🗾12〕─4・A─日本民族は旧石器時代に住み着いた森の狩人・岩宿文化人の子孫である。~No.61 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 『縄文文明の環境』  安田喜憲 著  吉川弘館
 「環境考古学の視点
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 1970年代に支配的だった歴史観が1990年に入って大きく変貌した背景には、旧ソビエト連邦の崩壊に象徴される、共産主義体制を擁護するための歴史観の崩壊も深くかかわっていた。戦後の日本の歴史観を大きく支配していたのは、マルクス主義史観だった。しかし、共産主義体制の崩壊で、戦後日本の歴史学を支配した共産主義者たちの発言に陰りが見えてきたのである。しかも、ほぼ同じころ、オゾンホールの存在が明らかとなり、熱帯林の破壊と地球温暖化が人類の未来に暗雲を漂わすことになった。これを決定的にしたのは1994年の冷害だった。これほどまでに高度技術で武装した日本が、夏の気温のわずかな低下によって、ただちに凶作にみまわれ、食料難が起こる。それは、人間の歴史は人間が作るものであって、気候が少し変わったくらいで大きな影響を受けるはずがない、と私に忠告してくださった先生方は、本当にショックだったと思う。
 1970年代に鈴木先生に対して悪口雑言をはいていた先生方が、いまや鈴木先生と同じこと、いや、もっと過激なことを発言されているのをみて、私は戦後民主主義の名のもとに育った、無責任で時代迎合主義の者の一面を垣間見る気がしている。かつてあれほどマルクスの傾倒していた先生方が、いつのまにかころりとマルクスを捨てている。……。
 今では、歴史学の分野においても気候と歴史の関係がまことしやかに論じられるようになったことに、驚きを隠しきれない。そこにはどこか危ないものを感ずるのである。なぜなら、人文科学出身の歴史学者が、気候変動のメカニズムやそれを解釈する自然科学のデータを、十分に理解する能力を持ち合わせているとは思えないからである。……。『マルクスがだめなら気候があるさ』といったご都合主義や時代迎合主義で、この問題に取り組むことは大変危険である。
 環境考古学は未来を予言し警告する
 これまでの世界史は、キリスト教を精神的主柱とする近代ヨーロッパ文明の地球支配を擁護するように書かれた、という性格を強く持っていた。マルクス主義史観は共産主義体制を擁護するために書かれてのと同じく、私たちが高等学校で学んだ世界史は、近代ヨーロッパ文明を善とし、その世界支配を肯定する前提で書かれていたことに、私たちは何の疑いも挟まなかった。しかし、今こそその過ちに気づく必要があるのではなかろうか。
 近代ヨーロッパ文明の地球支配の中で、歴史の闇(やみ)の彼方に葬り去られた、弱き者の目を通してみた歴史が、書かれる必要があるのである。その弱き者とは、アフリカや中南米、そしてアジアの、アニミズムに立脚した諸文明である。近代ヨーロッパ文明の侵略の中で、破壊されしいたげられ、未開・野蛮とさげすまれてきた文明の立場にたった、新たに世界史を書き替える必要がある。
 弱き者にはもう一つ重大なものが含まれている。それは自然である。自然はそれまでの世界史の中で、人類に奉仕するものとしての役割しか担わされていなかった。それはこれまで私たちが学んできた世界史は、まず神があり、つづいて人間があり、自然はその下にあって人間に食料を提供するものという、キリスト教の世界観に立脚して書かれたものであったから当然のことである。でも、これからのべるように、森の目を通して、気候の目を通して世界史を見ると、これまでの世界史とはまったく異なった歴史があったことにはじめて気づくのである。
 古代文明がなぜ崩壊したかについて、これまでの世界史は部族間の抗争のため、殺しあいが引き起こされ、それで滅亡したのだと説明してきた。ではなぜ部族間の抗争が激化したのか。その問いにはこれまでの世界史は答えられなかった。それはこれまでの世界史が人間しか見てこなかったからである。これからは、自然を、さらには森や気候を通してみた世界史が書かれなければならないのである。なざなら人間の営みは自然との関係を抜きにしては存在しえないからであり、人間もまた自然の子だからである。人間の歴史は自然の歴史の一部であるといっても過言ではあるまい。自然は人間の歴史に奉仕する奴隷ではない。自然は人間の歴史を大きく変える力があり、歴史をはぐくむ母なる大地なのである。
 もしこのまま地球の人口が増加し、森林破壊が加速度的に進行した場合、2020年ごろには食料難が引き起こされ、現代文明は危機を迎えるというのが、私の予測である(講座『文明と環境』全15巻、1995~96年)。こうした危機を目前に控えた私た……。

 縄文文明の位置と生成
 縄文文明の世界史的位置
 1万年以上続いた縄文時代
