🗾11〕─2─100万前にホモ・エレクトスが陸伝いに日本列島に歩いてきて住み着いた。~No.53 

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 更新世新生代第四紀の前半。約258万年前から約1万1700年前までの期間。
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 『日本人はどのように自然と関わりあってきたか 日本列島誕生から現代』
 コンラッド・タットマン 著  黒沢令子 訳
 築地書館
 「第2章 狩猟採集社会──紀元前500年頃まで
 ……
 考古学者は狩猟採集社会を、その社会で使われていた石器に基づいて長いこと分類してきた。『旧石器社会』と呼ばれている原始的な社会形態は、粗雑な石片や石の剥片を使って、叩き切る、削り取るなどの切削を行っていた社会である。そして、時代が下がると、石器の加工技術が洗練されてくる。割ったりとがらせたりしやすい石材を選び、研磨して様々な鋭利な尖頭器や石刃などを制作するようになったのだ。さらに、こうした『新石器時代』の人々は土器の製造や他の様々な技術を開発したり、社会制度を作り出したりするようになる。
 しかし、日本や周辺の北東アジアでは、旧石器時代の人々は精錬された石器の加工技術を身につける前に、土器を製造して使用するようになったようだ。そこで、ここでは便宜的に『先土器時代』と『土器時代』という名称を用いることにする。後者は一般的に『縄文時代』と呼ばれており、この時代に作られた土器の表面に『縄目文様』が付けられていることに由来する。
 日本の狩猟採集社会はこの二つの段階に大別できるが、それについてはいくつもの疑問がわいてくる。例えば、人類が日本列島にいつ、どこから、どうやって、何のためにやってきたのか、このできごとは更新世の気候変動とどのような関係があったのか、列島にやってきた人々はどのような暮らし方をしたのか、列島に定住した人々は周辺の生態系にどのような影響を与え、生態系からはどのような影響を受けたのか。さらに、第3章で詳しく取り上げるが、狩猟採集社会はなぜ、どのようにして農耕社会に取って代わられたのかという点である。
 環境的背景──気候変動
   【日本の気温変動】
 寒冷期              温暖期
50万~40万年前
                 30万年前
12万年~11万年前
                 10万年~8万年前
7万年~5万年前
                 5万年~3万3000年前
3万3000年~2万8000年前
                 2万8000年~2万5000年前
2万5000年~1万5000年前
                 1万4500年~1万3000年前
1万2500年~1万1500年前
                 1万1000年~5000年前
4500年から2000年前
                 2000年前以降
 日本列島に人類がやってきたのは、海水面が低下し、列島に歩いて渡ることができた更新世後期の氷河期だったと思われるが、気候変動と狩猟採集文化の発展に関する考古学的知見がまだ十分に蓄積されていないので、とりわけ、初期の段階の正確なところはほとんどわかっていない。とはいえ、その頃の人類の暮らしは気候の変動に大きな影響を受けたと考えられる。
 この時代の気温の変動を大まかに示すと、上のようになる。
 各時期の中にも、特に初期の時期には中規模の気温変動があったことを付け加えておく。実際、50万年から40万年前の寒冷期には、10万年前から現代に至る時期と同じくらい変動が生じたのではないかと考えられている。
 また、各時期の初めと終わりの数千年は時期に応じて温暖化、または寒冷化が進んでいる。……
 このような気候の変動は人間生活に2つの点で大きな影響を及ぼした。気候の変動は海水面の変動を引き起こし、その結果、世界中の海岸線の形が変わったので、低地の地形や喪失が生じて、他の生物と同様に人間の移動にも影響が出る。さらに、気候の変動によって、平均気温および降水の量とパターンが変わり、後者の変化は生物群集の変化を引き起こしたので、人が利用できる食料の種類や量に大きな変化が生じた。
 海峡と海水面 
