子学体制は清国崩壊によって滅亡したように見えるがじつはそうでは無く、少なくとも『人間は不平等』という考え方温存された。そこへキリスト教という『迷信』に基づいた万人平等の国家を作ろうとしたのが孫文なのである。うまくいくはずがないことがわかるだろう。
 最終的には孫文の遺志を継いだ中国国民党は、朱子学と同じ無神論であり『合理的な手段によって選別された優れた少数のエリートが、多くの愚かな大衆を指導するのが正しい』という考えを持つ毛沢東中国共産党に負けた。これは思想史的に見れば歴史的必然であり、だからこそ中国共産党は、国民に外の世界を見せてもまったく平気なのである。自分たちの国家の愚かな迷信に惑わされた世界中の国と違って、唯一理性に目覚めた共産党が支配する世界最高の国、まさに『中国』なのである。彼らの揺るぎ無い自信はそこからくる。その目から見れば、民主主義という迷信に毒された香港あるいは台湾、また仏教という迷信に毒されたチベットイスラム教という迷信に毒された新疆ウイグル自治区は、一刻も早く『矯正』しなければならない。チベットダライ・ラマなど『迷信をもって人民を支配する悪人』であって当然排除すべきだし、もし中国がヨーロッパを支配すれば当然ローマ教皇も同じ扱いを受けるだろう。彼ら中国共産党にとってまさにそれが正義だからだ。
 だからこの先100年待っても、いや1000年待っても中国が自主的に民主国家になるということは考えられない。中国共産党無神論で、タリバンは神を信じる組織だが、両者は思想的に対極の位置にいる。しかし、共通点はある。それは『自分たちは絶対に正しい』と確保していることである。」
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 日本民族はもちろん中国人・朝鮮人など人種や民族、身分や階級に関係なく全ての人に平等を保証しいているのは、天皇神話に基づいた天皇の権威、天皇の御威光である。
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 民族を分けるのは、集団としての言語・文化・伝統・習慣・風習ではなく、共同体を一つにまとめる宗教であった。
 日本民族を一つにまとめる宗教とは、天皇心神話=民族中心神話である。
 天皇への畏敬・敬愛・崇敬そして忠誠が、ある者は日本民族帰化系日本人で、ない者は日本民族ではない無国籍日本人と渡来系日本人である。
 故に、天皇とは日本国家と日本国民を一つに統合、まとめる象徴である。
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 反宗教無神論マルクス主義共産主義は「完全なる平等」を求め、人民=万国の労働者で人種・民族を否定し、差別を生み出す階級・身分を破壊する。
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 宗教は、迷信であり、アヘンである。
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 儒教は、マルクス主義共産主義や近代的啓蒙思想などと同様に反宗教無神論である。
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 未来における人類の歴史、文明発展、社会進化において、科学至上の反宗教無神論によって宗教・神話、神・仏、迷信・神秘は滅ぼされ地上から消滅していく。
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 中国は朝鮮同様に日本天皇・日本国・日本民族の敵であり、現代において中国共産党は紛れもなき敵である。
 歴史的事実として、中国・中華帝国・中華皇帝の悲願は天皇制度国家日本を朝鮮などの周辺諸国同様に侵略・占領し、屈服させ、臣下として属国にする事である。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。 
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 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性世襲男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
 ゆえに、日本民族日本人は天皇・皇族・皇室、国體=天皇制度を守る為ならば死を厭わず、武器を取って戦った。
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 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
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 中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義で、公然と賄賂による不正が蔓延る依怙ひいき、縁故、身びいきである。
 楊逸「王朝時代の中国は、『家国』意識が強かった。漢王朝は『劉家天下』、唐王朝は『李家天下』と、国土と人民も皇帝家の『私有物』という考え方でした。」
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 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しく、時代劇・時代小説が好きだが、事実の基づいた歴史は嫌いである。
 その傾向は、高学歴な知的エリートや進歩的インテリに強い。
 高学歴な知的エリートや進歩的インテリといっても、昔の日本人と現代の日本人とは本質が違う。
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 現代の日本人には、無宗教無神論者が増えている。
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 儒教における祖先崇拝とは、祖先を神仏とし祀るのではなく、人として祭り礼を尽くす廟を建てる事である。
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 日本民族にとって心・血・魂で繋がっている自分の祖先とは、神(祖先神・氏神)として祀る「尊き存在」であり、仏として弔い供養すべき「有り難い存在」である。
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 日本の民族宗教とは、精霊崇拝宗教、八百万神の神話宗教、祖先祭祀宗教であって、信仰宗教、啓示宗教ではない。
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 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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 イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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 H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
 人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
 最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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 マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
 私は お前に教えられた。
 それは
 命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
 海に生まれた命を奪い
 野山に育つ命を奪い
 人は生きて行く。
 罪を背負い
 それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
 だからこそ 
 この世は美しい。
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 石原慎太郎「(靖国神社参拝について)根本を云えば、民族としての〝垂直の情念〟をどう認識するかということなんだ。国の礎として斃(たお)れた死者の存在を抜きにいて今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決めていいのか。その慮(おもんばか)りと畏怖が今の日本人にはない。
 〝死者の不在〟ということを強く感じるね。今の日本には死者の居場所がない。それぞれの家庭を見ても仏壇なり、神棚なり、壁に掛けた写真でもいい、死者たち、亡くなった両親や祖父母、曾祖父さんや曾祖母さんの占める場所があるかね。核家族が当たり前になって家の中で身内の死を見取ることもない。死は病院の中にしか存在せず、家の中には生者しかいない」
 「靖国参拝は政治じゃないんだよ。参拝は殊更(ことさら)なことじゃないし、褒められる事でもない。ただある少年の日に米軍機を追撃して私を守ってくれた、芋畑で仰ぎ見た戦闘機のパイロットがそこにいるかもしれず、確かなことは女房の親父や多くの親戚が私にとってあそこにいるといことなんだ」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
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