 縄文時代は1万3000年前~1万2000年前にはじまり、2300年前まで、1万年以上にわたって日本列島で永続的に展開した。このように長きにわたって一つの地域に連続的に、一つの時代を維持されてたことに、まことに希有なことである。
 図1には世界の諸文明の盛衰と縄文時代とを気候変動との関連において対比して示した。世界の諸文明の中でもっとも長くつづいたのはエジプト文明である。しかし、これとても、7000年に達するかどうかである。1万年以上も連続した時代は、縄文時代以外には見出せ
 縄文時代縄文土器という固有の土器によって特徴づけられる時代である。これほどまでに土器に執着した文化もまためずらしい。さらに狩猟・漁労を生業の中心におき、本格的な穀物栽培を長期間、拒否してきた。……
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 海洋的な日本文明の原点
 1987年に刊行した『世界史のなかの縄文文化』(雄山閣出版)の中で、私は縄文文化を海洋的な日本文化の原点として位置づけ、それを自然=人間循環系の文明とよんだ。……。
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 縄文時代観の転換
 縄文時代の社会は、文字や金属器あるいは都市は存在しなかったが、人々は森と海の資源を最大限に利用する技術を発展させ、穀物栽培の農耕を受容することを回避し、自然と共生し、永続的・循環的に生き、命あるものがすべて平等の価値を持つという文明原理に立脚した社会を構築した。こうした文明原理を永続的に維持するために、縄文土器土偶を大量に生産する知的・芸術的行為やストーンサークルの構築あるいは巨木の祭などの宗教的祭祀といった、日々の生業活動とは異質の直接生産には結びつかない文明の装置・制度系をきわだたせて発展させた。一方、特定の王のために税を管理し貯蔵するために必要な文字は発達しなかった。そして、こうした文明の装置と制度系を円滑に運営・維持するためには、異質の文化と積極的に融合する交換のネットワークと、女性中心の社会制度を発展させた。
 1万年以上にわたって縄文時代の社会のなかでつちかわれた自然との共生・循環・平等主義あるいは他文明との融合、女性中心の原理は、地球環境の危機に直面し、人口爆発の中で、この小さな地球の中で生きのびなければならない我々現代人が求める文明原理にほかならない。……。
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 縄文人のルーツは森の狩人だった
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 森と湿地のはざま
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 日本列島に居住した人々は、旧石器時代から、すでに森の狩猟採集民としての性格をつよく持っていたのである。それは火を使い群れを崖から追い落して、数百頭を一度に殺戮する草原の大殺戮者のイメージとは、少し異なった性格の文化をもっていたようである。それは森の旧石器文化とよぶことができるのである。
 森の岩宿文化
 これまで日本の旧石器文化をよぶ名前は特に設定されていなかった。しかし、このように日本の旧石器文化が、世界の中できわめて特異な森の多い環境の中で発展した文化であることが分かってくると、どうしても日本の旧石器文化を世界の旧石器文化の中に正しく位置づけるための固有の名称が必要になる。最近、佐原真氏(『日本の歴史1 日本人の誕生』小学館、1987年)たちは、日本列島で最初に旧石器文明の存在を立証した岩宿遺跡にちなんで、日本の旧石器文化を岩宿文化とよぶことを提唱している。私もこれにしたがうことにする。
 日本の旧石器文化は、森の旧石器文化であり、森の岩宿文化であったのである。岩宿時代は、世界の多くの文化が草原の多い環境の中で狩猟採集文化を発展させたのにたいし、森の多い環境の中で特異な森の狩猟採集文化を発展させた時代であったのだ。
 文明を創造するヒトの登場
 近年のDNAの研究は、人類の進化にも新しい仮設を提示している。これまで原人→旧人→新人への変化は、アフリカを中心とする西ユーラシアと東南アジアから中国南部を中心とする東ユーラシアで、別々に引き起こされたとみなされていた。
 ところが、近年のDNAの研究は、われわれの直系の祖先である現代型新人(現代型ホモ・サピエンス)も、実はアフリカで誕生、それが、爆発的に世界に拡散したという仮説を提示した(赤沢威編『モンゴロイドの地球1』東京大学出版会、1995年。……)。
 しかもその現代型新人が誕生した時代は14万3000年前頃だとまで推定ばなされている(……)。
