🎍23〕─1─則天武后は中国史上唯一の女帝。李氏唐王朝帝位簒奪者。3大悪女の1人。~No.68No.69No.70 

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 日本の皇族の中には、則天武后や呂皇后、西太后のような3大悪女はいない。
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 『96人の人物で知る中国の歴史』
 著者:ヴィクター・H・ソア、サンピン・チェン、フランシス・ウッド。
 訳:大間知和子。
 原書房
 「三国時代から隋・唐まで 220──907
 36 則天武后 (624─705)
 中国史上唯一の女帝
 則天武后は名を昭といい、ほぼ半世紀にわたって中国の事実上の支配者となった。実際に皇帝として15年間君臨している。中国の長い歴史のなかで、正式に皇帝として即位した女性は則天武后だけだ。
 則天武后は624年に生まれた。父は現在の山西省の、中国の北の国境地帯で材木商を営んでいた人で、唐の高祖の建国に協力して功績を上げ、宮廷内で高い地位に昇った。隋の皇族から後妻を迎えたことで社会的地位も高まった。則天武后はこの夫婦のあいだに生まれた次女である。
 父が四川で総司令官の地位にあったので、則天武后は四川で子ども時代をすごした。637年に唐の太宗(伝記34)の後宮に入る。12年後に太宗が亡くなると、後宮の女性たちは慣習にしたがって尼僧になった。しかし則天武后は次の皇帝となった高宗[太宗の息子]の目にとまり、ふたたび後宮に召し出されることになる。権勢をふるったこの女性に批判的な中国の文献によれば、このふたりは太宗がまだ健在だった頃から不倫関係にあり、太宗の死後、その仲が再燃したのだといわれている。則天武后と唐の皇族はともに[蛮族][どちらも鮮卑系]の血を引いており、遊牧民の文化ではこうした逆縁婚(死者の息子や兄弟が未亡人と結婚する慣習)は決して受け入れがたいものではない。しかし儒教倫理においては、そうした行為はきわめて不道徳だと考えられたのである。高宗が則天武后後宮に入れたのは、高宗王氏にそそのかされたせいかもしれない。王皇后は高宗の寵愛をめぐってひとりの寵妃とライバル関係にあったので、この寵妃を失墜させるために武后を高宗に近づけたとも考えられる。 
 則天武后は高宗とのあいだに4人の息子を生んだ。一度は手を組んだ王皇后をおとしいれるため、武后は生まれたばかりの自分の娘の首を締めて殺し、ライバルである王皇后にその罪を着せた。王皇后は廃位され、655年に則天武后が皇后となった。権力をにぎるや、武后は反対派を宮廷から一掃した。
 高宗は気が弱く、生まれつき病弱だった。674年は皇帝に匹敵する地位[高宗を天皇大帝、武后を天后と称した]を得て、高宗と皇后は『二聖』と称された。翌年、武后は正式に摂政となり、病弱な皇帝は完全に政治からしりぞいた。678年からは武后ひとり廷臣や外国の使節と宮殿で面会した。
 長男の太子弘は675年に急逝した。実母の武后が毒殺したと見られている。次男賢は四川に追放され、684年に母によって自殺に追いこまれてた。
 683年、高宗がついに崩御すると、武后の第三子が中宋として即位する。しかし皇帝はわずか55日で廃位され、代わって第四子が皇帝について睿宗となった。まもなく睿宗は「自発的に」権力を放棄し、傀儡に甘んじた。則天武后は690年に正式に帝位につき、国号を唐から周にあらためた。
 武后は権力を固めるに恐怖政治を行い、密告者や冷酷な官吏を優遇した。また僧や美少年を集めて寵愛したとも批判されている。しかし武后にもっとも批判的な中国の歴史家さえ、家柄に関係なく傑出した才能の持ち主を見つけ出し、忠実で有能な官僚として採用した武后の見識には一目置いている。
 武后に登用された有能な官僚の力によって、武后が政権をにぎった唐(周)帝国はきわめて安定した国情を保った。経済は発展し、領土の拡大は続いた。戸数で見ると、人口は半世紀のあいだに60パーセント増加した。ほとんどすべての面で、則天武后の長い治世はうまくいっていた。
