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2022年9月7日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「「飛鳥時代前の歴史の中心地」についに文化財展示室、かわいい土偶も
清水謙司
豊富な考古資料を常設展示して、御所市の歴史を知ることができる=2022年9月1日、奈良県御所市、清水謙司撮影
写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
ついにできた。奈良県御所市に5日、常設の文化財展示室がオープンした。弥生時代の大規模水田跡や大型前方後円墳……。市内には全国に知られた有名な遺跡や古墳がいくつもある。地元で歴史や文化を学べる施設を求める声が寄せられており、リクエストにこたえる形で、多彩な出土品を展示する。
御所市は大豪族・葛城氏の本拠地だったとされる。市教育委員会文化財課によると、コンテナ約3800箱分の遺物を収蔵しているというが、財政・人員面などから常設の展示施設はなかった。
今回、満を持して開設した展示室(同市室)は、地域の児童館だった建物を活用。縄文~古墳時代を中心とした考古資料約140点や写真・解説パネルで、悠久の歴史を学ぶことができる。中井戸隆・文化財課長は、「ほとんど公費は使っていませんが、中身の濃いものに仕上がりました」。
縄文時代晩期の近畿地方では多くの土偶がつくられた。展示室では、玉手遺跡と観音寺本馬遺跡で出土した土偶をセットで公開。県立橿原考古学研究所付属博物館で大人気の同遺跡の土偶を思い出しながら、顔や形を観賞するのも面白い。
近くにあり、古墳ファンにはおなじみの大型前方後円墳・室宮山古墳(墳長238メートル、5世紀前半)も詳しく紹介している。埴輪(はにわ)などのほか、研究者が手がけたレーザー測量による図も公開。前方後円墳の形態がよく分かる。この古墳の魅力は、竪穴式石室の中に置かれた長持形石棺を間近に見ることができることだ。展示室の見学とあわせて、その散策も楽しめる。
総数700基以上ともいわれる国内最大級の群集墳・巨勢山古墳群の出土遺物なども展示している。文化財課の金澤雄太さんは、弥生時代前期の大規模な水田跡が見つかった中西遺跡を例にしながら、御所市の考古学上の重要性を指摘する。常設展示で、「飛鳥時代の前の時代、御所が歴史の中心舞台だったことを見ていただきたいです」と話す。
展示室は見学無料。開室時間は平日の午前9時から午後5時までで、土日祝日は休室。11月には巨勢山古墳群をテーマにした企画展を予定している。問い合わせは文化財課(0745・60・1608)。(清水謙司)」
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ナラのヤマト王権が日本を統一するまでは、日本全国には大小幾つもの王国が存在して覇を争い、特に九州や中国地方の諸王国は中国大陸や朝鮮半島の反倭国(反日)敵対勢力との関係を持ってヤマト王権と反目していた。
中国大陸や朝鮮半島の反倭国(反日)敵対勢力が脅威と感じるのは、ヤマト王権による日本統一で、分断・分裂による反目で群雄割拠の戦乱と混乱状態が好ましかった。
ヤマト王権の下で日本を統一するか、中国や朝鮮のように諸王国が戦争を繰り返す混乱状態を続けるかであった。
ヤマト王権・日本天皇による日本統一が周辺諸国に如何なる影響をもたらしたかは、歴史が証明している。
それ故に、反日敵日の周辺諸国とのつながりを持った反天皇反民族反日本的日本人は古代から存在していた。
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ヤマト王権には、日本を統一するまで日本を支配し統治する正統性はなかった。
中国や朝鮮の支援を受けた九州や中国地方の諸王国が日本を統一すれば、日本は統一新羅以降の朝鮮と同じ運命を辿った事であろう。
つまり、倭国の運命はヤマト王権(大和朝廷)・ヤマト大王(日本天皇)にかかっていた。
それは、無能な渡来人を排除し、有能な帰化人のみを登用し適材適所で日本統治に活用するかであった。
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日本の歴史には3種類あって、1,日本民族の民話・伝承・寓話・宗教によるローカルな神話物語、2,アフリカを源流とする人類進化・文明発展史、3,記録が残る人間英雄伝説である。
ローカルな神話物語とは、古事記・日本書紀を正統根拠とする日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話、つまり女性神・天照大神を最高神とする天皇神話である。
それが、皇国史観であった。
グローバルな人類文明史には、科学的経験的正当性はあっても宗教的合理的正統性はない。
神話物語・人類文明史・人間英雄伝説の3つを均等に持つのは、民族としては日本民族・琉球民族・アイヌ民族だけで、国家としては日本国だけで、その歴史に正当性を裏書きしているのが正統な天皇の神格である。
その意味で、日本は特殊で特別であるが、日本国と日本人が優れているとは無関係である。
天皇は正史で日本を武力統一して日本建国宣言の詔を発していない為に、日本には建国年と建国記念日は存在しない。
現代日本の建国記念日は、天皇神話物語であって人類文明史・人間英雄伝説ではない。
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デュルケーム「(宗教の役割の一つは)共同体を維持する装置」(『宗教生活の原初形態』)
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇の神性である。
つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那岐命(イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズム、ジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩の物語、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
神の宗教的民族神話とは、古事記と日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神を最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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日本民族は、数万年前の石器時代・縄文時代から日本列島に住んでいた。
天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代・古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲で万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
日本民族が天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行や勘定奉行などの役職について出世した。
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数千年前の弥生時代・古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義・共産主義のイデオロギーであった。
そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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ウィキペディア
葛城氏(かつらぎうじ/かずらきうじ)は、「葛城」を氏の名とする氏族。
