🪁6〕─1─中国の伝統的統治システムを作ったの漢民族中国人ではなく遊牧民族であった。~No.14No.15No.16 

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 2022年6月19日 MicrosoftNews 現代ビジネス「中国の統治システムを作ったのは、漢民族ではなくモンゴル系だった 律令制も、「科挙」も、均田制も
 宇山 卓栄
 日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)から、おもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその二回目だ。→ 一回目はこちら
漢民族はいつも亡国の民だった
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 学校教育などで、我々の多くは強大な中華帝国東洋史の「中心」で、その周りの国や地域、民族は「周辺」であると無意識に植え付けられています。それもそのはず、世界史の教科書では、東洋史のほとんどのページが中国史に割かれ、近隣は「その他」として付属的に扱われているため、中国が中心というイメージを誰もが持ってしまいます。しかし、こうした「中国中心史観」なるものが歴史の実像を見る上で歪んだ先入観を我々に与えています。
 中国の統一王朝で、漢字を使う漢民族が作った王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国の主要統一王朝は「秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清」と9つ続きますが、そのうちの5つが異民族の作った王朝です(本来、北方遊牧民を「異民族」と表現すること自体が適切ではありません。遊牧民からすれば、漢民族が異民族であるからです)。秦、漢、晋、明の4つのうち、秦と晋は短命政権で、わずか漢と明の2つだけが実質的な漢民族の統一政権でした(秦の建国者のルーツはチベット系の羌族であるとする見解もあり)。
 漢民族はそのほとんどの時期において、異民族に支配されている亡国の民であり、自分たちの国を自分たちの意志で統治することができなかったのです。その漢民族を「中心」とし、北方遊牧民を「周辺」とするのが教科書や一般的概説書の捉え方ですが、歴史のほとんどの時期において支配を被っている者を、本当に「中心」と呼べるでしょうか。
 本来、支配をする者が「中心」であり、その意味において、中国北部の遊牧民エリアにこそ力の中心軸があり、その中心軸が南方にも及び、中国王朝は形成されてきたと考えるべきです。北方遊牧民を「周辺」とする見方では、中国や東アジアの歴史の実態は決して見えてきません。
 また、「周辺」という言い方には、「中心」よりも野蛮であることが言外に含まれています。実際に漢民族は自分たちを文明(華)の中にいる存在として「中華」と位置付け、その近隣の異民族を文明の外にいる野蛮人と蔑んでいました。漢民族ら農耕民族がその文明の洗練ゆえに軟弱化し、一方、粗野な北方遊牧民が厳しい環境下で屈強さを失わず、ついには農耕民族を征服するのだという一見もっともらしい理由付けに多くの人が納得しているかもしれませんが、それは間違っています。
 隋と唐の建国者はモンゴル人の出身
 北方遊牧民には高度な文明の創造力があり、漢民族にはそのような創造力がなかったため、征服されたのです。北方遊牧民は確かに略奪者であったかもしれませんが、粗野で文明化されていない野蛮人であったわけではありません。北方遊牧民に対する先入観を捨てて中国史やアジア史を見直さなければ、その本来の姿が見えてきません。
 歴史の実態として、中国はほとんどの時期において北方遊牧民のもので、彼らこそが中国王朝の推進者であり、漢民族はそれに付随していただけの周辺的な存在に過ぎません。北方遊牧民の優れた発想や進歩的思考がどのように中国を変えたのかという視点について、検証してみましょう。
 隋(581~618年)や唐(618~907年)は中華帝国ではありません。隋や唐をつくったのは漢民族ではないからです。隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、鮮卑族というモンゴル人の出身です。隋や唐という中国を代表する王朝が漢民族の王朝ではないということに対し、中国人史家の中には、これを否定する見解を持つ人もいますが、日本の中国史家の宮崎市定氏が隋・唐が鮮卑系であるとの見解を戦時中に発表して以降、この見解が世界の学界の定説となっています。いくつかの高校世界史教科書でも、この見解を取り上げています。
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 また、隋や唐は自分たちが異民族の出身者であることを隠そうとしたこともあり、彼らの出自に関する詳細な記録を残していませんが、その系譜から見て、彼らが鮮卑族であることは否定することのできない事実です。
 3世紀の三国時代から中国は戦乱が続き、疲弊していました。4世紀にはモンゴル人やチベット人などの異民族が中国に度々、侵入していました。モンゴル系の鮮卑族が386年、華北(中国北部)に北魏を建国します。これ以降、華北のモンゴル人王朝と江南(中国南部)の漢民族王朝が並行して存在する南北朝時代となります。約200年間、華北を支配し続けた鮮卑族から隋や唐を建国する人物が出て、中国を代表する強大な王朝を形成するのです。
 「家柄」よりも「実力」が強さの秘訣
