🌋11〕─5─古代日本に揚子江下流域の水稲が複数ルートから伝播した。古代朝鮮は陸稲が主流。~No.42 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 稲作に関して、日本は朝鮮(韓国)に感謝するところは何もない。
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 米は、黄河文明陸稲で、長江文明水稲
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 『世界の歴史 2 中華文明の誕生』 尾形勇、平勢隆郎 著 中央公論社
 「水田址と日本への稲作伝播
 我が国の藤原宏志氏らが中国ではじめて検出に成功した新石器時代の水田址は、従来我が国の水田遺構から類推されていたのに比較して、質的に異なる原始的な段階のものであった。我が国の水田址は、各地で検出例がある。扇状地など比較高い土地の利用にはじまり、低地に広がるという時期的方向性をもつとはいえ、当初から面的に広がるものであった。そのため、水田址といえば、面的に広がるというのが、いわば常識となっていた。
 ところが、中国江蘇省の草鞋(そうあい)山遺跡から検出された馬家浜(ばかほう)文化の水田址は、図に示すように比高差1~2メートルの低地部分に、列状にいとなまれいた。この近くの微高地においては、狩猟の跡を示す獣骨が検出された。馬家浜文化にあっては、水田耕作はまだ生活を安定させるにいたらず、狩猟採取と並行していた可能性が濃厚である。これに対し、同地において、馬家浜文化水田址の上層に確認された東周時代(春秋戦国時代)の水田址は面的に広がるものであった。
 馬家浜文化水田址のごとき原始的な稲作技術が、仮に我が国に伝えられたとしても、狩猟採取段階(狩猟採取の社会にあっても、豊かな自然の恵みを背景にして、巨木による建造物を構えていたことが、近年の縄文遺跡発掘で明らかになっている。縄文時代について必要以上に低い生活レベルを想定できなくなった)にある縄文人に革命的な変化を引き起こすことはないだろう。このように考えると、前6000年紀という気が遠くなるほど古い昔にすでに開発されていた稲作が、何ゆえに我が国には縄文晩期にいたるまで伝えられなかったのか、という疑問にも解答が用意されそうである。つまり伝えられなかったのではなく、根付かなかったということである。このことによって論じなければならなくなるのは、我が国縄文文化が、原始的水田に魅力を感じない程度に豊かだったのではないかということである。
 この問題は、また中国における面的な水田がいつ出現したか、にも関わる。現在のところ、東周時代と馬家浜文化を結ぶ時代の水田址は、なお検出されていない。面的な水田の出現が、新石器時代広義の竜山期中・後期であるのなら、城壁の囲む特殊な空間に関わることになり、春秋末期以後のことであれば、鉄器の出現普及に関わることになる。
 後者の場合であれば、面的な水田が出現してさほど時を移さず、我が国にその技術が渡来して根付いたことになり、かつ長江下流域において呉・越が興起する原因が、水田の質的変化に求められることになる。
 関連して述べれば、前486年に呉の手で淮水(わいすい)と長江を結ぶ運河が開通し、その翌年には呉の船団が山東半島を回って北の海から斉(せい)の首都臨淄(りんし)を攻めている(『春秋左氏伝』)。この時点で、長江下流域と日本に直接稲作を伝えたことが議論される山東とは舟で直接結ばれたのであり、長江下流域は、我が国にとってぐっと身近な存在となっている。稲作の波状的伝播を議論する場合は、山東半島からの直接的伝播に加え、その山東を経由しての長江下流域からのいわば直接的伝播にも目配りしなければならない。
 なお、稲にはインディカとジャポニカというふたつの種類があることが広く知られ、従来前者が長い穀粒でぱさぱさの舌触り、後者が短い穀粒で粘性のある舌触りがあり、前者・後者ともに雲南・アッサムが起源地であると考えられてきた。しかし、佐藤洋一郎氏らの研究によれば、遺伝子レベルでの調査と研究によって、穀粒の長短自体はふたつの種類には関係がなく、舌触りも明確には分けられないといってよいこと、ジャポニカには温暖ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャワニカともいう)があり、いずれも長江中・下流域が起源地であるらしいことがわかってきた。藤原宏志氏の研究に寄れば、イネ科の植物に特徴的なプラントオパールという物質を検討すると、我が国では古くから熱帯ジャポニカ・温暖ジャポニカのいずれをも栽培している。熱帯ジャポニカは現在東南アジアなどに比較的南の地域で栽培されている品種であり、稲の南方からの渡来を検討する上で無視できない。温暖ジャポニカ・熱帯ジャポニカいずれも長江中・下流域が起源地であるということからすると、この種の研究においても、稲作が長江中・下流域から直接渡来した可能性を視野にいれなければならなくなる。中国において面的な水田がいつ出現したかという問題は、直接的に我が国の歴史に関わるホットな話題になった。」
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 米は、日本では低地の水田で栽培する水稲(すいとう)で、朝鮮では草原の畑で栽培する陸稲(おかぼ・りくとう)であった。
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 日本文明は、北方の黄河文明より南方の揚子江下流にあった長江文明の影響を強く受けていた。
 日本から見ると、黄河文明長江文明も同じ大陸の中華文明にしか見えない。
 黄河文明長江文明は、生き方が「南船北馬」で異なった別の文明である。
 現代中国では、長江文明は跡形もなく全てが消滅している。
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 農林水産省
 お米が日本に入ってきたルートをおしえてください。
 こたえ
 米(稲(いね))の伝来ルートは
1.朝鮮半島(ちょうせんはんとう)経由(けいゆ)
2.台湾(たいわん)・沖縄(おきなわ)経由
3.中国大陸から直接(ちょくせつ)
 という3つの学説(がくせつ)があります。
 このうち、中国大陸から直接伝来(でんらい)したという学説がいちばん有力です。
 参考
 公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構ホームページ「お米・ごはんBOOK」(外部リンク)
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 亀田製菓株式会社
 お米の歴史
 ~お米の起源と歴史~
 日本の米の起源
 日本米の起源は、中国の福建米(ふっけんまい)であろうとされています。日本米を肥料をやらずに放っておくと、やや長く色が赤くなります。日本の原始米は、おそらく赤米だったと考えられます。赤長米(つまり福建米)が日本で栽培された時期は、約3,000年ほど昔の縄文(じょうもん)時代でした。少なくとも、今の福井県で栽培されていたことまではわかっています。
 参考/(社)農協協会「JACOM」
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 ウィキペディア
 朝鮮の農業について述べる。
 朝鮮半島北部では畑作、南部では水田が多い。なお、朝鮮語では「田」という漢字は日本語の「畑」を意味する。「水田」を表すために朝鮮で独自に「畓」(답、タプ)という漢字が作られた(韓国における漢字#新製の文字)。なお、日本語の「畑」という漢字は日本で独自に作った国字である。朝鮮では稲作は、長い間、主に陸稲水稲の直播栽培が行われ、田植えが広まったのは、李氏朝鮮後期になってからである。
 歴史
 朝鮮では、櫛目文土器時代中期(紀元前3500年から紀元前2000年頃)に雑穀などの小規模な栽培が始まったと見られる。無文土器時代(紀元前850年から紀元前550年頃)には南朝鮮で大規模な水田も作られた。稲の伝来経路については、北方から大陸を伝わって来たという説、山東半島から朝鮮半島中部に伝わったという説、中国江南から南海岸地方に伝来したという説の3説がある。
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世界の歴史 (2) 中華文明の誕生
長江文明の発見―中国古代の謎に迫る (角川選書)