🪁2〕─3・A─草原の道と遊牧騎馬文明。東は日本・滋賀、西は東欧。モンゴル高原からドナウ河。~No.4 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 約258万年前から約1万1700年前 更新世新生代第四紀の前半。
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生した。
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 人類は、豊で住みやすい土地を求めて、生まれ故郷のアフリカを捨てて未知の大陸へと移動していった。
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 人の移動と共に、道具や技術、知識や宗教も変化し、落ち着いた所で文化が生まれ、やがて文明へと発展するが、自然環境や人間関係などの何らかの原因でさらに移動し、彷徨った。
 そして、古代人は、大陸の山脈・大河・砂漠・草原を踏破し、海洋の荒海の波濤を乗り越え、辿り着いた先が日本であった。
 日本人は、自力で日本列島に上陸し、自力で食べ物を探し生きてきた。
 日本人が感謝するのは、中国人や朝鮮人ではなく、自力で生きてきた日本人の祖先である。
 日本民族には、現代の日本人とは違い一点の恥じる所もなかった。
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 中華文明は、内陸の黄河文明揚子江文明と草原の遼河文明の3つからなる複合文明である。
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 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』 揚海英 著  文藝春秋
序章 中国の歴史を逆転してみる
 一 想像の『中国四千年史』
 『中国史』・『中華文明』という呪縛
 ……
 しかし、こうした『中国四千年の歴史』は、いわば中国人の天真爛漫な願望や空想をのべたものにすぎず、実際に、あの地域(以下シナ地域とよぶ。なお、シナという言葉の使い方については第二章参照)でおきた歴史とはおおきくことなっている。
 そもそも黄河文明がシナ中心地域(現在の河南省周辺)でおこったのは事実だが、考古学による研究がすすむにつれ、その古代文明と現在の『中国人』とでは、文化的にも、人種的にも断絶している事実が明らかになっている(この点について、詳しくは第一章参照)。
 現在のギリシャ人が古代ギリシャ文明とは直接つながっていないのと同様である。
 さらにいえば、『ユーラシア史』という観点からすると、『中国史』が蛮族と位置づけてきた遊牧民が、東はシベリアから西はヨーロッパ世界までひろがり、文化的・人種的に混じりあい、世界史を動かしてきたのに対し、『漢文明』がひろがりえたところは、華北と華中のいわゆる中原(ちゅうげん)を中心としてローカルな地域にとどまっていた。……『漢文明』は普遍的な世界文明のひとつというおりも、ローカルな地域文明だと考えたほうが実態に近いのではないだろうか。
 そして、もうひとつ『中国史』の大きな問題点は、それが一種の『被害者史観』となっていることだ。
 つまり、『漢民族』はつねに、異民族からの侵略にさらされつづけてきた、というストーリーである。……
 ……
 ……いわゆる漢民族中心の『中国史』は、かれらのローカルでありながら、自分たちは普遍的だと信じこんでいる世界観と、被害者意識の混合物にほかならない。重要なのは、現在の中国において、こうした『漢民族中心主義』がますますつよまっているのである。……
 現在の中国がかかえる深刻な民族問題や外交上のトラブルの多くは、他民族、他文化、宗教ヘの不寛容、および関心の低さのあらわれだといえる。そして、その背景にあるのは、『中国=漢民族を天下の中心、世界の中心とみなす』、いわゆる『中華思想』なのだ。 異民族統治の繁栄
