☲10〕─3─済州島・朝鮮人海女達の日本人悪徳業者排除デモ行進。海士潜女神社。昭和7年1月。~No.23No.24No.25 ⑤ 

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 水に潜る・素潜りといっても、川潜りと海潜りでは違う。
 泳ぐのと潜るのとは違う。
 大陸人は、川を泳いでも海を潜らない。
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 2022年6月15日 MicrosoftNews 東京新聞「 国際 知られざる韓国済州島の海女抗日運動から90年 日本の官製企業や漁協が搾取、海女の手取りは20%
 貝類や海藻を素潜りで採る「海女あま」が存在するのは、世界中で日本と韓国だけとされる。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された韓国南部・済州島チェジュドの海女は有名だが、日本植民地時代の1932年に起きた「海女抗日運動」の認知度は高くない。90周年にあたる今年、現地で関連の展示や調査研究が活発化している。(済州島で、相坂穣、写真も)
◆のべ1万7000人以上、200回以上のデモ
 済州島中心市街地から東へ約35キロの海沿いの公園に、漁で使うカマや網を手にし、怒りの表情を見せる海女たちの像が立つ。地元の集落で、海女が決起したことを伝える「抗日運動記念塔」だ。
 海女抗日運動を伝える済州島の記念塔
 公園内にある済州海女博物館が今夏、90周年記念の特別展の開催を予定。夫龍植プヨンシク館長が「抑圧と搾取の対象だった済州女性が、新しい社会に変えるために闘った民衆抗争を知ってほしい」と準備を進める。済州出身で戦前に日本に渡った社会主義運動家、玄尚好ヒョンサンホ氏(1914〜71年)が執筆し、50年に発表した論文「済州島海女闘争の史実」の検証作業が展示の目玉になるという。
 済州海女博物館で4月、抗日運動90周年の特別展の準備を進める夫龍植館長
 海女たちの怒りの原因は、アワビやサザエ、テングサなどの漁獲物を日本の官製企業である「朝鮮海藻株式会社」を通じて販売させられていたことだった。売り上げの50%を同社に搾取され、日本から派遣された島司(知事に相当)が組合長を務める漁業組合に手数料名目で18%を徴収された。舟代などの経費を払うと、手取りは20%ほどしか残らなかったとされる。
 32年1月7日、300人の海女が市場に集まり、済州中心部に向けてデモ行進を開始。5日後の12日には、島司を乗せた車を600人以上で包囲し、未成年と40歳以上の海女の組合費免除や日本人悪徳業者の排除などを要求した。鎮圧に乗り出した武装警察官に、30人以上が逮捕され、拷問を受けたとされるが、延べ1万7000人以上が、200回以上のデモを続行。日本側に大部分の要求を受け入れさせたという。
 「済州記録文化研究所—HAGAN」の高暎子コヨンジャ所長(文学博士)は、「90年がたっても、発掘できる資料がある。外国語で書かれた文献なども翻訳し、海女たちが生存権を懸けた闘争について正確に知りたい」と語る。
 戦後に2万人いたとされる済州の海女は現在3000人台まで減ったが、70〜90代の女性らへのインタビューなど記録作業にも取り組んでいる。
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◆バブル期まで続いた搾取…大阪公立大・伊地知紀子教授に聞く
 大阪公立大の伊地知紀子教授は、1994年と97年に済州島の海女の家庭に住み込むフィールドワークをして以来30年近く、海女文化を研究してきた。現代の日本の市民が、抗日運動をどう考えれば良いかを語ってもらった。
 済州の女性に海女の仕事を見習う大阪公立大の伊地知紀子教授(右)=本人提供
 32年の抗日運動だけではなく、それ以前から現在までを通して見る必要がある。まず19世紀後半に日本の漁業者が朝鮮の海に進出した。素潜りではなく宇宙服のような潜水服を着て、アワビなどを缶詰用に採集した。20世紀に入ると日露戦争も起き、済州で火薬や医薬品の原料になるテングサなどの海藻類を採るために、地元の海女が動員された。日本人の海女に比べると、3分の1ほどの賃金で搾取された。済州の海は乱獲で荒れてしまい、海女たちは関西や三重など大日本帝国の勢力圏である各地に出稼ぎに向かった。
