🔂2〕─1─朝鮮民族のルーツは中国人から野蛮人と差別されていた北方ツングース系民族。~No.2 

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 朝鮮人と日本人は別系統のアジア人であるが、100%違うわけではない。
 日本人の基層は南方系で、朝鮮人の基層は北方系である。
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 2022年6月22日 MicrosoftNews 現代ビジネス「韓国人は、漢民族に「臭穢不潔」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか 民族と文明で読み解く東アジアの成立ち
 宇山 卓栄
 国際情勢を深層から動かしてきた「民族」と「文明」、その歴史からどんな未来が見える?中国とインドの台頭により、アジアの歴史や文化に関する知識は今や必須の教養となった。しかし教科書が教えてきた中国中心の見方では、アジア史のダイナミズムは理解できない。考古学や遺伝子学を含めた学術研究の進歩も、こうした史観に対して再考を求めている。このたび『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)の上梓した世界史のベストセラー著者が、朝鮮民族のルーツに迫るーー。
 © 現代ビジネス
 「臭穢不潔」とされたツングース
 朝鮮民族の祖先であるツングース系民族は古代中国で、「濊(わい)」や「貊(はく)」と呼ばれていました。「貊」は日本語で「えびす」と訓読みし、蛮族を指します。
 問題は「濊」の字です。濊は『漢書武帝紀では「薉」、『漢書』食貨志では「穢」と表記され、『三国志』や『後漢書』では「濊」と表記されています。いずれも「穢れ」を意味していると考えられています。
 かなり酷い呼び名ですが、漢民族は周辺の異民族に対して、このような悪い意味の名を付けることがよくありました。例えば、匈奴の「匈」は「悪く乱れている」ということを意味する言葉であるので、「匈奴」は「悪い奴ら」というニュアンスになります。また、周の時代には、モンゴル系の犬戎が中国に侵入しましたが、「犬戎」とは「犬のような蛮族(戎)」というニュアンスです。
 © 現代ビジネス 紀元前1世紀頃の濊と貊の位置(Wikipediaより) 拡大画像表示
それにしても、「濊」という名の酷さは際立っています。どうして、こういう名を付けられたのか、詳しいことはわかっていませんが、『三国志』や『後漢書』では、ツングース系民族が極めて臭くて不潔(「臭穢不潔」)であったと記されています。
 彼らは尿で手や顔を洗い、家ではなく穴の中に住んでいました。豚の毛皮を着て、冬には豚の膏を身体に厚く塗って、寒さをしのいでいました。「臭穢不潔」な彼らを「濊」と呼ぶことは漢民族にとって自然なことだったと推測されます。
 「濊」は「水が溢れている様」、「穢」は「雑草が生い茂って荒れている様」を表すもので、必ずしも「穢れ」を意味するものではないとする見方もありますが、史書に「臭穢不潔」と記されていることからもわかるように、やはり「穢れ」を意味していると考えるのが自然です。
 © 現代ビジネス 2世紀頃の濊貊の位置(Wikipediaより) 拡大画像表示
 これらの濊や貊のツングース系部族から派生する扶余族が紀元前1世紀に高句麗を建国し、4世紀前半に百済を建国します。彼らは後漢王朝に圧迫され、朝鮮半島方面へと南進したのです。そして、彼らは現在の韓国にいた原住民である韓人と混血同化し、今日の朝鮮人となります。
 韓人は朝鮮半島の南部から中部にいた農耕民族で、半島の原住民ですが、「韓人」という明確な民族学上のカテゴリーがあるわけではなく、「三韓の地に住んでいた人々」という意味で慣習的に使われます。
 歴史から紐解く朝鮮民族のルーツ
 高句麗は4世紀末から5世紀に強大化し、満州から朝鮮半島北部にかけて広大な版図を形成しました。