 事実、シナ地域の歴史をたどれば、ユーラシアにまたがった交易をおこない、国際的な文化が花開いた時期がある。たとえば日本との交易がさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元)、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよぶれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ(5頁の『シナ=中国』と『ユーラシア東部』の国家の変遷表を参照)。端的にいえば、遊牧民が建立(こんりゅう)した王朝であった。
 たとえば、6世紀の終わり、300年ぶりにシナを統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系(紀元前3世紀から6世紀にかけてシナ北部に存在した遊牧騎馬民族五胡十六国時代南北朝時代には南下して北魏などの王朝を建てた)の王朝だった。第三章でもふれるが、それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣、楊震(ようしん)の子孫であると『シナ化』されてつたえられてきたのである。隋につづく唐も鮮卑拓跋(たくばつ)系で、首都長安には東アジアだけでなく、いわゆるシルクロードを介して西方からさまざまな人びとがおとずれ、商業活動や文化活動が展開された。 唐は国際的な大帝国となった原因のひとつは、実力があれば、民族や宗教などに関係なく登用するという寛容さにあった。……
 こうした国際性は、文化にも大きな影響をたえている。その代表的な例が唐詩である。岡田英弘氏の研究では、唐詩にはアルタイ語系の影響がつよく、その韻律の導入によって、非常に発達をとげたという(『読む年表 中国の歴史』)。そもそも詩仙とよばれた李白自身、テュルク人(トルコ系)であった可能性が高い。……
 ……
 こうしてみてくると、漢民族中心主義ではなく、異民族による国際主義によって統治された時代こそ、『中国』がもっとも栄えた時代だったという事実がわかるだろう。
 伸縮自在の自己中心史観
 話はふたたび『中華思想』にもどる。この『漢民族』にとってのよりどころであるとともに、足かせである思想は、どのように形成されてきたのだろうか。
 私の考えでは、古代シナの都市国家において成立した『原・中華思想』と、その後、遊牧民族および近代西洋との緊張関係のなかで形成され、そして歪められた『コンプレックスとしての中華思想』におおきく分けられる。
 まず、古代のシナ地域、ことに中原と呼ばれた華北の高原地域では、農耕を基盤として、四囲を高い城壁で囲いこみ、外敵の侵入を阻む都市国家が成立した。その城壁の内側こそが『天下=世界』であり、外側には非文明、非文化的な荒野がひろがっているイメージである。これが『原・中華思想』だろう。
 ここで重要なのは、こうした都市国家には、国境という概念が存在しなかったことだ。
 ……
 こうした考え方は、いまの中国人にも共通している。たとえば世界中に存在するチャイナタウンは、城壁都市国家の現代版だといっていい。
 ……
 かれらシナ人、中国人にとって、国境とは、国力が高まれば自由に変更可能なものなのである。……近年さかんにすすめている南シナ海への進出についても同様で、もし『九段線(中国が南シナ海での領有権を主張するために独自に設定した9本の境界線)までは自分の領海だ』という主張が通れば、つぎは当然のように、『マラッカ海峡までが中国』と拡張していくはずである。なぜなら中華思想に依拠すれば、『遍く天下=世界は、王土=中国領である』からだ。
 二 文明史観と遊牧史観 
 文明史観からの思考
 ……
 私は、中国と周辺民族との関係を理解する上で、近代以前については梅棹忠夫『文明の生態史観』、近代以降については川勝平太『文明の海洋史観』がうちだした理論的枠組みが有効だと考えている。この2つの理論は、いずれも『なぜ日本とヨーロッパだけが近代化に成功したか』という問への挑戦なのだが、私はこれをひっくりかえして、中国を客観的に理解するためにつかおうと思う。この2つの文明史観は遊牧民の見解、遊牧文明からの史観とも近いからである。
