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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
アイヌ人は、争い・闘いを嫌う平和な民ではなく、戦い戦争を繰り返す荒々しい乱暴な民であった。
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アイヌ民族の不幸は、地球規模の地政学で、同族の日本と異族のロシア・中国の間にいた事である。
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現代の日本人が昔の日本人と全然違うように、現代のアイヌ人と昔のアイヌ人は微妙に違う。
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『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』 渡辺京二 洋泉社
第五章 アイヌの天地
アイヌ民族は白人種だという説が、日本でもヨーロッパでも唱えられたことがある。ことがあるどころか、戦後の一時期まで学界でも有力な学説だった。今日ではそういった主張はさすがに影を潜(ひそ)めたが、それでも日本人とは人種が違うという認識があとを絶たない。
人種というのはかなり曖昧で危険な概念で、うっかり用いると人種差別主義者の汚名を蒙りかねないご時世だけれど、人種だって生物なのだから、生物を亜種によって分類するように、人類をコーカソイド、モンゴロイド、ニグロイド、オーストラロードの4亜種に分類するのは自然人類学の基本的な常識である。その分類によると、アイヌはまぎれもないモンゴロイド、今日の学界でより有力になりつつある呼称に従えばアジア人種に属する。いまからほぼ3000年以前の日本列島には、北は北海道から南は沖縄にいたるまで、縄文文化の担い手である縄文人が住んでいた。自然人類学者埴原和郎の説くところでは、彼らは多毛で、凹凸に富んだ顔つきの古モンゴロイドであった。
古モンゴロイドというのは寒冷地適応を受けなかったモンゴロイドの古代型のことだ。最後の氷河期であるウルム氷期は2万年前が最盛期で、1万年前まで激烈な寒期が持続した。北方に居住するモンゴロイドはこの間に、寒冷に適応するために短足胴長の体形に進化し、顔が扁平になり、眼裂が細く一重瞼に変わり、体毛も薄くなった。体毛が薄くなるというのは逆ではないかと思えるが、体毛が濃いくらいで保温効果はないし、鬚は凍りついて凍傷の原因となる。このように変化した北方モンゴロイドを新モンゴロイドという。モンゴル人はその一典型である。
この新モンゴロイドが弥生時代から古墳時代にかけて、おそらく朝鮮半島を経由して北九州に上陸、東進して近畿地方に定着し、大和朝廷を開いたのであろうと埴原はいう。今日の形質分析によっても、近畿地方の人びとは朝鮮人に非常に近く、あきらかに北方人種の特徴を示す。大和の国はまほろばというけれど、近畿人は現代日本人においても形質上特殊な地位を占めるというのだ。新モンゴロイドである弥生人は縄文人と混血し、短足胴長、平たい顔、細い一重瞼の眼、薄い体毛、張り出した頬骨などの新モンゴロイド的形質は次第に北へ南へと広がってゆく。そして、多毛で凹凸に富んだ顔つきの古モンゴロイド的形質は北海道と南島に生き残ることになる。すなわちアイヌ人と琉球人はともに縄文人のレリック(生き残り)なのである。アイヌと日本人はもとををただせばおなじ縄文人であり、弥生時代から古墳時代にかけて流入した新モンゴロイドの影響を受けたか否かによって、身体的形質の差異が生まれてのだった。以上の埴原和郎の所説は緻密な科学的裏づけの上に立つもので、大筋において承認するしかあるまい。