 高句麗の第19代の王・広開土王(好太王)はこの時代の王で、朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻めました。百済と同盟を結んでいた日本(大和朝廷)は軍を朝鮮に派遣し、広開土王と戦います。この戦いについて、有名な「広開土王碑文」に記されています。
 朝鮮の歴史書三国史記』によると、扶余の王族朱蒙チュモン)が紀元前37年に高句麗を建国したとされます。さらに、扶余族は南方に拡散し、朝鮮半島南西部に百済を建国します。7世紀の中国の史書『周書(北周書)』や『隋書』では、百済の王族が扶余族出身で、高句麗王族とも血縁関係があったことが記されています。
 © 現代ビジネス 5世紀終わり頃、三国時代の勢力図(Wikipediaより) 拡大画像表示
 百済の都は当初、ソウルを流れる漢江(ハンガン)の南の漢城に定められました。その後、高句麗に圧迫されて、475年、南の錦江(クムガン)中流の熊津(ウンジン)、つまり現在の公州に遷都し、更に538年に、錦江下流の泗沘(サビ)に遷都しています。
 泗沘は新羅時代の8世紀半ばに、彼らの民族名を偲び、「扶余(プヨ)」と名付けられて、今日に至ります。百済の最後の都の扶余は百済歴史遺跡地区として、2015年に世界遺産に登録されています。
 高句麗百済の歴史からもわかるように、古代朝鮮半島ツングース系の扶余族によって支配されていました。扶余族は濊や貊から派生した部族であり、これが朝鮮人のルーツであると言うことができます。
 勢いのあった扶余族が朝鮮半島のみならず、さらに南進し、日本にも到来して、彼らが大和朝廷を樹立したという仮説もあります。これは「騎馬民族征服王朝説」と呼ばれるもので、東京大学名誉教授の江上波夫氏により、1948年に提唱され、広く信じられたことがありましたが、今日では、根拠がないとして否定されています。
 韓国の学者で、この説に便乗する者もいます。韓国の東洋大学の金雲会(キムウンフェ)教授は扶余の王族が南方へ移動して百済王になり、さらにその子孫の百済王の近肖古王(クンチョゴワン)が日本に渡って応神天皇になったと主張しています。しかし、前段の扶余の王族が百済をつくったというのは良いとしても、その子孫の百済王が応神天皇になったというのは荒唐無稽で根拠はありません。
 百済建国には、いくつかの説があります。朝鮮の歴史書三国史記』では、高句麗の始祖の朱蒙と扶余の王族の娘との間に生まれた子が百済を建国したことになっています。初め10人の家臣と共に建国したため、国号を「十済」としましたが、百姓たちも建国に協力したので、「百済」となったとされます。
 中国の史書『隋書』の「百済伝」には、もう少し現実的なことが記録されています。扶余王の尉仇台(ウィグデ)が高句麗に国を滅ぼされて、百家とともに海を渡った(済海)ので、国号を「百済」としたと記されています。
 遺伝子解析からわかる混血の歴史推移
 朝鮮半島方面へ南下したツングース系民族の濊や貊よりも北西部にいた、同じくツングース系民族の動きも併せて見ておきましょう。
 この地域は外満州とも呼ばれ、今日のロシアの沿海州、都市で言うとウラジオストクからハバロフスクにかけての地域一帯です。元々、この地域にいたツングース系民族が粛慎で、紀元前6世紀、孔子も彼らの使っていた弓矢について述べています。
 粛慎はその後、挹婁(1世紀から4世紀)、勿吉(4世紀から6世紀末)、靺鞨(6世紀末から7世紀末)と変化していきます。彼らは今日のロシア領のツングース系民族の大半に相当します。
 「挹婁」の呼称は弓矢の鏃を指す「ヨウロ」を音写したものと考えられています。「勿吉」の呼称は何の音写かわかっていません。「靺鞨」の呼称は「勿吉(もつきつ)」の音写と考えられています。
 靺鞨は主に、南の粟末部と北の黒水部の2つの部族に大別することができ、粟末部は後に高句麗遺民と共に、満州統一国家である渤海を建国します。北の黒水部は女真族の元祖であり、彼らが金王朝清王朝を建国します。
 女真族は中世の高麗時代以降、朝鮮半島にも大量に南下し、朝鮮人と混血しています。
