🏹61〕─1─韓国人が「豊臣秀吉=虐殺者」をまだ許せない深い訳。~No.195No.196No.197 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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 2022年8月20日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「豊臣秀吉=虐殺者」韓国人がまだ許せない深い訳
 日本と韓国がすれ違ってしまう理由は、国民性や歴史的背景にあるといえます(イラスト:えのすけ/PIXTA
 「そっか、日本と韓国って」と検索したことがあるだろうか? 
 日韓問題の論点をほぼすべて扱い、国内外の信頼される学術論文に基づく両論併記でわかりやすくユーモラスにまとめ上げた、新著『京都生まれの和風韓国人が40年間、徹底比較したから書けた!  そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。――文化・アイドル・政治・経済・歴史・美容の最新グローバル日韓教養書』が発売された。
 【写真】中国が考える本当の領土?「国恥地図」実物
 著者は、日本で生まれた韓国人で、フランス・香港・シンガポールで学び働いてきた、著作累計70万部・1億PV突破のベストセラー作家としても知られるムーギー・キム氏。国際感覚と教養をいっきに得られるビジネス教養書として、多方面で反響を呼んでいる。
 本記事では、そのムーギー氏が「日本の英雄、韓国の大悪人説である豊臣秀吉」について解説する。
■日本と韓国がすれ違ってしまう理由
 「韓国に対するイライラと、日本に対するモヤモヤが、1冊できれいさっぱり完全解決」をコンセプトに書き綴った新刊『そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。』だが、あまりにも本書を皆に読んでほしくて、私は実に100冊くらい献本を行ってきた。
 日本のビジネスインフルエンサーの友人たちに加え、小学校の時の担任の先生を探し出して本書を送ったりもした。
 首相官邸の岸田首相にも送ったし、孫正義さんにも送った。また韓国大使館の新任の韓国大使あてにも送ったし、韓国の著名な政治家にも送った。
 在日コリアンコミュニティという意味では、民団(在日本大韓民国民団)の中央本部と全地方本部にも送ったし、朝鮮学校韓国学校にも送ってみた。
 これだけ読んでほしいと心から思っているのに、誰からも返事がないのは、ワークフロムホームでオフィスに行っていないからか、それとも突然、謎のムーギー・キムさんとやらから本が送り付けられてきて、警戒心がマックスに高まったからだろうか。
 そんな中、唯一丁寧にお手紙で返信をくださった超大物が、かの有名な陶工・第15代沈壽官(ちんじゅかん)氏である。
 今回は、その沈壽官氏の400年に及ぶファミリーヒストリーとも重なる、右も左も超納得の、高教養コラムをお届けさせていただきたい。
 日本と韓国「歴史問題がどうも決着しない」深い訳で論じてきたように、日本人にとっては「韓国人はしつこい」となり、韓国人にとっては「日本人は過去をすぐ忘れる」という対立構造の根は、多くの方が思われているような近代史ではなく、じつは古代以来の集団的記憶に遡る。
■韓国史上、最も悲惨だった「壬辰戦争」
 16世紀の終わりに豊臣秀吉が行った「文禄・慶長の役」と日本で呼ばれる「朝鮮出兵」。
 この戦争は朝鮮半島では「壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)」、後に「壬辰戦争」などと呼ばれ、その悲惨さが民間伝承や文学などでも民族的記憶として後世に伝えられてきた。
 前述の沈壽官氏の御先祖をはじめ、有田焼、伊万里焼、波佐見焼などなど日本を代表する陶磁器文化は、この朝鮮出兵で強制連行された朝鮮の陶工によりはじめられたものだ(ただし各地の作陶開始の歴史を読むと、ここはぼかして「朝鮮半島から渡来してきた陶工が……」くらいの、曖昧な書き方をされていることが多い)。
 さて、この壬辰戦争はじつは当時、世界最大級の大戦争であり、朝鮮側にとっては青天の霹靂でもあった。
 室町時代後半の日本は戦国時代と言われるとおり、100年以上にわたって、日本全国がゆうに100を超える(一説には200とも言われる)小領国に分かれて戦火を交えていて、大陸から見れば「小さな国がさらに細分化して争って、どうするのだ」といった、グチャグチャな状態だったわけである。
 それが16世紀終盤にいっきに統一されて、当時の世界有数の軍事大国になり、隣国に攻め入った。世界史を見渡すと、内戦が終われば対外拡張政策がとられるのはよくあることだ。
 しかし、朝鮮王朝としては、これまで「格下扱いしてきた、小領国に分裂していた島国」が、いきなり自分を攻めてくるなどとは夢にも思わない。
