🏹9〕─2─他力は自力の母。五木寛之と石原慎太郎。〜No.24 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 他力と自力、自利と利他、自愛と他愛は表裏一体で二項対立ではない。
 自分を大事にし自分を助けなけない人は、他人を大切にしなければ他人を救えない。
   ・   ・   ・   
 2022年3月10日号 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
 一期一会の石原さんとの会話
 石原慎太郎さんの訃報を聞いたあと、いろんなところから追悼の文章を書けという依頼がきた。何か感想を述べろというインタビューの申し込みも何件かあった。
 私は生前の石原さんとは、ほとんど無関係の人間である。だいぶ前に『文藝春秋』誌上で対談をしたことと、〈同年同日生まれ〉という小説誌のグラビア企画の撮影でご一緒したぐらいで、個人的に会ったことは一度もない。
 思うに昭和7年9月30日という、誕生日が一緒という偶然に興味があったのではないだろうか。同世代を生きたという意味では、共通の世代といえないこともないのである。
 はじめてグラビア撮影で会ったときは、いささか緊張した。
 『太陽の季節』で石原さんがデビューしたのは1955年だったと思う。私が小説現代の新人賞をもらったのが1966年のことだから、大先輩である。当然、『石原さん』と『さん』づけで呼んだ。むこうはたぶん『五木くん』と呼ぶだろうと想像していたのだ。
 ところが石原さんは思いがけずジェントルで、『五木さんは──』と、ごく自然に話しかけてきたので意外な気がした。
 他力は自力の母
 先日、『今日のアニミズム』(奧野克己/清水髙志著/以文社刊)という興味ぶかい本を読んでいたら、お二人の対談のなかで私と石原さんが宮本武蔵について話したくだりが引用されていた。
 『文藝春秋』のとき議論した自力と他力のエピソードで、誌上には収録されなかった部分である。その事を私がよそで書いたものが目にとまったのだろうか。
 『五木さんは他力などというけれど、ぼくはやはり自力だと思うな。たとえば──』
 と、石原さんが語りだしたのは、吉川英治の長編『宮本武蔵』にでてくるエピソードだった。
 『武蔵が吉岡一門と決闘するために一乗寺下り松に向かうとき、偶然に八大神社の前を通りかかる場面があるでしょう』
 『ありましたね』
 『武蔵が拝殿の額を仰ぐと、なにか大きな力が伝わってくるような気がする。そこで武蔵はその日の武運を神に祈ろうとするが、はたと感じるところがあった。神に頼るようでは負けたも同然。自力で戦ってこそだ。武蔵は神仏の加護を頼らず、自力で戦うことを決意して、そこを立ち去ったのです。そして勝った。やはり自力だ。ぼくはそう思うな』
 石原さんは自分の言葉にうなずきながら、どうだ、というように腕組みして微笑した。
 『石原さん、それはちょっとちがうんじゃないですか』
 と、私は言った。
 『神のご加護を祈ろうとした瞬間、武蔵の心にひらめいたものがあったんですよね』
 『そう』
 『その一瞬のひらめき、その声こそが他力の声なんじゃないですか。神仏の力にたよってはだめだ。自力をつくして闘え、と。その他力の声にしたがって武蔵は闘い、そして勝った。他力は自力の母、そういうものだと思いますけど』
 石原さんは一瞬、目をパチパチさせて、苦笑しながら言った。
 『ほら、またまた五木さんはそういう話をして、人をだまそうとするんだから』
 『今日のアニミズム』のなかで奧野克己さんは、
 『自力と他力を含めて二項的な対立として論を立てないことが大事』
 と述べているが、私も同感である。まさしくその通りだと思う。このところ『エシカルな資本主義』などという言葉をしばしば耳にすることがあるが、『利他』という発想が経済の世界でも使われるようになってきたのは興味ぶかい。『利他』は『自利利他』と一体であって、切りはなして二項的に語られるべきではないのだ。
 よくわかること
 自力と他力に関しては、清水髙志さんの語ったことのなかで、私は深く納得したのは、〈人類学から仏教へ/哲学から仏教へ〉という章で、『自分自身がなかに入っていない学問というのは、本当によくない』というくだりだった。
 清水さんはこんなふに語っている。
 〈(前略)岩田慶治が祈りに触れ語るように、自分自身がなかに入っていない学問というのは、本当はよくないということで、彼は地理学から人類学に移っていったわけです。柳田国男についても、彼の民俗学というのは柳田さんの幼少期からの『おのれ語り』であって、そこが素晴らしいということを言っている。(中略)岩田慶治の学問のあの構造のなかで、初めて彼自身も語るのだとすると、アニミズムは『木が語るものである』『森が語るものである』というけれど、そもそも木や森が語る以前に、人間が語っていなかったのではないかという気がします。(後略)〉
 清水、奧野のお二人とも、呆れるほどの博学で、私には半分も理解できない高度な内容なのだが、わけのわからぬまま読み進めていて飽きることがなかったのは、なぜだろう。
 石原さんは、一見、厄介なようでいて、実はよくわかることを語る人だった。一瞬の出会いであったが、忘れえない記憶が残っている。」
  ・  ・  
 3月31日号 週刊新潮「人間、この不都合な生きもの 橘玲
 『信頼』の裏に刻印された『服従』の文字
 わたしたちはなぜ、他人を信頼するのだろうか?その答えはきわめてシンプルで、『誰かに頼らないと生きていけない』からだ。
 だとすれば、自分が無力だと感じているほど、他者を信頼する度合いが高くなるはずだ。研究者はこの仮説が正しいかどうかを、『無反応な聴衆の前でスピーチする』というストレスを与えたとき、信頼がどのように変化するかで調べた。
 その結果は、(自分は無力だという)社会的な不安があると、そうでないときに比べて、相手に協力する割合が50%もたかくなった。それとは逆に、『助力を必要としないひと(その典型がお金持ち)』は他者をあまり信用しないという研究もある。」
   ・   ・  ・   
 第878回  第 1 8 願 ( 本 願 )
 平成21年 11月19日~
 妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
 ところで 阿弥陀仏四十八願、その根本の願である 第十八願について 