 ……
 梅棹史観のおおきな特徴は、人間の歴史は、自然界におけるサクセッション(遷移)という概念でとらえていることだ。……
 ……
 ……それは結局、城壁で囲う範囲が広くなるだけで、世界に秩序をあたえる力はないだろう。『中華思想』の狭小(きょうしょう)な視野なれば世界の人びとをひきつける、魅力ある世界システムの構想はうまれ得ないだろう。……実際には、中国国内の論理を自他の見境もないままおしつけるだけなのだ。世界には、中国的価値観をうけいれる精神的な土壌はどこにもない。
 ……
第一章 『漢民族』とは何か
 ……
 二 東アジア大陸の人的移動
黄河文明をきずいた人びとは、南へと追いやられていった
 時計の針を中国大陸の最初の王朝にまで巻きもどしてみよう。私たちは、夏、そして殷、周と記憶しているが、現在の言語学者や考古学者の研究によってわかったのはおおよそつぎのような経緯だ。
 最初に国家のようなものができたのは、黄河文明の発祥の地とされる黄河中流域にある中原という地域である。その中原にタイ系の夏人がいたと考えられている。そこに紀元前13世紀ごろ、いまの満州、東北から狩猟民の殷人がはいってきた。さらに西から遊牧民の周人が闖入(ちんにゅう)してきた。これが夏、殷、周と呼ばれる中原で成立したと想定される王国だ。
 そして、漢字が成立したのが、亀甲(きっこう)文字から発展しておよそ3000年前だと考えられている。
 ……
 いまの東アジア大陸の基本的な構図は、以下のようになる。中国という国の北のモンゴル高原満州(東北)、それに東トルキスタン(新疆)には、アルタイ系の言葉をあやつる人々がいた。モンゴル人と満州人、それにテュルク系の人びとだ。これは、中原を中心と考えると『漢人』の漢字表記からすればいわゆる『北狄』になる。西には『西戎(せいじゅう)』だが、シナ・チベット系の言葉を話す人びとがいる。南の『南蛮』には、タイやマレー系の人びとがいる。はるか東の『島夷』には日本がある。中国人の世界観はいまも基本的に変わっていない。
 ……
 宋の趙一族が南方出身だといわれているが、最近の研究によると、どうも怪しく、かれもテュルク系ではないかという説がでている。
 ともあれ、シナの歴史は北方からの侵入がつねにあって、中原の人びとは南へ逃げだすことが多い。その結果、タイ系の人たちが南へ追いやられた。
 だから、漢人は、中原で緩やかに形成される征服者たちではあるとはいえるが、漢人や漢族という概念はじつは頻繁に変わっている。184年にはもう500万人弱しかのこっていなかったプロト漢人が、あとから入ってきたアルタイ系を話す人たちと混血して、新しい漢人になっていたからだ。
 そして、つぎに漢族が大きく形成されるのが589年、隋の統一以降のことだ。隋とつくった楊一族は鮮卑系だから、この鮮卑系(遊牧騎馬民族ということ)の人たちが中国を統一した。隋の統治は短期間であったが、のちに唐が樹立される。唐については、第四章でくわしくふれるが、唐もまた鮮卑系の国家だった。その結果、シナは統一されたけれど、明らかに支配者、あるいは主要成分というのは全部、鮮卑系の、アルタイ系の言葉をつかう人たちであった。……。
 陸封された民族
 地殻変動で海にいたはずの魚が陸封されてしまう現象があるが、そのバージョンが民族でも起こりうる。
 ……
 今日の『漢民族』の概念の創造と想像
 では、今日、近代以降の歴代の中国政府が主張している『漢民族』とは、どういう概念なのか。
 かれらは、日清戦争で日本に負けた直後の1895年自分たちは『黄帝』(シナ古代の伝説上の帝王)の子孫だと言い出した。東夷の日本に先を越されたショックから、野蛮人に負けていいのかということで急遽一種のナショナリズムから主張するようになった。
 その後だいぶ遅くなって、20世紀半ばぐらいになってから、同じ伝説上の帝王である『炎帝』も加わって、炎黄子孫による『漢民族』の主張となった。
