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2022年7月30日 MicrosoftNews 現代ビジネス「元は「卜部」と名乗っていた!? 豪族・中臣氏のルーツに迫る 中臣鎌足は常陸出身?
水谷 千秋
日本史を学ぶ上で必ず目にする「中臣氏」。代表的人物である中臣鎌足は、日本史上、他に類をみない氏である「藤原氏」の始祖としても知られています。今回は、日本古代を彩った100の豪族を網羅した現代新書の最新刊『日本の古代豪族 100』の中から、「中臣連(なかとみのむらじ)」の項を特別に全文公開します!
© 現代ビジネス
中臣氏の先祖
元来、宮廷祭祀を担当する豪族で、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)に次ぐ大夫(まえつきみ)級の有力豪族であったが、鎌足の活躍以降は政治的にも重要な位置を占めるようになった。
本拠地は、河内国河内郡(かわちのこおり。現・大阪府東大阪市周辺)で、枚岡(ひらおか)神社を氏神とし、このほか摂津国三嶋郡(現・大阪府高槻市、茨木市周辺)も有力な拠点であった。又、常陸国の鹿島神社・下総国の香取神社もこの氏の氏神であった。
© 現代ビジネス 香取神宮(Photo by iStock)
中臣氏の先祖は、『古事記』『日本書紀』の天石屋戸(あまのいわやと)の段に登場する天児屋命(あまのこやねのみこと)とされる。
石屋戸に籠もった天照大神に外へ出てもらうために、この天児屋命と忌部(いんべ)氏の「遠祖」の布刀玉(ふとたま)命(太玉命)が、天香山の聖なる木を根ごと掘り取り、上の枝には玉を、中の枝には八咫鏡(やたのかがみ)を、下の枝には白和幣(しろにきて)、青和幣(あおにきて)を掛け、皆で一緒に祈禱したという。
とりわけ、『古事記』では布刀玉命が「太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて」、天児屋命が「太詔戸言禱(ふとのりとごとほ)き白(まお)した(祝詞を述べた)」とあるのが注目される。これらは、両氏の職掌を表現したものとみられる。
二度目に現れるのは、天孫降臨のくだりで、『古事記』では忌部、猿女(さるめ)、鏡作、玉作らの上祖及び天児屋命の「五伴緒(いつとものお)」が邇邇藝(ににぎ)命と共に天降ったとある。『日本書紀』でも神代下第九段第一の一書(あるふみ)では、同趣旨の内容である。第二の一書では、
天児屋命は、神事の宗源を主(つかさど)る者なり。故に太占(ふとまに)の卜事(うらごと)を以て仕え奉らしむ(天児屋命は、神事の宗源を主る者である。だから太占の占いを以て仕えてくることができた)。
とある。
いつごろから中臣氏と名乗るようになったのか
『日本書紀』「神武天皇即位前紀」甲寅年十月条では、神武天皇の東征伝承において、「侍臣(おもとまえつきみ)」として「中臣氏の遠祖」の天種子(あまのたねこ)命の名がみえる。
また垂仁天皇二十五年二月条に阿倍臣、和珥(わに)臣、 物部連、大伴連の遠祖とともに「中臣連の遠祖・大鹿嶋(おおかしま)」が「五大夫」としてみえる。
同年三月条の「一云(あるにいわく)」には、天皇に命じられて「大倭大神(やまとのおおかみ)」を祀らせるのにふさわしい人物を占った人物として、「中臣連の祖・探湯主(くかぬし)」という名がみえる。
さらに仲哀天皇九年二月条には大三輪君(おおみわのきみ)、物部連、大伴連とともに中臣烏賊津(いかつ)連が「四大夫」としてみえる。
この中臣烏賊津連は、「神功皇后摂政前紀」、「允恭紀」七年十二月条にもみえる。「允恭紀」では「一舎人(とねり)中臣烏賊津使主(いかつのおみ)」とあり、天皇の誘いを拒む皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹・衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の説得に身命を賭して当たる「忠臣」ぶりが描かれている。
その後、『日本書紀』ではしばらく記事が途絶えるが、欽明天皇十三年十月条に仏教伝来に反対する人物として物部大連尾輿(おこし)と共に中臣連鎌子(かまこ)の名がみえる。敏達天皇十四年三月条の仏教受容派の蘇我氏とこれに反対する勢力の紛擾を描く記事には、物部弓削守屋(ゆげのもりや)大連と共に中臣勝海(かつみ)大夫がみえる。