ちゃんとお話ししたことがないことに 気づきました。
 「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
  若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」これが 第18願です。
 【現代語訳】 わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
『大無量寿経』というのは、阿弥陀仏の四十八の願をお説きになった
 経典です。その根本の願が第十八願であるために、それを本願と呼ばれます。
 その中、「設我得仏」というのは、もし私が仏になったとき、という言葉です。
 「十方衆生」というのは、あらゆる世界のすべての人びとということです。
 「至心信楽」というのは、至心は真実という意味であり 如来の誓いが
 真実であることを至心といいます。
 煩悩にまみれた人びとは、悪に染まり誤ったものの見方しかできないために、
 本来真実の心や清らかな心は 一欠片もありません。
 また「信楽」というのは、如来の本願の誓いが真実であられることを
 ただ一筋に信じて疑わない心になることをいいます。
 したがって、この「至心信楽」は 真実のないあらゆる衆生に、
 如来が「私の真実の願と誓いを信じなさい」と勧められた誓いであって
 凡夫の私たちのおこす自力の心ではありません。
 「欲生我国」というのは、如来によっておこされた至心信楽
 心によって、安楽浄土に生まれることに間違いないという心が
 そなわることです。
 「乃至十念」というのは、如来の誓われた名号を 称えることを
 勧められるのに、称える回数や称え始めてからの時間に決まりがないことを
 私たち衆生に知らせようと考えられて、「乃至」の 言葉を「十念」の
 み名に添えて誓われたものです。
 如来よりお誓いを賜って信心がそなわった上は、平生のときを大事と心得て、
 臨終のときの称名念仏を期待してはなりません。ただ如来が誓われた
 「至心信楽」を深くたよりとすべきです。
 この真実の信心が得られたときに、摂めとって捨てない如来の光に
 包まれるために浄土往生が約束された正定聚の位が定まるといえます。
 「若不生者不取正覚」というのは「若不生者」は、もし生まれることが
 できないようであれば、という仏の決意であり、「不取正覚」は決して
 ほとけにならないと誓われた約束です。
 それは他力信心を獲得した人が 浄土に往生することができなければ
 仏にならないと表明された、私たち衆生の往生と阿弥陀仏の成仏が
 一体にして誓われた確かな約束です。
 本願文の最後に示される「唯除五逆 誹謗正法」というのは、「唯除」とは
 ただ除くという言葉です。五逆の罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の
 重いことをしらせようとされることです。
 そして、この二つの罪の重いことを示して、十方のすべての人びとが
 みな洩れず往生できることを知らせようとされているのです。
 と、尊号真像銘文に述べていただいています。
  本願寺出版社 聖典セミナー白川晴顕師 著 より 一部抜き出し
  妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
  次回は 11月26日に新しい内容に変わります。
  妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
  次回は 11月26日に新しい内容に変わります。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教如来の一つである。梵名はアミターバ(अमिताभ, Amitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्, Amitāyus)といい、それを阿弥陀と音写する。阿弥陀仏阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏ともいう。
 梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持ち(東方は薬師如来)、五智如来において西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。

 浄土真宗
 浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力[注釈 3]にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。
 末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力[注釈 4])では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力[注釈 5]」によってのみ救済されるとする。
 釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。
 最も優れた仏としての阿弥陀仏
浄土教諸宗において主に用いられる『仏説無量寿経』では、「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり」、親鸞の著書『顕浄土真実教行証文類』では、「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし」「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」とする。
 根本仏としての阿弥陀仏
 西山深草派の顕意は、阿弥陀如来を一切の仏の根本とし、諸仏は阿弥陀仏を化主とすると主張する。この理解の教証として顕意は、善導が『般舟経』に依拠して説いた言葉である「三世の諸仏は念弥陀三昧[注釈 6]によって正覚を得た」をあげる。しかし、鎮西派の良忠は「念阿弥陀仏三昧」は『般舟経』においては説かれず、一切の仏は阿弥陀仏を念じて成仏した訳ではないとし、「念仏三昧」を「念阿弥陀仏三昧」とする理解は阿弥陀仏を「法門の主」とするための善導の独自解釈だとする。
   ・   ・   ・