 遺伝子の解析により、韓国人はツングース系民族と遺伝子上、近似関係にあることが証明されていますが、この結果は彼らの混血の歴史推移と一致します。
 また、中国人もツングース系民族との遺伝子的近似性が証明されており、この結果もやはり、清王朝のような女真族王朝が250年以上も中国を支配し、混血同化が進んだという歴史の推移に一致するものです。朝鮮人と中国人はツングース系民族を介して、近似した民族となったのです。
 ところで、朝鮮人のルーツを北方ツングース系のエヴェンキ族とする見解がありますが、これは一つの可能性であって、確実であるかどうかはわかりません。エヴェンキ族の顔立ちなどの容姿、また、トーテムポールを建立し、祈祷する風習などが朝鮮人に似ているとされます。
 元々、エヴェンキ族は外満州からシベリアにかけて居住していましたが、13世紀頃に南下し、朝鮮半島にもやって来たとされます。エヴェンキ族が女真族と混血し、女真族によって、血統や風習が朝鮮にもたらされた可能性も考えられます。
 そもそも、エヴェンキ族と女真族を区別することができないかもしれません。エヴェンキ族は靺鞨族の末裔であり、両者は靺鞨族という同一の祖先を持つからです。
 「ツングース」とは何を意味するのか
 ツングース系民族はアルタイ語派に属します。今日、同じアルタイ語派のモンゴル系の人口が約320万人、ツングース系が約290万人います(アルタイ語派の9割がトルコ系)。
 「ツングース」が何を意味しているのかについては諸説ありますが、一説には「豚を飼育する人」という意味を持つと言われます。
 ツングース系民族は元々、満州朝鮮半島北部、サハリン、シベリアに至るまでの広範囲の地域に居住しており、これらの地域は現在のロシアから中国、北朝鮮の領域に及んでいます。しかし、ツングース系言語の話者は今日ではほとんど残っておらず、ロシアに約6万人、中国に約5万人しかいません。
 ツングース系民族はその言語グループにより、主に12の部族に分けることができます。ロシアには、エヴェンキ族、エヴェン族、ネギダル族、オロチ族、ウデヘ族、ナーナイ族、オルチャ族、ウイルタ族などの8つの部族があり、中国には、ソロン族、ヘジェン族、シベ族、満州族の4つの部族があります。
 この12部族のうちの満州族がいわゆる満州人のことで、満州の中心部を居住地とし、古来、中国とも最も緊密な関係を持っていました。
 これらの部族は同じツングース系言語を共有していたとはいえ、遠く離れた部族同士では言葉の隔たりは少なからずあり、会話さえもできなかったとされます。ただし、同じ言語体系に属する彼らは同一の祖先を共通に持つと見られます。
 また、民族の遺伝子も近接な関係にあり、互いの民族が歴史的に離合集散を繰り返しており、混血も進んでいました。満州族などの南のツングース系は漢民族を特徴づける遺伝子系統を濃く受け継ぎ、北のツングース系はロシア人の遺伝子系統を持つといった地域的な差はあります。
 満州人(満州族)が17世紀に清王朝を樹立した頃、ツングース系民族の大半が満州人により、統合されました。しかし、19世紀になると、ロシアが極東に進出してウラジオストクを建設し、沿海州を支配、北部のツングース系民族はロシア領域に取り込まれ、南部の中国領域のグループと分断され、今日に至ります。」
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民族と文明で読み解く大アジア史 (講談社+α新書)
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 ツングース的特徴から窺い知る「朝鮮民族
 顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男
