🏹21〕 ─2─中国・朝鮮の侵略から日本と壱岐を守る人神・少弐資時。壱岐神社=靖国神社。~No.68No.69 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の戦争は、古代から積極的自衛戦争であった。
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 古代から朝鮮人は、日本民族日本人にとって友・友人、親友ではなく敵であった。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 朝鮮の日本への攻撃で、大陸の大国(中国・ロシア)と連合すれば侵略行為であり、朝鮮だけの単独であれば海賊行為である。
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 日本の朝鮮に対する偏見と侮蔑と差別は当然の権利であって、差別主義による犯罪・悪ではない。
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 令和4年5月号 正論「『日本製』を求めて。   漫画家 清水ともこ
 長崎縣壱岐市壱岐
 壱岐はその昔『一支(いき)國』と呼ばれた
 海上での交易の要所として魏志倭人傳にも登場
 原(はる)辻遺跡に当時の様子が展示されている
 長崎縣にある古墳の約6割が壱岐に集中
 また
 訪れて氣付くのが
 至るところに祈りの場所があること
 千もの社(やしろ)や祠(ほこら)が存在するという
 漁業や海運の無事を祈り
 海から還らざる者たちへの思いは言いうまでもなく
 國境に近いことから
 島全体が戰場と化した
 元寇があったことも大きい
 弘安の役
 19歳で討死した少弐資時
 12歳の時文永の役で初陣を果たし
 鎌倉武士であった祖父、父とともに日本軍を率いて壱岐を守るため戰った
 その墓はショウニイ様と呼ばれ
 一帯は地元住民の憩いの場である少弐公園だ
 資時は壱岐の守り神として
 壱岐神社 壱岐護国神社もご祭神となり
 芦辺(あしべ)港に建つ銅像とともに
 今も壱岐と日本を見守っている
 『日本製』、ここにあり。
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 人神・少弐資時は、英雄の御霊=善神であり呪い祟る怨霊=悪神であった。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 現代日本に武士・サムライはいなし、現代の日本人は武士・サムライではない。
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 武士は、味方が数百人で敵が数万人、多勢に無勢、戦えば必ず負けると分かっていても、死を覚悟して、万に一つの勝利を信じて敵陣に切り込んでいき全員討ち死にした。
 それが日本民族日本人の生き様で、現代の日本人にはない不様のように見える「潔さ」であった。
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 少弐 資時(しょうに すけとき)は、鎌倉時代中期の武将。少弐経資の長男。壱岐国守護代。 
 生涯
 文永11年(1274年)の文永の役で、叔父・少弐景資に従って12歳で初陣を果たした。弘安4年(1281年)の弘安の役では、祖父・資能や父・経資らと共に日本軍を率いて、壱岐島を占領する東路軍との奮闘の末、戦死する。享年19。
 この壱岐島の戦いで敗退した東路軍は壱岐を放棄して、平戸島に移動した。後に叔父・景資は、鷹島で蒙古軍を殲滅した。大正4年(1915年)11月10日、従四位の位階が追贈された。
 壱岐神社壱岐護國神社壱岐市芦辺町)の祭神として祀られており、また、隣接する少弐公園には、「ショウニイさま」と呼ばれていた少弐資時の石積みの墓がある。
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 © 2020 (一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課
 少貳資時の墓 (しょうにすけときのはか)
 弘安のヒーローの墓
 1281年(弘安4)弘安の役では、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲い、次いで壱岐に攻め込んで来ました。北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、当時の壱岐守護代、19歳の少貳資時でした。船匿城(ふなかくしじょう)で全滅したと伝えられています。
 少貳公園の松林の中に資時の墓があり、展望台の近くには防人ののろし台や、弘安の役の碇石があります。
 ※少弐資時像は芦辺港フェリーターミナル前にあります。(芦辺町箱崎中山触2575-22)
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 壱岐神社(いきじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。
 祭神:亀山天皇後宇多天皇少弐資時公を主祭神とする。
 概要
 祭神の亀山天皇後宇多天皇元寇の役に日本国の危き時に国家安泰を祈願した。また祭神の小弐資時公は元寇で命を捧げた。 祭神は、国難事変に際して神威を顕し、平時に於ては国家の平和を護り給う神々である。 壱岐島民は昭和3年(1928年)以来、壱岐神社御創建の事業を進め、昭和19年(1944年)本殿の建設を実現した。昭和23年(1948年)11月3日に御祭神三柱の鎭座祭を執行し、同27年(1952年)には壱岐護国神社の鎭座祭を執行した。壱岐で一番新しい神社である。
 歴史
 昭和19年(1944年) 本殿建設
 昭和23年(1948年) 祭神鎮座祭
 昭和27年(1952年) 壱岐護国神社
 昭和31年(1956年)11月8日靖國神社における壱岐郡出身の戦病没の御分霊奉遷する。壱岐護國神社併称を承認される。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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