 あるとき、武装蜂起の宣言文が武后の面前で読み上げられた。それは才能ある詩人が起草したもので、武后は自分に対する悪意に満ちた個人攻撃をならべた文章の優美さに感銘を受け、顔色も変えずに言ったという。これほど才能ある若者が世に埋もれ、これまで宮廷に召し出さなかったのは宰相の怠慢である、と。
 武后は長安から東都洛陽に都を移し、いくつかの大規模な建築事業に着手した。また、仏教を保護し、経典の写経を奨励した。とくに女性君主の出現を預言した短い経典[武后が帝位につく根拠とされた]の写しを全国の寺に置かせた。この教典の印刷には世界でもっとも古い木版印刷が使われた可能性もある。
 705年2月20日、宮廷内でクーデターが起き、武后の悪名高い寵臣や忠臣の数名が殺害され、武后は退位させられた。この年の12月16日、武后は軟禁状態に置かれたまま死亡した。しかし武后の子孫はその後2世紀にわたって唐を支配しつづけ、『聖神皇帝』と称した武后は最大の敬意をはらわれて、現在の西安郊外にある巨大な陵墓に高宗とともに合葬されている。興味深いことに、則天武后が自分の功績を記念するためにこの陵墓に建てた石碑には、文字がひとつもきざまれていない。」
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 世界の歴史まっぷ
 武則天
 人物・団体
 公開日 2017-02-04
 最終更新日 2021-06-20
 中華人民共和国
 即位後
 帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。
 武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗(唐)の時代から彼女が実力を見い出し重用していた稀代の名臣、狄仁傑てきじんけつである。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた。
 また、治世後半期には姚崇ようすう・宋璟そうえいなどの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの二名は玄宗(唐)の時代の開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。
 晩年
 晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。
 当時武則天の寵愛をうけ横暴を極めた張易之・昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日(705年2月22日)、宰相・張柬之ちょうかんしは中宗(唐)を東宮(皇太子)に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。
 これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることとなった。しかし武氏の眷属は李氏を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思ぶさんしなどには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。
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 『則天武后津本陽/著(幻冬舎
 手足を切断し酒壺投入。我が子を殺し「大きい」男を愛す熟女暴君。
 文字数 2,782文字
 宮廷サバイバルを生き抜き頂点へ。中国史上唯一の女帝。劇毒親だけど。
 《周》 則天武后(624~705)
 「中国の三大悪女」といえば、漢の呂后、清の西太后、そしてこの周の則天武后(武照)ということになっている。こうのうち、皇帝になったのは則天武后だけ。中国史上、唯一の女帝である。
 武照は裕福な材木商人の娘。後妻の子であったため、父が亡くなった後は異母兄や従弟らに苛められて育ったという。美貌であったため、13歳の時、唐の2代皇帝・太宗の後宮に入った。太宗はこの時、39歳であった。
 太宗が51歳で亡くなると、武照はいったん出家をするが、すぐに3代皇帝・高宗の側室となった。これは、高宗の正室である王皇后が、武照を側室にするようにすすめたからだという。