これらの記事からすると、中臣氏は蘇我氏が推し進めてきた仏教受容には一貫して反対してきたように見える。
この氏はいつごろから中臣氏と名乗るようになったのか。『日本書紀』にはないが、欽明朝にこの名を名乗るようになったという伝承がある。「中臣氏系図」(『群書類従』巻第六十二)の引用する延喜6(906)年6月に大中臣氏が朝廷に提出した『新撰氏族本系帳(しんせんしぞくほんけいちょう) 』に、
黒田大連公、二男を生む。
中臣姓の始め
中臣常磐大連公。〔氏上。(以下略)
右の大連、始めて中臣連の姓を賜る。磯城嶋宮御宇天国押開広庭(しきしまのみやにあめのしたしらしめししあめくにおしはらきひろにわの)〔欽明〕 天 皇(すめらみこと)の代、特に令誉を蒙る。恪勤供奉すればなり。(以下略)(右の大連が、始めて中臣連の姓を賜った。欽明天皇の御世、特に名誉を受けた。精勤して仕えたからである)
とあるのが根拠である。では中臣姓を名乗るようになる前は、何と名乗っていたのか。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』の「大中臣系図」には、常磐大連公について、
始めて中臣連姓を賜る。本は卜部(うらべ)なり。
とある。もとは卜部だったというのである。これらを根拠に中臣氏の前身は、卜部であり、欽明朝に中臣連姓を賜ったとする説がある。
卜部は対馬、伊豆、常陸などに分布する卜占(ぼくせん)集団だが、横田健一は、常陸の鹿島社を奉祭する卜部が中央に進出し、宮廷の雨師的司祭者として立身したのが、中臣氏ではないかとした。
田村圓澄(えんちょう)は、『大鏡』の「鎌足の大臣の生まれ給えるは、常陸の国なれば」という記述などから、鎌足の常陸出身説を唱えている。
鎌足の墓が見つかった!?
『日本書紀』推古天皇三十一年是歳条には中臣連国、「舒明天皇即位前紀」には中臣連弥気(みけ)という名前がある。後者は采女(うねめ)臣、高向臣、難波吉士(なにわのきし)らとともに中央豪族の大夫層氏族として現れているが、『藤氏家伝(とうしかでん)』上には、鎌足の父を「美気祜(みけこ)」(『新撰氏族本系帳』には、「御食子」)とする。
© 現代ビジネス 中臣氏系図
その子、鎌足(鎌子)が『日本書紀』に最初に見えるのは皇極天皇三年正月条で、「神祇伯」に任じられたのを病いを理由に固辞し、摂津国三嶋郡(現・大阪府高槻市、茨木市周辺)に退居したとある。
『家伝』上はこれを舒明朝の初めに置き、「宗業を嗣(つ)がしむるに固辞して受けず、三嶋の別業に帰去す(宗業を嗣がそう)」としたが、固辞して受けず、三嶋の別宅に帰り去った)」とある。
「三嶋」が中臣氏にとって重要な拠点であったことが理解できる。その後、蘇我蝦夷、入鹿を滅ぼした乙巳の変に貢献した功で、孝徳朝に大錦冠(だいきんかん)の位階を授かり、「内臣(うちつおみ)」に抜擢された。
『日本書紀』白雉四年五月条、遣唐使派遣に伴い派遣された留学生、僧合わせて15名のなかに、鎌足の長子定恵(じょうえ)の名がみえる。定恵(貞慧)については、『藤氏家伝』上に貞慧伝という伝記がある。11歳にして入唐(にっとう)し、天智称制四年に帰国したが、その「能を妬んだ百済人に毒」されて23歳で亡くなったという。
鎌足は、白雉五年には大臣の地位を示す紫冠を授かった。天智8年10月、病となるが、天智は彼の家へ見舞い、その5日後、大織冠(だいしょくかん)と藤原氏という姓を授けた。亡くなったのはその翌日である。56歳。
多武峰(とうのみね)に葬られたとする『延喜式』等の引用する『貞観式』の所伝と、三嶋郡に葬られたとする『多武峯略記』の所伝、山階の舎(やましなのてら)に葬られたとする『家伝』上の所伝があって、定まっていない。
このうち三嶋郡の阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)は、1934(昭和9)年、京都帝国大学の阿武山地震観測所構内で、乾漆(かんしつ)棺内に頭部に金糸をまとい、玉枕をしていたミイラ化した遺体が発見されたことで、大きな話題になった。
その後すぐ埋め戻されたが、1982年にかつて撮影されたレントゲン写真などが見つかり、1986年には阿武山古墳X線写真研究会が発足、金糸が大織冠である可能性が議論され、鎌足墓説が大いに議論されるようになった。