自然人類学の知見はアイヌも日本人ももとは縄文人として同一のルーツをもつという事実を示すにすぎないが、一歩進めてアイヌと日本人は神概念を初めとする精神文化を共有するのではないか、いい替えればアイヌ文化には、日本の精神文化の原型がとどめられているのではないかという問題を提起したのは梅原猛である。梅原によれば、アイヌ語で霊を表す6つの単語はすべて古代日本語に存在する。従来は日本語からの借用と片づけられてきたが、アイヌが日本人と異なる民族として自己形成をとげたのに、精神文化の根幹をなす言葉お日本語から借用せねばならぬ必然性がどこにあるのか。カムイというアイヌ語は日本語のカミが借用の過程で音韻変化したと考えるよりも、縄文期にカムイであったものがその後日本語では変化し、アイヌ語ではそのまま保存されたと考える方が音韻上自然である。しかも、アイヌはおそろしいもの、自然に危害を加える可能性のあるものを神霊として祀るのだが、古代日本でも神霊は害をなすおそろしい存在と考えられていた。つまり神霊の性格が一致しているのだ。
霊にまつわる言葉だけではない。アイヌ語には日本語に類似する語彙が多数あり、いずれも借用とされてきたが、借用が生ずるのはたいてい名詞の場合のなに、アイヌ語には動詞や感嘆詞に日本語と共通のものが多く、これらをすべて借用とするのは言語学の常識に反する。すなわち梅原の考えでは、日本語もアイヌ語も縄文語という共通のルーツから進化したことからこそこのような語彙の一致がみられるのだ。
しかしこの点で問題となるのは、言語学上日本語とアイヌ語はまったく性格の異なる言語とされていることだ。つまり日本語はウラルアルタイ語系の膠着語(こうちゃくご)とされるのに、アイヌ語はアメリカン・ネイティヴズやイヌイト(エスコモー)などの用いる抱合語(ほうごうご)に属する。だが梅原は、現行の言語分類のうち確かな根拠をもつのはインド・ヨーロピアン語系の屈折語だけで、あとの孤立語(中国語)・膠着語・抱合語の三つは確かな根拠のない便宜的な分類にすぎず、日本語には抱合語的特徴が多分に見出されると主張する。梅原の考えでは、縄文時代に話されていた言語が、新モンゴロイドが携えてきた言語の混入によって、列島中央部では記紀・万葉の古代日本語に変化したのに対して、北方縄文人はその影響をうけずに縄文語を用い続け、それがやがてアイヌ語に進化したということになる。
しかし、日本語とアイヌ語を同一起源として、アイヌ文化のうちに日本古層文化の面影を探ろうとする梅原説は、まだ一般に受けいれられるには遠い現状にある。それは常の学者なら二の足を踏むあまりにも大胆な推論のせいばかりではなく、『アイヌは原日本人である』とか、『アイヌ文化は日本文化の基層だ』といった梅原の不用意な発言が、今日の民族に関する知見からしていかがわしいものに聞こえてしまうからだろう。日本人というのは民族概念であって、日本人という人種は存在しない。身体的形質からすれば、日本人・中国人・朝鮮人がまったく区別できないことは梅原との対談で埴原も明言している。民族(エトノス)とは言語を中核とする文化の共有によって成り立つ歴史的概念で、日本人という民族が成立するのは7、8世紀である。アイヌもあまり遅れずに、日本人から異族と見なされる一民族として自己を形成したのだろう。縄文時代には日本人もアイヌも存在しない。その前進としての縄文人の存在が認められるだけである。だからアイヌ原日本人だというのは、ナンセンスでなければデマゴギーなのだ。今日に通じるような日本文化が形成されたのは室町末期である。同じ意味でのアイヌ文化の成立もほぼ同時代と認められる。だから、アイヌ文化が日本文化の基層をなすこともありえない。アイヌを原日本人とし、アイヌ文化を日本文化の基層とするのは、アイヌとその文化を日本の領域にとりこんでしまうことを意味する。それはけっして日本人や日本文化の領域に、原型あるいは基層としてとりこまれるべき存在ではない。