 ……
三 マルクスの発展段階の移植
 中国人の多く、そして日本人も未だに、漢族は4000年の昔から、中原に住んでいて、そこで素晴らしい黄河文明長江文明をつくり、やがてかれらが北へ、西へ、東へ、南へ『野蛮人を駆逐しながら勢力を拡大し』ていき、周辺民族に文明を伝えた──と考えている。
 しかし、これまでみてきたように、実際は、そうではないのである。
 北方・遊牧民族が入ってきて、中原で緩やかに一種の混合民族になってから、中華文明は開花したというのはある程度事実ではあるけれど、中原の漢人たちが四方へ拡散していき中華文明をひろげたということは事実ではない。先に紹介した、また第二章でもふれる北京大学の考古学者・蘇秉琦(そへいき)教授の『中国文明の起源』(遼寧人民出版)で、指摘していることである。
 ……
 そして、夏、商、周、秦、漢をひとつの継承国家として語るのは無理だ。継承されていない。……。
 さらに、漢人の文化がすすんでいて、周辺民族を同化したというのも嘘だという。……。
 さらに、そもそも、中原というのはいろんな民族が入ってきたところであり、漢人のみの揺藍では決してなかったとして、中国文明(中華文明)がここで栄えて、漢人が周辺へ拡散していって中国文明(中華文明)を伝えたのではないと主張している。
 なぜなら、黄河文明は継承されていないからだという。黄河文明のいちばん典型的なものは仰韶(ぎょうしょう)文化(中国の黄河中流域全域に存在した新石器時代の文化)だが、これは陝西省から山西省にかけて存在した8000年前から6000年前までの文化だ。2000年つづいたものの、6000年前の段階で突然消えてしまった。継承されていない。……。したがって、それを漢族の祖先のものとはとてもいえない、とかれは指摘している。
 それからかれはまたこうも指摘している。
 メソポタミア文明エジプト文明は正確に『5000年』というふうに編年できる。しかし、中華文明は編年できない。『5000年の中華文明』といった場合に、証拠はどこにあるのかと問えば、蘇秉琦教授は、『それは黄河文明でもなく揚子江文明でもなく、紅山文明だ』という。
 この紅山(こうさん)文化は、日本人考古学者の濱田耕作氏や水野清一氏によって、戦前に発見された内モンゴル地域の紅山後遺跡に由来している。
 ……。
 しかし、かれは、われわれは黄河文明で中国を語るのは無理であって、中華文明、そして、どうしても5000年という言いたいのなら、むしろ草原地帯の紅山文化を入れないと5000年にはならないと主張している。
 ……。
 貧困の黄河文明がもたらす専制主義
 しかしながら、かれは、なぜ中原にさまざまな人びと、民族が入ってくるかということは書いていない。世間一般には、中原は豊饒な大地であり、だからそこに人びとが集まり文化文明が栄えたというふうにとらえているが、橋本萬太郎氏や岡本英弘氏は、中原は生産性の低いところだと指摘している。たしかにその通りだ。黄河は2年に一度ぐらいの割合で氾濫する。結局、『黄河文明』は治水文化でしかない。要するにいまの言葉でいえば、インフラ整備の文化にすぎない。国家が、歴代王朝がいかに黄河の氾濫を抑えるかということで、膨大な工事費を投入し、人民を動員して、あそこで治水工事をさせて食わせるといった統治システムになるわけだ。そのくりかえしの歴史だ。水力的先生国家は近代化で脱皮できないし、革命が発動されても、結局は新しい専制義体制になるだけだ。……。
 黄河文明といったも、所詮は黄土高原だから、あまり雨が降らないし、農業をしてもさほどの収穫はない。そのため、黄河文明下では富の蓄積ができなかった。やはり文明は富の蓄積、累積がなければ、豊にはなりえない。……。
 そうなると、支配体制は必然的に専制主義になっていく。たくさんの人民を無理やり動かせるので、専制主義でなくては統治不可能で、今日までつづく中国の歴史的な専制主義は、黄河文明の特徴を表現したものといえる。……。
 ……。