なにせそのときまで、日本が朝鮮半島に攻め込んだことは、海賊の倭寇(わこう)を除き、なかったのだ(後述する白村江(はくそんこう)の戦いは、百済(くだら)系の主導だった)。
 開戦前の朝鮮では、礼儀正しかった足利幕府にかわった豊臣秀吉からの使者への面会を拒んだり、答礼としての使節団派遣を拒んだり、文書が無礼であると無視したりしていた。
 しかし、対馬の宗氏(朝鮮王朝にも服属しており、官職や米を得ていた)の仲介もあり、約150年ぶりに特使を派遣して、日本の情勢調査を実施した。
 ところが、国防増強を説く黄允吉(ファンユンギル)ではなく、警戒不要論を唱えた金誠一(キムソンイル)の一派が重用されたために、せっかく防備を固めはじめていたにもかかわらず、武装解除をしてしまっていたのだ。
■「平和ボケ」が招いた致命的な損害
 これは、リーダーと側近が愚かなら、一国が傾くことの典型例でもあろう。このような判断を下したときの国王、宣祖(ソンジョ)と、派閥争いに明け暮れた重臣たちの罪は非常に重い。
 当時、釜山(プサン)に上陸しても朝鮮軍があまりに無防備で何も反撃してこないので、日本側も驚くほどのラクな進撃となったようだ。
 ちなみに、2回目の出兵である「慶長の役」のときは、反戦派・和平派の小西行長と主戦派の加藤清正の不仲が表面化しており、小西行長が朝鮮王朝に加藤清正軍の来襲場所とタイミングを先に知らせて討伐するように密使を送ったという逸話も伝わっている。しかし朝鮮側は「罠に違いない」と信じず、結果的に加藤清正軍に大量殺戮を許すこととなったという。
 当時の朝鮮王朝はすでに建国から200年が経っており、「文禄の役」までは戦争もなく平和そのもので、儒教を学んだり陶磁器をつくったり、王を称える詩集の編纂に熱心な、軍事的緊張感のない平和ボケした国であった。
 それが、百戦錬磨の武将を大量に抱える日本が、当時の総兵力の約半分ともされる大軍を送り込んできたのだ(朴永圭『朝鮮王朝実録 改訂版』[キネマ旬報社]等によれば、約30万の当時の日本の総兵力のうち約15万が渡海したという)。これに対して朝鮮では、開戦当初は国防体制がまったく追いついていなかった。
 この戦いは、かつては日本国内では豊臣秀吉加藤清正が「英雄扱い」されることも多かったが、朝鮮側としては「民間人、女性、子どもも大量に虐殺された悲劇」として歴史に深く刻まれている。
■軍神が祀られる神社に感じた違和感
 当時、日本には戦功を示すために首を持ち帰る習慣があった。しかし、外国から首を持ち帰るのは重くてかさばるので、耳や鼻を削いで、何万人もの耳と鼻を塩漬けにして日本に持ち帰った。
 それを埋めた耳塚が、秀吉を祀る京都の豊国神社のすぐ傍にいまでもあるのを、ご存じであろうか。とくに悪名高いのが、秀吉軍が老若男女、赤子に至るまで大虐殺した「南原(ナムウォン)城の戦い」である。
 私は実際に、本書執筆期間中にはじめてこの耳塚を訪問したのだが、妻や子ども、家族が耳や鼻を削がれているシーンと、その鼻をサムライが数えているシーンを想像して、花が飾ってある塚を前にしばらく頭を垂れ、犠牲者の冥福を祈ったものである。
 同時に、この耳塚のすぐそばに秀吉が神様として立派な神社に祀られていることに、正直怒りを感じたものだ。
 当時、秀吉の軍の従軍僧として戦地に渡った慶念(きょうねん)が記した『朝鮮日々記』には、秀吉軍による略奪・殺人・焼き討ちが地獄のようであり、道が無数の死人で溢れ返り、二度と見るべきでない惨状だと記されている。
 なお「文禄の役」では、7万人もの人々が秀吉の指示によってほぼ皆殺しにされたという記録もある、「第二次晋州城の戦い」で命を失った人々は、いまも晋州城で厳粛に追悼されている。
 私はこの原稿を書くためだけに、コロナ禍のなか、わざわざ晋州城まで行き、中を見てきたくらいである。
 ここで「論介(ノンゲ)」という、韓国のジャンヌダルク扱いされているヒロインを紹介しよう。日本では馴染みはないと思うが、韓国ではほぼ誰もが知っている歴史上のヒロインである。
■「植民地支配より、豊臣秀吉のほうがひどかった」
 「晋州城の戦い」で夫を失った彼女は、民衆を皆殺しにした豊臣秀吉の軍が祝勝会を開いているときに、その武将たちの宴に臨席させられていた。
彼女は妓生(キーセン)=芸妓に扮して、隙をついてひとりの武将に近づくと、その武将を強く抱きしめて道連れにして、19歳にして晋州城の隣の大きな河である南江(ナンガン)に身投げしたのだ。
 このいきさつから、「義妓・論介」という尊称で呼ばれることが多い。
 この論介の話はその後広く伝えられ、数十年後や100年以上経った後に、祈念堂などがどんどん建てられ、いまでも広く語り継がれる伝説のヒロインだ。
 同様に、この壬辰戦争で戦い命を失った人たちが、その後100年以上経った後に「高位に昇進」し、国を護るために命を捧げた「義人(正義の人)」として、崇められている。
 ちなみにこの辺りが韓国っぽいというか、儒教っぽいところなのだが、論介が身投げした岩まで「義岩(正義の岩)」と呼ばれ、神聖視されている。