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 14万年前とは最後の氷河時代(最終氷期)のもう一つ前の氷河時代(一般的にリス氷期と呼ばれている)が終末に近づき、最終間氷期(一般にエーミアン間氷期と呼ばれる)に移行する移動の時代であった。
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 いずれにしても氷期から間氷期への移行期の激動の時代に、われわれの直系の祖先は誕生しているのである。
 余談だが、どうも人類の歴史においては氷期から間氷期への移行期の激動の時代に、人類史を画する重大事件が起こるようである。農耕の起源もまた氷期から間氷期への移行期に引き起こされているのである。
 こうして約14万年前のリス氷期からエーミアン間氷期への移行する激動の時代に誕生したわれわれの直系の祖先、現代型新人こそ、古代型新人(旧人ネアンデルタール人)を絶滅させ、大型哺乳類を絶滅させ、農耕を誕生させ、文明を誕生させるヒトである。その現代型新人が誕生した時代は激動の時代だったが、その誕生は同時に彼らが作り出す激動の世紀の到来を予兆していた。
 この向上心にとみ、高い技術力を発達させ文明を誕生させる現代型新人はまた同時に、きわめて残忍な性格の持ち主でもあった。
 これまでいた旧人ネアンデルタール人を駆逐し、バイソンやマンモスなどの大型哺乳動物を大量に虐殺し、さらに自ら同志も戦争で大量に殺しあうという、これまでの生物史において類をみない残忍きわまりない性格の持主だったのである。
 その残忍性ゆえにこそ、文明を生み出したのかもしれない。文明とは現代型新人のもつ向上心と残忍性の産物なのではないか。そして今、この文明のもつ残忍性の闇が問われはじめているのである。
 この現代型新人が地球の支配者になるのは、今から約3万5000年前のことである。この現代型新人が地球の支配者になる時代も、地球が激動にみまわれた時代だったことが明らかとなってきた。
 後期旧石器時代の日本列島
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 明らかに日本列島に現代型新人が登場したと文化的に判断されるのは、3万3000年前頃である(岡村道雄『日本旧石器時代史』雄山閣出版、1990年)。これまでとまったく違った石器の製作技法をともなって後期旧石器文化が出現する。
 ……。これによって石器の大量生産が可能となった。この技術革新は人類が一つの概念を長く持ち続ける能力を獲得したことを意味する。加藤晋平氏(『日本人はどこから来たか』岩波新書、1988年)はこれを『後期石器革命』とよんだ。
 日本列島で岩宿文化に大きな転換が起きそうな時代に、ヨーロッパでも重要な事件が引き起こされている。旧人ネアンデルタール人が絶滅し、現代型新人のクロマニヨン人の繁栄の時代が訪れるのである。人類史に文明という新たな装置が創造するのは、このクロマニヨン人に代表される現代型新人なのである。
 日本列島で岩宿文化が新たな段階をむかえ、ヨーロッパでクロマニヨン人の繁栄の時代が始まった3万5000~3万年前は、気候が著しく寒冷・乾燥化した時代であることが明らかとなってきた。その気候変動を最初に明らかにしたのは日本の研究者だった。
 さらに日本海隠岐堆(おきたい)から採取した堆積物の酸素同位体比の分析結果(大場忠道ほか『最終氷河期以降の古環境の変遷』『季刊考古学』15、1986年)は、約3万年前頃、日本絵が湖に近い状況になったことを明らかにしている。海面の低下によって、対馬暖流にかわって、黄河でうすめられた海水が流入したのである。このため、海水の鉛直混合が衰退し、海底は無酸素状態となって、多くの底生生物が死滅した。日本海側の積雪量が減少し、いっそう寒冷で乾燥した気候が卓越するようになった。
 ほぼ同じ頃、動物相にも変化があった。……。
 縄文人の祖先がやって来た
 このような3万3000年前頃の日本列島の大きな転換は、以下の図式で説明できる。まず気候が寒冷化した。このため海面が低下し陸橋が形成された。この陸橋を北方系の哺乳動物が南下し、それを追って石刃(せきじん)技法をたずさえた現代型新人が日本列島にやってきたのである。この人々こそ縄文人の直接の祖先になる人々である。
 3万3000年前頃の気候悪化期は、現代型新人が爆発的に拡散した時代である。逆に旧人ネアンデルタール人はこの気候の寒冷・乾燥化に適応できずに絶滅した。
 後期旧石器時代に入ると、日本列島の遺跡数は爆発的に増加する。特に最終氷河期の最寒冷期の2万3000~1万5000年前は、ナイフ型石器の大発展だった。
 鹿児島湾が2万5000年前頃大噴火した。そのAT火山灰の降灰の直後に、朝鮮半島から剥片尖頭器を持った人々がやってきた。当時の対馬陸橋には、日本海の水が東シナ海に流出するせまい水道があったものの、渡峡は困難でなかったのである。