 韓国の慰安婦像・徴用工像の問題にしろ、北朝鮮の核・ミサイル開発の問題にしろ、朝鮮民族の考えることは我々日本人には理解困難である。どうも思考回路が全く違っているのではないかと思われてならない。同じ東アジアのウラル・アルタイ語族に属し、外見的特徴も似ているだけに、ついつい同種同根のように思い込みがちだが、どうやら異星人とでも観念した方が理解の近道のようである。
 最近、「儒教の影響」という観点から朝鮮民族(及び中国人)の思考法を解説し、我々日本人との違いを説明する議論が流行している。祖先崇拝・古礼墨守の習慣から礼教主義による秩序感覚に至るまで正に儒教の教えそのものであり、上下序列の華夷思想もそこに由来する。中国・春秋時代孔子の教え、そして南宋時代の朱子の哲学が精神の髄にまで沁みついている。人を人らしくするための思想体系として紀元前の中国人が絞り出し、滅亡の末路にある王朝が心の拠りどころとした哲学が朝鮮民族の心の奥深くに今日なお息づいているとすれば、それはそれで驚嘆に値する。
 しかし、「儒教の影響」だけで朝鮮民族の行動パターンの全てを理解しようとすると(当然ながら)無理が生じる。つまり、儒教の教えはそれ自体いかに濃厚なものであったとしても言わば(教育を通じて事後的に身に着けた)「獲得形質」のようなもので、民族の原型という「素」の部分を説明することにならないからである。この点では朝鮮民族の出自に遡って彼らの「民族的特徴」を解析する必要があるように思われる。
 朝鮮民族が人種的にツングース系に属することには異説がない。朝鮮半島の歴史時代は「三国時代」(あるいはその前の「三韓時代」)に遡るが、高句麗の始祖・朱蒙沿海州の扶余(満州ツングース系の一族)の生まれとされ、百済はその弟が建国した(と伝えられる)。いずれも紀元前1世紀のことである。半島南東部の新羅の場合、その建国神話では土着諸族の統合によって国王が選ばれた韓族の国とされているが、歴史を更に遡れば、その韓族自体が満州方面から南下してきたのではないか。まあ、いずれにしろ、統一新羅、高麗、李氏朝鮮という半島統一国家の栄枯盛衰の過程でツングースの血が朝鮮民族の中に濃厚に沈殿していったであろうことは疑う余地がない。
  では、ツングースとはいかなる民族的特徴を有する人たちなのか。勿論、私は民族学者ではないので自説を展開することは出来ない。そのため、1つの便法として司馬遼太郎氏が街道をゆくシリーズの第2巻「韓(から)のくに紀行」で詳述しているツングース論を借用する。司馬氏は朝鮮民族が古代ツングースの特徴を濃厚に持っているとした上で、「朝鮮人は世界でもっとも政治論理のするどい民族だと思っている。政治論理というのは奇妙なもので、鋭どければ鋭いほど物事を生まなくなり、要するに不毛になっていく性質のものだ」と言い、また「政治論理という、この鋭利で、そして鋭利なほど一種の快感をよび、また快感をよべばよぶほど物事が不毛になるという危険な抽象能力」との指摘もある。別の箇所では朝鮮人の思考法式に触れ「怨念が強烈な観念になって事実認識というゆとりを押し流してしまう。・・・どう考えてもツングース人種の固有の精神体質としか言いようがない」、「朝鮮人のもつ観念先行癖――事実認識の冷静さよりも観念で昂揚すること――やそれがための空論好きという傾向」、「現実直視能力というものは残念ながらあまりない。このことは概して朝鮮知識人の通弊である」との件もある。また、司馬遼太郎氏は「怒れるツングース」の姿を目撃しては面白がっている風がある。「韓国人というのは怒りっぽい民族だ」、「韓国人が喧嘩相手をののしるとき、まことに苛烈である」、「感情と表現の激烈さは朝鮮民族のごくありふれた特徴」、「自分の観念の中にある観念的な日本人像にむかって爆発を繰り返しているために、罵詈罵倒はもはや儀式のようになっている」といった記述が随所に見られる。誠に同感である。