 なおこの「義妓・論介」、いまでも晋州の人々から大きな敬意を集めており、ちょうど私が晋州から私の父の墓がある高霊郡に向かうタクシーの中で運転手さんに「はじめて晋州城に行ってきた」旨を話すと、「論介は、本当は妓生ではないのに、夫の仇をとるために妓生に扮してまで……」という話が始まった。
 私が「晋州の人は日本をどう思いますか?」と話を向けると、
 「植民地支配されたときよりも、豊臣秀吉の侵略のほうがひどいことをたくさんされた」
 と、その運転手さんは言葉に力を込めていた。
 日韓両国の歴史を学ぶと、この壬辰戦争の爪痕を含め、学べば学ぶほど民族的記憶が再生産されていく。そして儒教文化の韓国ではこうした過去の記憶も脈々と受け継がれていくのだ。
 これに対して日本では「負の歴史」は水に流される傾向にあり、その武将がのちに「軍神」として神格化され、崇め奉られたりするのである。
 たとえば、加藤清正の本拠地であった熊本県でいまも行われている藤崎八旛宮例大祭は、かつては通称「ぼした祭り」と呼ばれていた。
 これは、「朝鮮を滅ぼした祭り」という意味に由来するとも言われており、この殺戮の歴史を、なんとお祭りにしてしまったのだ(この呼称はさすがに近年になって問題視され、現在は使われていない)。
■それぞれの国民の集団的記憶が生む溝
 日本側としては、かつてはこの朝鮮出兵を「豊臣秀吉の唐入り」「朝鮮征伐」などと呼び、「加藤清正の虎退治」の逸話を伝えるなど、戦前まで英雄視してきた。いまでもこの両者は多くの人に尊敬されている。
 そして、「古代には三韓征伐を通じて属国だったのに、朝貢をしなくなったから征伐した」などという正当化の言説を信じている人もまだ一部には存在する。
 また、秀吉目線の、
 「明(みん)攻めに道を貸して案内してくれなかったから朝鮮に攻め込んだのだ」
 という言い分も語られている。
 しかし、たとえば北朝鮮金正恩総書記が、
 「うちに朝貢するなら、日本は攻撃しない。アメリカを爆撃するから、日本を通過させてくれ。道案内や、食糧の補給もするように。ちなみに日本はもともと、うちらの祖先の高句麗(こうくり)がつくったからね」
 とか言ってきたら、どう思われることだろうか。
 朝鮮にとって、秀吉による壬辰戦争はそういうことなのである。
 なお、古代の「三韓征伐」については、『古事記』や『日本書紀』でつくられた神話にもとづいており、創作だというのが学術的な常識である。
 たとえば、塚本明三重大学助教授(当時)の論文「神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観」(1996年)や塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980年・創元社)にも記載されており、ネット検索で論文を読めるのでご参照いただきたい。
 それにしても、朝鮮はただでさえ契丹(きったん)やらモンゴルやら女真族(じょしんぞく)から攻め込まれて苦労が多いのに、「壬辰戦争」にしても「征韓論」にしても、明や清(しん)などの中国王朝が弱体化するたびに日本からも攻め込まれては、朝鮮側が日本に歴史的警戒感をいだくのも当然であろう。
 しかし日本側にしてみれば、さらに遡って7世紀に「白村江の戦い」のときに「新羅と唐に負けた」という集団的記憶が、そのときに創作された「古代の神話」とともに、その後の歴史の正当化につながっていくのである。
 日本と韓国の間の歴史認識問題とは、遡れば100年前の日韓併合どころか、400年前の秀吉が起こした「壬辰戦争」、そして1300年前に遡る「白村江の戦い」が、その背景に存在するのだ。
 だからこそ、相手国へのイライラとモヤモヤを解消するには、「そっか、日本と韓国って」と検索し、「日本の視点」「韓国の視点」の両方を知り、両サイドから見た歴史を理解し、「両国の集団的記憶」を理解することが不可欠なのである。
 ムーギー・キム :『最強の働き方』『一流の育て方』著者」
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 人は人として分かり合える、はウソである。
 日本人と中国人・朝鮮人は別種のアジア人であり、幾ら話し合ってもわかり合う事はない。
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 反日侮日の韓国人・朝鮮人が、日本・日本人を許し真の友人・親友になるには、伝統文化である儒教小中華主義と事大主義を完全に否定して捨てるときだけである。
 が、韓国人・朝鮮人にとっては儒教小中華主義と事大主義がアイデンティティそのものだからそれはできない。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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