 中国の場合は、揚子江から南が豊だった。というのは、揚子江まではモンスーンの影響下にある。梅雨がある。だから稲作が可能なのだ。そのため、農業社会が成立するので富の蓄積が可能になった。そうなると、周辺民族の入ってくる魅力の場所は中原ではなく、さらに南のほうということになってくる。だから、アルタイ系の言葉を話す諸民族とかチベット系の民族が中原を目指すのは、中原に住みたいのではなくて、中原を通ってさらに南下したかったわけだ。中原はあくまでも通過地点でいかなかった。でも、中原に入ると、そこに定住する人びともいる。一定数が定住すると緩やかにひとつの集団となっていく。
 逆転の史観
 ……。
 このように考えてくると、まったくちがう地平がひらけてくる。
 歴史に中心と周辺があるわけではない。『中心と周辺』というのはある時代のある王朝の見方というのにすぎない。万里の長城の外側は未開の地ではないのである。むしろ視点をユーラシア大陸にひろげると、黄河文明より1000年も早く青銅器文明がはじまった草原の紅山文明があり、それらの人びとが黄河にうつりすみ、それ以降も、草原には多くの豊かな文明が生まれ、お互いに影響しあいながら、実際の歴史は編まれてきたのである。
 ……。
第二章 草原に文明は生まれた
 一 文明の遊牧史観
 日本という国は、序章でもすこし指摘したように、中国へのコンプレックスに苛(さいな)まれつづけている。
 ある意味で日本の対中国コンプレックスはしかたのないおとかもしれない。地図をみれば、日本列島の西に巨大な国家がるのは事実だ。歴史をふりかえっても、日本はシナからさまざまな文化や技術を輸入してきた、というなかば洗脳のような思いこみにとらわれている。それが、現代日本人の哲学的思考と行動に大きな影響をおよぼしている。
 『草原文明』と『遊牧文明』
 ……過去、何世紀にもわたって広いユーラシアでたえず移動をつづけてきたモンゴルの人間がモンゴル高原からみると、中国はユーラシアの東端(左端)に固定された存在にすぎない。東アジアで過去においてさかえほろんでいった文明もまた、世界中にいくつもある数々の文明のひとつにすぎないと理解しているから。地政学・地理学的に俯瞰しても、シナは遊牧のモンゴル高原からくだったところにある農耕地だ。モンゴルにとってシナは、巨大でも強力でもない。
 モンゴルにはユーラシアからの視点がある。シナをつねに東から仰視(ぎょう)し、日本語を母国語とする日本人がそのユーラシア文明の視点を獲得すれば、ユーラシア、あるいは世界と中国を相対化することができ、チャイナ・コンプレックスから解放されることになるだろう。
 ……
 中国は近年、中華文明は3つの文明からなると主張するようにかわった。3つの文明とは『黄河文明』と『揚子江文明』そして『草原文明』である。……いまやそれが中国国内の『定説』となりつつある(揚海英『中国が語りはじめた遊牧文明』)。
 なぜ、黄河文明揚子江文明に、草原文明を追加したのか。それは、黄河文明揚子江文明も断絶された文明だからだ。この2つの文明は、現代中国の中国人に直接的に継承されていない。一方で、かれらが草原文明とよぶ文明はいまの中国にも脈々とつらなっていることについては、すでに前章で詳しくのべた。
 ……。
 ……ウラーンハダは中国からみると『万里の長城』の北に位置することだ。春秋戦国時代のシナがそこから北はシナ人のくにではない、野蛮人の土地とみなし、自ら線引きしたその外側にある世界だ。黄河文明圏でも、揚子江文明圏でもない。にもかかわず、その遊牧民の地の遺跡が新石器時代から文字の記録まで延々とたどれる。
 このように、草原文明は、かつてかつてシナ人自身がシナではないと規定した外の地域でさかえた文明なのだ。それゆえに中国は長いあいだ、草原文明を自国の礎となるものとしてみとめてこなかった。とうぜん、中国にはシナ起源の長い文明の歴史があると主張したいという思惑がある。とはいえ、黄河文明揚子江文明の存在を現代とむすびつけるのにはその主張の根拠がまだよわい。