 現在の日本はアジア大陸から海峡で隔てられている列島なので、海水面の変化は重大な問題である。しかし、以下に示すように、列島と大陸を隔てている海峡の深さは一様なわけではない。

 日本周辺の海峡の深さ(海峡名──深度)
間宮海峡(シベリアとサハリンの間)─15メートル
宗谷海峡(サハリンと北海道の間) ─60メートル
津軽海峡(北海道と本州の間)   ─100メートル
対馬海峡長崎県対馬壱岐の間)と朝鮮海峡対馬朝鮮半島の間)
                 ─100メートル以上
黄海  (中国と朝鮮半島の間)  ─50メートル以下(平均)   

 千島列島には深さが200メートルを超える海峡が3ヵ所ほどあり、列島が分断されている。琉球諸島も同様に深い海峡で隔てられており、小笠原諸島にはさらに深い海峡がある。
 こうした海峡はたいてい海流で海底をえぐられているので、今日の絶対標高は更新世後期通じてほとんど変わっていないだろう。しかし、黄海の海底は昔と比べると、かなり浅くなっているだろうと思われる。
 ……
 こうした海峡の深さの違いは重要な意味を持っている。日本列島がアジア大陸と陸続きになっていた時期は、氷期によって大きく異なっているからだ。陸続きになっていた時期に著しく差がみられるのは、地球の気候変動とそれに起因する海水面の変化がゆっくりだったためである(章末付録を参照のこと)。
 例えば、最後に訪れた最大の氷期では、サハリンは1万年から9000年前まで、氷期の前後を合わせると、数万年にわたってシベリアと確実につながっていただろう。一方、サハリンと北海道が陸続きになっていた時期はそれに比べると、かなり短く、おそらく1万3000年前頃までだったろうと思われる。日本の他の地域(現在の本州、四国、九州)がサハリンや対馬を介してアジア大陸と陸続きだった時期はさらに短く、1万7000年前から1万6000年前頃までの数千年に過ぎなかったろう。
 つまり、人間を含めて動植物がアジア大陸から日本列島(少なくとも北海道)へ陸伝いにやってくるには、対馬経由より間宮海峡の方がずっと長い期間にわたって利用できたことになる。さらに、丸木舟や筏(いかだ)、動物の革を張った小舟などを持ったとしても、北方経由の方が渡りやすかったであろう。海水面が高い時期でも北の海峡の方が狭かったからだ。
 気温と降水量
 地球規模の気温の変動は、氷河の生成や融解とそれに伴う海水面の上昇や低下をもたらすだけでなく、生物群集にも大きな変化を引き起こす。第1章でみたように、今日の日本の生態系は温暖にみられる特徴をもっているが、こうした豊かな生態系が保たれているのは、氷河期に日本の西南部とアジア大陸を結びつけていた『黄土平原』という低地のおかげである。
 最終氷河期の最寒冷期(およそ2万年前)には、日本列島は日本海を囲む一続きの『弧状の陸地』としてアジア大陸とつながっていたので、動植物の分布は現代のような温暖な間氷期とは、著しく異なっていた。
 ……
 氷期後の温暖化が進んでいた数千年は、数百年来みられている自然林が日本列島にしだいに再生されていった時期でもあった。こうした自然林は地域によって構成樹種が異なることだけでなく、樹種や下層植生も多様性に富み、そこに生息する鳥類や哺乳類などの動物相も豊かである。
 最初の渡来人
 こうした長期にわたる植生の変化は、日本列島に定住した人々にとって大きな意味を持っていた。植生の変化は、人々の重要な食料源だった動物に大きな影響を与えたからだ。氷河期の北東アジアでは、ナウマンゾウ、オオツノジカ、ヤギュウ、マンモスなどの寒さに強い哺乳類がツンドラや低木林、過渡期の草原で採食していたが、人間を含めクマやオオカミなどの捕食者にとってこうした草食動物は重要な食料源だった。気候の変動に伴い、森林を構成する樹種が変わると、それに合わせて草食動物も採食地を変えていた。寒冷期には南東へ、温暖化には北西へ移動したのだ。肉食動物もその後を追って移動していった。
 ……
 第1章で、日本列島の地理的位置がその気候と生物群集を決定づける重要な要因であることをみてきたが、ある研究者がいみじくも述べていうように、その同じ要因が歴史の形成にも直接関わっている。
 
 ユーラシア大陸の東の果てに位置しているので、ユーラシア大陸でも日本列島は、人間が定住した最後の場所だった。
 
 この言はホモ・サピエンス(現生人類)だけでなく、それ以前の原人にも当てはまるようだ。