しかし梅原説は、このような不用意な言辞にこだわらなければ、示唆と妥当性に富む有益な仮説でありうる。梅原説の大筋は縄文人を日本人とアイヌの共通ルーツとし、アイヌ文化が縄文文化の骨格を保ちつつ進化したのに対して、日本文化が大陸の影響によって縄文的性格をかなり失ったとする点にある。だとすると、アイヌの宗教的儀礼や習俗に、日本文化の最古層を読解する鍵を求めようとするのは正当な試みであって、梅原の真意は、日本では衰退して基層に隠されてしまった縄文的伝統が、アイヌにあってはかなりよく保存されているのを強調することにあったのでなかろうか。梅原の仮説はアイヌを日本にとりこもうとするものではなく、むしろ既成の『日本』像を解体して新しい可能性を望見するものといってよかろう。日本語とアイヌ語の関係についても、彼の指摘は真剣な検討に値する。……
アイヌはわが国も弥生時代から古墳時代まで縄文文化を維持するので、アイヌ考古学ではこの時期を続縄文期と呼ぶ。アイヌが日本民族と異なる独自の民族として形成されたのは、7、8世紀に始まる擦文(さつもん)文化の時期である。擦文の名称は土器に縄文ではなく、幾何学的な擦痕がついていることに由来する。擦文文化は縄文以来の狩猟(漁撈)採集を生業の基本とするものの、それに畑作が伴っているのが注目される。農具あるいは武器として鉄器がさかんに使用されたが、それは日本から輸入されたものであった。東北地方で生産された須恵器の流入など、擦文文化は日本への強い依存が認められるという。研究者によっては東北地方の住民が北海道に移住し、それが擦文文化成立のきっかけとなったという説を唱える人すらいる。擦文文化の範囲は北海道から東北地方北部にまたがっている。だとすると、その担い手は大和朝廷から蝦夷(えみし)と呼ばれた人びととどういうかんけいになるのだろうか。
7世紀から9世紀にかけて今の東北地方に住み、大和朝廷からしばしば討伐された蝦夷の正体は、実のところいくら研究書を読んでもよくわからない。研究者によって見解が異なるだけでなく、それがアイヌなのか日本人なのかという議論が避けられる傾向があるからだ。研究者によっては日本人・アイヌという後世の区分を過去にもちこむ議論は非歴史的だなどとおっしゃる。そして両属的とか境界的とか、今はやりの用語が持ち出されて、結局何が何だかわからなくなってしまう。7世紀から9世紀にかけては、日本人もアイヌもそれぞれ言語を異にする民族として形成をとげているのだから、大和朝廷と戦った蝦夷が辺境の日本人なのか、それともアイヌなのかというのは揺るがせにはできない問題であるはずだ。もちろんそれは、この当時の民族(エトノス)のありかたが、近代国家成立を前提とする民族(ネイション)のそれとは異なることを踏まえた上での話である。
戦前は金田一京助に代表されるように、蝦夷をアイヌとするのが主流だった。戦後は一転して、大和朝廷に従わぬ辺境の日本人ということになった。いわゆる『辺民』説である。今はまたアイヌ説が復活して大勢を占めつつあるが、日本人ともアイヌともいいがたい両属的な集団とか、アイヌと日本人の混淆(こんこう)とか、複雑な議論も絶えない。要するに確かなことはわからないのである。……
北海道は当時すべてがアイヌの天地というわけではなかった。サハリン(樺太)から南下したオホーツク文化が7、8世紀には北海道のオホーツク海沿岸にひろまり、南千島にまで及んだのである。その担い手はギリヤーク(ニヴフ)と考えられる。当然擦文文化人との間に接触が行われ、混合的な文化が成立する一面、両者間には戦闘も含む対立が生じた。アイヌの英雄叙事詩ユーカラにうたわれるヤウンクル(内陸の人)とレプウンクル(沖の人)の戦いがそれで、前者はアイヌ、後者はギリヤークを指すというのが榎森進の説である。いったん南千島まで達したオホーツク文化は、やがて進出の線に添って後退し、12世紀ごろはサハリンへ追い返されてしまう。擦文文化人、いやもうこの時期はそう呼んでよいはずだが、アイヌは北海道全体へひろがる。蝦夷島はアイヌモシリ、すなわちアイヌの天地となったのである。アイヌの足どりはそこでとどまりはしなかった。13世紀には、なんとサハリンへ渡って元軍と戦う。