 というのも、このころ、高宗は蕭淑妃という側室を寵愛していた。王皇后と蕭淑妃の一派は宮廷内で対立していたが、子供のいない王皇后の立場は弱い。そこで、武照を側室にすることで、高宗の気持ちを蕭淑妃から引き離そうと考えたのだ。皇太子時代から高宗は武照と出会っており、二人はすでに心を通わせていたとみられる。当然、王皇后もそれを知っていた。
 そして、王皇后の狙い通り、高宗の寵愛は蕭淑妃から武照に移る。しかし、王皇后のこの企みは、結果、自らの死を呼ぶことになった。
 やがて、武照は女児を生む。王皇后はその赤ちゃんを見ようと武照の部屋を訪れるが、武照が留守だったため、王皇后は赤ちゃんをしばらくあやしたのち、部屋を後にした。
 武照が部屋に戻ってしばらくすると、今度は高宗がやってきた。高宗が娘の様子を見ようとすると、赤ちゃんはすでに死んでいた。
 侍女らから、直前に王皇后が訪問し娘に触れていたことを聞いた高宗は、王皇后が嫉妬の余り赤ちゃんを殺したと考えるようになった。武照も、王皇后の犯行であると示唆したことであろう。
 実は、これは武照が仕掛けた罠であったとも言われている。
 留守中に王皇后の訪問があったことを知った武照は、自分の娘を絞殺する。そして、それを王皇后の仕業と疑われるように仕向けたというのだ。王皇后が高宗から疎まれれば、自分が皇后(正室)になれる、というわけだ。男児を生めば、その子が皇太子になる。
 もはや真相はわからない。もしかしたら、この女の子は不幸にも乳幼児突然死症候群などで命を落としただけだったのかもしれない。いずれにしろ、武照は娘の死によって最大の利益を得た。狙い通り、王皇后は廃后され、武照が皇后となったのである。男児も次々に生まれた。
 王元皇后と蕭淑妃は罪人として投獄されたが、皇后となった武照は二人の処刑を命じる。
 その伝えられる処刑方法がすさまじい。武照は二人の手足を切断、生きたまま酒壺に投げ込んだ。二人は泣き叫びながら死んでいったが、その際、蕭淑妃が「武照は来世、鼠に生まれるがいい。私は猫に生まれ変わって、武照を食い殺してやる」と呪ったため、以降、武照は宮廷で猫を飼うのを禁じたいう。
 高宗は病気がちであり、決断力に欠けていた。自然と権力は武照に集まりはじめ、武照はいわゆる「垂簾政治」を行うようになる。
 武照は、一族のものを要職につけ、また身分の低い者を抜擢して自分の腹心を増やすなどして、権力の基盤を強化していく。密告を奨励して多くの役人を殺した。
 もともと皇太子だった高宗の長男である李忠(側室・劉夫人の子)は廃嫡され、代わりに武照の子である李弘が皇太子となる。廃嫡された李忠は庶民の身分に落とされ、地方に左遷された。この頃、李忠は殺害を恐れ常に女装していたという。しかし、努力の甲斐なく罪を着せられ殺された。
 皇太子となった李弘だが、その重圧のためか精神を病むようになり、20代で亡くなっている。
 しかし、この死にも疑惑があり、宋代に司馬光が編纂した史書資治通鑑」は、武照の政治介入を李弘が諫めたため、武照によって毒殺されたとしている。
 代わって弟の李賢が皇太子となったが、もともと李賢と武照は親子ながら不仲だった。武照も今度はさらに弟の李顕(のちの中宗)の方が皇太子にふさわしいと考えるようになる。李賢は謀反の罪によって地方に流されたうえ、自殺させられた。本物の「毒親」である。
 武照は実の姉、また、その姉の子供である姪の魏国夫人も毒殺したといわれている。魏国夫人は若いころの武照にそっくりで、高宗がこれを寵愛したためだという。また、昔、武照を苛めたという異母兄や従弟らも処刑されたり流罪にされた。「昔、(後妻である)私の母に非礼な振る舞いをした」という理由で、従妹の妻を死ぬまで鞭打たせた。
 高宗の死後、李顕が皇帝になったが(中宗)、これも武照に反抗する様子を見せたため、即位後、わずか55日で廃位させ、その後15年間幽閉された。代わりに中宗の弟・李旦(睿宗)が帝位につく。もちろん、完全に武照の傀儡であったが、それでも武照は飽き足らず、ついには自ら皇帝となり、国号を周と改めた。68歳の時であった。