鎌足の死後、天智朝の末年まで、中臣氏の氏上の地位を継いだのは、中臣金(かね)であったと推定される。天智10年正月、大友皇子(おおとものみこ)が太政大臣に任命された人事で、中臣金は右大臣に選ばれた。鎌足のあとを継いで近江朝廷の中枢にあったが、壬申の乱では近江国浅井郡の田根で斬刑に処せられた。
天武朝では、中臣(藤原)大嶋(おおしま)と中臣(藤原)臣(意美)麻呂(まろ)の二人の名前が見える。大嶋は、『日本書紀』によれば、天武天皇十年三月条、天皇の詔によって始まった「帝紀及び上古の諸事」の記定事業の一員(全12名)に選ばれ、平群臣子首(へぐりのおみこびと)と共に「親(みずか)ら筆を執りて以て録し」とある。
持統天皇七年三月条、「直大弐(じきだいに)・葛原(ふじわら)朝臣大嶋に賻物(はぶりもの)を賜う」とあるので、その直前に亡くなったとみられる。直大弐は従四位上相当である。
臣(意美)麻呂の活動はこれよりやや遅れ、「持統称制前紀」の大津皇子謀反事件で共犯者として逮捕されたのに始まる。その後すぐ放免されたが、持統称制3年2月、判事に任じられ、同7年6月に直広肆(じきこうし。従五位下相当)。
和銅元年3月に従四位上で神祇伯兼中納言、同年7月正四位下、同4年4月、正四位上を経て、同年閏6月、正四位上・中納言兼神祇伯で亡くなった。
鹿島神社、香取神社とのかかわり
鎌足の二男、不比等(ふひと)の活動は、「持統称制紀」3年2月条、判事任命の記事が最初である。『 続日本紀』文武天皇2年8月条の、
藤原朝臣の賜りし姓は、その子不比等をして承(う)けしむべし。但し意美麻呂等は神事に供するに縁(よ)りて、旧姓に復すべし(藤原朝臣に与えた姓は、その子の不比等が継承しなさい。但し、意美麻呂らは神事に仕えるために、旧姓の中臣に戻しなさい)。
との詔によって、不比等とその子孫のみが藤原姓を称することを認められ、臣麻呂らそれ以外の中臣氏の人物は元の姓(中臣氏)に戻すこととなった。ここで明確に従来の中臣氏と不比等系の藤原氏との分立が為されたのであった。
臣麻呂亡き後は、『続日本紀』では、その子の東人(あずまひと)が和銅4年4月に従五位下を受けた
記事から、天平4年10月に兵部大輔に任じられ、同5年3月に従四位下、兵部大輔に任じられた記事まで見える。
その弟の清麻呂(きよまろ)は、天平15年5月に従五位下を授けられたのが最初で、天平宝字6年12月に参議、同8年9月神祇伯、宝亀元年7月大納言、同2年3月右大臣、同3年2月に正二位にまで昇進、天応元年6月に致仕(引退)し、延暦7年7月死去した。享年87歳。
この間、神護景雲(じんごけいうん)3年6月、「神語に言えること有り(神の言葉におっしゃることがあって)」として、清麻呂に対して「大中臣(おおなかとみ)」と称するよう詔があった。以後、「大中臣朝臣」と名乗るようになる。
清麻呂の第2子が大中臣朝臣子老(こおゆ)である。延暦8年正月、参議宮内卿正四位下兼神祇伯で亡くなった。大中臣朝臣諸魚(もろうお)は、宝亀7年正月、正六位上から従五位下に叙せられたのが正史の最初で、延暦10年8月には従四位下で参議、神祇伯、式部大輔、左兵衛督・近江守を兼ねるまでになっている。
中臣氏は代々、神祇伯の地位に任じられてきた。「神祇令(じんぎりょう)」には、
凡(およ)そ践祚(せんそ)の日、中臣、天神(あまつかみ)の寿詞(よごと)を奏し、忌部、神璽(しんじ)の剣鏡を上(たてまつ)れ(凡そ即位の日に、中臣氏が天つ神の寿詞を奏し、忌部氏が神璽の剣鏡を献上せよ)。
とある。天皇の即位儀礼において「天神の寿詞」とよばれる祝詞(のりと)を詠み上げる役割を担ってきた。実際には持統天皇の即位の際、神祇伯・中臣大嶋朝臣が「天神寿詞」を読み、忌部宿禰色夫知(しこぶち)が「神璽の剣鏡を皇后に奉上」したとあるのが最初である。
氏神としては、『続日本紀』宝亀八年七月条の、「内大臣従二位・藤原朝臣良継(よしつぐ)、病めり。其の氏神、鹿嶋社を正三位、香取神を正四位上に叙す」という記事、同十一年十月条の「常陸国鹿嶋神社の祝(はふり)正六位上中臣鹿嶋連大宗(おおむね)に外従五位下を授く」という記事から、常陸の鹿島神社、下総の香取神社との関わりが認められる。
前掲の『日本書紀』垂仁天皇二十五年二月条に「中臣連の遠祖・大鹿嶋」という名前がみえることからすると、この神社との結びつきは遅くとも『日本書紀』の成立以前からあったと思われる。
