🏹23〕─2─蒙古兵は鎌倉武士団にとってそこまで強大な敵ではなかった?~No.74 

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 隠された歴史的実体認識において、蒙古襲来とノモンハン事件は幾つかの点で似かよっている。
 その代表的例が、鎌倉武士と日本陸軍は弱く甚大な被害を出していた、という事である。
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 元寇文永の役での、主力兵は高麗人兵士と満州系高麗人兵士であり、モンゴル人兵士は少数であった。
 日本人虐殺と子供強制連行の蛮行を行ったのは、高麗人であってモンゴル人ではなかった。
 つまり、日本人は被害者であり、高麗人は加害者であった。
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 2022年9月22日 YAHOO!JAPANニュース 婦人公論.jp「通説”4万人”で襲来した蒙古兵は鎌倉武士団にとってそこまで強大な敵ではなかった? 両軍の真の戦力差と「対馬海流」というハンディ
 弓・槍を構える蒙古兵に立ち向かう鎌倉幕府御家人竹崎季長。『蒙古襲来絵巻・模本』(作:雅信、雅紹、養福、養道、会心法印、雅熈、養實模。東京国立博物館所蔵)より。colbase
 2017年、「クフ王のピラミッド」の内部構造を素粒子ミューオンによって画像観測したというニュースが話題になりましたが、進歩した科学技術は、いまや考古学の分野にまで及び始めています。一方で従来の歴史学では、科学や物理に明らかに反しているにもかかわらず、「結論」あるいは「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが長年、三井造船で船の設計にかかわり、東海大学海洋工学部で非常勤講師を務めた播田安弘さんです。特に文永の役についてよく聞く「迎え撃つ鎌倉武士団に対し、蒙古軍は圧倒的に強大だった」という話には疑問に思うところが多いそうで――。
 【絵】蒙古軍を迎え撃つ日本側の騎馬武者たち
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◆蒙古軍を迎え撃った日本の戦力
 では、蒙古軍を迎え撃った日本の戦力はどれほどのものだったのでしょうか。これについては、さまざまな二次資料があり、近年になって刊行された歴史研究家や軍事研究家の著作などもかなりの数にのぼります。
 そのなかで信頼がおけると思われる軍事研究によれば、博多で蒙古軍と戦った、御家人たちで編制された鎌倉武士団は、騎馬兵が約5300騎、郎党・歩兵が約5000名であったといわれています。
 江戸時代の儒学者・大橋訥庵が1853(嘉永6)年に著した『元寇紀略』によれば、御家人たちの兵力は小弐景資(かげすけ)勢3000騎、菊池・赤星勢800騎、松浦党1000騎、山田・詫磨(たくま)勢230騎、粟屋・日田勢200~300騎で合計5300騎ほどであったとのことです(前出・北岡正敏『モンゴル襲来と国土防衛戦』)。
 これらから、ここでは鎌倉武士団の総勢は騎馬兵が約5000騎、歩兵郎党が約5000人、ほかに物資や食料の補給などにあたる兵站郎党が約5000人と仮定し、戦う兵士としては合計約1万人で蒙古兵約2万6000人に対抗したと想定することにします。
 ただし、騎馬兵を揃えるには相当にお金がかかりますので、九州の御家人たちが騎馬武者を合計で5000騎も動員することが本当にできたのかは、疑問も残ります。この点は、今後の地域別の御家人の荘園の広さや禄高などの研究が必要でしょう。
◆日本に騎馬軍団が存在したことは確実
 ところで、日本の騎馬については近年、「ポニーのように小型だったので、甲冑武者を乗せての突撃などは不可能で、軍記物で伝えられるような騎馬軍団は存在しなかった」とする説をよく目にします。
 しかし日本の伝統的な木曾馬の先祖は蒙古馬で、中型馬ですから、ポニーほど小さくはありませんでした。
 馬の体重は馬の背の高さの3乗に比例するので、馬の背の高さが1.2メートルのポニーと1.3~1.4メートルの蒙古馬では体重が(1.35/1.2)の3乗 ≒1.42倍も違います。また、戦いに用いられたのは雄馬ですが、日本には去勢の習慣がなかったので、体力も十分にありました。
 そのほか、蹄鉄がなかったので騎乗は無理だったという説もありますが、日本は地質的に硬い道路がほとんどなく、畑や田んぼなどの軟らかい道が多いので、問題はなかったと思われます。木曾馬はひづめが張っていて、山道でも滑らない形状をしています。