 武照は還暦を過ぎてからも男を求めた。そんな男の一人が、薛懐義という僧。二人が出会ったとき、武照は61歳。薛懐義は20代半ばである。薛懐義はもともと力士であったというから、すぐれた肉体の持ち主だったのだろう。また、わが国でも、俗に「道鏡は座ると膝が三つでき」などというが、薛懐義にも、そういう身体的特徴があったという。
 しかし、薛懐義はその寵に驕り、また女官と通じるなどしたため、次第に武照の気持ちは離れていく。結局、薛懐義は自寺に火をつけるなど自暴自棄の行動に出て、処刑された。
 武照が次に寵愛したのは、沈南璆という侍医であった。力士から医者へ心移りしたわけだが、女帝の寵愛が重荷だったのか、沈南璆は心を病んでほどなくして亡くなった。武照の周囲にいる人物は心を病んでしまうものらしい。
 70歳を超えてからは張易之・張昌宗という美しい兄弟を寵愛した。彼らを要職につけたうえ、常に身辺に侍らせた。張兄弟に華美な服を着せ、毎晩のように宴会を楽しむ。
 しかし、さすがの武照も老いには勝てず、次第に病気がちになる。すると、宮廷クーデーターが発生し、張兄弟は殺された。武照も退位させられ、ほどなくして亡くなった。
 「資治通鑑」は、武照は自分の血筋のものだけでも23人を殺したとし、手厳しく非難している。しかし、男の暴君にはさらにとんでもない家族殺しがいくらもいるのだ。儒教的価値観のためか、あるいは好奇のためか、女性が権力を握ると「女禍」などと一括りにされ、厳しい史的評価が下される傾向にある。しかし、むしろ、これだけ旺盛な権力欲を持ちながら天寿を全うするあたり、かなりバランス感覚に優れた独裁者であったようだ。
 『則天武后』氣賀澤保規/著(講談社学術文庫
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「則天武后」の解説
 則天武后 そくてんぶこう
 (624ころ―705)
 中国、唐朝第3代高宗の皇后で、のち自ら周朝を建てる(在位690~705)。生年は一説に630年ころともいう。本名照、山西省の大材木商で唐朝の創業に貢献し栄進した武士(ぶしかく)の娘。美貌(びぼう)で14歳のとき太宗の後宮に入り、帝の死後尼となっていたところを高宗(李治(りち))にみいだされ、寵(ちょう)を得たと伝えられる。姦計(かんけい)を用いて皇后王氏らを陥れ、655年自ら皇后に成り上がる。この立后には元勲長孫無忌(ちょうそんむき)一派とそれに対抗する官僚グループの対立が絡んでいたが、彼女は文芸と吏務に長じた新興官僚を巧みに登用操縦して旧貴族層を排斥した。数年ののちに高宗が健康を害すると、自ら政務を親裁し独裁権力を振るうに至った。683年高宗が病没すると、自分の子中宗・睿宗(えいそう)を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業や唐の皇族らを武力で打倒し、同族を重用した。さらに御史や隠密(おんみつ)を使って大規模な弾圧を行い、政権強化に努めた。一方、女徳をたたえる仏経を偽作し、また符瑞(ふずい)を利用して武氏の天下を宣伝し、ついに690年国号を周と改め、自ら皇帝を称し、中国史上唯一の女帝となり約15年全国を支配した。
 周の伝統に従って暦法、官名などを改正し、また十数個の新字(則天文字。圀=国、=日、○=星、=人、=照など)を使わせるなど人心一新を図った。治世には、北門学士らに命じ、『臣軌(しんき)』『百寮新誡(ひゃくりょうしんかい)』以下多数の修撰(しゅうせん)を行い、また臨時の使者を各地に派遣して人材の吸収に努め、さらに人気取りに官爵をばらまき、また明堂、天枢、大仏のような大建築をおこし、国威宣揚に努めた。狄仁傑(てきじんけつ)、魏元忠(ぎげんちゅう)ら名臣をよく用いたが、末期には張易之(えきし)兄弟ら寵臣が政治を乱し、ついに705年張柬之(かんし)らのクーデターにより、中宗の復位と唐の再興をみた。のちまもなく高齢で病死した。
 彼女は悪辣(あくらつ)な策略や残酷な弾圧に加えて、陽道壮偉(巨根)の男を求め、妖僧(ようそう)薛懐義(せつかいぎ)や張易之兄弟との醜聞を残すなど、非難の的となる反面、自ら書をよくし、学芸を庇護(ひご)するとともに、有能な人材を抜擢(ばってき)して新興階層を受け入れ、政治、社会、文化の各方面にわたり新機運をもたらした点は、高く評価される。死後、夫高宗と長安の北西乾(けん)県にある梁(りょう)山の乾陵に合葬された。ここにはみごとな石彫天馬や夷酋(いしゅう)列像(首を欠く)など当代文物をとどめ、周辺に壁画で名高い永泰公主墓など陪冢(ばいちょう)も多く、文物保管所ができている。彼女をテーマとする林語堂(りんごどう)の小説や郭沫若(かくまつじゃく)、田漢の戯曲など作品も多く、その希代の女傑ぶりはいまなお語りぐさとなっている。