 戦後も、日本に就労ビザを持たずに不法に出稼ぎする海女は多くいた。90年前後のバブル期に、サザエなど高級グルメ食材の消費が増えた際も、済州の海女は低賃金で働いた。最近まで、植民地主義的な支配構造、搾取が継続されてきたことにも注目したい。
 【関連記事】産業「慰安所」の真実に光 戦時下の日本に存在、「国策としての性搾取、軍と同じ」
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 揚子江流域で盛んに行われていた海の素潜り漁を東アジア沿岸に広めたのは、海を手漕ぎの丸木舟を漕いで行き来していたヤポネシア人であった。
 ヤポネシア人(石器人)とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血の雑種である。
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2019-10-10
🗾31〕─1─素潜りの南方系海人。鵜飼と稲作の倭人。太平洋沿岸の根明な黒潮文化。日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。~No.140No.141No.142 * 
 2016年6月18日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 神社編
 古層Ⅱ 倭人
 アズミの神道(20)
 アースダイバーと旅して(1)
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 海女(朝鮮語: 해녀:ヘニョ、英語: Haenyo)は、大韓民国(韓国)において、海に潜って貝類や海藻を採集する漁をする女性である。
 概要
 済州島が韓国では最も海女登録者が多い。済州島での素潜り漁の記録は5世紀に遡るとの主張があり、その当初は男性の仕事であったとされる。朝鮮半島の女性による素潜り漁が一般化したのは17世紀に入ってからであり、18世紀には男性の海人を上回ったとされる。1879年に日本海女による朝鮮半島沿岸への出漁が始まっていたが、1895年には済州島海女も朝鮮本土へ進出、やがて出稼ぎ先は中国・ロシア沿海州・日本へと広がった。1970年には14000人を超えたが、高齢化で年々減少、2012年末で4574人となった。8割が60歳以上であり、男性の海人を含む潜水漁業従事者の所得向上や操業環境改善が計画されている。済州島の海女は三重県鳥羽市や石川県輪島市の海女を訪ねる日韓交流を続けており、また三重県の海女が済州島海女の祭典に参加したことが伝えられている。
 済州海女文化には、海女の技術をはじめ海の生態環境に適応して蓄積された長い経験や知識、海女の安全を祈願する儀礼などが含まれるとして、2012年に韓国の無形遺産として登録された。さらに、済州島を中心とする海女文化は韓国の代表的な無形遺産であるとして、韓国政府は2013年12月、国連教育科学文化機関無形文化遺産への登録を申請することを決め、2016年に登録。さらに国連食糧農業機関による世界農業遺産への登録も目指している。2015年の韓国のSBSスペシャルは韓国の海女の認識は過去の男性が主な経済社会活動の階層であった時代から学びと経済活動の機会がなかった女性の唯一の経済活動だったと認識されている一方、日本では海女を職業として見ることができると報道している。番組では経済的待遇でも日本に出稼ぎに行った海女は1日二時間の労働で500万ウォン収入の一方、韓国国内のみでは20万ウォンしか稼げないという現実から海女の認識と待遇が両国であまりにも違うとの韓国人海女の声を伝えている。
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 公益財団法人 フォーリン・プレスセンター
 日本と韓国が共有する「海女の歴史・文化」をユネスコ世界無形遺産に!(2012年12月25日)
 投稿日 : 2012年12月25日
 【ウォッチ・ジャパン・なう vol.35/FPCJ】
 2012年12月25日
 日本と韓国が共有する「海女の歴史・文化」をユネスコ世界無形遺産に!
