🗾13〕─1─日本民族の祖先である縄文人は猿のボノボと似ている。~No.62No.63No.64 

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 ある意味に於いて「日本人はイエローモンキーである」は正しく、それは差別用語、蔑称ではなく褒め言葉、尊称である。
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 2022年7月23日 MicrosoftNews AERA dot.「悲惨な事件や戦争ばかりでも「人類は平和な生き物」 根拠は、犬歯が小さく進化したこと
 © AERA dot. 提供 (C)Shinya Kinoshita/Cork
 残酷な事件や戦争を目の当たりにすると、「人間って争ってばかりの残酷な生き物だよね……」と感じてしまう人も多いと思います。『ざっくりわかる8コマ人類史』(監修/更科功 まんが/木下晋也)では、そんな人類にまつわる謎や疑問や迷信を、8コマまんがでざっくりゆる~く解説。今回は、人類は本当に残酷な生き物なのか?についてみていきましょう。
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 前回の「浮気は人間の本能」 そんな言い訳を人類「進化」の観点で論破するでは、「人類は一途な生き物である」と解説しました。実は、「人類の一途さ=一夫一妻制」は人類に、直立二足歩行以外の「進化」ももたらしたことがわかっています。
 それは4本ある牙、つまり「犬歯」の縮小です。チンパンジーやゴリラ、ボノボといった類人猿は、いずれも氷柱(つらら)のように鋭く大きな牙を持っています。実際にチンパンジーは、オス同士で争ったときにかみついて相手を殺してしまうことも珍しくありません。
 一方で、ヒトの犬歯は、ほかの歯と同じくらいの長さで、形状もひし形に近く、殺傷能力はほぼありません。このように人類の犬歯が小さくなったのは、ほかの類人猿に比べて争う場面が減少し、牙の有用性がなくなったためだと考えられます。
 牙の大小はそれぞれの「夫婦(群れ)の形態」が大きくかかわってきます。チンパンジーやゴリラの主食は果物なので、狩りのために牙は使いません。使うのは、ほかのオスと争うときです。
 チンパンジーは乱婚、ゴリラは一夫多妻制のため、メスを奪い合ってほかのオスと戦うことが多くなります。このとき相手を戦闘不能にするための武器として、大きな牙が必要です。
 一方、人類の祖先は一夫一妻制を選択し、メスをめぐってほかのオスと争う機会が減少しました。それに伴い牙も不要となり、自然と小さくなったと考えられます。
 使わなくても一応残しておけば?と思うかもしれませんが、大きな犬歯を作るためには、そのぶん余計にエサを食べなくてはならないなど、余計なエネルギーがかかります。進化には、「とりあえず取っておこう」ではなく、断捨離の精神が宿っているのです。
 結果、犬歯の縮小は、時代が進むごとに顕著になり、新しい人類ほど小さくなっていきます。そのため直立二足歩行と並び、犬歯が小さいかどうかが、人類とそのほかの類人猿の化石を見分けるときの大きなポイントにもなっています。
 「ヒトは殺し合いもする、残酷な生き物」と言われることもありますが、「できれば争いたくない」という人が大半ではないでしょうか。平和な生き物としては「ボノボ」が知られています。争いが起きそうになるとお互いの性器をこすり合わせて緊張を解いたりするのです。でも、その犬歯はけっこう立派です。
 ヒトは、ボノボより体は大きいが、犬歯は小さい。人類は本来、争いを好まない平和な生き物なのです。
 (構成/ライター 澤田憲、生活・文化編集部 野村美絵)」
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出典:日経新聞 2015年07月19日朝刊
 日経新聞連載「チンパンジーと博士の知の探検」第10回
 平和な生活愛するボノボ
 京都大学霊長類研究所教授 松沢哲郎
 Credit: Tetsuro Matsuzawa/Primate Research Institute, Kyoto University
 写真:野生のボノボの母親は1歳の男の子をしっかりと足で抱きしめている(コンゴのワンバ森林)
 チンパンジーと並んで、人間に最も近いのはボノボである。日本の動物園にはいないので、あまりなじみがないかもしれないが、チンパンジーより細身で、小顔で、唇がぽってりしている。
 約600万年前に、ヒト属の祖先とチンパンジー属(パン属)の祖先が分かれ、パン属の祖先はさらにチンパンジーボノボに分かれた。