 [池田 温]
 『原百代著『武則天』全8巻(講談社文庫)』▽『外山軍治著『則天武后』(中公新書)』
 [参照項目] | 高宗
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96人の人物で知る中国の歴史
則天武后(上) (幻冬舎文庫)
則天武后(下) (幻冬舎文庫)
則天武后~中国・惨殺の歴史~(単話版)<則天武后~中国・惨殺の歴史~>
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 現代日本女系天皇女性天皇の賛成派・推進派は、日本史おろか中国史西洋史などの大陸史を知らない。
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 中国を支配する中華皇帝の統治権は、日本の天皇のような民族神話由来の血・血筋・血統を神聖不可侵の正統性とするとは違い、天・天帝が認める天子としての皇統だけを唯一の正統性としている。
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 則天武后は、遊牧民族で田舎の材木商武氏の娘で、唐帝室李氏の血を引いてはいなかったが、母親は滅びた隋帝室楊氏の皇女であった。
 息子の睿宗(えいそう)を廃位して帝位を簒奪して自ら皇帝に即位するや、国号を李氏唐から武氏周(武周)に改め中国を乗っ取った。
 武后は帝位を強奪する為に、実の母親であっても邪魔になる息子を殺害するか追放した。
 則天武后の皇帝としての正統性は、夫ある李氏本家の血を引く高宗の皇后・妻であった事、国母として生んだ子供がそれぞれ皇帝に即位した事、先の隋帝室楊氏の血を引く皇女を母とした事であった。
 つまり、女系相続と女性即位である。
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 朝鮮国王の王統としての正統性は、中華皇帝に忠良なる臣下を誓う事で国王に承認されて得られ、由緒正しい血筋・血統ではなかった。
 李氏が代々朝鮮国王に即位できたのは、歴代国王が徳を有し仁政を行ったからではなく、ただ中華皇帝の面倒臭く深く関与したくないという惰性・慣性に過ぎなかった。
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 黄河文明を創った農耕民の漢族中国人による中華王朝は、三国時代と司馬朝晋までの古代の諸王朝、趙朝宋王朝、朱朝明王朝で、その他は北方・西方の遊牧民の異民族征服王朝であった。
 異民族征服王朝時代、漢族中国人は奴隷であった。
 東方の朝鮮人は、一度も中華帝国をつくった事なく、中華帝国の属国の地位に甘んじ、礼法の国として、命じられるままに宮廷内奴隷(宦官)や宮廷内慰安婦(キーセン)を数を揃えて献上していた。
 南方の越南人(現・ベトナム人)には、中華世界には関心がなく、むしろ幾度も侵略してくる中華帝国の侵略と熾烈な防衛戦争を繰り返していた。
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 中国皇帝は、漢族中国人だけでなく人種・民族、宗教、出自・出身、身分・家柄、血筋に関係なく能力があれば誰でも即位できた。
 それは、朝鮮半島の諸王朝・諸王家でも同様であった。
 禅譲放伐
 中国皇帝の正統性は、儒教道教の天人相関説・受命思想で、天(天帝)の子であり天命により天下を治める事が認められる。
 天命を失って帝位を去った旧帝室の一族は皆殺しにされ、旧主に忠誠を誓う者は女子供に関係なく家族全員・一族全員・身近に住んでいた住民も含めて大虐殺された。
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 ウィキペディア