古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族。武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされる。6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。
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蘇我氏の出自の謎 ~ベールに包まれた血脈の正体~
歴史人編集部
古代
日本史
2022.05.25
蘇我氏・葛城氏の勢力基盤と渡来人集団の結集が権力の源
蘇我稲目の墓と伝わる都塚古墳(みやこづかこふん)
6世紀後半の方形墳で、一説では蘇我稲目の墓であると言われている。別名は「金鳥塚」。一辺約42メートルあり、盛り土は全6段以上の石段に覆われていた。玄室内には二上山の凝灰岩で造られた家形石棺が安置され、柵越しに見学することも可能。
蘇我氏は大和国高市(たけち)郡曾我(そが)を本拠とする豪族であったが、葛城一帯を基盤とした同祖同族の葛城(かづらき)氏の血脈を受け継いで豪族として自立した。それは蘇我氏の初代・稲目(いなめ)が葛城氏の女性を妻に迎え、馬子(うまこ)という後継者をもうけたことに始まる。馬子は葛城氏と蘇我氏をともに継承するという絶大な地位と権力を生まれながらに手にしていたわけである。
その蘇我氏が朝鮮半島の百済(くだら)から渡来したのではないかという仮説がある。それは蘇我氏の祖先系譜において蘇我石川宿祢(そがのいしかわのすくね)に続く3代の名前が満智(まち)・韓子(からこ)・高麗(こま)といずれも朝鮮三国に関わり深いものであったことに由来する。高麗の子が稲目とされている。だが、満智に始まる3代はあくまで系譜上付け加えられた架空の人物と考えられ、蘇我氏が実際に朝鮮半島から渡来したことを意味するものではない。稲目以前の系譜は他の豪族と共有されるものであったことから考えて、蘇我氏が朝鮮三国や半島出身者と職掌(しきしょう)上深い関わりをもった事実が反映されているのが、この3代と見なすのが妥当である。
特に蘇我石川宿祢から高麗までの4代の系譜は、河内国石川地域を本拠とした蘇我倉(そがのくら)氏(後の石川氏)が作り出した祖先系譜と考えられよう。
また、蘇我氏権力が強大化することになった要因は、外来の文化・技術をもたらした渡来人集団を支配下に置いていたことによる。例えば稲目は、欽明(きんめい)天皇の命により吉備(きび)に派遣されて白猪屯倉(しらいのみやけ)や児嶋屯倉(こじまのみやけ)などの設置・管理にあたったとされている。屯倉とは地方支配の拠点となる公共建物のことである。稲目の配下には王辰爾(おうしんに)の一族など大勢の渡来系書記官がおり、屯倉の設置・維持に関わる文書の作成・管理などに関与したはずである。
稲目と蘇我氏はこのような各地への屯倉の設定を通じて、地方豪族との関係を深めていき、他の豪族に比べて地域利権の吸収を有利に進めることができたと見られる。
蘇我氏と渡来人集団との接点は、蘇我氏が葛城氏から血脈と利権を継承して成立したことにより、葛城氏がその支配下の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の四邑(むら)に強制連行した渡来人をそのまま受け継いだことに始まる。さらに稲目の時代に百済から公式に伝来した仏法の管理を稲目と蘇我氏が王権から委任されたことにより、仏法に付随して伝来した外来の文化・技術をもその管理下に置くことになり、ひいては渡来人集団全体が蘇我氏の管理下に入ることになったのである。
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朝日新聞デジタル記事
蘇我氏のルーツ、朝鮮半島出身の渡来人? 新説で迫る
有料記事
塚本和人2018年6月20日 11時00分
巨大な石張りの溝が出土した小山田古墳=2014年12月、奈良県明日香村
写真・図版写真・図版写真・図版
飛鳥時代に天皇を超えるほどの権力を握ったとされる大豪族の蘇我氏。そのルーツが朝鮮半島西南部の全羅道(チョルラド)地域からの渡来人とする新説を、奈良県教育委員会の坂靖(ばんやすし)・文化財保存課長補佐(考古学)が唱えている。「日本書紀」では悪者扱いされたが、先進文化の受容など開明的だったとも言われる蘇我氏の実像に、新著「蘇我氏の古代学 飛鳥の渡来人」(新泉社、本体2500円)で迫った。
近年、奈良県明日香村では蘇我氏との関わりが指摘される重要な発掘調査が相次いでいる。6世紀前半に王権内で権力を握ったとされる蘇我稲目(いなめ)の墓の可能性が指摘される都塚(みやこづか)古墳(6世紀後半ごろ)。また、養護学校の校舎建て替え工事に伴って新たに発見された小山田(こやまだ)古墳(7世紀中ごろ)をめぐっては、645年の乙巳(いっし)の変で滅ぼされた蘇我蝦夷(えみし)の墓との説も浮上した。専門家による蘇我氏関連の新刊本が相次いで出版されるなど、にわかに「蘇我氏ブーム」が起きている。
坂さんは長年、奈良県橿原(かしはら)市の県立橿原考古学研究所に勤務。県内の遺跡の発掘調査にあたるとともに、韓国国立文化財研究所での研修経験を生かし日韓交流史についても研究を進めてきた。5~7世紀の東アジア情勢を踏まえ、考古学の立場から蘇我氏のルーツを追った。
坂さんが注目するのが、5世…
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歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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日本民族にとって、中国人と朝鮮人は天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇・法皇は島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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親日・知日は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国、韓国・北朝鮮。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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672年 壬申の乱。天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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764年 藤原仲麻呂の乱。帰化人対渡来人の攻防。
親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備や坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
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高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
……
一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
権大納言の藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1405年~1433年 明の永楽帝。イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
対馬守護代の宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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