 ……草原文明は中華(中国)文明のひとつであり、現代中国は、その草原文明の継承者であると主張する道をえらばざるをえなかったのだ。その背景には、モンゴル人も中華民族であるとの曲解を強いる『ワン・チャイナ』的な中国共産党政権の政治的思惑があると指摘していい。
 オルドスで生まれそだった私のようなモンゴル人は、『草原文明が中国起源の文明だ』とか、『中華文明の一部』とかのように誤解することはない。モンゴルなど遊牧民の祖先がきずきあげた文明をほこりに思うことはあっても、中国の一部だとの認識はない。中国を西の大国と信じる日本人たちは、この歴史的感覚が欠けているように思える。
 草原文明とよばれるものは、正しくは私たちがよく知っている遊牧文明のことである。
 ……。
 本書では、古代の漢人すなわちシナ人が主役として活動していた場所のみを『シナ』とよぶ。また、漢人以外の諸民族の人びとは、『中国人』や『華人』ではないとの立場をとっている。『中国』はあくまで1912年以降に成立した国家のみを指す。
 ユーラシア大陸という世界
 今日の中国北部を内包するユーラシア草原は、東の満州平野から、西はハンガリー草原までつづき、その東西の距離は約7,500キロにおよぶ。広大無辺な草原地帯を研究者はいくつかの地域に分割して考えることがおおい。学問的な分類の方法は3つある。
 日本の考古学者や東洋史学者のおおくは、ユーラシア草原を『縦』にわけて考えたがる。境界となるのはカザフスタンキルギスタン、それに今日の中国西部の国境地帯に位置するパミール高原天山山脈、それにサヤン山脈をつなぐ線だ。だいたいこの線の西を西トルキスタン、東を東トルキスタンと表現する。……。
 つぎに、モンゴルやロシア、あるいは中国人は、ユーラシア草原を『横』にわけて考えることがおおい。一番、南によこたわるのは、古代のシナ人がひいた政治的なライン、万里の長城である。そして、北極圏から万里の長城までと、万里の長城から西のヒマラヤ山脈、さらにはイラン高原、はては黒海南岸をつなぐ横の線で分割して思考する。
 とりわけロシアのユーラシア主義者は、ユーラシアを『南北』にわけようと熱心である。
 ……。
 梅棹忠夫の『文明の生態史観』
 さて、日本の考古学者や東洋史学者、ユーラシア草原を『縦』にわけたがるとのべたが、『縦』でも『横』でもない第3の分類法を提唱したのも日本人だ。国立民族学博物館創始者で、初代館長の梅棹忠夫氏である。
 序章でも指摘したが、かれは、名著『文明の生態史観』などで、ユーラシア大陸の西端と東端における人びとの価値観や社会システムがよく似ている事実に注目した。西端とはイギリスに代表される西ヨーロッパであり、東端は、陸つづきでない日本である。

 世界を東洋と西洋とに類別するということが、そもそもナンセンスだ。・・・わたしは、問題の旧世界を、バッサリ2つの地域にわけよう。それぞれを第一地域、第二地域と名づけよう。

 梅棹氏はこのように旧世界の封建的な文明をもつ東西両端の湿潤な地域(西欧・日本)を第一地域として。そして、第一地域に挟まれる第二地域(旧世界のユーラシア大陸部)は、乾燥した草原からなり、そこの住人は専制的文明を構築し、近代化が著しくおくれているという文明の生態史観論をうちたてた。
 生態史観とは、生態学でいうところの遷移(サクセッション)の法則にしたがって動物・植物が自然共同体を形成するのと同様に、人間の歴史的営為もまた本質的には同じだ、という思想である。
 ……。
 このような価値観をもつ遊牧民による文明をみとめる以前の中国は、農民史観、農耕民族的視点から遊牧民をながめ、見下してきた。もっとも、遊牧民からすればもちろん遊牧民のほうが能動的で、農耕民族を固陋(ころう)だとみていた。その農耕民族が遊牧文明を歪曲してきたとの思いがある。これが、モンゴルと中国とのあいだの今日的な文明論争のひとつの要因にもなっているのである。
 砂漠の文明
 ……。
二 青銅器文明
 草原に冶金文明は生まれた
 『遊牧の起源は、農耕よりも古い可能性がつよい。乳製品の製法が確立した段階で、畜産物を主体に生活を維持することはじゅうぶんに可能であった』