アイヌはすでに11世紀ごろからサハリンへ進出し始めていたらしい。元がサハリンに兵を送ってアイヌと戦ったのは、元に服従していたギリヤークをアイヌが圧迫したからである。戦いは断続的に40年ほど続き、元は手を焼いた。アイヌは間宮海峡を渡り、アムール河口でも元兵と戦っている。アイヌが元と和議を結び朝貢を約したのは1308年のことだ。アイヌがサハリンでギリヤークと争いを起こしたのは鷹や鷲の捕獲をめぐってであったらしい。鷹羽はアイヌの重要な対日貿易品である。考古学上、擦文文化は13世紀前半に姿を消し、13世紀後半にあアイヌ文化期にはいる。アイヌ文化期は土器生産の消滅と、日本から大量の鉄鍋・漆塗椀の輸入を特徴とする。鷲羽はそのような輸入を可能にする対日輸出品のひとつだった。
アイヌは海を越えてサハリン、山丹(さんたん)地方、千島、日本本州へ赴く交易の民だった。彼らが狩猟採集に特化したのは、農業を知らなかったからでも、環境が農業を許さなかったからでもない。擦文文化人は農業をさかんに行っていた。瀬川拓郎によると、アイヌは狩猟採集の段階で停滞したのではなく、自ら狩猟採集に特化することを選んだのだという。それは主として日本から輸入する鉄器・漆器(しっき)・米・麹の対価として鮭・毛皮・鷹羽・昆布などの生産に特化してゆく方が有利だったからである。
富良野(ふらの)盆地あ縄文・続縄文時代の遺跡は発見されるが、その後無人の地となった。ここを流れる空知(そらち)川には鮭は遡上しない。つまり縄文人の生活には鮭はあってもなくてもよかったのに、アイヌにとって鮭の遡上は必須の生活条件と化したわけだ。瀬川拓郎はこの変化を、自然利用の多様性・分散性を特徴とする『縄文エコシステム』から、鮭漁に偏向し、流通手段としての丸木舟の運航に規定される『アイヌ・エコシステム』への転換と呼んでいる。起こった時期は10世紀ごろという。この変化によって居住地も川筋に集まった。瀬川はアイヌを『川の民』と呼んでよいという。彼らは河口には住まない。河口でとれる鮭は脂がのりすぎて保存が利かぬからである。遡上して十分に脂が抜けた鮭を捕獲して干鮭(からざけ)にするのだから、住むのは中・上流ということになる。干鮭は交易に当てられる。だから輸送するために、丸木舟を運航できるところに集落を作らねばならない。特定の河川の漁業権はそれぞれの部族に属する。シャクシャインとオニビシの抗争もひとつは漁業権の争いが原因となっている。
アイヌ社会の階層分化がいつごろどんな形で始まったか定説はない。しかし、知里幸恵の『アイヌ神謡集』に収録されていた『神のユーカラ』のひとつにも、金持ちと貧乏人の存在が明示されているのだから、階層分化はかなり早くから始まっていたとみてよい。日本の文献にオッテナと呼ばれる有力者の存在が記録されるのは正徳年間、つまり1世紀の初めであるが、もちろんその存在ははるか以前に遡るにちがいない。アイヌ社会の有力者を便宜上地域の『首長』と呼ぶことがあるが、アイヌ社会は幕末にいたるまで、地域を支配する政治権力としての首長は存在しなかった。日本側の文献でどこそこの『大将』などと呼ばれているのは集落の第一人者というべき有力者で、それなりの威望と指導力を備えてはいても、他の有力者を含めて集落の成員に支配を及ぼすことはない。集落の重要問題は合議できめられ、有力者も一発言者にとどまる。
有力者たるゆえんは多くの宝、多数の妻妾とウタレ(従者)を所有することにあった。宝とは実体は日本産の刀剣や漆器、山丹人との交易でもたらされる蝦夷錦や青玉などであるが、最高位にあるのは鍬形(くわがた)と称する金属板である。……
