☰48〕─1─陸奧宗光の三国干渉と臥薪嘗胆は日露戦争の為であった。~ No.131No.132No.133 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年3月17日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 陸奧宗光と『臥薪嘗胆』
 外交には煎じ詰めれば2つしかない。破断的外交と調和的外交である。それぞれが究極の姿を取ると、戦争か同盟かになる。戦争を起こさず、もしもそうなれば一刻も早く手じまいをし、それから同盟によりかかりすぎて我を失わないのが、一国の独立と平和を守る、善き外交だろう。
 陸奧宗光という政治家がいた。日清戦争の前後の時期、伊藤博文首相の下で外務大臣を務めていた。日清談判は破裂させざるを得ず、日本は自らを文明国、清朝の中国を野蛮国とと呼んで、国民の戦争気分を盛り上げ、開戦に至った。西洋列強の大方は、日本の苦戦を予想したが、結果は違った。日本が速戦即決の電撃戦で優勢を得、すぐさま下関での講和会議に持ち込んだ。
 短期決戦は陸奧の強く望んだところでもあった。長引けば、西洋列国の干渉を招きやすくなる。彼らは日本にも中国にもこうささやくだろう。『戦費を貸しましょう。武器を売りましょう。あとの分け前をよろしく!』
 下関会議での日本の主要な要求は、朝鮮独立の保障や、日本の戦費を補うに足る賠償金や、遼東半島と台湾の割譲だった。中国は泣く泣く呑んだ。ところが、ここで列強が破断的外交を仕掛けて来た。条約調印から一週間経たずして、東京の外務省に、露独仏の公使が相次いでやってきた。『台湾はよいとしても、遼東半島からは是非とも手を引きなさい。その地は満州の南端だ。外洋に開かれた要地だ。特にロシアの生きるためにどうしても必要です。日本が手を突っ込んでよい場所ではない。そのような重大な国境線の変更は許されません。退かないなら戦争します』。要するにこんなことを言った。いわゆる三国干渉である。
 日本はどうしたか。伊藤首相は御前会議を開き、目には目を、干渉には干渉を、という方針で行くことを決めた。露独を野蛮国と目して対立したがる、米英を味方にして国際会議を開き、下関条約を改めて認めさせようというのである。ところが、病気で肝腎な御前会議に出られなかった陸奧外相が怒った。ここで慌てて米英に救いを求め、彼らに同盟国づらをされたら、結果として日本の存在感はなくなり、すべてが列強の意のままにされ、日清戦争の勝利の意味も消滅するだろう。遼東半島は我が国の迅速な自主判断として即座に返すべし。そもそも、中国に遼東半島を割譲させれば、ロシアが怒って、日本が亡国の危機に立ち至る可能性は、外交として織り込み済みであった!
 伊藤は驚いたようである。講和会議では陸奧も遼東半島にこだわっていたのではなかった。陸奧はこう返したらしい。下関で遼東半島の割譲を要求しなかったら、日本国民が納得しない。野蛮国に勝ったのに満州に領土も得られないのか。暴動になる。だからまず外交で頂いてしまう。そうするとロシアが戦争を仕掛けてくる。かとって、そこまで賢く読んで、最初から領土を要求しないと、内政の危機だ。順序が大事なのだ。貰ってから返さざるを得ないと、国民に分からせる。あくまで日本の涙ながらの決断として、内外に遼東半島の放棄を宣言する。日本人は悔しくて頭に来て、夜も眠れなくなるだろう。それが日露戦争のための国民的エネルギーを引き出すことを可能にするのだ。
 国家100年の計とはこのようなものだ。当時、東京の本郷の尋常小学校に通っていた平塚らいてうは、先生が黒板に書いた四文字を深く胸に刻んだそうな。『臥薪嘗胆』。
 この日本経験を世界に伝え直さねばいけないと感じる、今日この頃です。」
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 日清戦争は、世界を巻き込んだ第ゼロ次世界大戦の日露戦争の前哨戦であった。
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 日露戦争は、日本にとって江戸後期・徳川幕府当時から避けられない、何時かは戦わねばならない「やむなき戦争」であった。
 日本の近代化・軍国主義化とは、弱小国家から中程度国家にまで発展させ、世界的大帝国であるロシアと日露戦争に勝つ為であった。
 三国干渉による臥薪嘗胆とは、そうした意味があった。
 世界の常識からして、日本がロシアに勝つなど誰も想像いていなかった。
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 歴史的事実として、数万年前の石器時代縄文時代から日本人は戦争が嫌いで、他人と争う事、競う事が苦手な民族であった。
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 江戸後期、幕末、明治維新から韓国併合までの、一歩間違えば日本が消滅しかねない絶体絶命の危機を乗り越えてきた政治家や官僚に匹敵する政治家や官僚は現代日本にはいない。
 それが、現代日本の高学歴な知的エリートや進歩的インテリのレベルである。
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 明治期から昭和前期までの日本の戦争は、正当性のある積極的自衛戦争であって領土拡大目的の帝国主義侵略戦争ではなかった、つまり戦時国際法に違反する戦争犯罪ではなかあった。
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 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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