 最古の証拠になると、およそ100万年前、ホモ・エレクトスに分類されている原人が現在の北京付近に住んでいた。……
 ……
 それ以後は、デニソワ人などの少なくともいくつかの集団の旧人が日本に住み着いていたのではないかと思われる。10万年ほど前に遡る九州の遺跡から、北京付近で見つかったものに似た石斧が出土している。関東北部の栃木市にも、8万年から4万年前頃に少なくとも断続的に旧人が住み着いていたようである。この時期の遺跡から出土した石器はシベリアの遺跡で発見されたものに似ているものが多いので、サハリンを経由してもたらされたものかもしれない。
 ……4万年前までにはアフリカから新たに移住してきたこの集団の子孫が、北京付近にも定住していたようである。
 それ以前の時代に属していた石器とは異なるが、中国東北部アムール川流域で見つかるものと似た石器が日本でも発見されてることから、ホモ・サピエンスは3万5000年から3万年前頃までには日本列島に到達していたようである。
 アムール川はモンゴルから東へ向かうと、大きく蛇行しながら満州を迂回して、サハリンの北端近くでオホーツク海に注いでいる。その地域の人々が船を使っていたとすれば、アムール川とサハリンを経由して日本列島に到達した可能性は十分に考えられる。……南北のいずれの経路からでも徒歩で列島に到達できたと思われる。
 実際には両方の経路が使われたようだ。3万年から2万年の数千年はいくらか温暖化した後、最寒冷期に向かって寒冷化の一途をたどるが、日本列島に人類が定住していた証拠は確かなものになっていく。しかし、それでも、人口は数千人を超えることはなかったと思われる。
 ……石器に地域差がみられることから、黄土平原を経由して日本列島にやってきた人々の多くは九州や本州西部に、アムール川流域からきた人々は主に関東以北に定住したと考えられる。それ以後も数千年にわたって、この傾向は続いている。
 また、さらに南方の地域から日本列島にやってきた人々がいた可能性もある。海洋民族がフィリピンから日本海流に乗れば、台湾や南西諸島に沿って日本の南部へ到達できたと思われるからだ。
 縄文時代
 1万7000年から1万6000年前頃、日本列島に不可解なできごとが起こり始めたが、このできごとはアジアのみならず世界各地でみられていた同様の現象を反映しているようだった。こうしたできごとの関連性は未だによくわかっていないが、1万2000年ほど前までに、一般的に縄文社会と呼ばれている社会体制が形成されるようになったのだ。
 ……
……地域や時代の状況を大まかにとらえることはできるが、一歩踏み込むと、不明確な点が多々出てくる。底で、考古学的証拠から明らかなように、縄文社会に関連する当初の不可解さや一般性、不明確な点をみていこう。
 縄文時代の始まり 

 縄文時代以後の日本の推定人口(約9000年~1300年前)
時期 中間年代       西日本       東日本
早期 9000年前     2,800人    17,300人 
前期 6500年前     9,000人    96,500人
中期 5000年前     9,500人   251,800人
後期 3800年前    19,600人    40,700人
晩期 2800年前    10,900人    64,900人
弥生 2000年前    30,230人    29,260人
   (紀元元年)
士師 1300年前 3,087,700人 2,312,100人
   (紀元700年)

 ……
 こうして食料を十分に確保できるようになり、日本列島では人口が増加した。当時の列島に何人くらい人が住んでいるのかは誰にもわからないが、上のような試算結果を出している研究者もいる。それをみると、大型の草食動物が絶滅した後の環境に、特に東日本に住んでいた人々は見事に適応したようである。
 この推定人口は増加率を高く想定しすぎている可能性があるので、そのまま鵜呑みにすることはできないが、縄文社会(および弥生・士師時代の農耕社会)の人口の変動や地域差を示す指標にはなるだろう。
 ……
 2500年から2000年前頃を境に人口が増加に転じているが、これには技術革新が深く関わっている。西日本はその影響を東日本より数百年も早く受けているので、この新しい技術は、対馬海峡を経由して大陸からもたらされたものと思われる。大陸から伝えられたのは高度な農業技術である稲作だが、第3章でみるように、やがて列島の人間社会とその生態系に大きな変化をもたらすことになる。