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アイヌの社会はこのようにあきらかかな格差の存在する格差社会であり、多数のウタレや妻妾を擁する首長と、ふつうの集落民との関係は平等ではなかった。しかし、集落を超えた広い地域を支配する上位の首長は出現しなかったし、集落の長たるオッテナも集落の集会では、集落の一人としての発言権しかもたなかった。つまりアイヌ社会では、全体の王はもちろん、地域の支配権力も出現しなかったのである。財宝。ウタレ・妻妾の所有者は集落、あるいはそれを超えた一定地域での有力者ではあっても、けっしてその政治的支配者ではなかった。統治も行政も、ましてや国家もアイヌモシリには存在しなかった。
アイヌの社会には内在しない統治・行政・国家という枠組を外からかぶせたのは松前藩であり、さらにその背後にある幕府権力であった。しかし18世紀中葉までは、幕府はアイヌモシリを実質的には統治の枠外にあるとみなし、一方統治を委任された松前藩はアイヌ社会の内部にはほとんど干渉しなかった。シャクシャインの反乱をつぶした松前藩が、藩地(和人地)をいささかたりとも拡大しなかったのは、植民史の常識からすればおどろきである。こういう場合、植民者は現住民の土地を接収するのがふつうなのではあるまいか。しかし、松前藩にとってアイヌの土地を奪っても何の得にもならない。藩地をアイヌモシリへ拡大すれば、統治の費用はたえがたいものになろう。それよりもアイヌモシリはアイヌに任せて、交易の形をとった収奪を続けた方がずっと得策なのだ。
このようにして、アイヌモシリは政治権力の統治が存在しない自由の天地として存続することになった。むろん、それは平和的な理想郷だったのではない、アイヌがサハリンまで北上して元軍と戦ったのは先述した通りだが、アイヌ社会内部でもシャクシャインとオニビシの抗争に見られるように、武力紛争は珍しくなかった。16世紀から18世紀にかけて、チャシと呼ばれる山塞がしきりに構築されたのも、アイヌ社会で武闘が日常化していたことの証拠といってよい
チャシは北海道全体で500以上の遺跡が確認されている。チャシは祭祀の場であったり財宝の倉庫であったりする面もあったが、構造から見て軍事的な砦だったことに間違いはない。また伝承によると、財宝をねらって夜間に他の集落を襲撃する慣習があった。うまりアイヌの社会は財宝をめぐって強い欲望とねたみの渦まく社会でもあったのである。
……アイヌ社会の階層化と財宝をめぐる争闘が明かされた今日、そのような批判が提起されるのは当然ではあるが、かといってこういうアイヌ社会の一面を不当に強調して、知念幸恵のいう大自然に抱擁されたのびやかな幸福をまったく幻想であるかにおとしめては、アイヌ社会の重要な一面を見落とすことになるだろう。
松浦武四郎が安政年間、石狩川の上流で見た光景も知念幸恵の牧歌を裏切らぬものだった。……
いかに財宝の所有にもとづいた格差を内包していようとも、アイヌ社会は政治権力の統制を必要としない共同体社会だった。富める有力者は集落共同体の長老として成員すべての生活を成り立たせる義務があった。ウタレというども、家父長制大家族の一員としてその生存は保護されていた。……
しかもその生活形態は、日本との交易によって強く規制されていたとはいえ、自然環境との関係は調和的かつ共生的だった。というのはアイヌの世界観において、山川草木はもちろん、彼らの生活がよって立つ一切の生きものが神霊の現れだったからだ。彼らの狩猟の対象となるけものは、実は霊がけものの仮面を着けて人の世を訪れているのだった。だから、彼らを射とめて殺すのは、霊から仮面を剥いで霊の国に送り帰すことなのだ。このようなアイヌの霊観念が儀式化したのが、幼い熊を捕獲し飼育したのちに、殺して霊の国に送り帰す熊送り儀式である。
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……アイヌの自然への態度は、このように霊界と現世との相互浸透ないし循環への強い信念によって支えられている。万象を霊の恵みと感じているから、鮭なら鮭にしても必要以上のものはとらない。川を汚すのを嫌うのもおなじ心性の表れである。汚れたものを川で洗うことをしないし、川へ放尿するのは論外である。酒を飲む際にも、アイヌは必ず最初の一滴を天地の神に振り注いだ。