 みぎは、ユーラシア各地の遊牧民社会で調査研究してきた松原正毅氏の見解である(前出)。
 ユーラシア草原で遊牧がはじまったのは、青銅器時代の紀元前1000年頃と考えられている。青銅器は宗教や哲学の形成にも関係していることから、文明をよみとくにあたってこれに注目することは非常に有意義だ。……。
 たとえば、シベリア南部にあるミヌシンスク盆地では数おおくの青銅器が出土しており、青銅器を製造し、かつ、牧畜と狩猟、漁労を並行しておこなうミヌシンスク文明があったことがわかっている。その文明は、出土した層のちがいと青銅器の特徴により、古くからアファナシェヴォ文化、アンドロノヴォ文化、カラスク文化と分類することができる(藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』)。
 この時代はシナでいうと神話上の三皇五帝の時代から春秋戦国時代(前770~前221)に相当する。ミヌシンスク盆地では、シナとは完全にちがった文明が成立していたのだ。
 ユーラシア考古学者の藤川繁彦氏によると、まず、紀元前4000年にはすでに銅石器と馬の利用がはじまっていた。そして紀元前3000年、アファナシェヴォ文化がおこるころに、青銅器の製造がはじまった。具体的には、青銅器による短剣などの製造が開始したのである。
 ……。
 広漠な範囲でよく似た青銅器の短剣が出土したという事実をうけて誕生したのが、ユーラシア(シベリア)冶金(やきん)圏説である。文化圏あるいは文明圏を標榜するには、その圏内での文化や文明がどれだけの均一性をもつかがとわれる。この地域で出土した青銅の短剣はほぼ同じものである。青銅の短剣は武器としての実用性はあまり高くなく、高貴な身分や権力の象徴としてつかわれていた可能性が高い。
 当時のシナ・殷(前1300~前1027)でも同時期に青銅器はつくられていた。しかしそれは短剣ではなく農耕儀礼用の重厚な祭器であり、家や権力の象徴としてもちいられ、固定建築の神殿内におかれていた。……。こうしたちがいから、殷は、ユーラシア冶金圏のそとにある。
 なぜ、ユーラシア冶金圏はこれだけ広範囲にわたって分布するのか。
 それは、遊牧民が移動したからだ。青銅器の短剣は、馬にまたがった遊牧民によって広範囲に流布したのである。これに対してシナでは、馬および馬車の利用がきわめておくれていた……。
 ……
 中原と並存して存在したオルドスの文明
 オルドス式青銅器は日本でもいくつも発見されている。九州地方が主だが、2013年8月には滋賀県高島市にある上御殿遺跡で、弥生中期のものとみられる層から、剣を握る柄(つか)に2つの輪がついた『双環柄頭短剣(そうかんつかがしらたんけん)』が出土した。これまで日本国内で発見された銅剣とはことなり、シナからつたわったのか、それとも日本海ルートで伝来したのか。伝来の径路には複数の可能性があり、銅剣の流通ルートを解明するうえで貴重な発見だ、と当時の新聞は報じている。『朝鮮半島にも九州にもない短剣が、なぜ近江に』『何につかったのか』という具合に、おおくの謎に研究者が頭をかかえているとも報じていた。東はジパングの滋賀、西はヨーロッパとアジアの境にある黒海までの範囲で、オルドス式青銅器がみつかっているのだ。オルドス式青銅器の広範囲にわたって分布はもちろん、遊牧民がその広い地域をあまねく移動した結果によるものと考えてよいだう。
 ユーラシアの青銅器時代と、シナでの神話上の三皇五帝時代から春秋戦国時代はほぼ同時代である。この時代のユーラシアとシナとでは、完全に別の文化がおこっていた。……。
 いずれにせよ、スキタイ文化、そしてオルドス式青銅器文化は、紀元3世紀頃から衰退していく。シナでいえば後漢時代(25~220)である。このあとユーラシアは鉄器の時代にはいっていく。
三 古代遊牧民が遺した遺跡
 ……。
 人類学的見方にしたがえば、トナカイ文化圏というものがある。……。
 ……。
 ……シナと遊牧民とのあいだに交流はあった。おれはあくまで遊牧民によってことなる文明同士の対話がもたらした結果にすぎない。それゆえに、遊牧文明は、シナに属すものでは決してないのだ。