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 世界経済フォーラムダボス会議)が発表した2012年の「グローバル・ジェンダー・ギャップ・レポート(世界男女格差年次報告書)」によると、世界135カ国の中で、日本は経済的男女格差が101位、昨年の98位から3位下がりました。男女雇用機会均等法が施行されて四半世紀が過ぎたにも拘らず、日本の女性の地位向上はいまだ進んでいません。その均等法施行後の1990年、 バブル景気を背景に経済的・精神的に自立して生きようとする20~30代の女性のリアルな生態を描いたノンフィクション「結婚しないかもしれない症候群」がベストセラーとなりました。その著者である作家の谷村志穂さんは、現在、三重県志摩半島を舞台に「海女」を主人公とする連載小説「いそぶえ」を執筆中です。「目の前に海があれば、身一つでできる生業。海を越えて(海外で)もできる。現代社会での自立を目指す女性にとって、特筆すべき生き方だと思います」
 からだ一つで海に潜り、魚介類や海藻を採取する女性の職業「海女」は、日本列島と済州島を中心とする韓国のみに存在し、少なくとも5000年の歴史をもつと言われています。しかし、高齢化と若い後継者不足により、海女の職に従事する人の数が年々減っており、その存続が危ぶまれるようになってきました。現在、日本では、三重県、石川県(輪島)、千葉県、静岡県をはじめとする18県に2174人(2010年 海の博物館調査)、40年前と比べて6分の1に減少しました。韓国は、済州島、釜山、泰安(テアン)などに4881人(2011年)、やはり約40年で5分の1となりました。
 三重県では今、973人が海女として働いています。その中の一人、鳥羽答志島出身の濱口ちづるさんは21歳の娘さんをもつお母さん、海女として16年のキャリアを持ちます。海に潜るのは一年のうち6月末から9月中旬の間の20日程度、主にアワビを採ります。「子どもの頃から遊んでいた海で、自分のペースで働き、自然のままに生きることを学んでいます」と語る濱口さんは7名いる地域の海女グループでは最年少、仕事の手練手管を教えてくれる82歳を筆頭とする先輩たちとのおしゃべりが「日々の成長の糧」となっています。東京でデザイン関係の仕事をしていた鈴木直美さんは4年前に転身、漁業権など外部の人間にとっての複雑な問題をクリアして千葉県白浜で海女として働き始めました。
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 写真:左から、
 濱口さん(鳥羽の海女さん)、
 海の博物館 石原館長、
 鈴木さん(千葉白浜の海女さん)
 (11月30日 多くのひとに「海女文化」を伝えるためのフォーラムにて)
 2007年から、韓国済州島の「海女博物館」と三重県鳥羽市の「海の博物館」が連携し、日韓両国に脈々と続いてきた海女漁とその文化を東アジアの価値ある資源と位置づけて、ユネスコ無形文化遺産への登録を目指す取り組みが始まりました。今年6月には三重県鳥羽市志摩市、漁業協同組合などの関係団体により「海女振興協議会」が設立され、日本側の中心的存在となっています。同会会長の「海の博物館」石原義剛 館長はその旗振り役、「海女文化は日韓が共有する海洋文化、しかもごく普通に働き暮らす人々の文化を存続、継承していかねばならない」との決意の下、精力的に活動しています。海女は、古来から自立した女性の職業であり、漁獲資源を獲り過ぎないよう守ってきた自然保護の実践者であり、更には漁村共同体の要=絆である、と訴えています。
 韓国の海女「潜女(ジャンニョ、済州の方言)」の海洋文化を研究する韓国海洋大学の安美貞(アン ミジョン)教授は、済州島「海女博物館」での韓日国際学術会議の開催が、済州と鳥羽市の国境を越えた地域ネットワーク形成の端緒となったとし、海女のような潜水漁法に基づいた海洋文化は国境に閉じ込められていない海洋文化であると言います。実際に、昔から、済州の潜女は韓国各地や日本の対馬や静岡に出稼ぎに、日本からは明治維新後、対外進出を図る国策に乗って志摩の海女が出稼ぎに赴いた(三重大学 塚本明教授)とされています。「海女文化」の世界遺産登録に向けた活動を通じて、安教授は、海女文化を各国の伝統・民族文化としてだけでなく、グローバル化の中の潜水漁業の観点から東アジアの「海洋文化」として捉え、そこに人類の普遍的な価値を見出し共有していきたいとしています。