 日本馬と同じサイズの蒙古馬は大陸を駆け、最強騎馬軍団を生みだしました。日本でも『蒙古襲来絵詞(えことば)』などの絵画には、騎馬武者が多数突進しているさまが描かれています。
 これらがすべてフィクションであったとは考えにくいので、騎馬軍団が存在したことは確実と思われます。
◆襲来した蒙古はそこまで圧倒的に強大な敵ではなかった
 日本馬の問題は、前述のように去勢していない雄馬だったため、馴らすのが大変で、なかなかいうことを聞かなかったことです。発情した雌馬が近くにいようものなら大騒ぎだったようです。
 しかし、現在の競走馬にも去勢しない雄馬が多く、制御できなかったらレースになりませんが、そういう事態になることはありません。
 たしかに西欧のような整然とした騎馬隊の隊列は組めなかったとしても、日本の武士は日常的に訓練して、雄馬を馴らしていました。
 戦場での突撃はせいぜい200メートル程度の走行であり、集団的な突撃は十分に可能だったと考えられます。
 こうして見ると、通説と比べて、蒙古軍の実際の兵力が4万ではなく2万6000ほどと考えられるうえ、その実体は蒙古自慢の騎馬軍団ではなく寄せ集めの歩兵集団だった一方で、日本側は騎馬武者を5000以上も揃えていたと考えられ、ここでも両者の差は縮まります。襲来してきた蒙古は日本にとって、決して圧倒的に強大な敵ではなかったのです。
◆「対馬海流」という蒙古側のハンディ
 しかも、蒙古側はさらなるハンディを背負っていました。
 高麗を発した蒙古軍が対馬壱岐を経由して博多に上陸するには、まず朝鮮半島から対馬海峡の西水道(朝鮮半島対馬の間)を越えて対馬に着き、次に対馬海峡の東水道(対馬壱岐の間)を越えて壱岐に着き、そのあと玄界灘を越えて博多湾に入る必要があります。
 しかし、対馬海峡を流れる対馬海流の速い流れと、玄界灘の荒海を越えての大軍の移動には、大変な困難をともないました。当時の気象や潮流のデータと、蒙古軍船の性能や航海状況をもとに、蒙古軍の航海がどのようなものだったかを考えてみます。
 対馬海流は北上する流れが1~1.5ノットあります(1ノットは秒速約0.5メートル)。
 これは海流としてはかなり速く、朝鮮からの古代の手漕船や帆船などの速度の遅い船が対馬海峡を横断しきれず、山陰地方などに流れ着くことがよくありました。そのため、出雲(島根県)の製鉄は朝鮮から渡来した人々が伝えたという伝説もあります。
 これを証明しようと、山陰で有志グループが丸木船を製作し、釜山から対馬までの航海を企画したことがあります。
 筆者はこの丸木船の形状、重量、乾舷(海面から上甲板の舷側までの高さ)、抵抗と櫂による速力、復原力、対馬海峡の波による揺れなどを検証し、丸木船は重くて乾舷や復原力が小さく、中途半端な波にピッチング周期が同調して船首が突っ込むため波をかぶること、また、少しの風や海流で斜航(進行方向に対して斜めに進むこと)して大きな水の抵抗を受けることなどから航海は困難と考え、いくつか修正を提案しました。
 しかし、さまざまな制約もあって航海は行われ、潮流と風によって斜航し、やがて波をかぶって船は転覆しました。
 図1:蒙古軍船による対馬海峡横断のシミュレーション。『日本史サイエンス』より
◆蒙古軍にとって対馬海峡横断は「なんとか」可能だったレベル
 ほかにも、卑弥呼の時代の埴輪にみられる船の形状を再現して航海実験し、成功したともいわれていますが、実際は設計が適切ではなく、ほかの船に曳航(えいこう)されたようです。
 歴史学者や冒険家が史料や文献から推定し、工学的に検討せず製作した船による航海実験はほとんどが失敗しています。実際に船がどのような寸法、形状、重さであり、復原力、漕力と速度、波浪がどうであったかを数値化して検討しておくことは非常に重要です。一般的に海峡の横断については、海流速度と船速の比からシミュレーションすることができます。
 図1を見てください。船速が遅いと、出発してから下流側に大きく膨らみながら流され、航海距離も長くなるので、船速と海流速度が同じでは目的地にたどり着けません。海峡を横断するには、海流の2倍以上の速度が必要なのです。
 対馬海峡を横断する場合、海流の2倍の速度ということは、2~3ノットは必要ということになります。
 これに加えて、波や風の影響も考慮しなくてはなりませんが、蒙古軍船は櫓のみの走行でも2~3ノットくらいの船速であったと推定されるので、対馬海峡横断はなんとか可能だったと思われます。
 ※本稿は、『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』(講談社ブルーバックス)の一部を再編集したものです。
 播田 安弘」
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