 なお、司馬氏の指摘する「朝鮮人の観念先行癖」に関連して私個人として思い当たることがひとつある。それは銅像、石像、木像のいかんを問わず、朝鮮人が「像」を好むことである。朝鮮半島には(北朝鮮の巨大な金日成金正日像は言わずもがな)至る所に過去の将軍ら歴史上の人物の立像がある。ベトナム在勤中に聞いた話では、ベトナム戦争に参戦した韓国軍は主な戦闘の現場現場に指揮官の石像を立て残していったと言う。勿論、戦争後、これらの立像は全て破壊され、今は残っていない。私は、朝鮮人の場合、「観念」という抽象的なものを具象化する手段として「像」を作り続けたのではないかと思う。それによって一度生まれた観念は事実がどうであったかとは無関係に固着する。現在の慰安婦像や徴用工像への韓国人の異様な執着はどうもこの辺りの民族性と関係がありそうである。とにかく私たちは「怒れる朝鮮民族」とうまく付き合っていかなければならない。
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 世界史の窓
 アルタイ語族に属し、中国東北地方で狩猟生活を送っていた民族。その中の女真が金と清を建国した。
 漢民族から見て北方民族に入る民族で、トゥングースとも表記。アルタイ語族に属するツングース語を用いる諸民族をツングース系と総称する。現在の中国の東北地方(旧満州)から南シベリアにかけての森林地帯で、部族に分かれて半農半狩猟生活を送っていた。古くは高句麗を建国した貊族、7世紀末の渤海国を建国した靺鞨族もツングース系とされる。最も有力となったのは女真で、12世紀に金を建国し、中国の北半分を支配した。金は1234年にモンゴルに滅ぼされたが、後の17世紀に満州族と称して清を建国した。
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 貊/貊人/貊族
 古代朝鮮・中国東北地方で活動したツングース系の人びとで高句麗を建国した。
 貊はハクと読み、貉の字をあてることもある。古代朝鮮の高句麗を建国した、ツングース系の民族。漢民族の歴史書には、古朝鮮・中国東北地方の民族として、濊(カイ)・貊(ハク)・韓が上げられており、そのうち濊貊は半島北部から中国東北地方にかけて活動していたらしい。濊貊は北方民族の総称としても用いられていたが、王莽の頃からその中の部族をそれぞれ意味するようになった。2~3世紀の中国文献では貊は鴨緑江流域の高句麗部族をさすようになる。<濊貊については井上秀雄『古代朝鮮』p.30-33 を参照>
 扶余・高句麗百済
 前2世紀後半ごろ、貊人の一部であった扶余(扶餘とも書く。民族名、国家名としての扶余)は、現在の中国東北地方の松花江方面に建国し、1~3世紀には鮮卑高句麗とも対抗した。この貊人の一部が建てた国家としての扶余は、494年に同じツングース系の勿吉(モッキツ)によって滅ぼされた。勿吉は6世紀半ばに高句麗に滅ぼされ統合される。
 高句麗は建国神話では扶余の王族の朱蒙が建てたとされている。貊人の一部族であったものが分離し、漢の四郡の一つ玄菟郡が前1世紀ごろに衰えたことから自立したと考えられている。伝承によると前37年に建国したとされている。高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼし、4~6世紀に中国東北地方から朝鮮北部にかけて強大な国家となる。
 なお、さらに扶余の子孫は後に半島南部に移って百済を建て、馬韓と言われた韓民族の小国を従えた、という伝承もあり、百済は都を扶余(百済の都としての扶余、プヨ)と呼んでいた。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「女真」の解説
 女真 じょしん
 10世紀初頭以後、史上に現れたツングース系民族。松花江(しょうかこう)、牡丹江(ぼたんこう)、黒竜江下流域、沿海州(現沿海地方)に分布していた。女直とも記されるが、女直は、遼(りょう)の興宗の諱(いみな)の宗真を避けて女直としたものとか、ジュルチンJurchin(女真)のn音の脱落した形などの説がある。唐代に勢力のあった黒水靺鞨(まっかつ)の後裔(こうえい)である。黒水靺鞨以外の靺鞨諸部は高句麗(こうくり)と渤海(ぼっかい)の支配を受けたが、黒水靺鞨は高句麗の支配を受けず、渤海の治下にあったことも明確ではない。