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 今年夏以降、日韓関係は領土問題を巡って何度か緊張した局面を迎えましたが、7月の韓国ヨス万博、9月の済州島での第5回海女祝祭、10月の三重県志摩での海女さん大交流会などの催事は両国の関係者間の往来も途絶えることなく無事に開催されました。来年は、石川県輪島で海女サミット、10月には済州島で海女祝祭が開かれる予定です。日本と韓国の海女さんの交流は、彼女らの職場である海での紛争にも動じず、穏やかに着実に続いています。2002年サッカーワールドカップ日韓共催が実現してから、両国の交流は若者文化を中心に新たな方向に展開してきました。そして今「海女文化」の世界無形登録に向けた活動を通じて、古来より自然と共生し、環境と地域共同体を守る海女という「普通の人々の文化」を東アジアの海洋文化として、絶やすことなく未来につないで行くことは、日韓両国の多様で多重な歴史・文化の交流を世界で共有することにつながると思われます。
 日本全国の海女さんと韓国済州の海女さん
 *写真提供: 志摩市役所 商工観光部 観光戦略室
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 <関連リンク>
 海の博物館(三重県鳥羽市) http://www.umihaku.com
 三重県鳥羽市観光情報サイト(伊勢志摩国立公園)  http://www.tobakanko.jp/index.php
 「恋する鳥羽」ホームページ http://www.koitoba.com/enquete.php
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 三重県志摩市 http://www.city.shima.mie.jp/
 志摩市役所 商工観光部 観光戦略室Facebookページ
 三重県 http://www.pref.mie.lg.jp/index.shtm
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 おでかけ
 日本一海女が多い町へ!海と共に生きる文化と歴史に触れる旅【三重・鳥羽】
おでかけ 2020年9月11日 TABIZINE
 現役の海女(あま)が日本で最も多いという三重県鳥羽市相差(おうさつ)町。彼女たちとお話しできる「海女小屋」があると知り、急に興味がわいて旅行ついでに立ち寄ってみました。周辺には資料館や海女の信仰を集めるパワースポットの神社、ショップ、カフェなど、海女ゆかりのスポットが満載です!海女文化に触れる旅をしてみませんか?
 海女とは、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を職業とする女性のことです。アワビとサザエを中心に、イワガキなどの貝類、ワカメやアラメなどの海藻類、イセエビ、ナマコ、ウニなどもとります。テレビドラマ「あまちゃん」や三島由紀夫の小説『潮騒』などの作品で記憶に残っている人も多いかもしれませんね。
 古くは『魏志倭人伝』や『古事記』にもその存在を確認できるという、歴史ある生業です。志摩半島の縄文・弥生時代の遺跡から、アワビオコシという道具が出土されているので、3,000年以上に渡り海女文化が継承されていることがわかります。
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 日本人は、聖人君主ではなく俗物の小人であり、武士ではなく庶民である。
 それ故に、いい日本人は2割と少なく、悪い日本人は3割と多く、残りの5割は悪い事をしなければいい事もしない無関心で我関せずの日本人である。
 日本人悪徳業者は、朝鮮人や台湾人だけではなく日本人さえも食いもにし、搾取し、命令に従わなければ右翼やヤクザを使って暴力を振るって虐げていた。
 日本は、何時の時代でも悲惨なブラック社会であってバラ色の明るい社会ではなかった。
 それは、現代日本でも変わらず同じである。
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 海士潜女神社(あまかづきめじんじゃ、あまくぐりめじんじゃ)は、三重県鳥羽市国崎町字鎧崎にある神社である。近代社格制度に基づく旧社格は村社。1869年(明治2年)までは海士御前(あまごぜん)と称した。
 伊勢神宮が所管する神社ではないが、伊勢神宮と深い関係を持つ。伝説の海女お弁を祀り、海女の厚い信仰を集める。
 神社の概要
 本殿は木造神明造、拝殿は木造流造で、瑞垣を有する。ほかに鳥居と常夜灯を2基ずつ備え、平屋建の社務所がある。境内は920坪(≒3,041m2)。