 一方ヒト属の方は、われわれサピエンス人と、約3万年前に絶滅したネアンデルタール人に分かれた。チンパンジーボノボの関係は、いわばサピエンス人とネアンデルタール人の関係だ。
 わたしは2010年に、アフリカのコンゴに、野生のボノボを初めて見に行った。まず驚いたのは、ボノボが仲間に食物を分け与えていることだ。一緒に行った山本真也さん(現在は神戸大学准教授)が、動物行動学分野のビヘイビア誌で詳しく報告している 1。
 現地語で「ボーリンゴ」と呼ばれる甘くて大きな果実がある。若い女性のボノボが、自分でも容易に取れるのに、わざわざ年上の女性に近づいてその実をねだる。
 チンパンジーなら、この状況で自分の食べ物を与えることはまずありえない。しかし年上のボノボ若い女性が実をもっていくのを許す。若いボノボがわざわざ食べ物をねだり、年上のボノボが気前よくそれを分け与える。そうすることで親密感が増しているらしい。
 コンゴでは、隣り合ってすんでいる2つのボノボの群れが出会う場面にもたまたま遭遇した。ボノボは興奮して声をあげるが、けんかはしない。そのかわり老若男女すべての組み合わせでセックスする。男女だけではない。男性同士、女性同士もある。
 男女のときは男性器を女性器に挿入するので、行動の定義上、セックスとしか呼びようがない。一方、同性同士では、対面して抱き合い、互いの性器をこすりあわせる。その様子を見ていると、セックスと呼ぶよりもあいさつに近い。
 日本の文化では、あいさつをするときには互いに距離をとってお辞儀をする。あいさつのために握手する文化も、抱き合う文化もある。頰と頰をすり合わせる、さらには鼻先をすり合わせる文化もある。であれば、性器を重ねるあいさつがあっても不思議ではない。
 また英国のケンブリッジ大学との共同研究で、ボノボチンパンジーはすんでいる環境は似通っているが、チンパンジーが棒でアリを釣って食べるなどさまざまな道具を使うのに対して、ボノボはほとんど道具を使わないことがわかった。
 京都大学野生動物研究センターは、2013年に日本で初めてボノボを受け入れ、研究を始めている。最近、ドイツのマックスプランク進化人類学研究所と共同で、ボノボがどんなものを見ているかを調べる実験をした。 2
 モニター画面に仲間のボノボの写真を映し出し、アイトラッカー(視線検出器)という装置を使って、どこを見ているかを検出する。
 全身の写真を見せると、ボノボチンパンジーよりも長い時間、仲間の顔に注目した。次に顔写真だけを映し出すと、特に目の部分を注視した。ボノボのほうがチンパンジーより、仲間の視線に敏感なようだ。
 これら一連の研究から、チンパンジーボノボには際立った違いがあることが見えてきた。
 チンパンジーは男性優位で、多様な道具を使う。隣り合う群れは仲が悪く、顔を合わせれば戦いに到る。
 ボノボは女性優位とまではいえないが、性による優劣はなく、道具はほとんど使わない。隣り合う群れは平和に共存する。相手の顔をよく見ており、視線に敏感だ。日々の暮らしの中で積極的に親しい関係を作り出そうとする。
 人間には、チンパンジー的なものとボノボ的なものが同居している。ボノボの研究はチンパンジーにくらべて立ち遅れているが、ともに人間にもっとも近しい種である。人間の心の進化的な基盤を考え、「人間とは何か」という問いに答えを出すには、チンパンジーだけでなく、ボノボのさらなる研究が必要になるだろう。
 日経新聞連載新聞記事『平和な生活愛するボノボ
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 日本経済新聞
京大、ヒトに最も近い霊長類の一種であるボノボが「嫌悪感」によって汚れた食物を避ける行動を解明
 2018年6月8日 17:00
 発表日:2018年6月8日
 ボノボが「嫌悪感」によって汚れた食物を避ける行動を解明しました
 ボノボはヒトに最も近い霊長類の一種です。動物には、嫌悪感によって病原菌や寄生虫が体内に侵入することを防ぐ「嫌悪感による適応システム」が備わっていると考えられています。Cecile Sarabian 霊長類研究所博士課程学生、Andrew MacIntosh 同准教授らの研究グループは、ボノボが汚れのない食物は積極的に食べる一方で、糞や土で汚れた食物には一切手を付けないことを実証しました。これは、ボノボにも上記のシステムが備わっていることを示し、ヒトが進化の過程で、どのようにしてこうしたシステムを獲得してきたのか解明する手がかりになると考えられます。
 本研究成果は、2018年6月4日に、英国の国際学術誌「Philosophical Transactions of the Royal Society B」のオンライン版に掲載されました。
■研究者からのコメント