藤村久和によると、宇宙のすべての現象で人の力が及ばぬものはひとつもないというのがアイヌの考えかただという。自然災害、流行病、飢饉といった一見人力を超えた事態に直面しても、人間は祖先に祈り神と語ることで主体的な姿勢を保つことができる。これは実に肯定的な世界観ではなかろうか。アイヌにとってこの世はよいもの楽しいものなのだ。しかし、この世はすべてあの世に支えられていてこその話だった。アイヌはふりかかる苦難を自分への試練ととらえていると藤村はいう。……国家権力に従属しない自立的な生のありかた、あの世とこの世の循環のなかに正しく位置づけられた心の落ち着き、自然の恵みを感謝するにとどまらず、災害すら自然の悪意ではなく、自分を徳ある人として完成せしめる善意とみなす世界観──このゆたかな精神文化こそアイヌ社会の重要な一面だったのである。
天明5(1785)年から翌年にかけて、幕府は蝦夷地に調査隊を派遣した。いわゆる蝦夷地見分(けんぶん)で、開府以来初めての壮拳である。事の起こりは例の『赤蝦夷風説考』が老中田沼意次の目に触れたことにあった。……
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田沼の期待する開発はどうか。金銀の産出がないのはこの世紀の前半ですでに確認されていたことだ。その替わりに調査隊は新田開発の可能性に注目した。蝦夷地で米作は可能で、全島では116万6,400町歩の新田開発が見こまれる。産高は583万2,000石にのぼるだろう。勘定奉行松本秀持はこの数字に興奮した。彼は労働力として被差別民を送りこむことを思いつき、非人頭弾左衛門に相談したところ3万人の移住が可能だという話だった。……もちろん、この計画がすんなりと実現できるわけがなかったことは、明治になってからの北海道開拓の困難と紆余曲折ぶりを見てもわかる。……開発に被差別民を用いるというのも、後日の囚人労働の先駆をなす発想である。弾左衛門は移住を承諾する替わりに身分の解放を求めた。計画が実現したら、名ばかり解放された被差別民の骨が蝦夷の山河を埋めたことだろう。
しかし、肝心の田沼意次が将軍家治の病没によって後ろ盾を失い、天明6年10月に失脚した。計画は宙に浮いたのである。調査隊員たちも任を解かれた。代わった松平定信政権は、蝦夷島には手をつけず従来のまま放置して、ロシアとの間の緩衝地帯とした方がよろしいと考えだ。松本秀持は処罰され、部下の調査隊員は2年間の苦労が泡と消え去る有様を息を呑むばかりだった。
にもかかわず、天明5、6年度の蝦夷見分は、北海道・樺太の実情を初めて明らかにしたという点で絶大な意義があった。彼らの報告で注目すべきなのは、アイヌを日本国民と認定し、千島・樺太を固有の領土とみなした点である。近代ナショナリズムはすでに彼らの胸中み芽生えていたのである。彼らは新井白石が『蝦夷志』で、アイヌを男女上下の別なく禽獣に近いとしたのに憤慨し、『至って正直なるものにて、おのずから慈敬・仁愛・礼儀等も厚く、別して女は貞実にあい見え、すべて神を尊信仕り候』とアイヌを弁護した。このように彼らはアイヌに同情したが、それゆえにこそ日本国民として教化すべき存在とみなしたことを忘れてはならない。アイヌを日本の国風に同化せずに放置しているのは、その方が『掠め安きため』であり、彼らのこのような松前藩と請負商人への不信は、こののち幕府の方針はもちろん、明治以降の歴史観にも大きな影響を与えることとなった。
第六章 アイヌ叛き露使来(きた)る
……」
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縄文人⇨続縄文人⇨擦文文化人⇨アイヌ人は、樺太の北から侵略してきたオホーツク文化人やモンゴル(元寇)を撃退し、オホーツク半島や千島列島から南下してきたロシア人から戦おうとして、戦争をしても守ろうとしたがゆえに蝦夷地はアイヌの大地・天地であった。