 これ以降本書ではそれを前提に、中国から独立した文明の視点で『ユーラシア文明』をつづっていくことにした。
第三章 『西のスキタイ、東の匈奴』とシナ道教
 ……。」
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逆転の大中国史 ユーラシアの視点から (文春文庫)
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 東アジア大陸には、南の大河川流域にあった黄河文明長江文明、北の寒冷地にあった草原文明、西の乾燥地域にあった砂漠文明の環境条件が異なる4つの文明が存在し、生き残る為に熾烈な攻防戦をくり広げていた。
 「人と道具と文化は動く」という人類史からいうと、動かない黄河文明長江文明は地域文明であり、動く草原文明と砂漠文明は広域文明である。
 草原文明(遊牧文明)の1つが遼河文明であった。
   ・   ・   ・   
 中国特に中国共産党は、反宗教無神論漢民族中心主義で異民族・少数民族の歴史・文明・文化・宗教・言語を非人道的ジェノサイドで根絶しようとしている。
   ・   ・   ・    
 満州南部に住んでいたチベット系などの騎馬遊牧民は、弥生時代後期に日本に渡来して遼河文明の価値観と新しい技術を伝え、弥生人と乱婚して混血の古墳人を生み出した。
 日本文明は、海洋・舟の長江文明揚子江文明)と内陸・馬車(後に牛車)の黄河文明に草原・騎馬の遼河文明を取り込んだ。
 その後も、拝火のゾロアスター教と砂漠文明、仏教と南アジア文明、ガンダーラ文化を通じて古代ギリシャなどのオリエント文明を受け入れた。
 江戸時代からはキリスト教抜きの西洋文化を、明治時代からはキリスト教を含めた近代西洋文化マルクス主義の世界観を、戦後はアメリカの自由と民主主義と共産主義価値観を、受け入れてきた。
 日本文明は、世界で優秀とは言えないが特殊・特別な多種・多様・多元な複雑な要素を持ち、日本列島と日本民族に限られた孤立した孤独な文明である。
   ・   ・   ・   
 昔の日本民族と現代の日本国民は別人のような日本人である。
 そして、帰化人は日本民族で、渡来人は日本国民である。
   ・   ・   ・   
 石器人(ヤポネシア人)⇨縄文人(日本土人)⇨弥生人⇨古墳人⇨倭人⇨ヤマト人⇨日の本の人⇨国内諸国人⇨日本人⇨日本民族
   ・   ・   ・   
 日本が中国や朝鮮と違うのはこの為であり、違う以上、日本は中国や朝鮮に自分を卑下するようなコンプレックスを持つ必要はなくそして過度に感謝する必要もない。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないだけに現実に起きていた事実の歴史、日本史はもちろん中華史(中国史朝鮮史)を含む世界史が理解できず、現代日本のリベラル的平和主義史観で理解しようとしている。
 少子高齢化で人口激減が進む日本に中国人移民が急増して、日本は少しずつ中国化しつつある。
 現代日本には、日本を中国化して住みやすい日本に大改造しようとする反日敵日的中国人に協力する親中国・媚中の良心派、友好派、護憲派人権派の日本人が存在する。
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 中華農耕民族は、北方遊牧民族と戦えば十中八九は敗北し、中華帝国の大半が異民族が打ち立てた征服王朝で、漢族は小人として貧しく惨めな身分に落とされていたが、教養・道徳・精神では勝っているという「阿Q」(魯迅)的思考で優位に立っていた。
 その意味で、漢民族歴史観は虚勢・虚栄の被害者史観で、栄光ある輝かしい史観などはない。
 それを誤魔化す為に政治用語として「中華民族」がつくられ、そこには歴史・文化・伝統・宗教などを持った生きた民族は存在しない。
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