 隋は中央集権的な官僚制を整備し、律令制を完成させます。三省六部制という行政機関の役割分担とともに、その権限や責任が明確に規定されます。また、これらの官僚制を担う人材を科挙というペーパーテストで選抜しました。それ以前の漢民族王朝では、九品官人法という官吏登用制により、家柄に基づいて人材が登用されており、世襲の貴族政治が横行していました。隋はこうした人事の閉塞を打破するために、試験の結果によってのみ、人材を選抜する公正な制度を発案したのです。
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 遊牧民の共通の文化的特徴として挙げられる最大の点が実力主義です。定住生活をしない彼らは敵対部族との接触も頻繁であり、さまざまな状況に流動的に対処しなければならず、能力のある者が指導的な地位に選出されました。能力があれば、異民族でも受け入れて厚遇したのです。
 遊牧民の部隊は細かく分けられ、部隊長に現場での権限が振り分けられ、同時に責任も負わせます。刑罰がきわめて厳格に適応されるのも、遊牧民の特徴です。こうした権限と責任の明確化の中で、有能な人材がつねに輩出されていたことが彼らの強さの秘訣でした。遊牧民のこうした実力主義の伝統が漢民族の貴族政治を打ち壊し、科挙に基づく組織主義的な律令国家を形成していく基盤になります。
 また、遊牧民は土地に縛られることがないため、農耕民族のように所有権に執着することがありません。一部の人間が独占的に土地を囲い込み、富を蓄積させるようなことはなく、富の配分が均等になされました。
 北魏の時代に創始された均田制は隋や唐にも継承されましたが、この均田制に遊牧民の伝統的な特徴を見出すことができます。均田制により、富裕な貴族や豪族が領有していた大土地を取り上げ、民衆に均しく田を配り、民衆のための政策を推進し、一部の者の富の独占や所有権の固定化を許さなかったのです。遊牧民ならではの発想です。この均田制に基づいて、租庸調制、府兵制など唐の律令が固められていきます。
 隋や唐を建国した鮮卑族による、これらの社会統治の抜本的転換と律令体制の構築は、その後の中国の歴史を根底から規定するものであり、各王朝の統治体制の基礎となります。これは鮮卑族が築き上げたものであり、漢民族がつくったものではありません。漢民族には、このような高度な統治体制を構築する能力はありませんでした。
 漢は北方遊牧民の属国だった
 漢王朝の建国者の劉邦は、白登山の戦いで北方遊牧民匈奴に敗退し、屈服しました。漢王朝は大量の貢物と一族の娘を人質として匈奴に嫁がせることになります。漢王朝は50年間、匈奴の属国だったのです。最初の本格的な統一王朝の漢が北方遊牧民の属国としてスタートしたということは、その後の中国王朝の性格を表す象徴的な出来事でした。
 劉邦を屈服させた匈奴はモンゴル系民族とされますが、トルコ系民族とする見方もあります。はっきりとわかっていないことが多いものの、モンゴル系を中心にトルコ系も交ざっていたと見るのが実態に近いかと思います。匈奴の支配領域の中心部がモンゴル高原であったことからもそのことがうかがえます。
 モンゴル系はモンゴル高原(現在の内モンゴルモンゴル国、南ロシア)に居住し、トルコ系はその西方のモンゴル高原西部、アルタイ山脈沿いの地帯、カザフ草原タリム盆地に居住していました。つまり、この地域の遊牧民は東方のモンゴル系、西方のトルコ系に大別できます。匈奴は東方と西方の2つの領域に跨がっていた複合国家であり、民族や部族の名を示すものではありません。
 匈奴に続き、モンゴル系は古代から中世にかけて、北魏、遼、元を建国します。同じモンゴル系でも部族や居住領域が異なり、考え方も異なります。匈奴はかつてモンゴル高原全体を支配しましたが、その東部から鮮卑族が台頭し、匈奴は南方(現在の内モンゴル)へと追いやられ、最終的には鮮卑族に吸収されます。鮮卑族内モンゴル東部から満州西部に居住していました。匈奴漢民族と直接対立していたのに対して、鮮卑漢民族と連携することが多く、中国文化を受け入れていました。
 こうした伝統もあり、鮮卑北魏を建国した時、6代目孝文帝が徹底した中国化政策を行い、モンゴル人の文化・風習を捨て、漢字などの中国文化を取り入れ、漢民族との婚姻を進め、わずか100年で華北に侵入したモンゴル人は中国化されました。
 宋は契丹族の国の属国に
 遼を建国した契丹族鮮卑族から派生した亜種です。鮮卑族の居住エリアよりも東方の、遼東半島北部を流れる遼河水系上流のシラムレン川流域(現在の内モンゴル自治区東部)に居住していました。
 かつて契丹鮮卑突厥に従属していましたが、トルコ系の突厥モンゴル高原を去り、西方へ移動すると急速に勢力を拡大し、10世紀に満州からモンゴル高原に跨がる強大な王朝を建国します。さらに、唐滅亡後の中国の混乱に乗じて、万里の長城の内側の領域である燕雲十六州を獲得しています。また遼は宋に攻め入り、1004年、澶淵の盟を結び、宋に莫大な貢物を毎年送らせるよう約束させました。宋は事実上、遼の属国となります。
 しかし遼では、中国文化を受容しようとする親中派契丹の独自風習を守ろうとする保守派との間で派閥争いが続きます。この争いの結果、遼は華北漢民族に対して中国的な州県制で統治し、北方の遊牧民族を部族制で統治するという二重統治体制を敷き、折衷主義的な妥協策を採用しました。文字においても、彼ら独自の文字文化に漢字を取り入れ、折衷主義的な契丹文字を制定しました。
 しかし、遼は財力の豊富な宋により籠絡され、政権内部の親中派の数が増え続けます。いつの時代にも、カネで国を売る人間が政治の世界には蔓延るものです。こうして遼は腐敗していき、女真族の金により滅ぼされます。
 このように、中国史においては、北方遊牧民のダイナミックな動態が本流としてあり、漢民族はほとんどの時代において、その流れに抗うことができず、翻弄され続け、自らの足で立つことさえできなかったのです。」
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