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蝦夷地・北海道、北方領土4島は、ロシアが主張する様なロシアの主権は存在しないしロシアの領土であったことはなく、当然中国や朝鮮・韓国の土地でもないく、数万年前から縄文人の土地であり日本国の領土である。
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人間には誰しも例外なく、長所短所、美点欠点、良い所悪い所、良心悪心の二面性があって当たり前である。
自分の事は棚に上げて他人の事をとやかく批判・非難し口汚く罵って攻撃する善人面の人間に、真面な人間はいない。
が、現代日本にはそうした「独り善がりの欲求不満解消型(エゴ)正義の味方」が急増している。
一言で言えば、つまらない日本人達である。
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数万年前、日本列島を中心として南は琉球、北は蝦夷・北方領土・千島列島、西は朝鮮半島南部で、独自文化を持って広く住んでいたのは縄文人であった。
樺太やカムチャツカ半島・シベリアには別種の大陸系モンゴロイドが住み、彼らの祖先の一種がベーリング海を越えてアメリカ大陸へ移住していった。
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縄文人の子孫は日本民族・琉球民族・アイヌ民族で、漢族中国人や半島系朝鮮人は同じ東アジア人(モンゴロイド)ではあるが北方系西方系の子孫で無関係である。
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日本民族・琉球民族・アイヌ民族の共通点は、大陸や半島から逃げて来た弱者や敗者・難民や亡命者と乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種である事である。
日本は彼らを温かく受け入れ家族の一員としたのだから、朝鮮や中国は日本に感謝すべきであり、日本は朝鮮や中国に感謝する必要はない。
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混血度が一番濃いのが日本民族であり、次に濃いのが琉球民族で、アイヌ民族は一番混血度が薄い。
つまり、雑種として、血が一番汚れているのが日本民族で、アイヌ民族は血が汚れていない。
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少子高齢化で人口激減に突入した日本で外国人移民(特に中国人移民)が増えれば縄文系三民族は消滅に向かい、人口減少と移民増加がみられる北海道ではただでさえ人口が少ないアイヌ民族の消滅はさせられない。
が、アイヌ民族が外国人移民(特に中国人移民)と乱婚して混血化する事は、列島の歴史から見て正しい事であって悪い事ではない。
混血しても北海道に住む限りアイヌ民族には変わりない。
なぜなら、アイヌ人とはアイヌの島・大地である蝦夷地に住む人を指すのだから。
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日本民族とは日本列島に住む人の事であり、琉球民族とは琉球諸島に住む人の事であるが、アイヌ民族だけは蝦夷地以外にどこに住んでもアイヌ人のままである。
日本民族と琉球民族は同化しやすい。
アイヌ民族だけは、日本民族と琉球民族との同質を嫌い同化を拒むが、縁も所縁もなく血の繋がりが全くない漢族中国人や半島系朝鮮人との親和性を好む。
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