このほか『日本三代実録』貞観元年正月条に天児屋命を祀ることが明記されている枚岡神社、『万葉集』巻第19—4240の歌に「春日に神を祭る日、藤原太后の作らす歌一首、即ち入唐大使藤原朝臣清河(きよかわ)に賜う」という題詞のみえる(藤原清河は天平勝宝2年9月に遣唐大使に任命)春日大社が挙げられる。
関連記事:蘇我、大伴、物部.....「豪族」と「氏族」の違いとは??
:豪族の官僚化・貴族化はどのように進行していったのか?
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卜部氏(うらべうじ)は、「卜部」を氏の名とする氏族。
古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。占部・浦部・浦邊とも表記する。
概要
卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部。系統が異なる氏族が日本各地に存在するが、このうち伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられ、神祇官の次官(大副・少副)には伊豆卜部氏が、下級職員である卜部には伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の、それぞれ卜術に優秀な者が任じられた。この三カ国以外の卜部氏は日本古来の卜占である太占に関係した氏族の後裔であるという。
伊豆卜部氏
平安時代前期の卜部平麻呂(神祇権大佑)を実質的な祖とするが、平麻呂以前は明確ではない。平麻呂を大中臣清麻呂の孫にあたる智治麻呂の子とする系図もあるが、後世の仮冒とされる。三嶋大社に神官として仕えていた氏族であるという説がある。姓は宿禰であったが、応安8年/文中4年(1375年)に吉田兼煕が朝臣姓に改姓。
平麻呂の子孫は後に吉田社系と平野社系に分かれ、代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務める。
吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とするが、永和4年/天授4年(1378年)に足利義満が室町第に移ったことに伴い、吉田兼煕がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めた。江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。
なお、吉田社系の氏人に『徒然草』の作者吉田兼好がいるが、本来は「卜部兼好」が正しい。兼好は吉田に家名を改めた兼煕より前の時代の人物であり、「吉田兼好」の名は鎌倉時代および南北朝時代の史料にはまったく見られない。更に中世和歌史研究者小川剛生により、今日伝わる兼好の系譜自体が吉田神道の創始者でもある吉田兼倶による捏造で、実際の兼好はどの系統の卜部氏の出自であるかは(そもそも卜部氏であったのかも)分からないとの指摘がされている。
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中臣氏(なかとみうじ)は、「中臣」を氏の名とする氏族。
古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。姓(かばね)は連(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。
概要
中臣氏は常陸国出身であるとする説が存在するが、中臣氏常陸出身説は、『中臣氏本系帳』や『中臣氏系図』には記載が無く、後世の卜部氏による加筆のため、信用に足らないものである。
中臣氏や卜部氏の常陸国移入は6世紀前半であると考えられる。
物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年の死に臨んで、藤原姓を賜った。以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣を称し、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した。
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