 主祭神は潜女神(かづきめのかみ)である。潜女神は伝説の海女、海女の始祖と言われるお弁のことであり、めまい除け、トモカヅキよけにご利益があるとされる。このため、地元の海女だけでなく、日本中のダイバーの信仰も集める。
 歴史
 垂仁天皇26年(紀元前4年)、倭姫命伊勢神宮への御贄地を求めて諸国を巡幸し、国崎を訪れた。そこで海女のお弁からアワビを献上され、美味であったことから伊勢神宮へ奉納するように言った。アワビは日持ちさせるために熨斗(のし)あわびに加工して伊勢神宮へ奉納された。その後国崎は伊勢神宮の神戸に選定された。外宮旧神楽歌に「ひめ社」として歌われている。1869年(明治2年)に海士御前から海士潜女神社に改称される。
 1906年明治39年)に14社を、翌1907年(明治40年)に3社を合祀した。翌1908年(明治41年)には専任の禰宜が置かれ、それまで祭祀を司っていた「御祭家」は役目を終えた。
 被合祀社
 海士潜女神社は以下の17社を合祀している。いずれも旧社格無格社であった。
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 熨斗あわび
 海女の発祥の地
 国崎神戸
 海女発祥の地国崎・海女の祖を祭る海士潜女神社(あまかずきめじんじゃ)
海士潜女神社(あまかずきめじんじゃ)
 海女の祖、倭姫の命に鰒を献上した伝説の海女『おべん』を祀るのがこの神社。祭神は潜女神、猿田彦神ほか26柱。昔から国崎の祭りごとの中心です。
 年の初めの漁が始まる前に海女達は必ずここを訪れ
一年の無事と大漁を祈願します。トモカズキメと呼ばれる海の魔物除け、潜水中作業中のめまい除けにご利益があるなど、最近では、ダイバーなど海に潜ることを仕事をされている方や趣味でダイビングをされている方々の参拝もあります。
 ※潜女(かつぎめ)は海女のこと
海士潜女神社例大祭
 伊勢神宮への献上を二千年以上受け継いできた国崎の祖先と、鰒をはじめとする豊富な魚介類を育んできた海へ感謝する祭りです。毎年7月1日には伊勢神宮より楽師と舞姫が来町し、舞楽奉納が行われます。
 多くの海女伝説や民話が語り継がれる海女のふるさと国崎
 海女の祖 おべんさん
 国崎の歴史は古く、倭姫の命(やまとひめのみこと)が国崎を訪れた際に、海女『おべん』から鰒を差し出され、そのあまりの美味しさに感動。それ以来、伊勢神宮に献上するように命じられたのが始まりとされます。
 おべんさんは海女の元祖ともいわれ、今でも 年初めの漁が始まる前に海女たちは必ず、『おべん』を祀る海士潜女神社を訪れ、一年の無事と大漁を祈願します。
◇写真は伝説の海女“おべん”の子孫の辻さん
 ※「あわび」は一般的には「鮑」、「蚫」と書きますが、神宮では『延喜式』に則って「鰒」と書きます。
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 発祥の地コレクション
 海女発祥の地 鐘崎
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 調査: 2015年06月28日(写真 福岡神社参拝帳)
 2018年1月14日 公開
 福岡県 織幡神社(宗像市鐘崎)境内にはいろいろな石像等が並べられているが、その中に、筑前鐘崎海女の像と題された石像がある。海女の装束を纏った女性像であり、その足元には海女発祥の地を示す石板が設置されている。
 鐘崎は、魏志倭人伝でも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになり、五島列島対馬壱岐朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。そして各地で漁を教え、住みついていき、江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
 しかしこのことから、日本海の海女の発祥の地と呼ばれた。
 宗像市民俗資料館には詳しい資料がそろっていた(予備.zip)ということだが、2010(平成22)年に閉館した。
 志賀島には、いくつかの万葉碑が建てられており、鐘崎周辺の海女について詠い込まれている。
 【リンク】福岡県神社巡り 福岡神社参拝帳、宗像むなかた市、広島ぶらり散歩・別冊
地図は、碑の場所ではなく神社を指し示しています。
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