 これに対し、津軽海峡の渡峡は困難であったらしい。津軽海峡が完全に陸化することはまれで、移動性の大きな大型哺乳類だけが通過できる『氷の橋』が寒冷期に一時的に形成される程度であったとみなされている。対馬陸橋越えの西回りコースで進入したナイフ型石器文化の遺跡が北海道には少ない。また宗谷陸橋越えで大陸から南下したマンモスが本州にまではやってきていない。それは津軽海峡の古地理の条件が反映している。
 最近注目されているのは琉球孤を北上するルートである。これまで台湾から沖縄そして奄美大島をへて鹿児島まで連続する陸橋は、水深1,000メートル以上のトカラ海峡や沖縄本島宮古島の間のケラマ海峡によって分断され、氷河時代の最寒冷期にも陸橋は存在しなかったとみなされてきた。ところが最近、この南西諸島には40~2万年前の間に、台湾から沖縄をへて奄美大島屋久島そして鹿児島にいたる陸橋が、何度も出現したのではないかという見解が提示された(木村政昭琉球孤の第四紀古地理』『地学雑誌』105-3、1996年)。この陸橋が水没したのは断層運動によってであり、それは過去2万年以内のごく最近に引き起こされた出来事であるというショッキングな事実が指摘されたのである。後に述べる港川人の祖先は、東南アジアや中国南部からの琉球陸橋を北上してやってきたにちがいあるまい。
 もしこの指摘が真実であるとするならば、これまで日本列島への伝播や移動のルートは、宗谷陸橋ごえの北回りコースと、対馬陸橋ごえの西回りコースの2つが主たるものとみなされていたが、日本列島への旧石器文化の伝播のコースには、琉球陸橋を北上した南回りコースも重要なルートとして再検討しなおす必要がでてきたことになる。
 ……。
 このような気候帯の相違にともなう植物相つまり森の相違が狩猟対象となる動物相の相違を生み、それが石器の形態を始めとするナイフ型石器文化の地域性を誕生させたとみなしてよいであろう。
 この後期旧石器時代のナイフ型石器文化に始まる列島の東西の地域性は、その後の日本文化の展開の中にも受け継がれていく。
 東西の森の生態系の相違に対応するかのように、日本の岩宿文化にも地域性が認められる。このことは、日本の岩宿文化がすでに森の生態系に適応した森の文化の特質を、後期石器時代の段階においてすでにはっきりと有していたことを物語っている。
 このような森の生態系の相違によって、旧石器時代の文化に地域性が認められる事例は、これまであまり世界の各地からは報告されていない。森の相違が旧石器時代の文化の相違を生んでいるというのは、まさに日本の岩宿文化が森の文化、森の狩人の文化であったことのあかしなのではあるまいか。
 草原の狩人と森の狩人
 このように縄文人の祖先集団は、3万年前以降に日本列島に渡来した後期石器時代の人々にもとめられるというよう。その後期石器時代の人骨を代表するのが沖縄県から発見された1万6000~1万8000年前の港川人である。……。この港川人は、中国大陸北部の山頂洞人ではなく、中国南部の柳江人やさらには東南アジアのワジャク人の人骨ときわめて類似性が高いとみなされている。したがって、港川人の祖先は中国南部から東南アジアに起源をもつ集団の一員とみなされている。それは最近明らかになった琉球陸橋の存在と一致し、港川人の祖先は、東南アジアや中国南部から台湾をへてこの琉球陸橋を北上した人々であったにちがいあるまい。
 ……。もし木村政昭らの説が正しいとすれば、南西諸島は台湾から鹿児島まで琉球陸橋によってつながっており、黒潮は長江の河口に近づくことができなかった。……。ところが、長江以南の中国大陸南部から東南アジア、そして、中国大陸の沿岸部から日本列島にかけては、森が分布しているのである。おそらく、港川人の祖先はこの森の廻廊を北上して日本列島にやってきたものとみなされる。
 ……。
 すなわち頭の形が俵のように前後に長い山頂洞人が生活した主たる舞台は草原であるのに対し、頭が前後に短い港川人やワジャク人の生活した舞台は森の中あるいは森の多い環境であるということである。
 このようにみると、山頂洞人と港川人やワジャク人の形質人類学的な相違を生み出したのは、草原と森という風土のちがいであった可能性がきわめて高いのである。
 そして、縄文人の祖先集団はこの森の中で生活した港川人やワジャク人にもとめられる。山頂洞人が草原の狩人とすれば、港川人やワジャク人は森の狩人であったとみなすことができるのである。
 森の文化を発展させる縄文人の祖先は、森の中で狩りをした森の狩人であった。この森の狩人の文化的伝統が、氷期から後氷期へ移行する激動の時代に、新たな森の文化としての縄文文化を誕生させたのではあるまいか。
 日本の縄文文化の誕生の背景には、日本の旧石器時代つまり岩宿時代に、森の日本列島の中で醸成(じょうせい)された森の岩宿文化の伝統があり、その森の岩宿文化が氷期から後氷期への地球環境の激動を契機として、新たな森の縄文文化を生み出したとみなすことができるのである。
 縄文人の起源は森の狩人