 縄文時代は1万年ほど続いた。……
 ……
 5 集落と住居
 ……
 縄文時代初期の数千年は人口が比較的少なかったこと、住居や設備が比較的単純だったこと、木の実などの食物を貯蔵する穴蔵がなかったことから、まだ
定住生活が定着していなかったのではないかと考えられる。当時の人々の食生活や生活様式は地域の資源に規定されていたので、居住する場所や期限も資源しだいだったのだろう。
 しかし、1万1000年から1万年前頃までには、縄文社会の暮らしぶりもしだいに変わってきていた。……
 こうした竪穴式住居が北海道と九州南部に最初に現れたのは、おそらく、大陸から移住してきた人々の影響が失われずにいたことを反映しているのだろう。しかし、九州南部では火山の噴火によって集落が壊滅したらしく、北海道の方式がしだいに南へほろまっていった。
 ……
 開拓された居住地をくり返し利用するのは現実に即しているので、そうした居住地はたいてい家屋の数が多かったようだ。しかし、一般的には比較大きな集落でも、住居は5軒から6軒を数えるだけで、もっとも少ない小さな集落が多かった。
 5000年から6000年前までには、このような集落は各地で見られるようになっていた。特に東日本では、海産物、塩、陸上の動植物といった地域特産の食料品を作っていた。実用と儀式用とを問わず、石器や土器を制作していた専門家もいた。こうした石器や土器は地元の産物だけでなく、翡翠の装飾品のような高価な産物との交易にも利用されていた。埋葬様式が洗練されたことや、装飾を凝らした土器が儀式に使われるようになったこと、そいて生産と交易の様式から、列島の広い地域で社会が複雑になると共に階層化がある程度進んだことがうかがえる。
 弓矢、槍、短剣、斧が各地の遺跡から出土しているにもかかわず、切断されたり、穴が空いたりした頭骨、砕けた肋骨、手や足が失われた人骨など、戦いや武力抗争があったことを示す証拠はこれまでに見つかっていない。こうした武力抗争がほんとうになかったとして、それは縄文時代の全盛期(およそ5000年前)でも、人口密度が極めて低かったからか、あるいは比較的大きな集落でさえも、規模が小さかったからかもしれない。とりわけ興味を引くのは、4000年前の数百年は気候が寒冷化したために、人口が激減するほど生活が苦しくなった時期だったが、その時期にもこうした武力抗争の痕跡が見当たらないことだ。
 まとめ 日本の狩猟採集社会の歴史は、基本的に列島の環境によって形作られてきた。地理的位置、地形、気候、生物相のおかげで、特に寒さの厳しかった最寒冷期の数千年間を除けば、日本列島は人間が比較的暮らしやすい環境だった。しかし、列島は地質学的時間の尺度でみると誕生して日の浅いので、険しい山岳地帯が国土の大部分を占め、したがって、人の居住に適した部分はほんのわずかに過ぎなかった。
 日本列島は山岳地形で移動しがたい上に、温暖な間氷期が訪れるたびに大陸からくり返し切り離されていたにもかかわず、人々は列島に渡来して住み着いた。そうした人々の中には東南アジアからきた人もいた可能性はあるが、ほとんどはシベリアや中国から渡来したと思われる。渡来経路は北と南の両方が考えられるが、サハリンを経由する北方経路の方が氷期に利用できる期間が長かったので、初期の数千年間は北方経由の方が頻繁に使われていたのだろう。
 3万5000年から3万年前以後に列島にやってきたのはホモ・サピエンスである。その後の数千年で、大陸からもたらされた技術と列島内の技術革新によって、土器を持たない旧石器文化(先土器文化)から土器を作る新石器文化に発展し、人口も増加して社会も複雑になっていった。さらに時代が下がると、第3章でみるように、初期の農業も含めて、技術の発展が進み、自然環境を操作して改変するようになる。
 こうした技術の新しい利用例をいくつか挙げると、食物を煮炊きして食べやすくする調理以外に、熱を土器の製造にも利用した。また、漆を加工して様々な用具に塗り、有用性と耐久性を高めた。狩猟道具の弓矢の開発や、耐久性に優れた住居の建設を行った。アスファルトを接着剤として利用した。丈夫な繊維を撚(よ)り合わせて、様々な長さ、太さ、固さの糸や紐を作り、縄や布、籠やざるなどを制作した。