黒水靺鞨は遼代には松花江豆満江(とまんこう)流域、咸鏡(かんきょう)南・北道地方に発展し、遼と高麗(こうらい)に朝貢し、黒水女真、東女真とよばれた。これらの女真を生女真といい、遼の領土内に移され遼の戸籍につけられたものを熟女真という。遼の末期、生女真の完顔(ワンヤン)部が勢力を蓄えて発展し、阿骨打(アクダ)が諸部を統一し金(きん)国を建設し(1115)、遼を滅ぼした。金は華北を制覇し南宋(なんそう)と対立したが、1234年モンゴルに滅ぼされた。元代の女真は東北の森林地帯に散居し、合蘭(ごうらん)府水達達等路の管轄下にあった。明(みん)代では松花江流域に住む女真は海西女直、遼寧(りょうねい)省東部・吉林(きつりん)省東部・豆満江流域の女真は建州女直、牡丹江流域・黒竜江下流域・沿海州女真は野人女直とよばれた。明国は黒竜江河口に奴児干(ヌルカン)都司を、遼陽に遼東都司を置いて女真諸衛を管轄した。17世紀初頭、建州女直からヌルハチが出て女真各部を統一し、後金(こうきん)国を建てた(1616)。明末清(しん)初の女真はJušen(女真人)と自称し、自らの集団をJušen国といったが、1635年10月、太宗ホンタイジがJušenと称することを禁じ満洲と称することにしてから女真の語は用いられなくなった。
 [河内良弘]
 [参照項目] | アクダ | アムール川 | エベンキ | 沿海地方 | 金 | 後金 | 高句麗 | 松花江 | ヌルハチ | 牡丹江 | 渤海 | ホンタイジ | 靺鞨 | 満州 | 満洲族 | 遼 | 完顔部
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ツングース系民族の分布図
 ツングース系民族(ツングースけいみんぞく、ロシア語: Тунгус; Tungus、英語: Tungusic peoples、中国語: 通古斯; Tōnggŭsī)は、満州からシベリア、極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース語族に属する言語を母語とする諸民族のこと。
 語源
 「トゥングース(Tungus)」という名称は、ロシアのヤクート人が、自分たちと混血を進めていたエヴェンキ人を「トングース(Toŋus)」と呼んだことに由来する。現在はともに民族名として自称するため、「ツングース」とは言語系統名であるツングース諸語と、それを話す諸民族の総称として用いられる。
 ヤクート語の「トングース(Toŋus)」の起源や語意には今までいくつかの説が立てられたが、未だ定説はない。以下に有名な説を挙げる。
 東胡説
 中国の史書が伝える東北アジアの民族「東胡(Dōnghú)」と、ヤクート語の「トングース(Toŋus)」の発音が似ていることから、ヨーロッパの学者を中心に支持された。
 豚の飼養者説
 J・クラプロートが提唱。ヤクート語の「トングース(Toŋus)」は「豚」を意味するテュルク語の借用語で、豚の飼育に長けていた勿吉や靺鞨を指していたとする説。
 起源
 詳細は「ツングース語族#原郷」を参照
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 出典検索?: "ツングース系民族" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)
 未だ定説は確立していないが、以下のような仮説がある。
 南方由来説
 19世紀に提示されて以来、ツングース語のモンゴル語やテュルク語との近縁性から、多くの学者がシベリアの遊牧ツングース黒竜江沿いに北上してきたモンゴル民族とした。1920年代にソ連人(ロシア人)学者シロコゴロフが、現地調査などから松花江ウスリー川流域一帯をツングース人が形成された土地とし、形成以前の起源を更に河北東北部へ求める説を発表。言語学や人類学の観点から数多くの学者に支持されるが、華北東北部を起源とする点に関しては考古学的な裏付けが乏しく仮説の域を出ないとされている。
 西方由来説