 ヒト以外の霊長類は、どのようにして病気に感染しないように行動選択しているのか? 今回のボノボについての研究は、そんな疑問から始まりました。この研究は、私たちがこれまでに行ってきたニホンザルチンパンジーに関する研究と軌を一にするものです。一連の研究によって、ヒト以外の霊長類も、ヒトと同じように対象を見たり、においを嗅いだり、触ることによってリスクを理解できることが分かりました。さらに、彼らが病気に感染するリスクを避けるために行動を変化させていることも明らかになりました。ヒトは、不衛生なものへの嫌悪感から、飲食物や周辺環境を衛生的に保とうとする傾向がありますが、ボノボたち霊長類の行動もこれと機能的に似通っています。こうした嫌悪感は、霊長類を病気の感染から守る役割を果たしていると考えられますが、それを証明するにはさらなる検証が必要です。
■概要
 動物には、寄生虫や病原菌による脅威を避けるために、嫌悪感によってそれらが体内に侵入することを防ぐ「嫌悪感による適応システム」が備わっていると考えられています。本研究グループは、チンパンジーと同じくヒトに最も近い霊長類の一種であるボノボが、糞や土で汚れた食物に対しては食欲を減退させることを実証しました。ボノボは、汚れのない食物は積極的に食べる一方で、糞や土で汚れた食物には一切手を付けませんでした。さらに、悪臭を放つ食物に直面すると、それを取ろうとする素振りさえ見せないことが分かったのです。また、ボノボの幼児や乳児は、汚れた食物をあらかじめ注意せずに食べてしまう傾向があることも確認されました。これは、ボノボが幼児期にこの行為によって病気になり、成長の重要な時期に免疫システムを発達させている可能性を示唆しています。また、本研究では、ヒトに見られる「食物への新奇性恐怖症」が、ボノボにはあまり見られらないことが明らかになりました。病気のリスクを避けるために見慣れない食物を避けるヒトとは異なり、ボノボは新しい果物でも比較的抵抗なく口に運んでいたのです。
 本研究成果は、ボノボがヒトと同じように嫌悪感に従って摂食行動を決定していることを示すとともに、ヒトの嫌悪感の起源を探るうえでも重要な知見を提供するものと言えます。
 ※図は添付の関連資料を参照
■詳しい研究内容について
 ・サルでも汚いものは食べたくない!―ボノボが「嫌悪感」によって汚れた食物を避ける行動を解明―
 http://www.kyoto-
 u.ac.jp/ja/research/research_results/2018/documents/180604_2/01.pdf
 リリース本文中の「関連資料」は、こちらのURLからご覧ください。
 図
 http://release.nikkei.co.jp/attach_file/0482072_01.JPG
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 日本人と中国人・朝鮮人は、別種のアジア人で、似ている所はほとんどない。
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 同調圧力や自粛警察、イジメや意地悪を当然の権利の様に行う現代日本人は、昔の日本人とは違う別人のような日本人である。
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 数万年前の石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)は、その後の数千年前の弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)と比べて平和な生活を送っていた。
 日本列島における石器時代縄文時代は、争いや戦争が絶えなかった人類の歴史・世界の歴史上、特別で特殊な、それほど奇跡的な平和時代であった。
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人、縄文人の子孫である。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
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 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 つまり、日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりである。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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