 つまり、この時期の数千年にわたる縄文人の生活は、その後現代に至るまでに日本人が経験する革新や変革のパターンを先取りしていたのだ。また、この時期の縄文人の行動は後に人間が環境に及ぼす影響も暗示している。
 その影響の最たるものは大型哺乳類の絶滅だろう。絶滅の過程は明らかではないが、ホモ・サピエンスの狩猟技術が向上したからではないかと思われる。しかし、いずれにしても、特定の大型種が絶滅したことで、人間が食料源を変えざるを得ないときでも、小型の哺乳類は個体数を増やすことができただろう。
 革新的な技術を駆使して、食料の幅を広げ、採食効率も向上させたことで、縄文の人々は、集落周辺やおそらく漁労を行っていた場所の生物の種構成を変えた。さらに、縄文人は自分たち以外に、イネや植物、微生物などの特定の外来種も持ち込んだかもしれない。
 とはいえ、こうした変化が環境に及ぼした影響は、後に農耕社会や産業社会が与えた影響に比べたら、とるに足らないものだった。縄文時代の人口と1人当たりの資源の消費量が、後の時代と比べると極めて少なかったからだ。資源の消費量が少なかったのは、生態系を改変する技術が、後の『進んだ』社会とは比べものにならないほど控えめだったからである。
 したがって、狩猟採集社会の人々の行動には、後の時代の社会を先取りしていたようなところが確かにあったが、環境に及ぼす影響としては、その兆候はかすかなものに過ぎなかった。人類が環境に及ぼした影響という点では、大型哺乳類が絶滅したことを除けば、狩猟採取時代末期の日本列島は、ホモ・エレクトスがこの地域に足を踏み入れたと思われる100万前とほとんど変わっていない。縄文時代は1万年ほど続いたが、日本列島の生態系はその後の世代に無傷のまま残されたのであろう。
 【付録】
 気温と海水面の変化率(1万8000~6500年前)
 日本列島は更新世に地質学的には速い速度(17年に1センチ)で隆起したが、気温や海水面の変化速度も同様に速かったと思われる。
 最終氷期の最寒冷期(およそ2万1000~1万8000年)の日本の平均気温は1900年代よりも、7℃から9℃低かったと推定されている。6000年前までの1万2000年間の10℃上昇したといえるだろう。これは100年で0.08℃上昇したことになるが、極めてゆっくりした上昇なので、当時の人たちは気づかなかっただろう。気候の変動が激しかったドリアン期(1万5000~1万2000年前)でさえ、人間が気づくほどではなかった。
 ……
 ……7400~5900年前の温暖な時期に、海水面は現在よりも2メートルから6メートル高かったといわれている。温暖化が最も進んだ6500年前に海水面が6メートル高かったとすると、海水面はそれ以前の5000年前におよそ30メートル(1年に0.6メートル)上昇したことになる。
 1万1600年前以前の数千年間は海水面が50年で85センチ上昇しているので、河口域や海辺の近くに暮らしていた人は海水面の変化に気づいただろう。しかし、それ以降の数千年間は上昇量が50年間で30センチだったので、気づかなかったのではないか。」
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 ホモ・サピエンスの移動は、強く賢いから見知らぬ土地へ勇気と好奇心で移動したわけではない。
 移動する先が、命が溢れる豊潤な土地ではなく死の陰がつきまとう不毛な土地かも知れなかった。
 穏やかで豊かな土地には、競争相手が多く凶暴な捕食者にいつ襲われるか危険地帯でもあった。
 それに対して、貧しい土地は競争相手がいない為に襲われる危険が少なく安心して生活できた。
 人類は、赤道直下から極地近い土地まで、乾燥した砂漠地帯、ブリザード吹き荒れる寒冷地帯、暴風の被害を受ける大洋の絶海の島嶼地帯、一種類の人類として広く住んでいる。
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 日本に最初に移り住んだホモ・エレクトスは、北・西・南から移ってきた雑多なホモ・サピエンスと乱婚をくり返し混血を重ねて石器人(ヤポネシア人)そして縄文人(日本土人)へ変化し、その結果生まれたのが混血の日本民族である。
 故に、日本民族は雑種民族として血は汚れている。
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