 日本の縄文文化はこのような、森の岩宿文化の中から誕生していることを重視する必要がある。縄文人のルーツとなった人々は、森の中で狩猟・採集生活をおくった森の狩人であった。
 縄文時代に入って突然、日本列島人は、森の文化の様相をとりはじめたのではなく、すでにその基礎となる岩宿時代から、森の狩人としての性格を強く持っていたのである。この森の狩人の伝統が、温帯の落葉広葉樹の森の文化としての縄文文化を誕生させた。
 縄文人の祖先たちは3万5000~3万年前頃、気候の寒冷化によって陸化した対馬陸橋を大型哺乳動物を追って渡橋したり、あるいは琉球陸橋を北上して日本列島にやってきた現代型新人であった。彼らは、寒冷な気候をのがれて海岸部に生きのびた森の廻廊をつたわって、日本列島にたどりついた。その日本列島は森の島だった。人々はこの森の多い列島の風土に適応し、森の岩宿文化を発展させた。そして、この森の狩人の伝統が、つづく氷期から後氷期への地球環境の激動の時代に、森の縄文文化となって大きく発展し、世界にもまれな森の文化・森の文明を生みだすのである。」
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縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー 24)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)
一万年前 気候大変動による食糧革命、そして文明誕生へ
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 日本列島の東西や南北の地域的人間的な違いは、数万年前の石器時代縄文時代からの事で根が深い。
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 日本民族の歴史は数万年前の旧石器時代縄文時代にまで遡り、日本民族の宗教や文化は岩宿人(ヤポネシア人)・縄文人(日本土人)から始まっている。
 それ故に、日本人と中国人・朝鮮人が幾ら腹蔵なく時間をかけて話し合っても理解できないし分かり合う事ができない。
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 日本民族とは、自然を崇拝し、森とともに生きてきた森の民であった。
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 旧石器文化は森の岩宿文化で、旧石器人(ヤポネシア人)は岩宿人。
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 日本文明は森の文明で、地理的条件で山林文化、平地文化、岸辺文化の3種類から成っていた。
 そうした縄文の文明と文化に寄り添うようにムラ部落を形成し生活してきたのが、山の民、(平地の)川の民、海の民という人々であった。
 人類は、天地創造の創り主・全知全能の唯一絶対神によって土・塵・芥を集めて造られた宗教的泥人形ではなかった。
 ましてや、別の惑星から移住してきた宇宙人でも、異次元世界・多次元世界から移住してきたSF的異次元人でもなかった。
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 日本・日本文明・日本文化・日本民族は、特段取り立てて優れてもいなければ賢くもないし秀でてもいないごく平凡であったが、世界史・国家史、人類史・民族史から見ると異色を放つ特殊で特異で奇異であった。
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 日本民族の歴史は数万年前の旧石器時代縄文時代にまで遡り、日本民族の宗教や文化は岩宿人(ヤポネシア人)・縄文人から始まっている。
 それこそ、西暦0年のキリスト教、1847年に作り出された反宗教無神論マルクス主義・左派・革新、近代リベラルなどのイデオロギーよりも、気が遠くなるほどに想像も付かなくなるほどに古い。
 1917年のロシア革命ソビエト政権(ソ連)が樹立し、一党独裁共産主義体制が出現した。
 日本民族の伝統とは、数万年前からの時間・歴史の事である。
 歴史・文化・伝統もない反日イデオロギー勢力は、それ故に日本民族の歴史的伝統文化を古臭い、時代に合わない、時代遅れとして容赦なくバッサリと切り捨てゴミのように捨てている。
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 日本のルネッサンスとは、日本国と日本国民日本人・渡来人ではなく日本列島と日本民族日本人・帰化人による、深さと奥行きそして高さと低さという多元的な時空の真実ではなく事実・現実を五感で正しく認識・自覚して知る事である。
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