 セレンガ川やバイカル湖畔の周辺から来たとする仮説を2人のソ連人(ロシア人)学者が唱えた。
 太古土着説
 1960年代にソ連人学者 から出された仮説、文化の独自性から数千年に渡り外部から隔絶していたとする。古い年代の考古物の中に南方地域と類似する物が見られる点と、急激な寒冷化が起きた時期に人口増加によると思われる出土物の増加が確認される点から、主流とはなっていない。
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 朝鮮民族(朝: 조선민족)は、朝鮮語をそのアイデンティティー・母語とする民族。大韓民国における自称は韓民族(朝: 한민족) 。
 歴史
 「朝鮮の歴史」も参照
 先史時代の朝鮮半島は櫛目文土器(ウラル語族に関連)を有する遼河文明圏[7][8]に属していた。このウラル系民族が、朝鮮民族の基層にある可能性が高い。古代の朝鮮半島は現代と比べ人口も少なく諸種族が点在しており、半島南部には倭人、北部には沃沮(よくそ)、濊(わい)、扶余(ふよ)などの濊貊(わいはく)系、挹婁、扶余、を中心に定住していた。
 その中の中国の満州南部から渡来した夫余から発展した高句麗が南下しながら半島に勢力を拡大し、これに連動するように半島中部で北部の馬韓諸国を統合した百済、半島東南部では辰韓諸国を統合した新羅が成立し、3国が鼎立するに至った。三韓時代を代表する百済新羅高句麗の各国はそれぞれ種族の偏りはあれど国である。その後、半島東南部を根拠地とする三韓系の国家である新羅が、百済高句麗などの扶余、濊貊系国家を打ち破って半島中南部を占拠し、半島北部と満州をつなぐ扶余系国家はなくなった。統一新羅の時代に新羅は旧百済高句麗の一部の領域を支配し、これを治めていたが、住民の旧国家への帰属意識は依然と残り、統一新羅が弱まり後三国時代に入る。高句麗系住民が建国した渤海と対立したが、渤海の滅亡以後、新しく建国された高麗が帰順してきた一部の流民を受け入れた。こういったながれの中で、現在の民族意識の確立は13世紀頃とみられる。三国時代新羅高句麗百済を指す)から民族集団としての歴史は受け継がれたとされるが、モンゴルに支配された13世紀に入り『三国史記』の編纂や民族の啓発や統合が活発となり、13世紀後半に、現在の民族としての自己独自性の熟成と遺伝子的な一致がほぼ完成されたとみられる。
 遺伝子的系譜
 Y染色体・mtDNA
 現在の朝鮮民族が持つY染色体ハプログループの大まかな分類では、割合の多い順に、O2-M122(東アジア全域に多い)、O1b2-M176系統(日本列島琉球列島及び朝鮮半島に多い)、C2-M217(北アジアに多い)、である。
 最も多い O2-M122 系統は朝鮮民族で約41%の割合で確認されており、中国人など東アジアで多く見られる。
 次に多い O1b2-M176 系統は約31%の割合でそれに続く。サブクレード(細分岐)まで分類すると朝鮮民族と、日本人(大和民族琉球民族)には特徴的な違いがあり、朝鮮民族では約22%:約9%の割合で確認されるものが、日本国内では約8%:約24%の割合で確認されており比率がほぼ逆転する。
 三番目に多い C2-M217 系統は約14%の割合で確認されている。この系統は中央アジア及び北アジアのカザフ人、モンゴル人、ブリヤート人エヴェンキ人、ニヴフ人、コリャーク人や北アメリカのナ・デネ語族などに多く、漢民族、京族(ジン族)、ベトナム・キン族など、東アジアでは広域にわたって約10%の割合で確認されている。日本列島では北海道・日高のアイヌ民族と九州の住民がそれに準じ、日本全国では3%〜6%ほどである。なお、C2-M217保有朝鮮民族男性のほとんど(84/89 = 94.4%)が東アジアに多いC-Z1338に属し、北アジアおよび北アメリカに多いC-L1373に属すものはC2-M217保有者の5.6%(5/89)に止まる。
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