 天人相関説(てんじんそうかんせつ)とは儒教で主張される教義の一で、天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与えあっているという思想。天人感応説とも言う。
 前漢儒学者董仲舒は『春秋繁露』で森羅万象と人の営みには密接な関係があると説いた。
 概説
 天子の所業は自然現象に象られ、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来などをもたらし(→「災異説」)、善政を行えば、瑞獣の出現など様々な吉兆として現れるという。こういった主張は君主の暴政を抑止するために一定の効果があったと考えられる。
 天変地異や疫病流行などの災害を防ぐため、君主は善政を布くことが模範として求められ、特別に行うそれらの施策は「徳政」と言われた。元寇に見舞われた鎌倉時代を中心に中世の日本で行われた徳政の神領興行も、寺社の復興や祭礼・祈祷の勧奨など、本来はこのような意味を持っていたが、次第に朝威官権による債務の帳消し、土地所有権の回復などを意味するようになった。
 中国の過去の王朝の歴代皇帝は、地震や干ばつが長引いた場合など、災害が起きた時には、必ず「罪己詔」を発し、自らを才の無い、徳の無い人間であると称し、正殿を避け、食を減らし、己を罪とし、助言を求め、罪を犯した者を赦し、隠すことのない直言を求める詔を下し、誤ちを補った。
 天人相関説はやがて俗信と化し、占卜の域を出なくなる。後漢では王充により「天文は純然たる気の運行にすぎず」として批判された。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「中華思想」の解説
 中華思想 ちゅうかしそう
 一般的に、自己の文化が最高で天下の中心に位置するとみて、それと異なる周辺の文化を蔑視(べっし)する考え方をいう。こういう思想がとくに根強く存在したのは、東アジアでは中国であり、「中華」の周辺に「夷狄(いてき)」を配するところから「華夷思想」とよぶこともある。この思想は、もともと儒教の王道政治理論の一部として形成された。儒教は天子(王者)がその徳によって民をあまねく教化することを理想とするから、王者の住む中華の土地はむろんのこと、辺境や塞外(さいがい)も「王化」が及ぶはずの地域であり、たとえ現在は夷狄であっても、将来いつの日にか中華の文化に同化する可能性があることになる。
 こういう王者の徳を基準にした文化的な同化思想が中国で形成されたのは、戦国時代(前5~前3世紀)から秦(しん)・漢時代にかけてのことであった。それ以前の春秋時代(前8~前5世紀)ごろまでは、戎(じゅう)、狄、蛮(ばん)、夷の異種族は中華の諸侯から政治的に排除されるだけであった。ところが「戦国の七雄」とよばれるような、比較的広い領域を支配する国家が出現するようになると、それまで戎、狄、蛮、夷として排除されていた異種族もその郡県制領域支配のなかに取り込まれ、「王者」の徳が及べば中華に上昇する可能性があるとみなされるようになった。中華思想が、異なった種族の文化の存在を認めるのは、彼らの文化の独自の価値を認めるからではなくて、あくまで中華文化に同化する可能性をもつ限りにおいてである。したがって外国からくる使節も、中華を慕って「朝貢」したという形をとることによって、わずかに受け入れられた。
 中華思想は、自己を天下で唯一の最高の中心と考えるから、隣接する対等の国の存在を認めない。ここまでが中国だと自らを限定する国境や領土の観念をもつことは、「王化」の拡大する可能性を否定することになるからである。しかし、そうした国境や領土に関する観念のあいまいさが、近代以降になり、列強による中国領土・利権の分割を容易にさせたことは否定できない。
 [小倉芳彦
 『小倉芳彦著『中国古代政治思想研究』(1970・青木書店)』
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 中華儒教は身分差別主義で、民を読書人と小人に分け、小人を下等人と軽蔑して人命・人道・人権を認めず完全否定した。
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